最上義光歴史館
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◆◇◆細川忠利の手紙から◆◇◆
『細川家史料』元和八年(一六二二)の巻は、当時の小倉藩主細川忠利が国許の魚住伝左衛門あてに書いた書簡の集成である。 四月二十四日の書状では、将軍秀忠の日光社参のときの異常な厳戒に注意を向けている。 「ことのほか御用心にて、東照宮を二重三重にとりまわし、見張り警戒を仰せつけられたそうだ。お供の数も五、六万人もいただろうということだ」 平和なはずの社参が、ただならぬ厳戒のなかでなされたのである。 幕府発足後まだ十年そこそこ、泰平の世といっても、けっして安泰ではなかった。 山形も元和三年の家親没後は、重臣たちの反目がつよまり政権はばらばら、元和六年からは幕府の横目付が山形城二の丸に常駐して、監視、指導を強めていた。 さて、本史料には何ヵ所かに「東国大名に、帰国許可が出ていない」という趣旨の記載がある。四月から毎月のようにこれがある。日光での厳戒と関係がありそうだ。 それと並んで忠利は、最上家の行方に注目している。「最上の身上も近々果ててしまうだろうとのうわさ。見聞きするところその通りらしい」と書き、その一方「最上家は祖父義光の時から徳川家に心入れ深く、その子家親は幼少より江戸勤務で将軍に奉公したので、この度は新しい国を下さることで相済みとなった」と、一件落着と思ったこともあった。 彼の心中、最上家親とともに初めて宮中へ参内した若き日の記憶が鮮明に残っていただろう。慶長十年(一六〇五)四月九日、初夏の晴れた日、忠利も家親も侍従に叙任された。二人とも二十歳前後の貴公子、名門大名の後継者だった。だが今、最上家は浮沈存亡の危機にある。 忠利は心配していた。八月十日、「最前も申し上げた最上のことだが、将軍様の前で決定したとおりにいかず、家老どもが勝手を言って決着がつかぬ」 そして八月半ば、五十七万石最上家は改易。近江大森一万石となる。 九月二日「東国大名衆は今なお江戸に逗留中。最上の跡に誰が入るかわからない」。九月二十二日「最上の跡山形・鳥居左京父子、新庄・戸沢右京、鶴岡・酒井家次父子等。決めたのは土居、酒井…」幕政初期の実力者だ。 最上家信は父祖の地最上にもどることはできなかっただろう。 忠利の書状に最上重臣の動静はあるが、家信には触れられていない。 「最上義光の弟で伊達政宗の叔父にあたる楯岡甲斐守光直を、わが細川家が預かることとなった」と、やや緊張ぎみの報らせだ。 最上家改易、後任者決定。 東国大名諸侯も帰国の許しが出て、自国でゆっくりできたのだろう。 ■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより��22/研究余滴15」より |
最上家に伝わる義光愛用の兜です。
織田信長より拝領したと伝えられています。 慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦(通称:長谷堂合戦/関ヶ原合戦の地方戦)に出陣したときに、敵将直江兼続の鉄砲隊から狙撃され、命中、しかし、この兜のおかげで命が助かりました。 兜は篠垂(しのだれ)一条(いちじょう)が失われ、激戦を物語る弾痕がいまも生々しく残されています。 鍬形と利剣は平成20年3月に復元されました。 ※「三十八間金覆輪筋兜」は平成20年11月の山形市指定有形文化財の指定の際に「三十八間総覆輪筋兜」に名称変更になりました。 Google検索 Wikipedia検索 |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum





1 おる花のあとや月見る夏木立 義光
2 御簾のみとりに明(け)やすき山 紹巴
慶長三年(一五九八)四月十九日
賦何墻連歌 初折の表
前回での予告の通り、前回と同じ付け合いへの別角度からの考察である。
前回においては、義光の発句を中心に、この連歌が興行された慶長三年四月ごろの世情を関わらせての考察を行った。本稿は後述する二つの観点に立ち、古典文学との関係を論じたい。
再度、この付け合いの大意を示す。発句は、「桜を手折り春の風雅を尽した後、今ここに夏木立の中で月を楽しんでいる」となる。脇句は、「御簾ごしにこの光景を味わっていると、はやくも時は移り東の山の空が白み始めている」となる。この付け合いは、その場の連衆が目にした光景であることは、連歌の作法からも、そう判断して良かろう。ただしこの付け合いを鑑賞する時には、以下に示す二つの観点を必要とすると思われる。
第一の観点は、古典和歌・連歌・俳諧を詠む時の基本的創作態度である。藤原定家は「京極中納言相語」で、「光景を詠む折には、それを『玉の砌(みおぎり)』と思って詠め、恋を詠む折には、我身を在原業平の振舞になぞらえて詠め」と語っている。光景を詠むに際しても近代のリアリズムとは異なった思考なのである。
第二の観点は、「面影(おもかげ)を取る」詠法である。「本歌取り・物語取り」のように、明白に過去の作品・場面に基づいている訳ではないが、何とはなしに作者が意識したと想像される作品・場面を鑑賞者に想起させるという方法である。いずれも古典作品を尊重した詠法である。
以上の観点に立った時、どのような作品・場面を想定すれば良いのであろうか。「初夏の若葉の木立の中、人々が月を愛で時の移ろいを楽しむ場面」は、種々の古典の中に求められよう。ここでは、その一例として「源氏物語・花散里」の一場面を示したい。
朧月夜内待(兄・朱雀院の実質的后の一人)との密事が露見して、光源氏は東宮(後の冷泉帝・実は源氏の子)を守るためにも、政界から身を引き都を離れることを決意する。そんな折、彼は関わりのあった女性である花散里(夏の女として描かれる)の許を訪れる。途上、中川の辺りで、かつて縁のあった別の女性の家の前を通りすぎていることに気がつく。訪問の意を伝えるが、女はそれを拒む。その後、父・桐壷帝の女御の一人であった麗景殿女御(花散里の姉君・同居している)の邸に着く。(そこで、以下の記述がある)
まづ女御の御方にて(桐壷帝治世の)昔の御物語など聞えたまふに、夜更けにけり。
二十日の月さし出るほどに、いとど木高き影ども木暗く見えわたりて…
(下線筆者)
「夏木立」の語そのものはないが(「源氏物語」全体や「八代集」にもない)、月日はほぼ同じ、光景の素材も共通している。義光が、発句を詠むにあたり、前述したように古典作品の「面影を取」ったとしたら、例えばこの場面を可能性のある箇所として挙げることができよう。
繰り返しになるが、古典和歌・連歌・俳諧(近代の俳句ではない)は、近代人の常識たるリアリズムを基盤とする文学観では、割り切れず、理解しがたいものである。このように考え、いささか恣意的な考えを記してみた。
■執筆:名子喜久雄(山形大学名誉教授)「歴史館だより��29」より