最上義光歴史館



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山形県屈指の桜の名所!!霞城公園(山形城趾)の桜の開花情報をお伝えします!!


≪4月20日(日)10時現在≫





東大手門前街路 【満開】ちらほら葉っぱが出はじめました!!










山形城二の丸東大手門 【満開】見ごろです!!!



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◆◇◆山形城の立地◆◇◆

 最後の山形藩主水野氏についてきた高名な学者塩谷宕陰が、「山形は江戸に似ているというより、京都に似ている」と言って、新封地に着任した主君に賀詩を献じた。たしかに、京都は中央に川、東西に山・・ということで、盆地の山形と似たところがある。
 ところで、山形が出羽国の中枢年として発展してきた背景には、十四世紀の斯波兼頼の入部、以降十七世紀初頭までの最上時代があった。十五世紀などは、史料不足の「暗黒の時代」だが、とりあえず最上氏の存在が山形を支えてきたのではあるだろう。
 それなら、山形城がなぜこの場所につくられたのか。
 高橋信敬先生の名著『最上時代山形城下絵図』では、斯波兼頼入部時代の近辺の地勢や歴史的な沿革には触れておられるが、「なにゆえに、この場が選ばれたか」についての所見は、残念ながらない。
 先頃、中川重先生、伊藤清郎先生とご一緒したとき、「風水」ということについておたずねしたことがあった。「山形城の風水(学)的立地はどうなんでしょう」という私の質問に、お二方は町づくりにおける「山あて」の事例を教えてくださったが、「風水」についてはお話しにならなかった。学術の網に掛かりそうもない(?)「風水」を取り上げるのはお避けなさるのが当然と、私は納得をもらったのだったが、その後も山形城の位置・立地は気にしていた。
 山形県の地図を広げて、眺めて、今のところ次のことは確かなようだ。



� 〇碍曽襪琉銘屬蓮∨明昌容鶚劼妨�える月山の頂上(一九八四m)と、南東一〇�劼砲修咾┐詢胸�(一三六二m)の頂を結ぶ直線上にある[直線A]。 この二つの山は、山形城から見て一番高くて目につく。

�◆〇碍曽襪琉銘屬蓮∪�(三五��)の大朝日岳の頂(一八七一m)と東(一四��)の神室岳の頂上(一三五六m)を結んだ線上にある[直線B]。この両山は、めだたぬながら、山形城の真東、真西にある最高の峰である。

�� つまり、直線AとBの交点が山形城の現場に当たるわけである。

 馬見ケ崎川扇状地の中央部分。標高一三〇m前後。水はけよく乾いた平地、地下水は豊冨。所々に泉が湧いている雑木林。積雪は山形盆地のなかで最も少ないところ。人が暮らし集落を形成するには具合がいい。このあたりの条件は、誰でも気がつきやすい。
 しかし、山形城が周辺の山岳(等)と関係づけて築かれたかとなると、私には何も言えない。もう一つ、山形の随所で遠望される雁戸山(一四八五m)は、無関係なのか。どうなのだろう。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより��23/研究余滴16」より


令和5年10月1日から山形城御城印が販売されていますが、購入される際に御城印帳の発売も希望される方が多かったため、ご要望の声に応え最上義光歴史館オリジナル商品を制作いたしました。
当館で所蔵している最上時代の城下を描いたとされる絵図および、分限帳に記載されている町名部分を表紙にしています。
山形散策のお供や山形訪問の記録帳として、ご活用いただければ幸いです。

・名  称  山形城御城印帳
・販売価格  3,300円 (税込)
・発売開始日 6月1日(土)
・販売場所  最上義光歴史館 (9時〜16時30分)
       (通信販売についてはお問い合わせ願います)
・お問合せ  最上義光歴史館 電話023-625-7101
       〒990-0046 山形市大手町1-53
・商品仕様  42ページ(ジャバラ式)
       本文サイズ 幅133mm×高さ181mm
       ポケット内寸 幅121mm×高さ163mm
       表紙 箔押し(金または黒)+マットPP加工
       ポストカード2枚付属(絵図・分限帳部分)

