最上義光歴史館
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【伊達政宗/だてまさむね】 〜義光の妹義姫の子・独眼竜〜
小説になり、ドラマになった仙台藩祖、独眼龍・伊達政宗。 ここで取り上げるまでもない超有名人だが、最上家との深いかかわりから見て、やはり抜かせない人物だ。 最上義光の妹、義姫の子、つまり伯父甥の関係になるわけだが、二人の交流となるとあまり知られていないようだ。しかし、さすがに血のつながった伯父と甥、こまやかな心の交流のあったことが、『奥羽永慶軍記』に書かれている。 十五歳の政宗が義光に和歌をおくった。 恋しさは秋ぞまされる千歳山の阿古耶の松に木隠れの月 これに対する義光の返し。 恋しくば訪ね来よかし千歳山阿古耶の松に木隠るる月 政宗は永禄10年(1567)8月3日、米沢で生まれた。伊達氏16代輝宗の嫡子である。湯殿権現の申し子であるとの伝説をまとった生誕で、幼名を梵天丸といった。幼いときに疱瘡を病んで片方の目が悪かったことは、よく知られている。 18歳で、家督をつぎ、伊達家17代の当主となる。 翌年、政宗は大内定綱を攻め、その属城小手森城を攻めて勝利を収めたとき、さっそく義光に戦果を報告した。 「敵兵はもちろん女子供まで千百余人を撫で斬りにした。このぶんなら関東まで攻め入って領分を広げることもたやすいこと」と、いかにも誇らしげだ。 「撫で斬り」とは、無差別の皆殺し。当時の世相の中で、全国的には必ずしもめずらしいことではないが、奥羽地方では今までになかった乱暴さだ。もっとも、このときは義光からも援軍が出ていたので、そのお礼を兼ねての戦勝報告だったらしい。 同じ年の10月には、父・輝宗が畠山義継に拉致されて連行されたとき、これを追跡し、敵将もろとも父をも銃撃して死なせてしまった。これまた乱暴なやりかただ。 曾祖父稙宗のころ(1500年代初期)から始まった領土拡大政策を受け継いで、政宗は南進して大内・石川・白川や会津の芦名などの諸大名を攻め立て、北に侵攻しては葛西や大崎を併呑しようとした。周辺の諸大名はこれを警戒して同盟してこれに対抗する。 南の方では、常陸の佐竹義宣が中心になった。北の方では最上義光が中心となった。いわば、危険な伊達から連帯して身を護ろうとしたわけである。 わが甥ながら、義光としては止むを得なかったに相違ない。 境を接する戦国大名同士、最上と伊達が競り合うのも仕方ないことだった。 義光の妻の実家大崎家に政宗の矛先が向けられたときには、義光は伊達との境界に布陣してこれを牽制する。あわや全面対決かと思われたところに義姫が割り込んで、和平にこぎつけたこともあった。 徳川家康は心配して、義光と政宗に「親類同士、仲良くしてくれ」と手紙をよこしている。 天正17年に、有名な摺上原の合戦に打ち勝って会津の芦名氏を放逐した政宗は、奥羽南部の覇者となるが、翌年豊臣秀吉による小田原征伐に参戦して以後は、豊臣政権に従属することとなり、領土拡張戦はストップせざるをえなくなった。小田原参戦に先立って、政宗が弟小次郎を斬ったが、伊達家の内部には、なんらかの複雑な事情があって、そうせざるをえなかったのだろう。ただし、母義姫が政宗を毒殺しようとした云々の話は作り話であったことが、仙台市博物館長・佐藤憲一氏の研究から明らかになっている。 その後、奥州北部で九戸政実が乱を起こしたときには、蒲生氏郷とともに乱の鎮圧におもむいたが、政宗はあまり熱が入らなかった。氏郷は、政宗の動きに不信の念をあらわにする。 秀吉もまた政宗を警戒する。その結果、現福島県中央部、宮城県南部から本領だった米沢地方までも取り上げられ、岩出山に移転させられてしまう。 もはや勝手な動きができない情勢であることを知って、政宗は、中央政権の実力者と密接な関わりを持とうと努める。その一方、「奥羽の覇者・伊達政宗」を積極的にアッピールするようになる。派手なことの好きな秀吉は、だんだん政宗をひいきするようになる。 彼が朝鮮侵攻のために京都を出発するときには、軍兵の装束があまりにも奇抜で、見物の都びとたちが驚きの声をあげて見送ったそうである。朝鮮に渡ってからの働きも、上方大名衆からまけまいと懸命だった。その一方、悪戦苦闘のさなかに母親からねんごろな手紙と黄金三枚をおくられたときには、感激の涙あふれんばかりの返事を書いた。(「義姫」の項参照) 帰国した政宗は、秀吉がもよおした吉野山の観桜会に参加を許されたが、これは28歳の青年大名政宗としては、異例破格の待遇だった。31歳で、右近衛少将。秀吉亡きあと、徳川家康の息子にわが娘五郎八姫を縁約。 慶長5年(1600)、関が原合戦の東北版とも言われる「慶長出羽合戦」で、上杉軍が最上領内に侵攻してきた時、最上義康が援軍を求めて政宗のもとに走る。政宗は援軍派遣を了承する。伊達政景のひきいる援軍が山形に来たのは、9月22日。不安にかられていた義光と最上の人々にとって、これは非常な喜びだった。 上杉軍が山形周辺から撤退した10月下旬、義光はみずから政宗の所におもむいて、したしく援軍派遣への礼を述べた。よほどありがたかったのだろう。 徳川家康は、この戦いの前に、政宗を味方につけるために有名な「百万石のお墨付」を出していたが、これは反古(ほご)にされた。政宗はその後何回かの加増で2万石を増されただけだったが、それでも62万石となり、義光は長年望んでいた庄内地方に秋田南部の由利郡をも与えられて、57万石の大名となった。伯父と甥、親戚同士の両家が、めでたく大大名として東北に相並ぶこととなったのである。 両家ともに、地域の産業振興や文化発展のためにさまざまな施策を行なう。 だが、残念ながら最上家は、わずか20年にして、内部分裂を理由に改易の憂き目にあう。義光の後を継いだ家親が36歳で急逝した後、山形藩主となった12歳の家信(義俊)は、家臣団をおさえきれなかったのである。 それに対して、政宗は一族家臣をしっかりと掌握した。