最上義光歴史館
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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【鮭延秀綱 (5)】 3、慶長〜元和元年における鮭延秀綱の立場 「奥羽の関ヶ原」とも呼ばれる慶長出羽合戦と、それに付随した一連の庄内奪回戦・仙北救援において、鮭延秀綱は目覚しい活躍を挙げた。最上領内深く上杉軍に侵攻され、山形城が危機に陥った事態にあっては長谷堂城に援軍として赴き、上杉軍の侵攻を阻んだ。長谷堂における鮭延の活躍は、様々な書籍ですでに詳らかにされており、ここで改めて触れることはしないが、軍記物史料が根本史料となりがちなことには十分留意せねばならないだろう。 上杉撤退後に発生した、最上家による小野寺氏へ対する反攻においては、湯沢満茂の麾下として先陣を務めたとされる(注34)が、根本史料がなく記述に全幅の信頼を置くことはできない。『永慶軍記』では、仙北出陣を十月半ばの事としており、長谷堂合戦が十月初旬に終息した事を勘案すれば、慶長五年に鮭延が仙北へ出陣し、作戦行動を遂行できたかどうかは疑問だ。『永慶軍記』の記述は、文禄期〜慶長初期、または慶長六年に行われた最上と小野寺の交戦を混同している可能性があると見るべきだろう。 翌年の庄内攻めにおいては、北口の大将として志村伊豆守と共にその任にあたり、由利郡国人衆の仁賀保擧誠と合力して菅野城を落とすなど庄内攻略に尽力した(注35)。ともあれ、慶長五・六年において秀綱はまさに大車輪の槍働きをしている。 しかし、槍働き以上に、関ヶ原以後の鮭延秀綱を論じる上で最も留意すべきは、慶長末年から元和元年にかけて起こった最上家家督相続に関連する騒動であると考えられる。 その当時、発給されたと考えられる二つの書状を挙げる。 尚々、秋田(より)の書状、本書をハこなたニをかせられ候、うつしを申て、 其地へ被遣候、これを御手前にをかせられ申へく候由御意候、已上、 大坂落人之事、秋田へ被仰越候ヘハ、請取不被申候由、 其段令披露候ヘハ、不及是非候、先々其分ニ被成候而、 可被指置候由、上意ニ候、左候へ者、秋田(より)の書面ニ、 与左衛門尉下人にてハ無之候、頼候而大坂へ罷立候由之條、 是非此方之者ニハ無之事一定ニ候条、依之重而右之使にて候、 尤慥なる使を可被遣之由、被仰出候様子之義、具ニ此使者へ申渡候、 秋田人之義、委口上ニ可被仰候由、御意候、書状をハ大かた申宣候、 恐々謹言、 日野備中守 十一月十二日 光(花押影) 里見薩摩守 景(花押影) 安食太和守 光(花押影) 鮭延備前守 直(花押影) 本豊州様 御報人々御中 (注36) 谷地之者人質ニ付而被入御念、秋田へ両度迄御使被遣様子、 條々承候、秋田へ之御理共無残所候、此上之義、 人頭共相捨候外無之候、其付而、理之様子共書面難申候條、 具彼高寺新左衛門方ニ申渡候、能々被聞召届、御尤ニ候、恐々謹言、 東薩摩守 十一月廿八日 景佐(花押影) 安太和守 光(花押影) 鮭越前守 本城豊州様 愛(花押影) 御報 (注37) 大坂の陣において落ち延びてきた者共の処遇について秋田とやり取りしたことについて、その経過を本城満茂に報告した書状であるが、注目する点は、その発給者と受給者の構成がいかにして形作られたかということであろう。慶長末年から元和元年における最上家中の動静をふりかえってみたい。 事の発端は慶長八年、最上義光の嫡子義康が庄内において殺害された時にさかのぼる。義康は、義光により嫡子の座を追われて高野山へと追放されたが、高野山へ向かう道中庄内にて殺害された。代わって後嗣と定められた家親は小姓として徳川家康の元に居た時期があり、徳川家との繋がりを重視した結果、かかる事態となったものであろう。一説には、豊臣の恩顧を重視した一派が、義康を擁して義光を隠居させようとする動きが見られたため、機先を制して義光が義康を廃嫡したともされる(注38)。義康廃嫡は、最上家内の親豊臣派と親徳川派との相克が表層化したものととらえる事ができよう。 この義康廃嫡・殺害事件は最上家中に大きな亀裂を残す結果となった。その後しばらく、その亀裂は新体制への適応、庄内・由利の新領土経営の影に隠れてなりを潜めていたが、慶長十九年一月に最上義光が没し、家親が家督を相続したのを契機として親豊臣派と親徳川派の対立がふたたび表面化した。家親の家督相続からわずか半年足らず、六月に起こった田川郡添川館主一栗兵部の乱がそれである。 