※令和8年2月1日追記…御城印帳は完売いたしました。再販は未定です。
 美しい山々に囲まれ、四季折々の豊かな自然の中で育まれてきた私たちのふるさと山形。城下町や商業都市として、さらには県都として、その時々の人々の営みや思いを刻みながら、わがまちは、連綿と栄えてきました。
 この山形の礎(いしずえ)を築いた人が斯波兼頼です。今年は、兼頼が山形に国入りしてから、650年の記念の年に当ります。斯波兼頼とはいったいどんな人だったのでしょうか。その人物像に迫ります。


「絹本著色 斯波兼頼像」(山形市指定有形文化財) 光明寺蔵 

【南北朝の動乱と若大将斯波兼頼の登場】
 斯波兼頼は、源氏の名族足利氏の流れをくみ、八幡太郎の名で知られた源義家から11代目の子孫に当ります。「斯波」の姓は、先祖の足利家氏が現在の岩手県紫波町を根拠地としたことによるものです。
 元弘3年(1333)に鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇による古代の天皇政治が復活しました。世にいう「建武の新政」です。しかし、それもほんのつかの間のこと。足利尊氏が反旗をひるがえし、わが国は南北朝動乱の時代に突入していきます。
 建武3年(1336)ころに、まだ10代前半であった斯波兼頼が、北朝勢の一方大将として、奥州の太平洋側の戦場に姿を現わします。その後兼頼は、父家兼とともに伯父斯波高経のいる北陸方面に移り、越前(福井県)に逃れていた南朝勢の大将新田義貞の軍勢と対峙しました。
 やがて新田義貞は越前藤島で討死します。義貞の首級をあげたのは、斯波兼頼配下の氏家重国であったといいます。彼はこの時、義貞が佩(は)いていた鬼切・鬼丸という源平重代の太刀二本を、高経のもとへ差し出しています。そのうちの鬼切が、どういうわけか兼頼の手にわたり、以後最上家の家宝となったと伝えられています。


「太刀 銘 安綱 (号鬼切)」(重要文化財) 北野天満宮蔵 

【出羽北朝勢の総指揮官として山形へ入国】
 延文元年(1356)に、兼頼は奥州大崎(現在の古川市近辺)から出羽最上郡山形に入部しました。正式な役職名はハッキリしませんが、按察使(あぜち)将軍または羽州管領(探題)といわれています。当初は寒河江大江氏をはじめ、南朝勢力が根強く残っていたようです。
 では、山形あたりの様子はどうだったのでしょうか。当時の社会状況を物語る貴重な史料が、岩波の石行寺に伝えられています。その『大般若経』の奥書には、次のような記事があります。長引く戦乱による民衆の飢えと渇きや、諸国に疫病が流行し、身分の上下なく多くの人が死んでいる悲惨な状況などです。そこからは、世の乱れを嘆き、信仰にすがってひたすら平和を祈念する、私たちの祖先の姿をうかがい知ることができます。
 入部した翌年の延文2年、兼頼は山形城の築城を始めます。山形を政治の拠点とするためでした。その位置や規模については明らかではありませんが、現在の二の丸内あるいはその外の北東区域であろうと見られています。

