最上義光歴史館

燦・虎賁郎将最上義光

 天下麻のごとく乱れた十六世紀、奥羽の世界もまた例外ではなかった。この混乱に終止符を打ち、出羽国に平和と安定をもたらしたのが、最上義光である。
 幾多の困難にうちかって、壮大な国づくりの夢を実現した最上義光。その偉業は、今もなお山形地方に大きな影響を及ぼしている。
 
 古くは南北朝時代、清和源氏の一流、斯波兼頼が出羽探題として最上府中山形にはいり、この地を政治の拠点とする。それから190年の後、天文15年(1546)、義光は第10代山形城主、最上義守の嫡男として生を享けた。その青年時代は苦難の連続であった。米沢の伊達氏、庄内の武藤氏をはじめとする、諸領主との幾多の戦いを経て、16世紀の末には現在の山形県内陸部の過半を領有するにいたる。
 そして慶長5年(1600)、天下を二分した関ヶ原合戦に際しては、徳川家康と連携して会津の上杉景勝と戦い、その論功によって57万石という大々名となる。その版図は置賜地方を除く山形県の全域から秋田県の南部におよび、その広大さと豊かさは、俗に「最上百万石」と称されるほどであった。
 世は乱世から泰平へと、大きな転換期を迎えていた。
 人口の急増、貨幣経済の浸透、生産技術の向上…義光はこうした時代の動きを洞察して、新たな領国の建設に努めた。
 雄大な山形城を築き、周囲には整然とした城下町を建設した。多くの堰をつくって、新田を拓いた。庄内の穀倉地帯は、実に最上義光からスタートしたといって過言ではない。治水、交通路の整備、鉱山の開発、最上川難所の開削、神社仏閣の護持…出羽国は、英傑最上義光の出現によって、画期的な変貌を遂げたのである。

 義光は出羽の人と土地を愛した。信義を重んじ、伝統文化を尊んだ。
  「命のうちにいま一度最上の土を踏み申したく候 水を一杯のみたく候」
  これは、文禄の役に際して、故郷を思う心を述べた手紙の一節。
 「偽りは侍の道にあらず」断固としたこの言葉は、妹義姫(伊達政宗の母)あての書簡にある。
 古典文芸に造詣ふかかった義光と、その家臣たちによって、山形に数多く美術工芸がもたらされた。出羽太守の城下山形に絢爛たる桃山文化の華がまさに咲き誇ろうとしていた。
 だが、その矢先、元和8年(1622)8月の最上家改易によって、こうした動きは滞ってしまう。
 そしてその後、山形はめまぐるしく藩主交替が繰り返される。一貫性のない政治の下に生きねばならなかった山形の民衆にとって、「出羽百万石、黄金の時代」だったのである。
 幕末庄内の勤王の志士清川八郎は、その著書「西遊草」のなかで最上義光の業績をしのんでいる。江戸幕府の儒学者塩谷宕陰は、義光を「虎将」と讃えて漢詩にうたった。
 後世の人々からまで大きな存在として仰がれた義光は、慶長19年(1614)1月18日、波乱と栄光に満ちたその生涯を閉じた。時に69歳。
 出羽国が生んだ最大の英傑、虎賁郎将最上義光。
 その名は、燦として、永く人々に語り継がれていくにちがいない。(勘)
史跡めぐり(バスの旅)
史料紹介 一花堂乗阿『最上下向道記』から考える

【一】
 山形市七日町の光明寺に、一花堂乗阿の『最上下向道記』が秘蔵されている。
 乗阿は時宗の僧侶で、桃山〜江戸初期(一六〇〇年前後)に京都を中心に活躍し、『源氏物語』『古今和歌集』などの古典研究に寄与した学者である。歌人として、また連歌の指導者としても知られていた。貞門俳譜の祖松永貞徳は、その著『戴恩記』に乗阿との接触があったことを述べている。また、青年時代の林羅山と『源氏物語』をめぐる論争をしたこともあったという。このような著名な文人が山形を訪れて滞在し、最上一門や周辺の人々を指導した事実は、山形の文化史を考察する上で重要な示唆を与えるものだ。
 「光明寺由来記」によると、義光は在京中に乗阿から『源氏物語』を学び、切り紙(免許状)を伝授されたとされる。これが機縁となって義光の要請を受け、山形に来て光明寺十八世住職となった。小高敏郎博士の大著『近世初期文壇の研究』(昭和三十九/明治書院)では、乗阿が出羽に下ったときの「道之記」について、「あるはるずだが、目賭の機を得ない」と残念がっておられ、また、乗阿が後陽成上皇や智仁親王らとともに詠じた「御当座百首」一巻は、戦災に遭って失われたのではないかとの懸念を述べておられる。
 ところがこの両作品が、ともに光明寺に蔵されていたのである。

