最上義光歴史館
|
山形藩主・最上源五郎義俊の生涯
【あとがき】 本稿は、世に余り語り継がれて来なかった、最上義俊の短き生涯に視点を当て、僅かながらもその実像に迫るべくまとめ上げたものである。その生涯の最大の山場となった改易事件については、最上家自体が真実を語るに足る記録類の持ち合わせも無く、現今の多くの著作は、藩主の無能振りを柱に単なる政争として片付けている感がある。 その中でも、[最上氏の改易について](改稿、『慶長・元和期のお家騒動』福田千鶴)や、山形県下では[山野辺義忠公と最上家の改易](『山辺郷・2号』後藤禮三)などに見るように、この時期のお家騒動の特質を、武家諸法度の立場から武士道の世界にまで踏み込んだ、素晴らしい解釈を披露している。 現在、義俊に対する評価は全く芳しくない。元和五年(1619)の福島正則改易事件に際して、「秀忠公再び源五郎を召して、今後正則家人等野心を挟む処を、汝が才覚にて和議を繕ひ互いに異事無く、彼屋敷を受取る事神妙の至りなり、父祖に劣るまじき若者と褒させられ、長光の御脇差を賜ふ(『中興武家盛衰記』)」という記事から、『山形の歴史』は「彼は大器ではなかったが、小才に長けた人物であったことを伝えている」と表現している。これらが、世間の義俊を評価する一つの指針となっているのかも知れぬ。しかし、この記述のいずこに小才に長けた義俊の姿があるだろうか。このような見方が積み重なり、世間に誤った義俊観を広めた要因となったことは、否定できないだろう。 大沼浮島稲荷神社の石灯籠の銘文から、藩を牛耳る一族・重臣達の狭間に身を閉ざされ、如何ともしょうがない立場に置かれた、義俊の苦悩に満ちた真の姿を見ることができる。これが何故に江戸の町中で、酒食に溺れ不行跡な行為に走らねばならなかったのか。しかし、このような常軌を逸した行動を取り上げ、これから義俊の人格の全てを否定するのは酷であろう。その責任の大半は、義俊を支え藩の運営に当たらねばならない、一族を中心とする重臣達が負うべきであろう。 元和四年(1619)五月、幕政に関与するはどの異色の僧の大僧正天海は、立石寺一山の衰退に心を痛め七ケ条の「立石寺法度」を定めている。その法度状には天海と並び「最上源五郎」の著名が見られる。この年は、他にも慈恩寺本堂の再建、酒田の亀ヶ崎八幡神社の造立などにも名を止めているが、この義俊の天海との連署を別の視点から見ると、これは少年藩主義俊の存在を、公の場に改めて世間に周知せしめたともいえる。 しかし、四年後の元和八年(1622)四月、天海は義俊に立石寺の再興を重ねて委嘱する書状を送った(『東北の一山組織の研究』・『山寺名勝志』)。それは四年前の「立石寺法度」の送致にも拘らず、依然として一山の衰退は改められず、天海は重ねてその再興を求めたものであった。 しかし、この時期は江戸にて最上騒動の審議の最中であった。そこには天海自身の姿も有ったというから(『続々本邦史記』)、幕府と最上家との間の異常な雰囲気は、熟知し ていた筈である。それがこのような時期にも拘らず、何故に立石寺の再興を促すような行動をとったのだろうか。 先述した[細川家史料]を改めて見ると、七月廿八日に最上の公事(訴訟)も終り、国替で決着がついたようだと言っている。ということは、この公事が江戸表にて正式に審議の場に乗せられたのは、年が明けてからであろう。その審議半ばの四月の時点に於いて、天海がこのような措置を採ったことは、未だ審議もさほど進展も見せず、白紙に近い状態であったからではないだろうか。天海自身も、最上家が数ケ月後には羽州を失うとは、思いもよらなかったであろう。 国替で義俊を守り最上家の存続を望んだ「上意」であった。しかし、その意に反し服さなかった一部の重臣達の行動が、結局は「上意」に背く違反行為として、改易処分の決定を見るのである。言うなれば、この重臣達には当初から義俊を排斥し続け、もり立てる意思は全く持ち合わせは無かった。義俊の若き藩主の器量の欠如を補う責務は、当然のこと周りの重臣達にある。しかし、彼等はそれを放棄してしまった。そして羽州の地を失ってしまった。 もうこの辺で、義俊の真実の姿を見極めながら、羽州の大藩三代藩主として新しい義俊像を伝えて行くことが、研究者としての責務であろう。これが義光・家親に対する従来の史観をも併せて見直す機会ともなれば幸いである。 おわり ■執筆:小野末三 前をみる>>こちら はじめにもどる>>こちら |