一栗兵部は、「家親の家督相続は最上家を危うくする元であり、その異母弟清水光氏(義親)を擁立すべき」との考えの元、その意を酒田城主志村光惟(光安の子)に諮った。光惟の返答は定かではないが、その後鶴岡城主新関因幡守が自邸に光惟らを招いたことで一栗兵部は疑心暗鬼に陥り、光惟・下対馬守らを襲撃して殺害してしまった。新関因幡守によってすぐに一栗兵部は討たれたものの、その後ろ盾として疑いをかけられたのが、かつて豊臣秀吉の元で人質生活を送り、秀頼の近侍を勤めた経験のある(注39)清水光氏であった。 時あたかも大坂の役直前で、最上家にも動員命令が下ってきており、家親は江戸留守居役を家康から命じられていた。自らが出陣しているそのすきに、光氏が大坂方に呼応して反乱を起こす危険性を考慮した家親は、延沢遠江守・日野将監らに清水光氏討伐を命じたとされる。同年十月に両将は清水城を攻め、光氏を自刃に追いこんだというのが慶長十九年に起こった一連の騒動のアウトラインである。 さて、この騒動時に鮭延秀綱はいかに身を処したのであろうか。事態を静観していたのか、あるいは積極的に家親について活動していたのか確たる史料が無い為判然としないが、その後大阪の役や一栗・清水氏討滅の事後処理を掌握したと見られる重臣として名を連ねている事を考慮すれば、家親派として積極的に運動していたのではなかろうか。 ともあれ、家中の反家親派を沈黙させた家親にとって家中の立てなおしは急務であった。家親は江戸詰めの機会が多かったゆえに、領国経営の中枢を担う者を登用せねばならなかったが、氏家尾張守・志村伊豆守の両巨頭は既に亡かった。その後継であった氏家左近は家内を統括するのには若く、志村光惟は一栗の反乱で死亡していた。また、最上家における重鎮清水氏は前述の通り排除されたし、本城満茂は由利本城にあって由利郡の統治と佐竹氏との連絡を担っていて最上本家の中枢運営に関わることは難しかった。そこで、上級城持家臣の中で家老級として登用されたのが東根・日野・安食そして鮭延らであったと考えられる。 さて、元和元年にはこの四人を中核とする家中意思決定集団があったと見られるが、最上家中の序列が上記の書状より垣間見える。家老連から本城満茂への宛名は「本城豊州様」あるいは「本豊州様」だから、鮭延ら4人よりは本城満茂が格上でとして認識されていたことが分かる。本城満茂は、元は最上家親類衆の楯岡氏であり、最上家中で最も多い四万五千石の知行を由利郡にて給されていた。湯沢に在陣(湯沢豊前守と名乗った時期もあった)して仙北地方の経略に尽力した経歴から見ても、最上家臣筆頭の位置にふさわしい人物だったのであろう。「大坂落人之事」や「谷地之者人質」に関わる秋田佐竹氏との折衝を行う際にも、山形家老連・本城満茂が密に連絡を取り合って対応していた事が上記の書状から読み取れる。さらに言えば、この序列は一朝一夕に形成されたものではなく、義光存命中から既に形作られつつあったのだろう。 ともあれ、鮭延秀綱は、この時点で最上家非親族系家臣の中では最上級に位置し、家親参勤中の留守居として領国経営を担っていたと想定して間違いなかろう。 その後、最上氏の改易騒動が起こるが、その時点の鮭延の詳細な立場、動向については他稿に譲りたい(注40)。 <続> (注34) 『復刻 奥羽永慶軍記』など (注35) 『山形県史 第二巻』(山形県 1985) (注36) 「秋田藩家蔵文書」十一月十二日付日野備中守外連署書状(『山形県史史料編1』) (注37) 「同」十一月二十八日付東根薩摩守外連署書状(『同上』) (注38) 『山形県史 第二巻』(山形県 1985) (注39) 『上山市史』 (注40) 福田千鶴「最上氏の改易について」『日本史研究 361』(日本史研究会 1992)など 鮭延秀綱(6)へ→ |
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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【鮭延秀綱 (6)】 4 鮭延秀綱の官途について ここでは鮭延秀綱が名乗った官途名について考察を展開する。鮭延秀綱は文書史料や軍記物史料において「鮭延典膳」もしくは「鮭延越前守」と名乗っているが、この二つの官途名が時期的にどのように使い分けられているかという事が本項の本題となる。なお、検討に使用した文書史料は「鮭延」+「官途名」の記載がある書状数通、軍記物史料は『最上記』『会津四家合考』『奥羽永慶軍記』『鮭延越前守功績録』などである。 