【二】
 以下、『最上下向道記』による。
 七三歳の乗阿は、慶長八(一六〇三)年五月十二日(太陽暦六月二十一日)の昼に京都を発つ。道中さまざまな出来事を経ながら、越後本庄(村上市)を経て出羽に入る。



 「羽州庄内、今あらため鶴岡というに到れば、御城の普請の奉行衆とて両三人、今行くべき先々の道のことまで沙汰せらる」……「亀ケ崎」(酒田市)「鶴ケ岡」(鶴岡)と佳名に改められたのは同年三月とされるから、乗阿は地名が変わって間もないころにここを通ったことになる。一泊して翌日は最上川の舟に乗り、ほどなく山形に着く。
 山形については、「造り並べたる家々数多く、柳・桜植えぬ門もなく、見る目輝くばかりなれば、覚えずしてまたもとの都のうちに帰り入るかと、聞きしにはまさりはべりぬ」と称賛した。太守義光への儀礼的挨拶が加わっているとしても、この時代の山形は美しかった。最上五七万石、全国屈指の大大名の城下である。義光自身が京文化への憧憬をいだき、山形にすぐれた文化を移入しようと努めていた、まさにその時代である。乗阿の描写は、美しい山形を語って印象深い。

【三】
 乗阿の山形滞在は足掛け三年という短い期間だったが、その間最上一門は光明寺において、しばしば彼の指導のもとで連歌会を開催した(「由来記」)。東根城主里見一家が連歌に熱心だったのは、この影響があったと見てもよい。城下の士庶、僧俗が芸術・文化に開眼
するきっかけとなった可能性もある。
 江戸時代の早い時期に、旧最上家臣の一人斎藤親盛(如儡子)は、名著『可笑記』を著した。本来貴族の行事だった人麿影供を、山形の町人が催した形跡もある。芭蕉来訪以前に、井上、富田、斎藤、松岡、豊田などという山形の住人たちが、座をつくって俳譜を楽しんでいた(落合晃氏『やまがた俳譜一人案内』)。捜せば、他にも事例があるだろう。
 最上時代の山形の芸術文化を、ばらばらに切り離さず、義光に代表される山形人の精神の体現として改めて見直すとき、山形の歴史はいちだんとふくよかになるに違いない。

■執筆:片桐繁雄(元最上義光歴史館事務局長)「館だより��14」より
史料紹介 仮称『最上義光注連歌新式』一冊

 [はじめに]
 中世日本文学の権威、木藤才蔵博士から、平成17年秋山形市に貴重な写本が寄贈された。最上義光が注を書き入れた『連歌新式』である。
 博士は、岩波古典大系『神皇正統記・増鏡』『連歌論集・俳論集』を担当なさって令名高く。また新潮日本古典集成『徒然草』は、名注釈書として広く江湖に迎えられている。周知のごとく博士は、連歌史研究において先人未到の高峰に達せられ、その業績によって昭和49年に学士院賞を受賞なされた。たまたま同じ時の受賞者として、山形市名誉市民石坂公成博士がおられる。授与式の日、木藤・石両博士は一緒に天皇に御親講なされたのであった。
 最上義光を高く評価しておられる博士は、平成17年秋、本写本を義光の故郷山形市に寄付してくださったのである。

 [体裁]
 縦27.7cm。横21.1cm。袋綴じ。表紙柿渋塗り。題簽なく、外題を欠く。内題は、第1丁表第1行目に「連歌新式」とあり、上部に[最上院蔵書]の縦型黒印を捺す。本文紙数69枚。各丁表裏とも10行。
漢字平仮名交じり、「ハ・ミ」などの少数の片仮名を交える。一行の字数は不定。朱書きき末尾に「巴」を記し、里村紹巴記入であることを示す。巻末67〜9丁に、義光の奥書及び、これに応ずる紹巴の奥書がある。(写真)



