最上義光歴史館
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◆◇◆知識人たちの戦い◆◇◆
慶長5年(1600)秋の出羽合戦と言えば、「長谷堂合戦」として知られているが、このとき戦った最上・上杉両軍のなかには、すぐれた知識人たちが加わっていた。 最上義光は桃山文化華やかなりし京都において、古典に通暁(つうぎょう)した連歌作家として遇されていた。 畑谷城を死守して、300余りの城兵もろともに討ち死にした江口五兵衛光清、上杉鉄砲隊の乱射を浴びて、主君義光の馬前で壮烈な最期を遂げた堀喜吽。この二人は義光に扈従(こじゅう)して京都文化界のサロンにしばしば出入りし、公家や連歌師らとともに多くの連歌を巻いた。 一方、上杉軍2万を率いて侵攻した直江兼続もまた、妙心寺の南化和尚の賛辞にくまなく語られるごとく、世に知られた好学の士であった。文雅風流の席に臨んでも、和漢・漢和の連歌数巻に名を残している。 兼続に従って出征し、赤柄の槍をふるって奮闘したと伝えられる老武者、前田慶次郎も豊かな教養と繊細な感覚を持った文化人であった。『前田慶次道中日記』一巻は、その人柄を如実に物語るものだ。 ところで、在京時の義光参加連歌の連衆と兼続のそれとには、数名の共通メンバーが見られる。 里村紹巴、昌叱、友益。これら専門連歌師のみならず、五奉行の一人前田玄以、細川幽斎など、著名な文人政治家も共通参加者である。 義光と兼続が一座したことはないにしても、これらの人々を通して互いに文名を知り、尊敬しあっていた可能性も十分にある。 そういえば、いろんな文献資料をみても、敵対した両者が相手をけなした言辞を見出すことはできない。 長谷堂合戦の後、義光は、兼続の戦いぶりを絶賛した。 「直江すこしも臆せず心静かに陣払いし、勝ちに乗りたる味方を数多討ち取り……誠に景虎武勇の強み、今に残りたり」(最上記) 賞められた兼続、称賛を惜しまなかった義光、いずれも傑出した知識人だったのだ。 ■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより��11/研究余滴4」より |
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◆◇◆地震と最上家◆◇◆
二〇一一年三月十一日午後二時四十六分。 M九・〇という巨大地震が東北地方沖の太平洋で発生。直後、未曾有の大津波が東日本沿岸部に襲いかかった。 山形地方は震度五の強い揺れだったにもかかわらず、大災害とまではいかなかった。住民の一人としてこれは本当にありがたいことだった。 ここで、地震と最上家にかかわる記録をあげてみよう。 最上義光が伏見滞在中の慶長元年閏七月十二日(一五九六・九・五)の大地震のときの話が伝わっている。 前年の八月、豊臣秀次失脚事件にからんで、義光は娘駒姫(おいまの方)を惨殺され、みずからも秀次に加担した疑いで罰され、領国を没収されようとした。そのとき、家康のはからいで事なきを得、義光はこれに深く感謝し、事あらば家康の恩に報いる覚悟でいた。件の地震が発生したのである。次は『徳川実記/巻二十五』からの要旨。 「大地おびただしく震い、伏見の城ことごとく破れ崩る。」在京中の大小名は秀吉のもとに馳せ付けたが、義光一人は家子郎党らを引き具し、裸馬に鞭打って徳川家の御館に馳せ来たり、かかる時には人の心も計りがたし。私義光がおそばにこうしている限りは御心安くおぼしめさるべく候とて御館を守った」 この話は、山路愛山が『徳川家康』に取りあげ、近年では京都大学の地震史学者も別の意味で着目しておられる。推定M七・五。 義光没の翌年、慶長二十年六月一日(一六一五・六・二十六)。江戸大地震。M六・五ほど。次は『最上家譜』より。 「大家破れ倒れることおびただしく、江戸はことのほかの騒動になった。駿府にいた大御所様(家康)のところにだれも注進申し上げなかったが、家親はさっそく飛脚をとばして江戸の様子を報せたので、たいそうお喜びなさった」 親子二代、地震に際しては、家康のところに真っ先に駆け付けたわけである。 今回の巨大地震は、貞観十一年五月二十六日(八六九・七・十三)の三陸大地震、大津波以来のものだと新聞などで報じられている。『三代実録』にあたってみると、天変地変ここに極まったという書きぶりだ。推定M八・三(理科年表第八十四冊)。 「陸奥の国、地大いに振動す。流光昼の如く、人民叫呼し、倒れ伏し、起き上がることもできなかった。……家屋は倒壊、人も馬牛も圧死。城館の崩れ落ちること数を知らず。…海の吠え狂い叫ぶ声は雷のよう。海面は高く盛り上がって忽ち国府に押し寄せ、数千百里が浩々と波浪に満たされ、果ても知れぬ。原野も道路も滄溟となり…溺死者千人」。(原文を簡略にした。) およそ一一五〇年前のこの事変も、目を覆わんばかりの大惨事であったことがみてとれる。 このたびの大震災、もはや言語に絶する。亡くなった方々のご冥福と、被災地の一日も早い復興を心からお祈り申しあげる。 ■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより��18/研究余滴11」より |