|
山形藩主・最上源五郎義俊の生涯
【はじめに】 羽州の地に五十有余万石の領国を築きあげた最上義光が、栄光に満ちたその生涯を終えたのは慶長十九年(1614)一月のことだった。それから八年後の仲秋の頃、孫の源五郎が何故に領国崩壊への道をえらばねばならなかったのか。 徳川恩顧の父家親早なる死の後は、家中の源五郎の排斥の気配も、さして感ずることなく幼年の源五郎に家督が許されたことは、それが家中の総意に適うものとは限らないにせよ、本領安堵に落ち着いた現状を見るとき、家中一同も一時の安堵の思いに身を馳せたことであろう。しかし、それも束の間のことであって、次第に高まる一族の重臣達を筆頭にしての抗争が、藩主義俊の家中統率の無能さを、表面に出しての論争に発展するところとなっていった。 義俊の五年余の山形藩主時代は、一片の自己主張すら藩政に反映させることは困難であったろう。それは若年の身に加えて、身辺に漂う悪しき風評の全てが、必ずしも自己の為せる業とは言えないまでも、己の意思の欠如を如実に物語ったものといえよう。祖父義光が営々として築き上げた大藩を守りきるには、若き藩主とそれを支える側の体制では、どうすることもできなかったのである。 元和三年(1617)五月の襲封から、三年後に起きた幕府監察の導入は、それは最上家内での醜聞を白日のもとにさらけだす結果となった。そして改易を迎えるまで、幕府の表向きの政治的な関与は無かったにせよ、絶えず監視下のもとに置かれていたのであった。そして藩内を二分しての対立の構図がやがては幕閣要人達の利害に絡む論争の場へと、発展して行ったという。 遠く中世の代に端を発した最上の家を、破滅の道に追い込んだ原因、そしてその責任は誰が取らねばならぬのか。若き源五郎義俊にその全責任を負わせるのは酷であろう。むしろ己の権力保持に汲々としていた重臣達に、義俊を満足に支え切れなかった責任を問うべきである。 ここでは、最上家側での義俊に関わる記録の希薄さから、その生きざまを満足に語る程に、充実したものを探しだすことは難しい。それでも、何とか義俊の痕跡を捜し求めながら、その生涯をたどって行ってみたい。なお源五郎が家信から義俊に改名したのは、改易後のことであるが、本稿では義俊に統一している。 ■執筆:小野末三 次をみる>>こちら |
|
山野辺義忠とその時代
平成12年は「慶長出羽合戦四百年」に当たり、各地で記念行事が開催されたのは記憶に新しい。それらを通して感じられるのは、近年の最上義光の人物像の再評価である。以前は何故こういう評価になるのか、不思議に思う文言が多かったのである。しかし、山形市・武田喜八郎氏は自筆書状の文体・文言からの人間性への提言があり、最上義光歴史館・片桐繁雄氏は多様な資料を駆使して解明を深め、「山形合戦」の鈴木和吉氏は実地を自分の足で歩きつつの考察等があり、真の人物像が構築されていくのは嬉しい極みである。 平成13年の山辺町では、山野辺義忠の山野辺城入部四百年に当たり、当ふるさと資料館では「特別記念展」を開催して彼の業績と生涯を紹介した。実は、義忠の人物像については義光の場合と同じく一面的で客観性が無く、時代的背景を考慮しない内容で書かれた場合が多かったのである。しかも、それでも当地方では「神様・仏様、そして義忠公」というように、特別に高い地位を与えられてきた独特の存在でもあったのである。 それでは、「義忠」はどういう人物で、時代をどう生きたのだろうか。彼は最上義光の四男として生まれたが、現在の大石田町深堀地区出身の女性を母とし、楯岡城主楯岡氏の庇護を受けて育ったのではないかという説がある(伊藤芳夫氏、後藤嘉一氏)。その縁であろうか、慶長五年、13歳で楯岡城代に就き、翌年、1万9千300石・山野辺城主となって入部している。山野辺家系図は義忠が最上家の證人(人質)として徳川家康の許におもむいたことを記録し、彼に「将来恐るべき怪童である」と言わせたと伝えられている。 彼の領主としての業績のひとつに釣樋堰の改修がある。