一家、一族を中核とした家格制などで序列を明確にして混乱や分裂を未然にふせいだ。本拠地仙台には新たな城郭を築き、城下町の建設を進めた。のみならず、視野を世界に向けて、慶長18年(1613)には支倉常長をローマに派遣している。時代を先取りした斬新な企てであった。 最上改易(元和8・1622年)のとき、政宗は特別に編成した部隊を派遣して、山形にいた母お東の方・義姫を仙台に迎え入れた。時に政宗56歳、母は75歳だった。 政宗は60歳のとき、従三位中納言に叙任。将軍、秀忠や家光に対しても遠慮なくものを言えるという点では、彼が一番だったとも言われる。剛毅さにおいてすぐれた人物であったが、古典文芸の素養や和歌・漢詩、書にもすぐれた才能をもっていた。 「馬上少年過ぎ 世平らかにして白髪多し 残躯天の許すところ 楽しまずんば是いかん」 「馬上で戦場をかけまわった若い時代、 今や世は泰平、わが身は白髪、 老いた身体は天命のまま、 楽しまずして、何としようぞ。」 晩年、生涯を振り返って詠じた漢詩である。 寛永13年5月24日没。70歳だった。 ■■片桐繁雄著 |
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【義光の妻たち� ‖膾衂弯�/おおさきふじん】
「矢が飛ぶのは弓の力、雲が走るのは龍の力、男がことをなすのは女の力によるのだ」日蓮上人はこんな意味のことを述べている。歴史の表面には表れなくても、女性の力の大きさは、だれも否定できないだろう。 最上義光が偉大な業績をなしとげた陰には、彼を支えた女性がいたはずである。 正室は、奥羽の名門大崎家の娘とする『最上家譜』その他と、近隣の豪族天童頼貞の娘とする『光明寺本系図』等があって、いまひとつはっきりしない。 郷土史家、故川崎浩良氏は、大崎夫人を正室と見ておられる。この夫人が長男義康や駒姫など何人かの子をもうけ、また夫とともに会津に出かけて豊臣秀吉に謁したり、京都にのぼって京文化を楽しんだりしたという(『川崎浩良全集4』)。 一方、山形大学教授で宗教史の権威、松尾剛次博士は、最上系図や山形寺町の成立過程、浄土真宗の弘通状態、さらに当時の女性の信仰・帰依などの問題を研究されて、天童氏の出とするほうが妥当であろうとしておられる(論文「山形寺町の形成」<平成十五年度・山形大学公開講座報告集所載)。 いずれにしても、義光の長男義康が生まれたのが天正3年(1575)であるから、正室は、これ以前に嫁いだはずである。それが天正初めのこととすれば、山形は天童・中野グループと激しい抗争を繰り広げていた真っ最中となる。はたして天童家から入ったのかどうか。 最上家研究では大きな問題だが、これは今後にゆだねることとして、ここでは従来山形で語られてきたように、正室を大崎夫人として述べてみたい。 義光の子は、義康の後に松尾姫、駒姫、家親、光氏(後、義親)とつづく。その何人かが、大崎夫人の子ということになるだろう。 近江八日市市の最上家菩提寺、曹洞宗妙応寺の記録や『最上家代々過去帳』によると、文禄4年(1595)8月16日、「山形殿内室、奥州大崎家女」が亡くなったという。法名は「月窓妙桂大禅尼」。この日は、駒姫がはかない最期をとげてからわずか14日後である。ちょうど二七日(ふたなのか)めにあたるところから、夫人の死は、悲しみのあまり自ら命を断ったのではないかという人もあるほどだ。 夫人を開基とする寒河江市の正覚寺には別伝がある。彼女は義康の生母であり、一時寒河江を領した義康と居をともにし、この地で亡くなったという。はたしてどちらが正しいか、これもはっきりしない。正覚寺には彼女が愛用したと伝える調度品が収蔵されている。 また、山形市内専称寺は、駒姫の菩提寺として知られているが、この寺には慶長2年(1597)に義光が寄進した「出羽守内室像」といわれている画像が秘蔵されている。一般にはこれが大崎夫人であり、駒姫画像といっしょに寄進されたところから、駒姫を生んだ女性だとされている。品のいい尼僧姿を描いた桃山時代絵画として、県文化財に指定されている。 名門大名最上家がどこから妻を迎えたかという、基本的なことがらさえ、いまだに確定できないのは、少なからず残念なことだ。 ■■片桐繁雄著 |
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【義光の妻たち�◆‥憩孤弯�/てんどうふじん】
山形の北隣の領主天童氏、里見家は、舞鶴山に城を構える有力な豪族だった。室町時代中期には山形と並ぶ大名とさえ見られていた。義光がこの家から側室を迎えたのは、当時としては当然の政略結婚であった。 天正5年(1577)、義光が最上川下流方面へ進出しようとしたとき、天童氏を中心とした「最上八楯」の豪族グループは、同盟を結んでこれに抵抗した。さすがの最上軍もこれを攻め崩すことができず、一旦は和睦をしたらしい。和睦を維持するために、天童からこの女性が入ったのであろう。 和泉守天童頼貞の娘であり、頼久(頼澄とも)の姉だという。父頼貞は、山形と和睦成立中の天正7年に没し、そのあとをまだ若かった頼久がつぐ。 夫人は、天正10年に義光の三男光氏(後清水氏を嗣ぎ、義親と改めた)を生み、その年の10月12日には亡くなってしまう(大蔵村清水興源院の記録)。産後の肥立ちでも悪かったのだろうか。おそらくは、20歳代の若さだったにちがいあるまい。 最上と天童を結びつけていた彼女がいなくなると、両者の関係はふたたび悪化する。政略結婚であろうとも、この女性は両家の仲をやわらげる大きな働きをしていたのである。 そのころは、野辺沢氏の離反で、天童氏を盟主とする「最上八楯」同盟も崩れており、天正12年10月の最上勢攻撃のまえに、天童方はもろくも敗れ去る。頼久は山を越えた奥州の国分能登守(母の実家)を頼って逃亡する。 義光はしかし、これを追撃しなかった。逃げ去るのを黙認した。 無駄な戦いは避けるべしという義光の信念からか、それとも亡き天童夫人への思いやりからであろうか。