 [成立年代]
 義光奥書の日付「文祿五年七月朔日」と、紹巴奥書の日付「文祿五年初秋中旬」とにより、文祿5年(1596、改元慶長1)7月の成立。
 当時の豊臣秀次事件に連座して近江流謫の身であった。義光の次女駒姫(おいまの方)を秀次の侍妾としていたため一時閉門謹慎を命じられていたが、この時点では宥されていた。したがって、義光は秀吉から罪人として退けられた紹巴と、懇ろに音信を通じていたことになる。時に義光51歳、紹巴73歳であった。
 木藤博士は、本写本は江戸時代初期、寛永に溯る可能性ありと見ておられる。[最上院蔵書]の印は、寒河江慈恩寺の最上院に伝来したことを示す。北畠教爾氏によれば、明治の廃仏棄釈以後の流出と推定されるという。
 
 [内容]
 木藤博士著『連歌新式の研究』から引用させていただく。
 「義光が在京中に諸処の会席に臨んで式目の運用に関して不審に思ったことを、その場の先達に質問したり、あるいは宗匠のさばき方その他から見当をつけたりしたことを、そのつど書き留めておいて、のちにこれを整理したもののようである。……紹巴の書き入れは僅かで、秘事大事に属することは奥書にも記されているように口伝に依っているようである」(頁152)
義光の奥書によれば、「毎座不審の儀ども八百ヶ条」を筆記したとあるが、現に見られる本写本は488ヶ条である。伝来の間に300余ヶ条が脱落したのであろう。

 [本書の意義]
 既確認の義光の連歌33巻は、『最上義光連歌集』全3集として刊行された。その質的面については、山形大学教授の名子喜久雄氏が考察を加えておられるが、本書によって義光の文学的教養、連歌に対する熱意などが、さらに詳細に明らかになることが期待され、義光の人物研究にとって貴重な史料である。
 義光個人の問題を離れても大きな意義がある。
 桃山時代の連歌界で式目がいかに受容され、機能していたか、その実態と限界。連歌が陥っていた閉塞状態の解明。そこから脱却しようとする努力など、俳諧文学発生期の様相を明らかにする上でも、本書は益するところがあるように考えられる。
 また、戦国時代を切り抜けた遠国大名が文化形成に参与した事例としても、研究の好対象となるだろう。
 他の写本が紹介されていない現在、本書はいわば天下の孤本である。上記のごとく大きな意義を有するものだけに、本書の公刊が期待されるところである。

■執筆:片桐繁雄(元最上義光歴史館事務局長)「館だより�13」より
19日に山形市の市川昭男市長が見学に来られました。

今朝(19日)の新聞記事(肖像画の公開について)をご覧になって、ただちにおいでになったとのこと…





肖像画3幅と日本刀の展示を熱心にご覧になっていました。




市川市長またお越しください(^o^)/
指揮棒(しきぼう)

山形市指定有形文化財
鍛鉄造
桃山時代(16世紀)
作者/不明
長さ/86.5cm・重さ/1.75��
最上公義氏寄贈

 最上義光が愛用した鉄製の指揮棒です。古記録や屏風絵などにも登場する義光を象徴する遺品です。
 日本刀と同じ技法で鉄を鍛錬して形成されています。長さは86.5センチ、重さは1.75キログラムもあり刀二本分の重量です。義光がこの指揮棒を振り回していたとすれば、相当な腕力の持ち主だったことが推測されます。
 義光の一生を記した古い書物には、「(慶長五年の)慶長出羽合戦まで(義光は)いつも手もとに置いていて、戦争がない時代になると、自分の名前を彫って、『子孫に持てる器の人物が現れたら使いなさい』と言ってお蔵にしまわれた」と記されています。
 表面には「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光(せいわてんのうまつようやまがたでわのかみうはつのそうよしあき)」と陰刻され、清和源氏であること、山形出羽守であること、剃髪していないが仏に仕える身であることなどを示しています。
 古記録には金象嵌を施したと記されているものもありますが、残念ながら現在は象嵌に使われた金は残っていません。


(撮影:松本正光氏)