最上義光歴史館
長谷堂合戦は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の地方戦です。
山形県のほぼ全域で、東軍の最上軍と西軍の上杉景勝の重臣直江兼続の軍が戦いました。 長谷堂は山形城から目と鼻の先、山形市の西方に位置します。 屏風は右隻が9月15日の様子、左隻が10月1日前後の様子です。 最上軍、直江軍とも有名な武将は名前が表記されています。 大将の最上義光も直江兼続もしっかり描かれています。 作者はこれまで戸部正直といわれてきましたが、近年その伝承について見直されています。詳細は>>こちら ![]() ▲右隻:長谷堂の攻防。右手には、長谷堂城主志村伊豆守の出陣姿が描かれています。左手には、軍配を持つ直江山城守ほか上杉軍の精鋭が描かれています。右上の建物が長谷堂城です。(※クリックすると拡大します) ![]() ▲左隻:退却する上杉軍と追撃する最上軍が描かれています。中央には、有名な鉄の指揮棒をふるって猛追する大将最上義光、左手には、鉄砲隊に守られた寄せ手の大将直江山城守が描かれています。(※クリックすると拡大します) 【参考】 ・解説シート〜長谷堂合戦図屏風 ・解説シート〜武将詳細図 Google検索 Wikipedia検索 |
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【長谷堂合戦前夜の義光書状をめぐって】
地方史書ではしばしば、長谷堂合戦前夜、慶長5年(1600)8月18日に最上義光が直江兼続に送ったとされる書状が取り上げられる。『上杉家記』に収められている文書で、ここに全文を掲げる紙幅はないが、要旨は「上杉に敵対する意志はない。嫡子義康を人質に出す。義光みずから一万の兵を連れて上杉の味方になる」という申し入れである。 これを根拠として、歴史家は次のように義光の心情までを想像する。 「これは無条件降伏にも等しいもの……義光なりの時間稼ぎの策謀でもあったようである」(『山形県史』第二巻P48) 「(義光は)攻撃の停止を哀願した。……泣きごととはいえ、当時の義光としては、こういわざるをえない心境だったろう」(誉田慶恩著『奥羽の驍将』P163) だが、この文書には大きな疑問がある。 まず、もしこれが事実なら、上杉側にとってはまたとない好都合なことであり、当然その実行を迫るはずである。武力をちらつかせて申し入れの実行を強要されたなら、義光としては応じるほかなかっただろう。だが、上杉の強要も義光の対応行動も、それを物語る史料は見えず、程無く上杉の最上進攻が始まるだけだ。 次に、この書状が実在したのなら、当然合戦にかかわった上杉方諸将の間に知れ渡っていたはずである。だが、かれら同士の交わした消息のなかに、義光の怯惰ぶりや変節を嘲笑非難するような文面は全く見当たらず、これを話題としたものも見当たらない。 さらに言うなら、このような文書が実際に存在したなら、関ヶ原合戦後の論功において、当然大問題となるはずである。しかし、このような事が問題とされた形跡はどこにもない。参考までに一例をあげれば、秋田実季による横手小野寺(西側)攻めの日時が、関ヶ原合戦決着の前か後かというような些細なことさえ、大問題となったのであり、仮にも奥羽諸大名の統率者として家康の信任を受けた義光が、直江にこのような書状を送ったとあれば、ことは最上義光の人間的価値にまで関わるものとして、冷厳な家康の忌避排斥するところとなっただろうことは明白だ。50余万石大大名への抜擢など、とうていありえまい。 「上杉家文書」は中世近世史の貴重な証言の一大集積であるが、この手紙はここには見えない。後代の史料類聚の類にも採られていない。義光の卑怯さを歴然と物語る文書が真実に存在したのなら、江戸時代を通して考証家の話題となっただろうし、上杉家としても当然長く保存して然るべきものであろう。にもかかわらず、この書状現物の所在は明らかでない。江戸時代の編纂になる『上杉家記』に、全文があるのを見るだけだ。 他方、このような書状はなかったことを、消極的ながら傍証する文献がある。長谷堂合戦を上杉側に立って書いた『越境記』なる軍記物語である。直江兼続をはじめとする上杉諸将の姓名、兵力、動静、活躍ぶりなどに力点を置いたもので、当然最上方をおとしめて書いているわけだが、この文献でも義光の哀願、申し入れのことには全く触れていない。実在したものならば、これを大きく取り上げて義光を罵倒するのに打ってつけの史料となるのに、全く取り上げていないのである。ということは、取りも直さず、その書状がなかったことを物語るものであろう。 いつの頃か、誰かの知恵によって、慶長5年8月18日付「義光の弱音を物語る手紙」は創作されたと結論づけるしかあるまい。したがって、安易に史料として引用することは、避けなければならず、この信憑性薄弱な史料をもって歴史を語り義光を云々することは、当然のことながら当を得ないこととなるだろう。 例はこれだけではない。「血染めの桜」然り、義光によるいわゆる「一族掃討」然り、「最上家親の死去」にまつわる荒唐無稽の巷説また然り。最上の栄光と没落の歴史事実を、我々は確実な史料批判に基づいて、構築し直さねばなるまい。 ■執筆:片桐繁雄(元最上義光歴史館事務局長) |