おそらくその両方だったかと思われる。 義光は、城跡の山頂に勝軍地蔵をまつる愛宕神社を再建した。これは、もともとは天童氏が尊崇した神社である。「最上氏も天童氏も、ともにこの地の主として生きてきた。敵対したとはいっても、憎しみはない」という義光の考えによるものと語られている。 慶長14年(1609)6月24日、清水城主となっていた光氏は、愛宕神社に石灯篭を寄進した。この年、年令は28歳ごろと推定される。 「光氏祈念成就之所」として、「矢口左衛門尉・角川小源太・角河治部少輔」の名も彫られている。名字から見て、彼らは現最上郡、新庄市を中心とする地域の有力な国人層と思われ、側近として光氏を支えていたのであろう。 ところで、光氏の「祈念」とは、何だったろうか。生母の実家である天童氏が逃亡し去り、長兄・義康は父の不興をかって廃嫡のうえ、不幸な最期をとげた。関連して一部家臣が国外に退去する。父は、一族・重臣を領内の要所に配置し、領国支配の体制を固めつつあった。どこか不安な雰囲気をはらむ情況のなかではあったが、自分は清水という最上川中流の重要拠点の城主に抜擢され、2万7千3百石という大領地を与えられた。青年光氏にとって「祈念成就」すなわち「願いがかなった」とは、このことであろうか。 彼は、城地清水の興源院を母の菩提寺として、位牌を安置した。 安定した地位を得たとき、光氏が母のふるさと天童の鎮守愛宕神社に、感謝の意をこめて寄進したのが、この石灯篭かもしれない。そう考えると、この神社に寄進した理由が理解できるような気がする。 ■■片桐繁雄著 |
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【義光の妻たち�� 清水夫人/しみずふじん】
先に天童夫人を失い、13年後の文禄4年(1595)には、大崎夫人の急死にあう。義光の落胆は想像にあまりある。 とは言っても、壮年の出羽守山形城主に正室がいないのも困る。そこで白羽の矢を立てられたのが、清水第六代城主(現最上郡大蔵村)清水義氏の一人娘であった。 清水氏は、現最上郡南部を領する有力な豪族だった。川が交通路として大きな役割をもっていた時代、最上川中流の清水は、軍事的にも経済的にも重要な所だった。 ここから下れば庄内地域となり、海運の根拠地である酒田、そこから日本海を経て上方へとつながっていく。山形の最上氏にとって、なんとしても自分の支配下におきたいところ、それが清水だった。 最上家が、一族成沢兼義の一子満久を清水に封じたとする『最上系図』を信じるなら、室町中期の文明年間(1469〜87)には、最上の勢力はここに及んでいたことになる。 清水氏は、この満久を祖として義氏まで六代にわたって、ここの城主だったとされるが、義氏のころは庄内の武藤義氏と山形の最上義光という、両強豪のはざまにあって苦難の時代があったらしい。 天正14年(1586)10月18日、義氏が没したとき、あとに男児がなかったため、その名跡を嗣いだのが、義光の三男光氏(のち義親)であった。清水家にはこのとき11、2歳の一人娘がいたとされ、義光が大崎夫人を喪ったころは、20歳前後の妙齢だった。 名を「お辰」といい、うら若く美しい盛りだったに違いない。 彼女が義光の室に入ったのは、はっきりしたことは不明だが、慶長の初め(1596〜)、義光50歳過ぎでもあろうか。「清水夫人」がこれである。 寂しい暮らしをしていた義光にとって、春の日がさしこんだような明るく楽しい思いがしたのではなかったか。そのうちに、子供も生まれたのだろう。 義光の子らの生年をみると、大崎・天童(そのほか?)夫人の所生と考えられる6人、1575年…義康 78年…松尾姫 81年…駒姫 82年…家親・光氏(義親) 84年…竹姫 88年…光茂(義忠)と、ここまでは、間隔が四年以内だ。ところが、この後は11年の間隔をおいて、1599年=光広(上山)、1602年=光隆(大山)の二人が生まれている。年若い清水夫人の子であろう。これに加えて、阿波徳島の里見家系図に「(里見親宜奥方)最上義光長女、寛文4年(1664)8月6日逝去」とある女性も、没年から推測して清水夫人のなした娘と見ることができそうだ。『増訂最上郡史』には「最上義光に嫁し……数子を分娩す」とあるそうだが(『大蔵村史』)、以上の考察からは、彼女には男児二人、女児一人があったことになる。 清水夫人は、当然夫とともに京都に上り、中立売通りの最上屋敷で暮らしたと考えてよいだろう。慶長2、3、4年、義光の京都にあっての文学的活躍は、目覚ましいものがあるが、夫人のことも思いがけず、北野天満宮の記録に残されていた。 慶長3年10月7日、「最上殿内衆が源氏物語をあつらえ、蝋燭二十丁を手土産に届けた」たという内容である。「内衆」とは家来たちのことだが、『源氏』をたのしむ家来などたぶんないだろう。これは義光の奥方、清水夫人からの依頼と見て間違いあるまい。上流階級の女性として、『源氏物語』は必須の教養書だった。まして、夫・義光が『源氏』の免許皆伝を受けていたのだから、なおさらだ。 慶長5年の関ケ原稼の戦いに連動した出羽合戦(長谷堂合戦)では、義光は結局は勝ち組となって、57万石の大大名となった。翌年の夏には、早くも京都に行っている。 清水夫人は、義光の晩年に明るい彩りを添えた女性だったといえるだろう。 義光の領国経営も、いっそう力が入ったような感じがする。城下町の建設、最上川の開削、庄内地方の開発も順調にすすみ、いずれは鶴岡に隠居してのんびり暮らそうかなどと考えたのも、優雅な清水夫人がそばにいたからかも知れない。 20年近い歳月を共にした義光が亡くなったとき、夫人は38歳。夫人は、生家清水家をたより、ふるさとに帰って草庵に隠棲、法名を真覚尼と称した。彼女の隠棲した庵が、現在の清水山光明寺である。 清水家はやがて、当主義親が兄の山形城主家親と対立し、慶長19年にその攻撃を受け、滅亡の憂き目を見る。