丸く円を描いた竹の図柄に二匹の向かい合った雀が配されています。最上家の家紋の一つです。竹に雀は上杉家や伊達家が有名ですが、最上家もこの紋を用いていました。この家紋は最上義光が愛用した三十八間金覆輪筋兜の鍬形台の中心に据えられています。
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◆◇◆中野義時は実在したか?◆◇◆
史実を確定するためには、信ずべき史料に拠らねばならないことは当たり前の真ん中だが、最上家の歴史ではしばしばこの当たり前が忘れられる。 典型的な事例が兄・義光による「弟・義時討滅事件」である。 『山形市史』『山形県史』を参考に概略を述べれば、次のような事件だとされる。 二人の父・義守は、兄を嫌い弟を偏愛した。義守は家督をだれにするかで迷ったが、結局は兄を山形城主に、弟を中野城主とした。弟は不満で兄を調伏しようとした。これが暴露して義光の怒りを買い、その攻撃を受けて天正3年(1575)に滅亡した。 これを皮切りに、義光は「残忍とも言える態度で」つぎつぎに一族を攻め滅ぼし、領地拡大に突き進むこととなった……というのである。 ところが、この「はなし」には、史料がないのである。 『最上記』『奥羽永慶軍記』など、私が読んだ14種の軍記物のどれにも書かれていない。これら稗史類は面白く作る傾向があるもので、もし事件が風説としてでも存在したのなら、必ず取り上げられるだろう。14本全部が取り上げていないのは、風説さえなかったことの証拠だといってよいだろう。 また16世紀後期の史料として重視される伊達・上杉の文書や、『治家記録』のような編纂物にも「義時」の名は只の一回も出てこない。 参考に系図12本を点検したが、「義時」を掲げたのはわずかに菊池蛮岳旧蔵本だけ。 要するに、16世紀とそれ以降2世紀の文献資料によっては、「義時」の存在が確認できないのだ。その名が初めて現れるのは、仙台市青葉城資料展示館の大澤慶尋氏指摘のとおり、18世紀末に編纂された『稽補出羽国風土略記』らしい。 たった一つの、年代も遥かに離れた文書を拠り所に、義光による中野攻撃を確定的史実であるかのように公史が取り上げるのは、はたしていかがなものだろう。他県の歴史書までが「義時事件」を取り上げ、義光の人間性を云々している現況を見るにつけても、歴史研究の基本を忘れてはならないと自戒するところである。 ■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより��12/研究余滴5」より |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum





封書には巨大な五輪塔と地輪に刻まれた銘文の写真、そしてそれに係る様々な資料が同封されていました。
巨大な五輪塔の写真は山形県寒河江市の正覚寺にあるもので、最上義光の正室大崎夫人の供養墓という伝承が広まっているものでした。
寒河江市史をはじめ、近年発刊された最上義光に係るさまざまな書籍にも、最上義光の正室大崎夫人の墓所が寒河江市の正覚寺であるように紹介されています。
封書を出された方のお話では、ご先祖さまが慶安四年に「光誉明月」という女性の三十三回忌の供養のために建立したものであるのに、いつのまにか大崎夫人の供養墓として語られ、大変迷惑している。ぜひ相談に乗ってもらいたいというものでした。
爲卅三年
光誉明月
地 菩提
施主寒河江
片桐六左衛門
慶安四年
八月一日
『寒河江市史』の中巻には
「正覚寺の境内の片桐家の墓地に高さ二四〇センチメートルに及ぶ巨大な五輪塔があり、大崎夫人三十三回忌に建立したといと伝えるが定かでない。」
とあります。
大崎夫人に関しては様々な伝承がありますが、いまのところ確かな記録がありません。菩提寺も墓所もわかりません。もしかすると京都にあるのかもしれません。
大崎夫人の菩提寺=正覚寺…いつの時代にこのような伝承が生まれたのでしょう!?