4−1 文書の発給年代と官途名 鮭延秀綱に関して、取り上げた史料には発給年代が明記されていない物も多い。以下では、文書の内容考察と先行研究によりその発給年代を検討してみたい。 以下「典膳」と名乗っている文書をいくつか挙げる。 書状��(注41) 庄中へ鮭延典膳さし越候処ニ、手まへ無人数のよし申候間、 其方之事者彼仁ニさし添、(後略) 文書の内容は「庄中へ鮭延典膳を遣わしたが手勢が不足しているようなので、援軍に行ってもらう。何事もよくよく相談して取り計らうように」ということである。天正九年に鮭延が最上氏の影響下に置かれた後、庄内の武藤氏との抗争中に発給された書状で、発給時期は恐らく天正十年頃であろう(注42)。 書状��(注43) 急度啓之候、仍從伊達大崎へ出張、近日之様に申來候、(中略) 典膳・安食七兵衛付丹与三なとへ、兼而能々相談候而、 少も油断有間敷候、(後略) この書状は、最上義光が受給者の庭月和泉守に対して、「鮭延秀綱や丹与左衛門と協力して真室地方の守りを固めよ」と申し送っている内容の書状である。「伊達大崎へ出張〜」とあることから、天正十六年一月に大崎家と伊達家の間に起こった大崎合戦に最上家が介入した時期に発給された書状であることが見て取れる。 書状��(注44) 急度及注進候、仍其元于今御在堪之儀、万々御気遣奉察候、 (中略)恐々謹言、 鮭延典膳 二月八日 愛綱(花押) 色部殿 御旅所 書状��(注45) 急度脚力到來本望候、如御帋面候、未申通心疎之至候、(中略) 於巨細者鮭典へ及細報候条、不能具候、恐々謹言、(後略) �鵝��瑤蓮�天正十八年から天正十九年にかけて執行された秀吉の東北検地において、検地奉行上杉景勝の代理であったその家臣色部長真と、案内役である最上家の責任者鮭延・氏家の間でやり取りされた書状である。 続いて「越前守」と名乗っている文書の発給時期を検討する。 書状��(注46) 尚々、秋田(より)の書状、本書をハこなたニをかせられ候、 (中略) 大坂落人之事、秋田へ被仰越候ヘハ、請取不被申候由、(中略) 鮭延備前守 直(花押影) 本豊州様 御報人々御中 書状��(注47) 谷地之者人質ニ付而被入御念、秋田へ両度迄御使被遣様子、 條々承候、(中略) 鮭越前守 本城豊州様 愛(花押影) 御報 既出の��・��の書状であるが、内容が関連している事・発給者と受給者がほぼ同一な事・日付が近い事から、同時期に発給された書状であると推測される。本文頭に「大坂落人之事、」とあり、慶長十九年から二十年にかけて発生した大坂の役直後に発給された文書と見るのが妥当であろうか。��の「備前守」は「越前守」の誤記もしくは誤読であろう。 書状��(注48) 已上、如來札春陽之御慶、珎重候、(中略) 鮭越前守 正月三日 愛(花押) 小野寺刑部殿 御報 「小野寺刑部」からの贈り物に対しての礼状である。この宛人の「小野寺刑部」という人物であるが、仙北横手の小野寺氏とは異なる系譜の小野寺氏であるようだ。佐竹氏秋田藩に伝わる小野寺氏系図によれば、小野寺刑部は永禄三年に上野厩橋に生まれ、北条→武田→真田→上杉と主君を替えている。慶長五年には上杉家の家臣という立場にあり、慶長出羽合戦後に最上家に仕えたことが確認できる(注49)。文書の記載内容から発給年代を精密に特定することは難しいが、天正期〜慶長初期にかけて鮭延との交流があったとは考えづらい。やはり慶長五年ないし六年以降、小野寺刑部が最上家に仕官した後にやり取りされたものであると考えた方が自然であろう。 <続> (注41) 「楓軒文書纂所収文書」三月二十二日付最上義光書状(『山形県史史料編1』) (注42) 『山形市史史料編1 最上氏関係史料』 (注43) 「楓軒文書纂所収文書」二月十六日付最上義光書状(『山形県史史料編1』) (注44) 「色部文書」二月八日付鮭延愛綱書状(『同上』) (注45) 「同上」二月晦日付鮭延愛綱書状(『同上』) (注46) 「秋田藩家蔵文書」十一月十二日付日野備中守外連署書状(『同上』) (注47) 「同上」十一月二十八日付東根薩摩守外連署書状(『同上』) (注48) 「本間美術館所蔵文書」正月三日付鮭延愛綱書状(『同上』 (注49)小野末三『新稿 羽州最上家旧臣達の系譜 −再仕官への道程−』(最上義光歴史館 1998) 鮭延秀綱(7)へ→ |