続いて家親が江戸屋敷で急死、後を嗣いだ家信の代、元和8年(1622)に最上57万石の大領地は没収されて、壱万石で近江大森へ移封となる。時に、夫人は47歳だった。 若くして出羽の太守の奥方となり、大勢の侍女や家臣にかしづかれた都の暮らしも、まるで夢のような感じだったのではあるまいか。 いにしへの錦の床も夢とのみ 心しみずの里にこそすめ 「むかしのぜいたくな寝床もまるで夢のような過去となり、今はふるさと清水の里に住んで、心も澄みきっております」。「すめ」はかけことばである。 今はわれ浮き世の空の雲晴れて 心の月の澄み渡るかな 「今は私はつらい浮き世の雲も晴れ渡り、心の月が清らかに澄み切った思いです」 夫人の詠じた和歌である。 近衛少将、出羽守の後室ということで、新庄藩主、戸沢政盛は真覚尼に五十四石の土地を寄進して、手厚く遇した。 寛永15年(1638)8月20日逝去。62歳であったという。 大蔵村清水の光明寺と興源院には、夫人の遺品として、和歌の歌留多や、銅鏡、着用した袈裟などが大切に秘蔵されているが、それらにも夫人のやさしい人柄や高い教養を感じ取ることが出来る。 ■■片桐繁雄著 |
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【最上義康/もがみよしやす】 〜悲運の嫡男〜
「義光のご子息、修理大夫殿が使者となって、山形から日駆けでこちらまで来られた。何の御用かまだ聞いていないが、たぶん加勢を依頼する使者かと思われる。(相談をしたいので)明日朝早くおいでいただきたい。お待ちしている」 慶長5年(1600)9月15日、夜中の10時ごろに、伊達政宗はこのような内容の手紙を叔父の留守(伊達)政景に発した。 最上領は、このとき直江兼続ひきいる上杉軍の猛攻撃を受けていた。 荒砥から萩野中山を経て、白鷹山の北方をとおる山道(現、狐越街道筋)沿いに侵攻した上杉軍は、9月13日に最前線の畑谷城(山辺町)を攻め落とし、ただちに山形盆地に駆け下って、14日には山形城南西の要害、長谷堂城攻撃にとりかかった。 同じ頃には、最上領内の多くの砦は、つぎつぎに落城、あるいは守備を放棄して明け逃げという状態だった。 長谷堂城が落ちれば、山形は裸同然となる。山形の民衆はおびえていた。 「会津(上杉)勢、モハヤ上山・長谷堂ヲ攻メ破リ、山形ニ乱入トイフモアレバ、イヤトヨ、明明日押寄スルナド」 うわさし合い、てんでに財産を持ち運んで山奥へと逃げ隠れた。 これは『奥羽永慶軍記』の記述である。 まさにその9月15日、義康が使者となって援軍要請のために、山を越えて北目城(現仙台市太白区)に駐留していた伊達政宗のもとへ走ったのであった。 一族の最重要人物である嫡男が使者になったのである。最上一統にとって危急存亡の重大局面、ここは家臣では駄目だという義光の判断が働いていたのであろう。 政宗は、最上への援軍派遣を了承した。 馬上 百八十七騎。 鉄砲 四百五十四丁。 弓 二百三十八張。 鎗 二百六十六丁。派遣人数合計 千百四十五。 (史料により差異あり) かなり本格的な援軍と言ってよいだろう。総司令官は、叔父の留守政景(伊達上野介)。伊達家でも南方の福島境方面に上杉の脅威を感じていたはずだが、しかし、最上への応援軍派遣を決定したのだった。 政宗にとって義光は伯父、使者となって来た義康は従弟。当時山形には母・義姫がいた。司令官となった政景は、義姫の夫・輝宗の弟であった。 政宗からの返書は、16日付け。 「万々修理殿(義康)からお聞きした。そのうち千二百ばかり援軍を差し向けるので、ご安心あれ。近年は仲たがいして情けないことも少しはあったが、そんなことはこの際打ち捨てて、この身にかえても味方します」 義康は、この書状をもらって、すぐさま山形に帰ったはず。その報せは、義光をはじめ最上全軍を歓喜させたに違いあるまい。 だが、援軍の山形到着は遅れて、ようやく22日に笹谷峠を越えた。上杉主力軍の布陣は山形盆地の西側山麓であった。本陣は菅沢山、現沢泉寺付近とされるが、大森山の清源寺と推定される記事も米沢方の文書には見られる。 長谷堂城を中心とする攻防戦は、9月末まで続く。 9月晦日夜10時ごろに、関ケ原で徳川家康軍勝利の報せが届くと、政宗はすぐさま写しを義光へ届ける手配をする。 同じ報せは、直江にも別方向から届いたと見え、翌日の10月1日(太陽暦11月5日)には、撤退する上杉勢を最上・伊達連合軍が追撃する。長谷堂から柏倉・門伝・村木沢(いずれも山形市西部)にかけては、激烈な戦闘が展開され、殿軍(しんがり)をつとめた上杉鉄砲隊の巧妙な射撃に、追う最上軍も苦戦を強いられた。 大将義光が、この戦いでは鉄砲隊の標的にされ、兜の真っ向に銃弾が命中した。 側近の堀(筑紫)喜吽は、義光の馬前で戦死した。上級家臣、志村藤右衛門も戦死した。このとき、山を隔てて父の苦戦を見た義康は、部下一千とともに馬から下りて駆け付け、横合いから敵を追い散らし父の危急を救ったという。 慶長出羽合戦は、長谷堂合戦の後にも、翌年の酒田城攻撃がある。 完全な終局は、慶長6年4月である。終始一貫徳川家康の盟友として戦った義光は、57万石の大大名となる。 勝者家康は、慶長8年2月、京都において征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を創始する。 徳川の時代が始まったのである。 義光、58歳。山形にいる長男義康は29歳、江戸にあって家康、秀忠のおぼえめでたい次男家親は22歳であった。 4月に京都にいた義光が、領国山形に帰ったのは、おそらくは夏のうちであろう。広大な最上領は、これから新たな発展を遂げるべき時となっていた。 この時点での大問題は、後継者をだれにするかということだった。 熟慮を重ねた結果が、家親となった。長男義康は、言わば廃嫡である。この経緯について『義光記』『永慶軍記』『羽源記』などの一致するところはこうである。 嫡子修理大夫義康は武勇知謀ともにすぐれ、家督相続は確かだろうと思われていた。