最上義光歴史館
■名 称
常設展示�供峪碍曽襦然┸泙犯�掘資料から〜」 ■共 催 山形市、山形市教育委員会 ■会 期 平成29年9月13日(水)〜平成30年1月21日(日) ■会 場 最上義光歴史館 第一展示室北側ケース ■入 館 料 終日無料 ■内 容 当館所蔵(寄託資料含む)の山形城下絵図と山形市教育委員会が行っている山形城の発掘事業によって出土した瓦等の遺物を展示公開し、山形城の歴史と変遷や近年の発掘状況の一端を紹介します。また、上山市教育委員会が所蔵する上山城の瓦も借用して展示し、近年最上氏時代の瓦として注目される貴重な資料も併せて紹介します。 ■展示資料 【絵 図】 最上氏時代山形城下絵図 最上氏時代山形城下絵図 羽州邑(村)山郡山形御城内屋敷之図 羽州最上御城内之図 御本丸御住居絵図(水野氏時代本丸住居絵図) 山形御城内絵図(水野氏時代山形城内絵図) 山形御城絵図(水野氏時代山形城下絵図) 【山形城出土資料】 本丸出土の金箔軒丸瓦(黒瓦)、軒丸瓦(黒瓦/赤瓦)、軒平瓦(黒瓦/赤瓦)鬼瓦(黒瓦/赤瓦)等 合計44点 【上山城出土資料】 軒平瓦(黒瓦) 10点 |
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新・最上義光連歌の世界��
1 梅咲て匂ひ外(ほか)なる四方(よも)もなし 義光 2 いくへ霞のかこふかき内 守棟 3 春深きかげの山畑道みえて 紹巴 文禄二年二月十二日賦何人百韻 天正二十(文禄元・一五九二)年、義光は秀吉の朝鮮出兵に動員され、諸将とともに肥前名護屋城(現佐賀県唐津市)に向かった。右は、名護屋在陣のまま翌春を迎えた義光が、家老氏家守棟らと詠んだ連歌の冒頭である。『最上義光連歌集』全三集に収められた三十余巻の中でもっとも年次が古く、義光と紹巴の最初の接点として注目される。 ところが、実はこのとき、義光と紹巴は直接会っていない。どういうことかというと、まず名護屋で義光と守棟が発句と脇句を詠み、それを義光家臣江口光清が京に届け、第三以降は紹巴らが京で満尾したのである。かつて故名子喜久雄氏が紹巴の九州下向を唱えられたが(『人文論究』六九)、のち紹巴の伝記研究が進んで在京が明らかとなり(両角倉一氏『連歌師紹巴』)、故片桐繁雄氏が光清使者説を立てられるに至った(『最上義光の風景』)。 つまり、秀吉の命令で名護屋を離れられない義光は、連歌に言わば�爛螢癲璽隼臆鱈瓩靴拭�これは単に文芸好きが高じてのことではない。義光には戦勝祈願という確固たる目的があった。前掲書で片桐氏は紹巴に求められて義光が発句を送ったと推測されたが、そうではなく、義光の方から紹巴に連歌興行を求めたと考えられるのである。 戦勝祈願として連歌を寺社に奉納する例は多い。例えば、天正六(一五七八)年五月、秀吉は毛利攻めの前に『羽柴千句』を行っているが、当時秀吉は播磨におり、紹巴に千句を依頼しただけで句も代作の可能性が高いと指摘されている(『連歌大観第四巻』廣木一人氏解題)。このように戦陣から在京の連歌師に指示して連歌を興行させた先例があるのである(ただし義光の場合、句は自作であろう)。 それでは、戦勝祈願の連歌として冒頭の三句を読み解いてみよう。 まず、義光の発句における「梅」の「匂ひ」は秀吉の威光を象徴する。「外なる四方もなし」はそれが至らない場所はないの意。この「四方」の使い方は、文禄元年の『出陣万句』で吉川広家が同じく戦勝祈願として詠んだ「日本のひかりや四方の今日の春」に通じる。守棟の脇句は、巨大な軍勢が「霞」のように名護屋城の「かき内」を何重にも取り囲んでいると詠む。そして紹巴の第三は、春霞の陰に山畑が見えると治世を寿ぐ。表面的にはどれも春の叙景句だが、予祝をこめた典型的な戦勝祈願の詠みぶりである。 文禄二年春、秀吉の渡海計画が進むさ中、義光はこの連歌を紹巴に依頼したのであろう。結局、秀吉の渡海は実現せず、義光も渡海を免れたが、甥の伊達政宗は三月に渡海しており、義光もその覚悟を決めていたはずだ。武将の心意気あふれる発句といえよう。 ■執筆:生田慶穂(山形大学准教授)「歴史館だより��31」より |