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【鮭延秀綱 (7)】 4−2 軍記物史料における鮭延の官途名 次に、軍記物史料に登場する鮭延の官途名を見てゆく。記事の信憑性という点では多少問題がある史料群である事から、その史料批判は必要であるが、いくつか重要な点を含む史料分野と考えられるため、検討材料として取り上げた。以下では、いくつか軍記物史料を挙げ、各史料において鮭延に対し最後に「典膳」という官途名が使用された部分と、最初に「越前守」が使用された部分を列挙していく。紙幅の都合上、ここでは『最上記』『会津四家合考』『奥羽永慶軍記』の三史料を挙げる(注50)。 ○『最上記』(注51) 「兼山城開退之事」 (前略)国の末に鮭延と申所の領主佐々木典膳、 兼山に在城して(後略) 「庄内退治之事」 (前略)差向けらるゝ人々には、本城豊前・鮭延越前守(後略) 記事内容から「佐々木典膳」は鮭延秀綱と同一人物と見て間違いない。「典膳」という官途名が最後に登場するのは天正九年に鮭延が最上家に臣従する記事である。その後、鮭延秀綱の登場は無く、間をおいて慶長六年、関ヶ原の翌年に最上勢が庄内を総攻撃するというくだりで「越前守」がはじめて見える。 ○『会津四家合考』(注52) 「景勝、陰謀を義光に進めらるゝ事、附義光由来の事」 (前略)去程に、義光打続きて剛敵を亡し、近隣を押領して国中大方 靡き従ひけるに、佐々木典膳とて、其頃十六歳になる若者の、 金山城に居たりけるを、降参せよと、毎度催促せられけれども、(後略) 「景勝、陰謀を義光に進めらるゝ事、附義光由来の事」 (前略)景勝、先づ最上義光の元へ使を立て、爾々の陰謀に、 御同心あるべうもや候、さあらば某、関東へ発向仕る時、 先陣を頼み可申候と、密に申されける、去程に義光、 嫡子義康並に郎従鮭延越前守・楯岡甲斐守(後略) 『会津四家合考』でも、天正九年鮭延臣従の記事が「典膳」が現れる最後の記事である。「越前守」の官途名の初見は、慶長五年の記事である。 ○『奥羽永慶軍記』(注53) 「最上義光・伊達政宗閉門事」 (前略)カゝル処ニ御目付ノ者言上シケルハ、政宗・義光不審ヲ蒙候ニ付テ、 両家ノ郎党延沢能登守・鮭延典膳・遠藤文七郎(後略) 「長谷堂合戦、付鮭登働事」 (前略)扨モ鮭登越前守ハ長谷堂加勢トシテ此城ニ有シカ、(後略) 『奥羽永慶軍記』では、文禄四年に最上家と伊達家が反乱を企てているという流言が流れ、両家が閉門の処置をとられた事件の記事において最後に「典膳」の名乗りが見える。「越前守」の初見は、長谷堂合戦時である。 4−3 整理と考察・仮説 以上鮭延秀綱の官途名が記載されている書状・軍記物史料を挙げた。結果として導かれる傾向は以下の通りである。 ・書状史料では、鮭延秀綱の立場(発給者・受給者・第三者)によって 使い分けがされているわけではない。 ・書状・軍記物史料ともに「典膳」「越前守」を時期的に区別して使用している。 ・軍記物史料において、「越前守」の官途名が初出する時期は 慶長五〜六年に集中している。 では、かかる時期的な官途名の使い分けはいかにして起こったのであろうか。慶長五・六年前後と思われる画期の背景について考察してみたいと思う。 仮説を述べるにあたって、2つの史料を挙げる。 ○『鮭延越前守系図』(注54) (前略)二十三代貞綱 (一本ニ貞茂)源太郎典膳正 天文年中十七才ニシテ鮭延荘ヲ賜ハリ(後略) ○『奥羽永慶軍記』(注55) 「鮭登左衛門尉頓死事」 最上ノ郎等鮭登ノ城主佐々木越前守ハ、度々ノ軍功諸軍ノ上ニ立、 抽賞ハ諸人ノ望ヲフサキケリ、殊ニ一子左衛門尉ハ、 上杉戦ノ時イマタ十五歳ノ初陣ニ、諸人ノ耳目ヲ驚ス、異国ハ知ラス、 本朝近代ノ弓矢ノ少年ニシテ、(後略) 『鮭延越前守系図』は明治後期に正源寺の住職鮭延瑞鳳氏が諸史料を収集して著したものである。同氏の著した郷土史資料の年代考証には大きな矛盾があると粟野氏が指摘しているように(注56)、瑞鳳氏史資料の年代観は充分に信用出来るものではない。ただ、秀綱の父親貞綱の名乗っていた官途名が記載されている数少ない史資料であるというのも事実である。官途名に関して、著述当時は根拠とできるような史料が現存していたのであろうか。 ともあれ、前述したように、鮭延氏の最上地域進出時期ははっきりとしていないが、元々の主家であった小野寺氏が大永・天文頃に最上地域へ進出しているから、鮭延氏も貞綱の代には最上地域の押さえとして進出していたと考えられる。 