ところが、義光の側近と義康の家臣が威勢を争い、ついにさまざまな思惑が取り沙汰されるようになった。 「大殿もご老齢なのに、いつまでも隠居なさらないのは、家督は家親様にとお考えだからだろう。」 そう噂が広がれば義康も「あるいは、さもありなん」と思うようになる。 いっぽう、義光の近臣からみれば、「殿ご健康なるに、隠居を望まれるとは、いかが」ということになる。 たまたま、義康が光明寺で遊宴を催したときに、脇差が抜けて左の股を少し怪我をしたことがあった。これを聞いた義光側近は、「義康様は家督を譲ってもらえないのを恨んで、自害を図られた」と偽り告げた。 それ以後親子の仲はひどく不和になってしまった。 一門はもちろん、家老・寺社方までみな和解なさるようにと申し上げたが、ついに和解にいたらなかった。 この状態を、江戸に上った義光が家康に相談した。家康は、 「修理大夫は総領であろうとも、親の言い付けに背くは親不孝、国の乱れのもとともなろう。可愛い子供でも、国には替えられまい。帰国のうえ生害させるが良かろう。とはいっても、それは親が自分で考えるべきこと」と、示唆したという。 帰国した父から、高野山へ行き(出家して)先祖の菩提を弔えと命じられた義康は、わずか十数名の家来とともに山形を立ち去る。義康の邸の中では、多くの女房たちが声をあげて泣き叫ぶばかりだった。 義康一行が月山の峠を越えて、庄内櫛引の一里塚にさしかかったとき、松林の中から突如激しい銃激を浴びた。義康は下腹部を二つ弾に射抜かれて落馬した。伏兵であった。 義康の家来たちは、必死に戦ったが多勢に無勢、ついに全員討ち死にする。 襲ったのは、戸井(土肥)半左衛門のグループだった。 義康は、こうして非業の最期を遂げる。慶長8年8月16日であったという。 義光は、この事件の顛末をいたく悲しみ、山形の義光山常念寺を菩提寺とさだめて寺領百石を寄進、鶴岡の常念寺をも義康を弔う寺として、寺領138石を寄進した。 義康暗殺が、果たして父親の意思によるものかどうか。最上家所蔵の「分限帳」には戸井半左衛門の名に「成敗」と添え書きがあるところから見ると、主君義光の意思に反した故に「成敗」されたのかもしれない。 義康の死については、切腹と伝えるものがあり、また死に場所や年月日も異説がある。 慶長2年正月、義康が当時の連歌の大家だった里村玄仍と交わした短連歌がある。 「一夜とは霞や隔て今日の春 義康 雪残りつつしののめの空 玄仍」 広島大学の国文学研究室にも、義光と義康、親子そろって一座した百韻連歌1巻があり、ここでは義康の7句が選ばれている。そのうちの2句。 山の端や更けても霧の晴れざらん 鳴くもただ幽かなりけりきりぎりす 慶長2年初秋の作であろう。とすれば、義康23歳だった。 平成14年、義康四百年忌を期して、山形常念寺では立派な供養碑を建立して、非業の最期を遂げた若き最上家の嫡男を弔った。 ■■片桐繁雄著 |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum



【1】
文祿4年(1595)8月2日、立秋を過ぎて一ヶ月もたつのに、京都は厳しい残暑が続いていた。
この日の午後、京都鴨川の三条河原で、罪なき女性と幼い子ども30余名が斬殺されるという、史上類稀な凄惨きわまる処刑が行われた。殺されたのは、前関白豊臣秀次の妻妾とその子供たち。義光の次女駒姫が悲劇の死を遂げたのは、このときである。
処刑を命じたのは、豊臣秀吉であった。
秀吉は、長らく子どもに恵まれなかった。側室淀殿(織田信長の妹お市の方の娘)にできた鶴松がおさなくて亡くなると、彼はわが子の誕生をあきらめ、姉の子である三好秀次を養子にし、後継者とした。秀吉は、朝鮮征伐の指揮をとるため関白を辞し、天正19年(1591)12月にその職を秀次にゆずった。天皇の代行者となった秀次は、豪壮華麗な聚楽第を与えられ、ここで暮らしつつ政務にかかわることとなる。
ところが、朝鮮出兵さなかの文祿2年8月に、淀殿がまたも男の子を生み、これが健やかに成長しはじめると、秀次に対する秀吉の態度には大きな変化が生じてくる。秀次を後継者にすえたことを悔やみ、これを廃しようとするのである。
秀次の行動にも、問題があった。上皇崩御の後、喪に服すべき期間に狩猟に興じたり、罪人を手ずから試し斬りするなど、関白としてあるまじき振舞をなし、世の顰蹙を買うことがしばしばだったという。秀次はその非をとがめられ、加うるに太閤に対する謀反の疑いまでかけられて、官職剥奪、高野山追放、ついには切腹を命じられて自決する。側近家臣ら10人も追い腹を切る。これが、文祿4年(1595)7月15日であった。
豊臣政権の最上層部に起こったこの事件は、大名諸侯にとって大きな衝撃だった。動揺する大名たちに対して、秀吉は7月20日、愛児秀頼(お拾い様)への忠誠を誓わせる。 「お拾い様へ対したてまつり、いささかも表裏なく、御為になるよう覚悟して御奉公申し上げます」を第一条とする五か条である。
その誓約書には29名の諸侯とともに「羽柴出羽侍従」の肩書きで、義光も花押血判をなした。その文書は今、岡山市の『木下家文書』に収められている。
【2】
秀次を切腹させて首を取っても、秀吉の気持ちはおさまらなかった。続いて、秀次の寵愛を受けていた女性と彼の血をひく子ども全員の殺害を命じた。その中に駒姫(聚楽第では「おいまの方」と呼ばれた)が入っていた。
義光は八方手を尽くして助命嘆願をしたというが、秀吉は「父親の身分地位によって刑罰を左右するなら、天下の政道は成り立たぬ」と言って許さなかったという。後述のように、淀殿を通して嘆願したところ太閤も無視できず、「尼にして寺に入れよ」と命ばかりは許したというが、これは創作の域を出ないだろう。
実際のところ、義光や伊達政宗も秀次と親しく、聚楽御殿にしばしば出入りしていたという理由でもって、閉門謹慎を命じられていたのだから、娘の助命嘆願などできない立場だったかもしれない。