宮宿方面に西流する鵜川を畑谷の途中で分水して山形盆地に流れるこの堰は、上反田で上江堰(相模地区中心)を開き、沢江堰(若木・古館等)との二つに分け、現・山辺町南部の灌漑用水の安定を考えている。次は寺社への対応で、創設・優遇した寺等、それぞれに使い分け、その位置も分散して城下町としての万一に備え、同時にそれらに繋がる領民の精神生活の統一と安定を図っている。地理的にも周辺地域の中心に位置するので領民の生活の利便を考え商業の繁栄策をとり、後の九斉市につながっている。城下町としての縄張りは近世のことなので比較的単純であるが、道路の三叉路や喰違いの部分があちこちに散在していることにその面影が偲ばれる。それらを総合した城郭は中世においては最上氏に属する「山野辺氏」が当地方を支配し、白鷹丘陵から山形盆地に突き出た形の舌端部の小高地に主郭、その周辺に副郭がめぐらされていたのを、義忠はそれらを本丸、二の丸としつつ、さらに三の丸を計画し、西方は山岳地帯になるので四の塀を備え、全体としてまとまった城下町を形成している。 ここで興味深いのは、義忠の行った業績をさらにスケールを大きくしてみると、義光が全て成し遂げているのである。つまり、偉大な父・最上義光の業績を模範として、領内ですばらしい治世を展開している。だからこそ、長い江戸時代の僅か約20年間の治世なのに、「名君」としてその名が語り伝えられている。最上家では義光の後の家親が頓死して義俊が継いだが、義俊を支持する派と山野辺義忠を宗家にという派に分かれてしまい、「最上百万石」と称される義光の偉業が崩れてしまった。この間の経緯については他の大名家の記録等、「第三者」の資料をもっと検討・研究し、真実に迫る必要があると思う。「武家諸法度」「武士道」等、当時の武家社会の規範を考えると、彼の行動は時代の中で生きているのが分かる。後に水戸・徳川家に客分家老として一万石で招かれ、その子孫は藩主・徳川家と婚姻関係を深め、その補佐役となっている。彼の人生は山形の地では開花不十分でも、水戸・徳川家においては考えられない程の大活躍をしているのである。 ■執筆:後藤禮三(山辺町ふるさと資料館館長)「館だより?9」より |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum



【六 赦免の沙汰ある日まで】
『大日本史料・12編47』の元和八年八月二十一日の条の内から、改易後に福山藩水野家に預けられた柴橋石見に関わる記事の中で、編者の注記として「義俊、家ヲ嗣グコト、元和三年六月ノ条ニ、幕府ヨリ目付ヲ付サルルコト、同六年三月十八日ノ条ニ、赦サレテ徳川家光ニ拝謁スルコト、寛永五年九月十二日ノ条ニ、卒スルコト、同八年十一月二十二日ノ条ニ見ユ」と記している。
現在、この史料の寛永年間の記録は、未だ刊本にはなってはおらず、編者は稿本の寛永年間の記録から義俊を拾い、参考のために柴橋石見の記事の中に、付記したものと思われる。義俊赦免を伝える根本史料については、管見の限りに於いては、この注記の記事のみである。引き続き調査を続けていきたい。
改易処分に付せられた義俊が、一定の期間中は定められた罰則に従わねばならなかったのは当然であり、赦免の日を迎える寛永五年(1628)九月の頃まで、蟄居謹慎の日々を過ごしていたことであろう。しかし、この改易後の義俊の消息については、現今の諸書は次のように述べている。
(イ)義俊は幕府の奏者番に取立てられ、桔梗門内下馬先の屋敷から出勤登城した。
(ロ)江州・参州で一万石の捨扶持を与えられ、幕府の交代寄合に任ぜられた。
(ハ)近江・参河の内で一万石を与えられ、幕府の奏者番に任ぜられた。義俊は封地に赴任せず江戸藩邸に居た。最上家上屋敷は江戸城桔梗門下馬先にあり、外に柳原河岸に中屋敷、本所石原大川端に抱え屋敷があった[注1]。
このような記事を読むと、とうてい事実を伝えているものとは思われないのである。先ずは改易処分を受けた咎人が、早々と将軍と接する奏者番の[注2]に就けるだろうか。また小なりとも一万石の大名が旗本身分の席である交代寄合に組入れられるのであろうか。最上家江戸屋敷は[慶長江戸絵図[注3]]などを見ても大手前に在り、桔梗門内ではない。そして義光が建設した広大な屋敷に、一万石に転落した最上家が引続き居住できるものなのか、常識的に考えてみても無理な話しである。これが現在に至るまでの間、語り伝えられて来ていたのである。
