最上義光歴史館

最上家に伝わる義光愛用の兜です。
織田信長より拝領したと伝えられています。

慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦(通称:長谷堂合戦/関ヶ原合戦の地方戦)に出陣したときに、敵将直江兼続の鉄砲隊から狙撃され、命中、しかし、この兜のおかげで命が助かりました。
兜は篠垂(しのだれ)一条(いちじょう)が失われ、激戦を物語る弾痕がいまも生々しく残されています。

鍬形と利剣は平成20年3月に復元されました。

※「三十八間金覆輪筋兜」は平成20年11月の山形市指定有形文化財の指定の際に「三十八間総覆輪筋兜」に名称変更になりました。

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≪注意≫
3Dデータは特殊な撮影方法で制作されたため、鉢裏は必ずしも正確に表現されていません。鉢裏の受張は紺麻に紺糸の百重刺が付けられています。
◆◇◆山形の主「長松丸」◆◇◆

 最上義守、義光父子が京都に上って将軍義輝らと宴を共にしたのは、永祿六年(一五六三)六月十四日だった。これは京都の公家山科継の日記によって確認される。
 この時代、山形の文学史料はまさに寥々たるもので、他所の史料によって山形の様子を推察せざるを得ないのが実情だ。いわば隔靴掻痒である。だから、どんなに小さいものでも確かな史料が欲しくなる。そういうとき、『市史せんだい 12号』に収められた「高野山観音院過去帳」を見せてもらって、びっくりした。仙台市青葉城資料館の大沢慶尋氏のお計らいである。この史料は、奥羽の大名一族や家臣、国人らが高野山に参詣し先祖の菩提をとむらった記録簿で、時に「逆修」として在世の親や主君の後生を祈ったものもある。びっくりしたというのは列記されたなかに、

 (a)道清大禅定門 逆修
    出羽国最上郡山形殿 源長松丸
 (b) 雲照寺殿帷翁勝公大禅定門
    山形殿 享祿二年丑 三月六日

とあるのを見たからである。
 これによって、享祿二年(一五二九)の三月六日に「山形殿」を名乗る源長松丸なる少年が高野山に昇り、二人の人物の供養を行ったことが知られるわけである。
 (b)の「雲照寺殿帷翁勝公」は、義光の義祖父にあたる、第九代義定の法号。没年は永正十七年(一五二〇)とされるから、この年は没後十年にあたる。
 (a)の「道清大禅定門」とは正式の法号ではないらしい。この史料で「道○」という名は、道高/道円/道弘などが他にあり逆修に多く見られる。思い付きの域を出ないが、仮に俗名の一字に「道」をつけて仮の法名にしたとすれば、これは中野義清の可能性大となる。
 こう見ていくと「出羽国最上郡山形殿 源長松丸」とは、山形殿の地位にある源氏の末葉、元服前の山形城主……行き着くのが第十代も最上義守となる。
 長松丸(義守)から見て「道清」は実父、「雲照寺殿」は義父となる。彼は高野山に登って、在世の実父と亡き義父と、二人の冥福を祈り最上家興隆を祈願したのであろう。
 同じときに「最上山形殿御内 土佐」、つまり山形殿の家来「土佐」なる人物が「道高禅門/妙高禅尼」のために逆修をしているところから判断すると、この人物は同行した家臣団のトップだったのかもしれない。
 出羽育ちの純朴な青年長松丸の目に、京の景観・風俗や霊地高野山のたたずまいは、どんなふうに見えたであろうか。
 彼が第十一代山形城主、「出羽屋形」として嫡男義光を同道して上京し、将軍に謁したのは、三十四年後のことだった。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより��15/研究余滴8」より
◆◇◆山形紅花の行方◆◇◆

 古田織部が曽我又左衛門に宛てた一通の書状(慈光明院所蔵)によって、一六一〇年ごろには「紅花なら最上」という定評が上方では成立していたことが明らかだが、このころは、山形の大名最上家からのお土産としても紅花は京都の公家衆に喜ばれたものらしい。慶長十六年(一六一一)に、公的な用務を帯びて江戸に来た公家山科言緒の日記にこんな記事がある。

 十月二十三日、晴 
一 早朝寺へ参る。 一 最上駿河守(家親)宅を訪問。 一 新城(江戸城本城に対して新たに建造された西の丸か)にお伺いした。
 
 寺とは、増上寺だろう。数日前に家康が江戸に来ており、城内ではさまざまな催しがあり、増上寺の和尚も登城している。
 
 十月二十五日 晴
一 大久保相模守(忠隣)へ早朝伺った。一 最上駿河守が私の宿へ訪ねられ、紅花を五拾嚢贈って下さった。

 こういう記事である。同行してきた公家仲間の船橋秀賢の所へも、最上家の使者が来て同じように「紅花五十嚢」を届けてくれた。(秀賢、慶長日件録)
 出羽の大名最上家から天皇に仕える公家たちに対する大事なプレゼントである。みやげを「土産」と書くように、己が領地でとれる「いいもの」、他の土地の物よりすぐれたもの、そう自慢できる物品が出羽国では紅花だったわけである。
 そこで疑問。もらった紅花を、彼らは何に使ったのか。
 考えるヒントが、山科言緒の日記十月二十九日の条にあった。彼らの勤務先である朝廷のお歴々に配っていたのである。配分先は次の通り。
 禁裏(宮中)へ十嚢、仙洞(上皇御所)へ十嚢、女御(天皇の側にお仕えする女性)へ十嚢、関白近衛信尹へ五嚢、近衛殿政所へ五嚢、 以上で四十嚢。あとの十嚢についてははっきりしないが、江戸下りの長旅の土産物でございますという具合に、天皇・后、廷臣のトップたる近衛家に差し上げたのだった。
 献上を受けた方々も、喜んだのだろう。
 話し変わって、最上家の重臣、東根城主であった里見薩摩守が、連歌の添削指導を頼んだ相手、里村昌琢にお礼として送ったのも紅花であった。年不詳、七月二十七日付。

「おととし見てさしあげた一巻が確かに届いたとのこと、まずよかった。ところでこの度は二百韻(二百句、百韻連歌二巻)到来、確かに添削します。(お礼の)紅花二十斤届けてくれたようで忝い。玄仍が遠行(死去)したことお聞きになったでしょうか。吃驚なさったことと存じます。思いがけないこと、致し方ありませぬ。」

 この手紙のとおり、ここでも紅花は最上からお礼の贈り物となっていたのである。昌琢がこれを何に使ったか。今、それはは分からない。
 朝廷の高貴な方々にしても、紅花をどのように使ったか。それも不明。残念だが、今後の研究にまつほかない。
 最上時代に山形名産となった紅花、ついの行方はいずこなりや。
 ついでだが、里村玄仍は最上家とは大変ちかしく付き合っていたが、慶長十二年四月に亡くなっている。
     
■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより��20/研究余滴13」より


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