妻妾たちの中には、秀次の切腹を知ってすぐさま髪をおろして尼になった者もいたが、これらをも秀吉は許さなかった。罪なくして斬首の刑に処されると知ったとき、彼女等の悲嘆はいかばかりだったか。泣いても嘆いても、助かる術はなかったのだ。
8月1日、女性たちはそれぞれに親しい人たちに手紙を書き、形見の品を分けととのえ、沐浴をして身を潔め、死出の旅支度をする。
駒姫も形見を残したことは確かだろう。山形市門伝の皆龍寺には、駒姫着用と伝えられる高雅な衣裳の切れが、大切に保存されている。
同2日、死装束の白衣に身をつつんだ女性たちは、市中引き回しの牛車に乗せられた。たまたま上京中で、その様を目撃した岡崎(愛知県)上宮寺の住職、円光院尊祐の自筆記録(駒沢大学、粟野俊之氏のご教示)によると、引き回しは次のようであった。
車は7台。1台目には三人の女性とその子ども3人。1歳から3歳の幼児であった。
駒姫は2台目の車に乗せられた。「最上殿御子 おいま様 十五」と記されている。同車したのは、秀次の正室、菊亭右大臣晴季の娘32歳。それに、武藤長門守の娘19歳、小浜殿の娘29歳、駒姫をふくめて4人であった。
以下7台目まで、女性31名は名前と年齢が記され、幼児3名は年齢のみがメモされている。合計34人、「一条より京の町々をひきまわし、三条の河原にて御成敗なされ候」と、尊祐は書き記した。
小瀬甫庵『太閤記』によると、まもなく命を断たれる運命をも知らずに、牛車の上で母にあまえかかる幼い子どもの姿に、見る人はみな泣いたという。
市中引き回しの後、女性たちは三条河原の刑場に追い入れられる。そこに築かれた塚の上には、秀次の首が据えられていた。
【3】
殺戮は正午ごろから開始された。最初は子どもたちだった。
「五十ばかりの髭男が、愛らしい若君をまるで犬の子でもぶらさげるようにあつかって、刺し殺した」「抱きしめる母の膝から奪い取って、胸元を二刀刺して投げ捨てた」と『太閤記』には描かれているが、泰平を謳歌したように思われる桃山時代の京都で、このように残酷な処刑が行われたのである。
おさな子が終わると、処刑は女性たちへと移る。その様を秀次一族の菩提寺、京都三条瑞泉寺の縁起では、以下のように語っている。
最初に処刑されたのは、秀次の正室・一の台、31歳(32、34歳とも)、菊亭右大臣晴季の娘。絶世の美女と謳われた女性である。
第2番目はお妻の前、16歳、三位中将藤原隆憲の娘。
第3番目はお亀の前、32歳、中納言持明院基孝の養女。
処刑は名簿に従って進められ、駒姫は第11番だったという。
「第十一番に、お伊万(いま)の前、出羽最上家の息女十五歳。東国一の美人との評判高く、さまざまに仰せて漸く七月初めに上京、長旅の疲れで未だ秀次に見参もせぬうちにこの難にあったので、淀君らもこれを伝え聞いて太閤に助命を願い出た。太閤もこれを黙止するわけにいかず、『鎌倉で尼にせよ』と急使を出し、早馬で三条河原へ馳せつけさせたが、いま一町というところで間に合わず、ついに蕾のままに散った」
「つぼめる花のごとき姫君で……未だ幼かったけれども、最期の際もさすがにおとなしやかであった」と、これは『出羽太平記』の記事。
駒姫は、静かに所定の場に座し、西方阿弥陀浄土に向かって手を合わせ、斬首執行の男が立って刀を振りかざしたときには、心持ち頸を前にさし延べたと書いたものもある。
瑞泉寺には、駒姫辞世の和歌懐紙が伝えられている。
罪なき身も世の曇りにさへられて、ともに冥土に趣(赴)かば、
五常の罪も滅びなんと思ひて 伊満(いま)十五歳
罪を切る弥陀の剣にかかる身の
なにか五つのさわりあるべき
「罪なき私の身も、世間のよこしまな動きに邪魔されて、みんなと共に冥土に行ったならば、五つの徳目にそむいた罪も滅びるだろうと思って、罪を切る阿弥陀様の剣にかかるわが身、どうして成仏できない五つの障害などあるでしょうか。きっと、極楽浄土に行かれることでしょう」
30余名の処刑は申の刻(午後4時ごろ)まで続き、殺された人の血で流れる水も色を変えたという。亡骸はみな一つ穴に投げ込まれた。築かれた塚の上には「悪逆塚」と彫りつけた石が載せられた。
見物に来た人たちは、
「あわれなるかな、悲しいかな。かくも痛ましいと知っていたなら、見物には来なかったものを」と後悔する声も多かったと『太閤記』は語る。
その夜、京都は10日ぶりに雨になった。太陽暦では9月5日、そろそろ秋の気配がただよう季節になっていた。
【4】
人々はこの事件を厳しく批判した。夜のうちに辻々に貼り紙がなされ、「今日の狼藉は、無法極まる。行く末めでたき政道にあらず。ああ、因果のほど御用心候え」と書かれていたという(『太閤記』)。
この前後、義光は閉門蟄居中で、邸から出ることができなかった。せめて娘の最期だけでも知りたいと、家臣を現場に差し向ける。行ったのは上級家臣浦山筑後だとも、そうでなく、もっと身分の低い家来だったともいう。
義光は、朝から仏間に引きこもって祈りを捧げ、ひたすら耐え続けていた。駒姫の最期の様子が報らされたとき、義光は面をあげることもなく、「過去の業にこそ」と、ただ一言を発しただけだったという(『奥羽永慶軍記』ほか)。その意は「前世になしたことが、今、自分と娘に、こうした報いとなったのだろう」というのである。罪なきわが娘のあまりにも残酷な運命は、前世の宿業と考える以外に解釈のしようがなかったのだ。
その後数日、義光は湯も水も喉を通らないほどの悲しみようだった。
不幸は、続けざまに義光を襲う。
駒姫死後の27日(ふたなのか)めにあたる8月16日、妻が急死する。駒姫の母親であろう。亡くなった事情はよくわからないが、独り黄泉路に旅立った娘のそばに行こうと、みずから命を絶ったのではないかと、多くの研究家は想定している。「山形殿内室、奥州大崎家の娘」と『最上家代々過去帳』に記された女性である。
20歳前後に義光のもとに嫁ぎ、幾人かの子女をもうけ、会津へも京へも行って夫を支え、苦楽を共にした妻である。その急死を義光がどれほど嘆いたかは想像に余りある。