次に挙げた『奥羽永慶軍記』の記述では、鮭延秀綱の嫡子「左衛門尉」が上杉との出羽合戦において初陣を飾ったとの記載がある。幼名による記載でない事から、年齢を考えれば左衛門尉は慶長五年の直前あたりに元服していた可能性が高い。そこにおいて、秀綱は自分が名乗っていた「典膳」という官途名を元服した左衛門尉に継がせた、もしくは将来的に継がせることを見越して自らの名乗りを変えた可能性をここで提示しておきたい。 言い換えるならば、「慶長五年直前に嫡子左衛門尉が元服するに伴い、典膳の名前を譲った、ないし嫡子と認めて将来的に左衛門尉が家督を継ぐ際に典膳の名前をも継がせる下準備として自らの名乗りを変えた」ということになろうか。 左衛門尉が典膳と名乗った史料は現在発見されてはいない。だが、秀綱が自らを「最上家の中核」であると同時に、父貞綱から「受け継いだ所領の守護者」として認識していたとすれば、最上地域に勢を張った貞綱の名乗りを継ぎ、またその嫡子へも継がせようとした可能性は十分にある。しかし、左衛門尉は家督を継承することなく慶長十七年に死亡しており、主だった書状・記録が存在しない。ゆえに、この仮説を実証する史料がないことは残念と言うほかない。 また、秀綱は元々「源四郎」と名乗っており、秀綱が「典膳」を名乗り始めた時期も定かではない。貞綱より家督を相続し、真室城の主となった際に「典膳」と官途名を変更した可能性も同時に指摘しておきたい。 <続> (注50) その他、『羽陽軍記』『最上斯波家伝』『鮭延越前守公功績録』 『最上合戦記』等も検討材料とした。 (注51) 『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』(山形市 1973) (注52) 『同上』 (注53) 『同上』 (注54) 『新庄市史 史料編上』(新庄市 2001) (注55) 『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』(山形市 1973) (注56) 「出羽国鮭延郷について ―鮭延氏関係史料の再検討― 下」 (『山形県地域史研究』9号 山形県地域史研究協議会 1983) 鮭延秀綱(8)へ→ |
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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【志村光安 (2)】 前述したように、十六世紀中盤から慶長六年に酒田へ移るまでの動向を追う場合、軍記物史料に頼らざるを得ない状況にある。信頼性に制限のある史料群ではあるが、可能な限り、その動向を検討したい。まず検討したいのが、光安の名乗った官途名である。多くの軍記物史料においては、志村光安と思われる人物が「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」という二つの官途名を使用している。この二つの名前が真に同一人物の名であるのかをまず確認せねばならないだろう。 時期は下るが、書状史料における光安の官途名はどうなっているだろうか。慶長期以降の書状史料を見ると、 御書中披見、祝着之至候、・・・(中略)・・・恐惶謹言 志伊 極月八日 光安 大津助丞様 御報 (注2) とあり、志村光安が伊豆守の官職名を用いていたのは確かなようである。また、他の史料を見る限り、光安の官職名は一貫して「伊豆守」と記されている。しかしながら、光安が「九郎兵衛」と名乗っている書状史料は一通も見当たらない。それでは、軍記物史料での記述はどうであろうか。目に付くのは、『最上記』と『羽源記』の記載内容である。 『最上記』城取十郎討捕給事 去程に其頃出羽国谷地と申所に、(中略) 此も義光公聞召、 志村九郎兵衛後に号志村伊豆守使者として、最上の家の系図并白の 大鷹一居・御馬一疋、月山打長身の鑓十丁相揃進上有りけるに、… (注3) 『羽源記』巻之第二 城取十郎討捕謀略之事 其頃最上谷地と申す所に、城取十郎武任と申屋形あり、(中略) 家の子に志村九郎兵衛と申者、後は伊豆守とて酒田の城主となりしを 使者として、…(注4) とあり、この二つの軍記物史料においては「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」は同一人物と扱って物語を記している。また、他の書軍記物史料の記述とこの二つの軍記物史料の「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」の登場場面・活動内容を見比べてみる限り、そのほとんどが合致している。