伊達家史料の[伊達秘鑑]は「江戸浅草ノ下屋敷逼塞仰付ラル」と伝えている。この江戸屋敷については、寛永年間の[武州豊嶋郡江戸庄図[注4]]には、大手前の最上屋敷には、最上家退散後の山形に入った鳥居左京忠政の子息の忠恒の名があり、神田川北岸の柳原の一角に、「最上源五郎」と義俊の名が見えている。義光が建設した広大な大手前の屋敷は、皮肉にも鳥居家の占めるところとなった。
それは寛永元年(1624)四月廿九日付の細川忠利書状[注5]を見ると、「井上主計殿へ鳥居左京殿屋敷を被達候、左京殿ヘハ最上屋敷を被遭候、又本上州屋敷をハ、酒井讃岐殿・稲葉右衛門両人被遣候事」と、鳥居家の最上屋敷への屋敷替えを伝えている。このように、最上家は大手前の屋敷を明け渡し、柳原河岸の屋敷に最上家一万石の居を定めた。義光在世当時の最上屋敷周辺には、松平忠輝、青山伯耆、鳥居土佐、土井利勝、板倉周防などの親藩・譜代の屋敷で占められていた。その中で、小大名に転落した最上家が、依然として居を構えて居られる筈はないのである。また当時は浅草川を挟んだ以東の本所・深川の地に、新しく町屋の成立と武家地の増投を見たのは、明暦の大火以後のことであり、義俊の頃までは、柳原河岸の屋敷と二ケ所であったと考えられる。大手前の屋敷を引払った義俊は、この屋敷で歳月を過ごし、そして「長々相煩」と不遇の生涯を閉じた。
改易から一年後の閏八月、先の藩主義俊を気遣ってのことであろうか、最上家の厚き庇護のもとにあった慈恩寺からの便りと進物に対し、義俊は喜びの返書を与えている[注6]。藩主時代の元和四年(1618)八月、「大堂建立山形源五郎殿義光公孫子也[注7]」と、短き藩主時代ではあったが、慈恩寺には大きな事跡を残していた。
以上
遠路態飛札、殊更白布一端給候、喜悦ニ候、何様重而登之節可申候、謹言
最源五
閏八月十三日 家信(花押)
慈恩寺
別当坊 まいる
この書状から、義俊在世の頃の閏八月は元和九年(1623)にあたる。その署名が未だ家信であることから、義俊に改名するのは寛永に入ってからであろう。この改易後の間もない頃の、江戸に於ける義俊の動静を、僅かながらも寒松の日記から知ることができる。
(元和九年)正月小 廿五日 晴 遣益於最源第与野□十大夫、
(注、この年の正月十日、江戸入りした寒松は十二日に登城し恒例の年筮を献上した。そして、弟子の益子を最上邸に遣わした。謹慎中の義俊に対しては面会は許されず、弟子を遣わし恒例の年筮を献上したのであろう)
(寛永元年)正月小 廿一日 快晴 最源五段子(緞子)
(注、この日の記事を見ると、各所より多くの到来物があったことを記している。義俊も緞子を贈っている。おそらくは年頭の年筮献上に対しての礼であったのであろう)
(寛永二年)正月大 十九日 雨 憑侶(託す)庵進年筮於最源、
(注、五日に江戸入りした寒松は、十日に登城し年筮を献上している。そして、十九日に友人で医師の侶庵に託し、義俊に年筮を献上した)
残存する寒松の日記からの、三年間に限られた間の記録ではあるが、罪を得た義俊の世聞から隔離された日々の中で、この一学僧との接触は大きな慰めになったであろう。しかし、寒松自身の直接の訪問は叶えられる筈もなく、周りの者に年筮を託すより外はなかった。父の家親との親交振りを想う寒松にしてみれば、その子の受けた社会的権威の失墜に対して、大いに心を痛めたことであろう。これ以後の死去に至る寛永八年(1631)まで、唯一残されている同七年(欠落箇所もあるが)の日記からは、義俊の姿を見つけることはできない。しかし、寒松を精神的な心の支えとして身近かに感じ、例年の如く寒松の献上する年筮に我が身を占い、明日の日に明るい期待を寄せながら、日々を過ごしていったのではなかろうか。
また日記には、義俊からの進物があった前日(寛永元年正月廿日)に、佐倉藩土井家に預けられた鮭延越前守秀綱から、「鮭庭越州有使侶庵案内、楮(紙)二扁二 一」と、贈物があったことを伝えている。秀綱には元和五年(1619)に屏風画に詩文を書き入れたことがあり、最上家を離れた後も親交を重ねていたようだ。