しかし、義光は一国の主として、ただ耐え忍ぶ以外にすべはなかっただろう。
文祿4年8月は、義光の生涯で最も苦しい秋であった。
【5】
秀次の切腹、三条河原の処刑、すべて秀次の謀反が原因と、秀吉側……石田三成、増田長盛、前田玄以らを中核とする政府……は説明したが、事実は秀頼を立てるために、秀次に謀反人の濡れ衣を着せて亡きものにしたというのが歴史家おおかたの見方だ。
京都の事変は、8月10日過ぎには山形に急報されたに違いあるまい。姫様は囚われ、やがてご生害、殿は閉門蟄居、なじみ深い方々が死罪あるいは流罪。わが最上家にも、いかなる難儀が出来するか計り知れぬ……最上家存亡にかかわる一大事である。
おそらく山形にいた一族重臣が協議した結果であろう、8月13日に嫡男義康が大沼明神(西村山郡朝日町にある。浮島で有名)に祈願状をささげた。
「敬白 立願状之事 このたび父親義光の身命が無事でありましたなら、社殿を建立し、村に住む人々を皆山伏(神社に奉仕する者)にし、また、境内の松はいっさい伐らないようにいたします」
願主は「源義康」となっている。神仏に願を立てるときは、本姓(最上氏は「清和源氏」)を使うのが通例だった。この祈願状には、後で書き加えたらしい次男「寒河江家親」の署名もある。父親の無事と最上家の安泰を願う、必死の祈りだった。祈願状は、ほかの社寺にも捧げられたと思われるが、現在はこの一通が残っているだけらしい。
7月15日秀次切腹。20日に秀頼への忠誠を誓わされて血判を捺し、ついで閉門蟄居、10日ほど後には娘を殺され、悲嘆と不安の真っ只中の8月16日に、今度は妻が死ぬ。しかも、次にどんな無理難題を吹きかけられるか知れないのである。
理不尽とは、こういうことを指すのだろう。
だが、幸いにして最上・伊達両家にかけられた謀反加担の疑いは程なく晴れ、閉門蟄居は解除される。こうしたこともまた、山形に報らされたはずである。一門家臣たちも、ほっと一息ついただろうと思われる。
後日、秀吉は義光に使者をつかわして、こう伝えた。
「娘を死罪に行ったことを、きっと不快に思うだろうが、秀次が反逆を企てた以上は、やむをえないことと思うべきである。こうなったからには、汝の罪科も許してやろう」
義光はこれに対して、「有難き御上意」と答えただけだったという(『永慶軍記』)。秀吉と石田グループに対する不信と怒りは、極限に達していたに相違あるまい。
それだけに、従来から親しかった実力者、徳川家康への傾倒は、いっそう強まっていっただろうと思われる。
五年後、天下を二分した関ヶ原の戦いのとき、義光が家康を支える盟友として誠実に行動し、強大な上杉軍の攻撃を真正面から受け止めたのも、自然なことであろう。
【6】
京都人にとって、出羽山形は遥かな異郷だった。遠い片田舎の山形から出てきて、人臣最高位の関白・豊臣秀次の邸に迎え入れられたのも束の間、悲劇的な生涯を閉じた駒姫のことは、当時大きな話題になったと思われる。傍証として、二つの事例をあげよう。
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駒姫らが処刑された翌年(慶長元年/1596)9月、国交回復のために明国の使者が伏見城に秀吉を訪問したとき、歓迎の宴が盛大に催された。宴の後の茶の席で、点前に出たのは施薬院全宗(やくいん・ぜんそう)だった。これを見ていた富田一白は、小さな声で「茶をもてなすにしても、小督の御方か、おいまの御方のお点前なら、ひときわ興趣があっただろうに」と、かたわらの人に語ったという。全宗も一白も、秀吉側近のすぐれた教養人である。
「小督」は、『平家物語』で「宮中一の美人、琴の上手」、「峯の嵐か松風か/たづぬる人の琴の音か」と歌われた「琴の音」の主である。あるいは、徳川秀忠に嫁して、千姫(豊臣秀頼の妻)や後水尾天皇の后・和子[まさこ]を産んだ女性「お江よの方」(「小督」とも呼ばれた)かもしれない。どちらにしても、気品、容貌、立ち居振る舞い、すべてにおいて最高の品格と優雅さをもった女性だった。
「おいま」は駒姫である。彼女が「小督」と並べられたのは、駒姫がいかに美しく雅やかな女性として評判になっていたかを物語るといえるだろう。
��仮名草子『恨の介』の挿話(富沢学園理事、菊地俊彦氏のご教示による)。
『恨の介』は、作者不詳の読み物で、幕府旗本武士と宮中女房の恋愛と情死をテーマとしたものであるが、その一部に三条河原の処刑場面が出てくる。
30余人の女性たちが刑場に下ろされ、みな秀次の死骸を見て涙にむせんでいるとき、「中でも出羽の国の住人、最上殿の御娘、おこぼの上臈と申す方は、御年十六歳にておわしますが、涙をとどめて」こう語った。
「この涙は、関白様から賜りました嬉しいお言葉や熱いお情けが、今更のように思い出されて、とまらない涙なのでございます。わたしたちを見守っておられる皆様も、けっして自分の死を嘆き悲しむ涙だとは、お思いなさらないでくださいませ」
こう言ってから、一首の和歌を秀次の亡骸に手向ける。
「南無阿弥陀 蓮(はちす)の露とこぼるれば 願ひの岸に到る嬉しき」
これを見た女性たちは、われもわれもと和歌を作って手向けたので、秀次の死骸も動くばかりに見えた。やがて「おこぼ」は、衣の下から守り刀を取り出し、切っ先をくわえ「南無阿弥陀仏」の一声を最後に、うつ伏して死ぬ。残った女性たちも次々と自害する。
このようなエピソードである。「おこぼ」とは、創作上の仮の名であろう。
『恨の介』は、慶長末年(1615)以前の成立とされ、だとすれば、義光在世のころに、駒姫ははやくも物語の人となっていたわけである。最上家の姫君のうわさが、京都町衆の間に広まっていた故に、創作文学の中にまで取り込まれたと考えてよい。
【7】
『奥羽永慶軍記』では、駒姫と伊達政宗との小さな関わりが語られている。
天正9年(1581)の秋、最上家に女の子が生まれた。たまたまその日、少年政宗と伯父義光が千歳山阿古屋の松を題材に和歌の贈答をした。