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新・最上義光連歌の世界��
1 梅さきて匂ひ外(ほか)なる四方(よも)もなし 義光 2 まがきになるゝ鴬のこゑ 紹巴 3 朝霞きのふはうすき砌(みぎり)にて 昌叱 文禄二年六月十三日賦何人百韻 前回取り上げた文禄二(一五九三)年二月の連歌から数ヶ月後、義光の同じ発句を使って連歌が巻かれた。前回と今回の三句を見比べてみてほしい。前回の脇句は氏家守棟、第三が里村紹巴だが、今回は脇句を紹巴、第三を昌叱が詠む。前回と重なる顔ぶれは義光・紹巴・昌叱・玄仍・景敏・光清の七名、それに堀喜吽・成田氏長ら六名が新たに加わった。 本人が同じ発句を再び使うということ、実はこれがかなり珍しい。芭蕉自賛の「木のもとに汁も鱠も桜かな」を立句に連句が三度興行された他に例を知らない。 義光と紹巴はなぜ新たな発句を詠まずに、同じ発句を使うことにしたのだろうか。文禄二年二月の連歌は義光を願主とする戦勝祈願で、義光・守棟は肥前名護屋に在陣中であったため同席せず、江口光清が使者に立ち、在京の紹巴らに依頼して続きを完成させた。そして今回、名護屋から引き揚げた義光とようやく京で対面することになった紹巴は、無事の帰京を祝って、同じ発句で改めて一座を設けることを提案したのではなかろうか。 ところで、この連歌には武蔵国忍城の城主成田氏長も参加している。氏長は天正十八(一五九〇)年頃から紹巴の指導を受けている連歌好きの武将のひとりだ。氏長も文禄の役では名護屋に参陣していたので、同席者にふさわしいと紹巴が声をかけた可能性が高い。 発句は、梅の花が咲きこぼれ、その匂いの至らない場所はないと述べ、梅の香が辺り一面に漂うさまを詠む。脇句は、梅の香に誘われ山から下りてきた鴬も、我が家の垣根に馴れ、声を立てていると付ける。梅に鴬は定番の取り合わせ。第三は、昨日は薄く立っていた朝霞が、今日は一段と濃く庭に立ちこめ、鴬の姿は見えずとも声ははっきりと聞こえてくると展開した。梅・嗅覚→鴬・聴覚→霞・視覚と、伝統的ながらも多彩な景物と感覚を用いて初春の移ろいを描いている。 なお名子喜久雄氏は、六月興行であれば発句は夏の句のはずで、春の句なのは不審、すなわち誤写ではないかと指摘している(『人文論究』六九)。残念なことに原本は現在行方不明で、その真偽を確かめる術はない。村山市伊藤芳夫氏旧蔵資料として『山形市史 史料編一』に翻刻されて、かろうじて活字の本文が伝わっている状況である。『連歌総目録』によれば文禄二年六月十三日に紹巴は別の百韻に参加している。本連歌の興行年月日には何らかの錯誤があり、文禄二年春から三年春の間の興行と幅をもって考えておくのがよさそうだ。詳細は拙稿「最上義光と里村紹巴の接点―文禄二年のふたつの連歌―」(『日本文学研究ジャーナル』一九)を参照されたい。 ■執筆:生田慶穂(山形大学准教授)「歴史館だより��32」より |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum






令和六年度 常設展/企画展示3
「最上義光と連歌 〜文化人たちの集い〜」
■会 期
令和6年10月2日(水) 〜 令和7年1月5日(日)
■内 容
収蔵資料から最上義光が連衆(参加者)として一座(同席)した連歌資料や義光と連歌に係わる資料を展示公開し、義光と連歌会で一座した文化人たちを紹介しながら、併せて最上家の文化度の高さなどを紹介します。
■展示資料
1.「連歌新式」写本 最上義光注/里村紹巴加筆 木藤才蔵氏寄贈
2.「賦何舩連歌」慶長元年(一五九六)十二月二十五日興行
3.「何路連歌百韻」慶長ニ年(一五九七)八月七日興行
4.「賦何墻連歌」慶長三年(一五九八)卯月十九日興行 山形県指定有形文化財
5.「賦春(青)何連謌」慶長五年(一六〇〇)正月興行 山形市・光明寺蔵 山形市指定有形文化財
6.「里村昌叱書状」宗澗宛(篠屋宗礀か) 伊藤芳夫コレクション
7.「三部抄」里村紹巴筆(里村玄仍筆) 伊藤芳夫コレクション 山形県指定有形文化財
■入館無料