よって、軍記物史料における「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」は同一の人物「志村光安」としてとらえてよいだろう。 ただし、注意しなければならないのは、光安の嫡子光惟も「九郎兵衛」を名乗っていたということで、これは書状史料に明記されているから確かな事である。 殿様御遠行ニ付而、態飛脚差越候事、令祝着候、 即頓而下候時可申理間、不具候、恐々謹言、 志九郎兵衛 ニ月六日 光惟 永田勘十郎様 (注5) 同様に、『奥羽永慶軍記』においても、 『奥羽永慶軍記』庄内城主数代替ル事、付御静謐事 羽陽田河・飽海ノ両郡ヲ、前代ヨリ庄内ト号ス、 (中略、以下庄内の支配者が列挙される) 志駄修理亮 慶長五年迄 志村伊豆守 最上ノ郎党、同十九年迄 同 九郎兵衛 同元和八年迄(注6) と、志村光惟が九郎兵衛を名乗っていた事を記している。ただし、光惟は慶長十九(1614)年に一栗兵部の手によって襲殺されており、元和八(1622)年まで城主であったとしている記事内容の信頼性は低い。ともあれ、軍記物史料における「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」は同一人物とみなしてよく、またその子光惟も「九郎兵衛」を名乗っていたことは確かである。志村光安が史実の上で「九郎兵衛」を名乗っていたかどうか、書状史料の上からは明らかにする事はできないが、親子で官途名を継承する事例はありふれたことで、光安も、伊豆守を名乗る以前は「九郎兵衛」を名乗っていた可能性が高い。 <続> (注2) 「大津文書」十二月八日付志村光安書状(『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』) (注3) 『最上記』城取十郎討捕給事(『同上』) (注4) 『羽源記』巻之第二 城取十郎討捕謀略之事(『同上』) (注5) 「永田文書」二月六日付志村光惟書状(『同上』) (注6) 『奥羽永慶軍記』庄内城主数代替ル事、付御静謐事(『同上』) 志村光安(3)へ→ |
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◆◇◆最上家親という人物◆◇◆
今年(2001)1月10日の山形新聞で、最上家親の京都参陣を証拠だてる資料の発見が報じられた。 慶長8年(1603)卯月(4月)11日付けで、家親から西村山地方の土豪、堀弥三郎にあてた書状である。所蔵者は朝日町の五十嵐義一氏、解読は鈴木勲氏。 内容は「先年京都まで陣参してさまざま奉公してくれた恩賞として、居館の普請を許す」というものである。この年、家親は22歳。最上義光在世中は寒河江方面に領地を与えられ、「寒河江駿河守」を名乗っていた一時期があった。もちろん、実際に寒河江に住んでいたのではあるまい。 ところで、最上義光亡き後を嗣いだ家親については、一般にはあまりよく知られていない。それも無理のないことで、義光という大人物の光芒に幻惑されて周囲の者は見えにくいし、若いときから家康・秀忠に近侍して江戸住まいが多く、山形城主であった期間がわずか3年3ヶ月という短期間であったことも、知られにくい理由であろう。 だが、家親もなかなか華々しい存在だった。「家康」の名の一字をもらったこと、秀忠に従って信州上田攻めに参加したこと、さらに琉球王の案内役、朝廷から摂関家が江戸に来たときの披露役大阪攻め(冬・夏の陣)での江戸城警護と、重要な役目をこなしている。残された資料からは芸術文化のたしなみが豊かだったことも窺われ、大大名最上家の貴公子といった観がある。 だが、家親については、むしろ最上家改易の遠因をなすとされるその最期が、話題になることが多い。 亡くなったのは元和3年(1617)3月6日。36歳。文献では「頓死」つまり「急死」と書かれている。「在府して芝居を見ているとき」と『徳川実記』にはある。一方徳川秀忠からは病気見舞いの手紙をもらっている。こうした状況から推測するに、食中毒のようなにわかな病気で、江戸で亡くなったのであろう。 後継ぎの家信はまだ12歳という幼さ、一族重臣の間でごたごたが起こってしまう。要するに、政権をめぐる抗争である。そういうもめ事には、揣摩憶測がつきもので、家親は政敵から毒殺されたのだと言い出した一族家老もいた。幕府で調べたところ、これは根拠なしと判定されているから、やはり死因は急病だったろうと思われる。 世間は、名門の崩壊には、とかくよからぬ噂をたてたがる。女に殺されたとか、狩りの帰りに毒を盛られたとか、噂に尾鰭がついて勝手に話が広がり、妙な方向に発展し、それが真しやかに語られることにもなる。 従四位下侍従兼駿河守、最上家親。若くして逝った山形城主を、もう一度見なおしてみたいものだ。 ■執筆:片桐繁雄「歴史館だより�癸検晋Φ耆湘�1」より |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum