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◆◇◆鉄砲の威力◆◇◆
ヨーロッパ渡来の鉄砲が組織的集団的に使われた嚆矢は、織田信長の長篠の戦い(1575)とされているが、慶長五年(1600)の長谷堂合戦でも鉄砲はフルに活用された。 義光は、長谷堂への応援として「小筒足軽二百余人」を派遣したと『羽源記』にあるが、総数がどれくらいかははっきりしない。 伊達政宗が山形に派遣した援軍には「鉄砲四百五十四丁」が含まれていたと、水沢の留守家文書には書いてある。到着が遅れたといえども、この加勢が最上勢を元気づけたことはいうまでもあるまい。 直江兼続は、長谷堂城を攻めあぐみ、主君景勝に兵力増員を要請する。景勝は直属鉄砲隊500のうち、300を派遣したらしいと、これは9月26日付け伊達政宗の手紙に、敵方の捕虜から聞いた話として書かれている。 当たり前かもしれないが、この時代ともなれば、鉄砲こそ戦いを左右する最重要武器だった。 10月1日の上杉軍撤退の時は、上杉鉄砲隊が華やかに活躍する。 「種子島の中筒鉄砲」の達者な兵を50人ずつ4組に分けて山中にひそませ、追撃する最上兵に雨霰と撃ちかけたという。これに辟易してひるんだ隙に、上杉軍はさあっと引き退く。見事な戦法だったらしい。 陣頭に立った義光は、この時兜の真っ向を撃たれた。義光の側近、堀喜吽斎は、左肩先から右胸まで射ち抜かれて即死した。志村籐衛門も主君の身代わりのごとくになって、戦死した。 上杉方、前田慶次の、赤柄大身の槍を振るっての奮戦は有名だが、実際は鉄砲にはかなうまい。新影流の剣豪上泉泰綱といえども、部下が鉄砲で追い散らされて独りとなっては、腕の見せようもないだろう。 ところで、こんな言い伝えが長谷堂にはある。寄せ来る上杉の軍勢を山上から俯瞰射撃しようとすると、鉄砲にこめた弾丸がコロコロと抜け落ちてしまって、なかなかうまく射撃できなかったという話である。 これなどは旧式の鉄砲だったのであろうか。それとも、根も葉もない民衆の語りぐさにすぎないのだろうか。 ■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより��10/研究余滴3」より |
いよいよ「天地人」の放送が近づいてきました…わが殿最上義光は誰が演じるのか!?出番はあるのか!?もしかして…!?実は…!?ついに…!?
さてさて…主人公直江兼続公のトレードマーク「六十二間筋兜(『愛』の前立の兜)」(上杉神社蔵)はすでに掲載済みですが、このたび、兼続公が仕えた初代米沢藩主上杉景勝公の「日輪雲前立黒漆塗巾着形兜(抹頭形兜)」(上杉神社蔵)のペパクラ兜が完成しました。木村社長ありがとうございますm(_ _)mまだまだ他の兜も計画中とのことですが…次はどの武将ですか木村社長!? ★-☆-★-☆-★-☆-★-☆-★-☆-★-☆-★-☆-★-☆-★-☆-★-☆-★ ◆直江兼続公所用「六十二間筋兜(『愛』の前立の兜)」 上杉神社所蔵(画像は縮小版)◆ ダウンロードご希望の方は大河ドラマ「天地人」米沢市推進協議会へ ↓↓↓ 天地人・上杉の智将 直江兼続サイト ★-☆-★-☆-★-☆-★-☆-★-☆-★-☆-★-☆-★-☆-★-☆-★-☆-★ ◆上杉景勝公所用「日輪雲前立黒漆塗巾着形兜(抹頭形兜)」 上杉神社所蔵(画像は縮小版)◆ ダウンロードご希望の方は大河ドラマ「天地人」米沢市推進協議会へ ↓↓↓ 天地人・上杉の智将 直江兼続サイト ★-☆-★-☆-★-☆-★-☆-★-☆-★-☆-★-☆-★-☆-★-☆-★-☆-★ ★ほかの武将兜ペーパークラフトは>>こちら ※このペーパークラフトは米沢市の木村吉孝氏が企画し、川島印刷、精英堂印刷が設計製作したものです。 |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum








山形県のほぼ全域で、東軍の最上軍と西軍の上杉景勝の重臣直江兼続の軍が戦いました。
長谷堂は山形城から目と鼻の先、山形市の西方に位置します。
屏風は右隻が9月15日の様子、左隻が10月1日前後の様子です。
最上軍、直江軍とも有名な武将は名前が表記されています。
大将の最上義光も直江兼続もしっかり描かれています。
作者はこれまで戸部正直といわれてきましたが、近年その伝承について見直されています。詳細は>>こちら
▲右隻:長谷堂の攻防。右手には、長谷堂城主志村伊豆守の出陣姿が描かれています。左手には、軍配を持つ直江山城守ほか上杉軍の精鋭が描かれています。右上の建物が長谷堂城です。(※クリックすると拡大します)
▲左隻:退却する上杉軍と追撃する最上軍が描かれています。中央には、有名な鉄の指揮棒をふるって猛追する大将最上義光、左手には、鉄砲隊に守られた寄せ手の大将直江山城守が描かれています。(※クリックすると拡大します)
【参考】
・解説シート〜長谷堂合戦図屏風
・解説シート〜武将詳細図