【政治家として人間としての兼頼】
 将軍足利尊氏や、幕府の中枢にあった伯父斯波高経の権威を背景に、兼頼は南朝方の諸将や豪族をしだいに味方にしていきました。
 兼頼の事業で最も目立つのは寺社の復興です。立石寺根本中堂・宝幢寺・千手堂の吉祥院・六椹八幡神社・熊野神社をはじめとして、多くの寺社が兼頼によって修復再建されたと伝えられています。
 こうした宗教政策によって、民心の安定を図り、また縁組などをとおして、できるだけ武力を使わずに、北朝・室町幕府の勢力を拡大していきました。兼頼が山形・天童・寒河江など、いわゆる現在の村山地方の一部を支配下に治めるまで、実に15年あまりの年月がかかっています。
 晩年の兼頼は、高名な遊行上人他阿元愚(たあがんぐ)の布教に感動して、自ら時宗の僧となり、其阿(ごあ)の法名を受けました。家督を嫡子直家にゆずり、城中に道場を開いて念仏三昧の余生を送りました。この道場が後に光明寺となります。
 南北朝の戦乱と足利一族の抗争という、修羅の時代を生き抜いてきた兼頼。康暦元年(1379)、兼頼は一心に阿弥陀仏を念じて浄土に往生しました。山形在住23年、享年64歳でした。
 兼頼の子孫は、267年間13代にわたり山形を治め、11代最上義光の時に57万石の大大名になりました。彼は現在の山形市の基盤をつくりました。だが、元をたどれば、山形の街は斯波兼頼という名将・名君によって開かれたことを、未来の山形のためにも、私たちは忘れてはならないでしょう。

■執筆:布施幸一氏 「広報やまがた 平成18年9月1日号」より転載
山形藩主・最上家親の最期を正す 
 −ある一学僧の日記を検証して−

 慶長19年、(1614)正月、義光を病で失った後の駿河守家親の襲封は、必ずしも平穏な藩内情勢のもとで行われたものでは無かった。しかし、義光以来の徳川家との親密さに加え、家親自身も若年より家康に近侍しており、その友好な結び付きから家親の襲封には何らの支障もきたす事なく、もの年に起きた藩内抗争についても、幕府は疑惑の目を向けることは無かったのである。
 その年の夏は越後高田城普請手伝いを勤め、続いて大阪の陣では江戸城留守居役に任ぜられる程に、幕府の信任を得ていた。この家親の元和3年(1617)3月に至るまでの、三年余の藩主時代を評価するには、それを語る程のものも無く、家親と言えばその不可解な死因のみに凝縮され、喧伝されてきた感がある。
 曰く「鷹狩りの帰路、楯岡甲斐守邸で饗応の後、帰城すると苦しみ出し絶命した(諸家深秘録)」、また「能楽を楽しみ食後に腹痛をおこして死んだ(藩翰譜)」、さらには侍妾に寝室で刺殺されたとか、甚だしきは山野辺義忠が持参した饅頭を食べて悶絶、死骸は早々に灰にされたなどと、家親の人格を全く無視するような、惨めな評価を受けてきたのである。
 このような家親につきまとう数々の変事が、どのような経緯で形づくられてきたのか、ここで解明するのは困難である。しかし、ここに来てその従来の悪評を根底から否定し、家親の面目を晴らすことになった、家親と親交のあった一学僧の『日記』に巡り会えたのである。
 竜派禅珠(寒松と号す)は天文18年(1549)に生れ、寛永13年(1636)88歳で没した臨済宗に属した学僧である。埼玉県川口市(当時の芝郷)の長徳寺の住持で、慶長7年(1602)に徳川家康の命により、足利学校の庠主となり、両所の教育と寺務とを勤めた人物である。諸学問に精通し、将軍家や、幕府要人をはじめ諸大名とも交流を持ち、特に卜筮(占い)に通じていたから、一年間の展望を占う年筮を献ずるを常としていた。現在、寒松日記は欠年の箇所もあるが、和様漢文で簡潔に書かれており、所々に見える家親に関わる記事の中から、元和3年(1617)の江戸での家親と子の源五郎の動きから、特に死亡日とされる3月6日前後の記事を拾い、疑惑に満ちた死因を払拭し、家親の名誉を回復していきたい。

(イ)正月六日 「未だ暁けず、芝阜を出て江戸に入る」
 寒松は将軍たちへの年筮献上のため、新年早々芝村を出て江戸に入った。

(ロ)同月十日 「晴れ登城する、炉辺に至り年筮を献ず、城より帰る時、駿州(家親)の第(邸)に往く、昨夜、使者口上に齟齬(くいちがい)せし故、空しく帰る」
 寒松は登城して将軍秀忠に年筮を献じ、続いて家親を訪れる。しかし、何らかの手違いで会えずに帰った。この日、寒松は老中の青山忠俊・本多正純・土井利勝などにも会っていた。