【鮭延秀綱 (4)】
2、仙北紛争期(天正末)における鮭延秀綱の動向
天正十八年は最上家にとって一つのターニングポイントとも言うべき年であった。小田原攻略を以って抵抗勢力を沈黙させた秀吉は、その後奥羽諸大名に対する知行割を行った。最上家はその時点で所領を安堵されたと見られるが、それは最上家が全国的な統一政権組織の一部に組み込まれた事を意味した。さらに秀吉は、前田利家・上杉景勝らに奥州仕置を命じ、奥州の内陸中央道沿い、日本海岸沿い、太平洋岸沿いの三手に分けて仕置軍を進発させた。最上家は中央道の先鋒を命ぜられ、鮭延は中央道仕置軍を先導する事になった。仙北情勢に精通し、幾度も仙北地方に攻め入った経験のある鮭延秀綱は、仕置軍の先導役として最適の人物であっただろう。
九月に入ると、検地に反対した庄内・由利・仙北の国人・土豪衆が一揆を起こして検地の推進を阻む事態となった。仙北進出の機会を窺っていた義光にとって、この一揆鎮圧は恰好の大義名分となったのである。そもそも、惣無事令下にありながら天正十六年に庄内を上杉に切り取られた上、天正十八年に上杉景勝に対して秀吉の朱印状(注20)が与えられ上杉家の庄内支配が追認された事で、最上家の庄内領有は事実上不可能となっていた。ゆえに、最上家がこれ以上領土を拡張するためには、当時未だ支配体制が脆弱であった仙北小野寺領に食いこむ必要があったのである。
仙北検地における鮭延秀綱の動向及びその周辺の事態の推移を簡単に追ってみると、まず鮭延は一揆鎮圧を名目に寒河江光俊を伴って湯沢城に入城したようだ。十月廿二日付の文書に鮭延の湯沢在陣が記されているので、湯沢入城はそれ以前に行われたものとみられる。
別而申上候、明日豊後・大和方可指越申候へ共、一刻も急申度候間、
申事候、湯澤地ニ鮭延殿在陳条、就之地下之者共、機遣令申候、
色邊殿より御音信候而被罷帰候様ニ御取成可被成之候、
萬々重而可申上、恐惶謹言、
横手宿老中
十月廿二日 惣判
康道様へ
参人々御中 (注21)
それと前後して、日本海側を進んだ上杉・大谷軍も庄内から由利を経て仙北に入った。上杉勢は大森城に入城し、色部長真がその責任者となっている。最上勢の湯沢在陣に危機感を抱いた小野寺家老達は、当主小野寺義道の弟康道をして色部長真に鮭延の退去を働きかけたことがこの書状から読み取れる。なお、小野寺は寛永十年に幕府に対して提出された書き上げにおいてその不当性を主張しているが、その書付によれば、鮭延は「湯沢城の城番が一揆を起こした」という大谷吉継の言を根拠として湯沢城に入ったようである。ともあれ、小野寺からの通達を受けた色部長真は、鮭延に幾度か退去する旨伝えたようであるが、残念ながらその書状は残存していない。ただ、その伝達に対する鮭延の返答が計三通残っている。十月廿三日付の返答(注22)においても「大谷吉継の指図によってやむなく在陣した」との主張があり、実際にそういった命令があったかどうかは不明であるが、鮭延が検地代官の権威を大義名分とし湯沢に駐留したことは確かなようである。
この数度にわたる色部の働きかけに鮭延は態度を軟化させ、同月廿五日付の色部長真に対する返答(注23)では「近く帰国する」と伝えるに至った。この頃になると仙北の一揆も下火になったと見られ、湯沢在陣の理由を失いかけた鮭延ら最上勢はほどなく帰国の途についたようである。しかし、その後、上洛中の義光による工作が効を奏したとみえ、翌天正十九年一月に発給された小野寺氏に対する宛行状(注24)には「上浦郡三分二、三万千六百石」との記述があり、のこり三分の一は最上氏に対して与えられたものと考えられる。秀綱はこの新領地の管轄を義光から任せられていたようで、上浦一郡が最上氏の所領になった旨郡内に伝達する事を色部に対して知らせている(注25)が、色部は京都及び大谷吉継よりその報が無いとしてそれを否定した(注26)。当地の土豪衆もその報せに驚き、小野寺領内に退去する者が少なくなかったという。それに対して鮭延秀綱・氏家守棟は、色部長真にその対策を講じるよう主張している(注27・28)。公権力を背景に交渉を進める最上に対し、ついに色部は屈し、その土民達の帰還を約定したのである(注29)。だが、この強硬な上浦郡(雄勝・平鹿郡)領有が火種となってしばらくの間仙北地域は最上軍と小野寺軍の衝突の舞台となるに至った。