「恋しさは秋ぞまされる千とせ山の あこやの松に木隠(こがく)れの月 政宗」
「恋しくば尋ね来よかし千年山 あこやの松に木隠るる月 義光」
義光の妻は、娘誕生の日に政宗から寄越された和歌にちなんで「千年」と名づけたいと言ったが、義光は、安倍貞任の娘「千年」は父母を滅ぼしたのだから悪い名だと言ってこれを採らず、出羽の名山「御駒山」にちなんで「お駒」と名づけたという。
義光は、祝いの連歌会を催そうとした。ところが、山形には連歌のできる者がいなかった。町人でもだれでもよい、歌の道は身分の上下を問わないと、町奉行に捜させたが連衆(連歌参加者)となる者が見出せず、連歌は沙汰止みとなった。
駒姫が亡くなったとき、「誕生ノ祝儀連歌ノ止ムモ不吉ナリ」と政宗は語ったという。可憐な従妹の悲しくはかない運命を、政宗も心を痛めて受け止めたのであった。
一方、この悲劇を父・義光の責めに帰そうとする見方もある。伊達一門の伊達成実は、次のように書いた(『成実記』より意訳)。
「義光は、秀次公が最上在陣のみぎり、息女を差し上げた。大名に似合わざるやりかたと、世間で取り沙汰していたところ、今度のこの始末だ。天下の嘲弄、尋常ならず」
確かに結果的には悲惨な結末になったわけだが、当時の状況を考えれば、豊臣政権の後継者たる青年関白から娘を所望されたとき、果たして断り通すことができるかどうか。実際その場に立ったら、それは不可能というしかあるまい。
「天下の嘲弄、尋常ならず」は「ざま見ろ」というに近い、悪意の言葉である。これほど悪し様に書けたのは、『成実記』が義光亡きあと、最上家改易の後に書かれたものだからであろうか。
【8】
三条河原の事件は、刑死者の人数・年齢・辞世の和歌など、異説が少なくない。
駒姫の年齢についても、15、16、19などの説(数え年)がある。しかし、史料として重視される尊祐メモと瑞泉寺縁起は、ともに15歳となっている。また『永慶軍記』では、伊達政宗15歳の年(天正9/1581)に駒姫が生まれたとされているから、刑死した1595年には15歳だったことになる。やはり、15歳が正しいのだろう。
駒姫の辞世にも別伝がある(他女性の作も文献によって違うものがある)。
「罪を切る弥陀のつるぎにかかる身の……」が、山形ではよく知られているが、この和歌は後代の代作とされ,仏教思想が強調されて、若い女性らしさがなくなってしまった。ところが『太閤記』では、次の和歌が掲げられている。
「うつつとも夢とも知らぬ世の中に すまでぞかへる白川の水」
「現実なのか夢なのか、それさえわからないこの世の中に、長く住むことなく、私はあの世に帰るのでしょう。澄むことなく、寄せては返る白川の水のように」
このほうが若くて世を去らねばならない女性の心情が、痛々しく表れているような気がする。「すまでぞ」は「住むことなく/澄むことなく」二重の意味をもつかけ言葉。「白川」は鴨川に東から合流する川で、刑場となった三条あたりも、当時は「白川」と呼ばれていたものらしい。辞世29首の中には「白川」を詠み込んだものが4首ある。
なお、これら辞世和歌は覚悟をきめた女性たちが前もって詠じておいたものを、1巻にまとめたものだということである。
もう一つ。『太閤記』によれば、駒姫のほかにもう1人、山形の女性が処刑されている。 第25番「おこちゃの御方、廿歳、最上衆なり」
濡れぎぬをきつつなれにしつま故に 身は白川の淡(あわ)と消えぬる
「謀反人という濡れぎぬを着せられて死んだ、私のなれ親しんだ夫(秀次)ゆえに、わが身は白川の泡となって消えてしまうのです」
これによれば、山形の女性2人が同じ時に処刑されたわけだが、「おこちゃの方」とはどんな身分・立場の女性か、手がかりがない。駒姫につき添って聚楽御殿に入った女性だろうという想像もあるが、そう考えるのがいちばん妥当かもしれない。
【9】
山形市緑町、浄土真宗の専称寺に駒姫の墓がある。境内の最も奥まった一隅に、ひっそりと立つ五輪塔がそれである。駒姫の母もこの寺で弔われているはずだが、墓は建立されていない。三周忌にあたる慶長2年(1597)、義光は妻と娘の画像を寺に寄進した。 駒姫の画像は見ることがむずかしいが、夫人画像は山形県有形文化財に指定され、さまざまな図録類に掲載されているので、それで見ることができる。
庫裏の一部には、駒姫の居室を山形城から移建したという一室がある。板襖には、400年余の歳月を経て色彩・描線は薄れているが、今も繊細な絵が見て取れる。
義光は折に触れてこの寺を参詣したといわれ、本堂の前庭には「義光公駒つなぎの桜」と名づけられた桜樹がある。春ごとに薄くれないの花を咲かせるしだれ桜である。
義光は、還暦を迎えた慶長11年に、京都で造られた梵鐘をこの寺に寄進した。
年老いてもなお深まるばかりの、深い嘆きをこめたものだろう。山門を入って左側にある古風な鐘楼と刻銘明らかな梵鐘と、いずれも県指定文化財である。
駒姫の墓は、京都三条大橋西たもとの浄土宗瑞泉寺にもある。
四条の繁華街へ下る町筋の、清楚で品のいい寺である。豪商角倉了以が、舟運の便を図るため高瀬川(森鴎外の名作でも知られる)を開削したとき、女性たちを悼んで刑場跡地に建立したものだという。了以は、連歌を通じて義光と親しかったから、駒姫のことも聞き知っていたのであろう。
墓地は、秀次の墓を正面に、一族妻子と殉死した家臣ら合わせて49名の墓碑が並んでいる。その中に、駒姫の墓もある。
「山形の方々が駒姫様をお詣りに、よくお見えになります」
早春二月に参詣したとき、紅梅が春雨に濡れている墓前で、住職はそう語っておられた。 山青く、水清く、空は高く澄みきった、うつくしい山形。この地に生を享けた可憐な駒姫が、ふるさとを遠く離れた京都で、悲運の死を遂げなければならなかったのも、歴史に翻弄される人間の、如何ともなし難い宿命だったのであろうか。
古典文学に登場する最初の山形人は、駒姫らしい。話題になることが多いので、やや詳しく書いてみた。
■■片桐繁雄著