寛永初期の頃かと思われるが、本城豊前守満茂とその養子(満茂弟の子)主水宛の義俊書状[注8]がある。
改年之為祝儀、鱈給候、目出祝着存候、尚永可申候、恐々、かしく
最源五
正月七日 義俊(花押)
本城主水とのへ
尚々祝儀迄扇子二進之候
新春之為祝儀鴈給候、毎年心付祝儀存候、将亦弥無事之由、弥書二候、尚里見内蔵允申候、恐々謹言
最源五郎
義俊(花押)
正月廿二日
本城豊前殿
御返事
山形藩時代には、家臣として最高の四万五千石を食んだ満茂は、改易後は幕府要人の前橋藩主酒井雅楽頭忠世に預けられた。その多くの旧臣達もそのまゝ召抱えられている。この満茂が最上騒動の際には義俊排斥の側に属していたのか、中立の立場にあったのかは判らないが、零落し果てた若き旧主の現状を察する時、過ぎし栄光の日々に思いを馳せながら、何かと暖かき手を差しのべていたのであろう。義俊の心情いかばかりであったろう。また次の二通の書状[注9]は何を語っているのだろうか。
以上
今度御前相済候付而、書札令得其意候、上様江近日御目見へ可申候旨、必定之程推量有へく候、猶重而可申候、恐々謹言
長源五
九月廿一日 義俊(花押)
本城主水殿
御返事
以上
今度両御所様御目見得申候付而、為祝儀生鮭到来、目出祝着ニ存候、尚里見内蔵允可申候、恐々、かしく
最源五
義俊(花押)
十月十五日
本城主水殿
御返事
この二通の書状の発給年月は寛永五年(1628)であろう。この年の九月十四日は、前将軍秀忠の御台所浅井氏の三年忌であった。この月、幕府は「十二日、幕府、山口重政親子、天野康宗兄弟、故大久保忠隣ノ子教隆・孝信ノ罪ヲ赦ス[注10]」として、恩赦を施している。この中には義俊の名は無いが、この時期に赦されたものと思われる。この中の大久保氏は、忠隣が慶長十九年(1614)に罪を得て改易され、子息ともども諸家に預けられていたのである。この年に赦され旧地に服されるまで、十四年の歳月を要している。義俊の改易事情が異なるとは申せ、義俊の罪に服した期間は短かったようだ。
この九月の書状からは、前橋の本城主水に、勘気が解け将軍への御目見が近いことを伝え、十月の書状は、御目見を果たした後の主水よりの祝儀に対する返書であろう。このように、赦免の沙汰ある日までの間、「捨扶持一万石」の名ばかりの一大名に成り下がった義俊に対し、藩の運営に当たっていた嘗ての重臣連の内、誰がどのような気遣いを示していたであろうか。今のところ本城氏以外には見るべきものはない。
■執筆:小野末三
前をみる>>こちら
次をみる>>こちら
[注]
1、『山形市史・中巻』・『山形の歴史』(川崎浩良)・『やまがた歴史と文化』(後藤嘉一)
2、[明良帯録・前編](『古事類苑』)
「君辺第一之職にて、言語怜利、英邁の仁にあらざれば堪えず」とあり、『時代考証事典』(稲垣史生)には「多くは寺社奉行の兼務、諸大名や旗本が将軍に御礼拝謁する時、奏者番は陪席し姓名と献上品を披露する……将軍の権威を輝かすのが役目であった」とある。改易処分を受けた義俊が、このような役目に就ける訳がないだろう。「交代寄合」にしても、「壱万石未満なれども、身分格式は大名に准じ、その身は在所に居住し隔年江戸参勤交代をなす、ゆえに交代寄合と称す」とあるように、これは大名の地位を失い、五千石の旗本に転落した義智以後の最上氏のことである。山形の先人達は、[最上千種]などの「元和八年八月廿三日御身上相潰候事、江戸より申来ル、近江国五千石被下置、交代寄合衆被仰付候」などの記事から、これらを義俊と解したのではなかろうか。
3、[慶長江戸絵図]
都立中央図書館本のものが利用されている。図中の添書きに「慶長十一丙午年江戸御城立、云々」とあり、慶長十二、三年頃の様子を示すものという。義光在世の頃の江戸屋敷の位置を確認できる。
4、[武州豊嶋郡江戸庄図]
寛永年間の江戸の状況を明らかにしている。現存するものを大別すると、国立国会図書館本と都立中央図書館本の二系統がある。
5、[細川家史料](『大日本近世史料』)
6、[慈恩寺中世史料](『寒河江市史』)
7、[注6]に同じ
8、[本城文書](『山形市史・史料編1』)
9、[注8]に同じ
10、『大猷院殿御実紀・巻12』・『史料綜覧』