ここにおいて、鮭延秀綱は奥州検地紛争において一貫して主責任者の立場にあった事が注目される。最上家にとって仙北問題は当時の最重要案件とも言うべきものであり、一連の紛争において一時的とはいえ小野寺氏の重要拠点であった湯沢城を占拠し、翌年には上浦郡の領有を色部―上杉氏に認めさせた功績は最上家にとって多大なものだったと推測される。鮭延秀綱は、この時点で仙北問題のスペシャリストとして最上家内に大きな存在感を示していたと見てよいのではないだろうか。
その後幾度かに渡って繰り返された仙北侵攻においてもその認識は継続しているように見える。文禄以後、最上勢は数度にわたって仙北へ侵入している。根本史料は存在せず、『奥羽永慶軍記』の記述を頼りにせざるをえないが、
最上義光は山北小野寺義道を討んと、幾度か勢を催し攻るといへども、
(中略)
左あらば勢を指向んと、三男清水大蔵大輔義之・楯岡豊前守義満ヲ
大将として、相従ふ兵には一族延沢遠江守光信・長瀞内膳忠・
上野山越後守・鮭延典膳・(後略)(注30)
(前略)去程に最上の先手鮭登典膳四ッ目ノ旗押立、(後略)(注31)
天正末か文禄初めかは判然としないが、いずれにせよ清水・楯岡の最上一族衆が大将を務め、鮭延が先陣を承っていたことがわかる。年次は下って文禄四年の最上勢による湯沢攻めの記事には、
文禄四年八月最上義光の臣鮭登先達て下りけるが、
(中略)先是を攻んとて、最上よりの大将に楯岡豊前守、
先手は鮭登典膳其外小国・延沢(後略)(注32)
とあり、文禄四年の仙北攻めにおいても楯岡が大将、鮭延が先陣という形は変わっておらず、数度に渡ったとされる仙北侵攻では、かかる人材運用が固定化された可能性を指摘できる。この点から見ても、文禄年間に義光は、鮭延秀綱に対して、最上家の仙北問題における最重要家臣の一人として位置付けを認めていたと考えられるのである。
余談となるが、興味深い記述が『奥羽永慶軍記』「最上義光・伊達政宗閉門事」に存在する。豊臣秀次に連座させられた駒姫の死を恨みに思った最上義光が、伊達政宗と語らって秀吉に対して謀反を起こそうとしているという讒言があり、最上・伊達が閉門させられたという記事であるが、その中で、「両家の郎等延沢能登守・鮭登典膳・遠藤文七郎・原田左馬介・片倉小十郎等の傍若無人の者共一揆を起し、所々の手を定め京・大坂を焼払ひ、」(注33)という噂が京・大坂の民衆達の間に流れた、という記述がある。この記述が事実かどうかは定かではないが、遠藤文七郎・原田左馬介・片倉小十郎といえば伊達政宗の側近であるから、もし実際にこのような噂が流布していたとすれば、鮭延は当時の世間一般の認識として「最上家屈指の家臣」であると同時に「延沢能登と並ぶほどの剛勇の持ち主」と見られていたのであろう。
<続>
(注20) 「上杉家文書」八月一日付豊臣秀吉朱印状(『山形県史史料編1』)
(注21) 「色部文書」 天正十八年十月廿二日付横手宿老中書状案(『同上』)
(注22) 「同上」 天正十八年十月廿三日付鮭延愛綱書状(『同上』)
(注23) 「同上」 天正十八年十月廿五日付鮭延愛綱書状(『同上』)
(注24) 「神戸・小野寺文書」天正十九年一月十七日付豊臣秀吉宛行状(『秋田県史史料 古代・中世編』)
(注25) 「色部文書」 天正十九年二月八日付鮭延愛綱書状(『山形県史史料編1』)
(注26) 「同上」 天正十九年二月十一日付色部長真書状(『同上』)
(注27) 「同上」 天正十九年二月二十六日付氏家守棟書状(『同上』)
(注28) 「同上」 天正十九年二月二十八日付鮭延愛綱書状(『同上』)
(注29) 「同上」 天正十九年二月晦日付色部長真書状(『同上』)
(注30) 『復刻 奥羽永慶軍記』 最上勢、山北境を攻破るの事(無明舎出版 2005)
(注31) 同上
(注32) 『同上』 湯沢落城の事(同上)
(注33) 『同上』 最上義光・伊達政宗閉門の事(同上)
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