(ハ)同月一三日 「駿州にて晨炊す」
 この日、寒松は早々と家親を訪ね朝食を共にした。恒例の年筮を献じてのことであったろう。家親が新年を江戸で迎えていたことが判る。そして、旧知との親交を重ねながら、一週間後に芝村に帰っていった。

(ニ)二月七日 「継いで道閑の所よりも贈り来る」
 道閑は寿庵とも称し、学問・医術に精通した人物で、度々登場している。義光死去の際の家親下向にも従うなど、家親親子に近侍していたことを示す書状もあり、この道閑の動向が家親の所在確認に、貴重な指針となっている。二日前、寒松はこの年の二度目の江戸入りを果たす。日記は例により各層の人物との接触を伝える。この道閑の贈物は最上家からの物ではなかったか。

(ホ)三月二日 「道閑、餅酒を贈り来る」
 家親の死を数日後に控え、道閑より再び贈物があった。この日に近臣の道閑が江戸にいたということは、それは家親の在府を示す、貴重な記録の一つであろう。この日、寒松は安藤重信・本多正純・土井利勝などの要人達と会っている。しかし、寒松が芝村に帰る12日までの間、家親の進退については一言も触れてはいない。ここに家親が病床に伏したことを裏付ける、将軍からの見舞状がある。
  同三巳(元和3年)
  病気之節
  賜御書
  所労之由無心許、能々養生肝要候、猶酒井備後守可申候也、
  三月 秀忠(黒印)
  最上駿河守とのへ
 この見舞状を見ても、将軍お膝元の江戸の真ん中で、藩主殺害などという途方もない出来事が行われたとは、とうてい考えられないのである。将軍から見舞状を受ける程に、秀忠からの信任は厚かったのである。

(ヘ)同月一二日 「最上の疾病を筮ひ、翌(日)侶庵を遣す」
 寒村はこの在府中に家親に会わずに帰路についた。途中、悪天候に悩まされながら蕨宿に着く。寒松は家親が既に病に倒れていたことを知っていたのだろう。それを気遣ってか占いをたて、親友で医師の侶庵を家親のもとに遣わした。おそらく、占いに悲観的な結果が出たからであろうか。家親の死去日(6日)が事実ならば、寒松が出立するこの日まで、未だ公にされず伏せられていたのか、それとも寒松には知らせがなかったのか。その後、江戸に入った侶庵から、最上家の内情についての報告は受けていたであろうが、3月中の日記は何も語ってはいない。秋田藩士梅津政景の3月18日の日記には、4日の晩に俄かに患い、6日の四ツ時に亡くなったと記している。

(ト)四月廿日 「甲寅 小月中駿州の訃」
 家親の死から四十数日の後、足利学校の寒松のもとに、その死が知らされたが、日記は簡潔に伝えるのみである。しかし、この時期にはじめて家親の死を知った訳ではなかろう。この日、はじめて最上家より正式な知らせがあったのではなかろうか。

(チ)五月一六日 「雨 最上源五郎より飛脚来る、寿庵(道閑)・侶庵の文相添える」
 5月3日に家督を継いだ源五郎義俊より、寿庵・侶庵の文を添えての飛脚が来た。義俊襲封の挨拶を兼ね、父同様の交誼を願ってのことであったろう。二人の文には家親死後の最上家の現状が述べられていたであろう。以後、寒松との関係は義俊の代まで持続したのである。
 
 最期に思うには、家親は春の一日を能楽で楽しんでいたが、春の陽気に食中りで倒れたのではなかろうか。江戸の真ん中で何か変事でも起こせば、隠し通すことは困難である。まして将軍の見舞状もあるように、家親変死説は受け入れられず、単に急死として扱うべき問題である。従来の不可解な説の一つでも事実であれば、その時点に於いて大名の地位を失っていたであろう。寒松日記は、従来の説を根底から覆す好材料として、姿を現してくれたのである。

(執筆:小野末三/「歴史館だより��11」より)