最上義光歴史館

傾奇御免!! 大ふへん者 前田慶次郎見参!!

米沢市の宮坂考古館には、慶長5年(1600)の出羽合戦で、最上領から撤退する上杉軍の殿をつとめて大活躍したとされる前田慶次郎所用の「朱漆塗紫糸威五枚胴具足」が所蔵されています!!南蛮笠の兜に裃のような肩当、鱗形袖と…傾奇者にふさわしい異風ないでたちのヨロイです!!他にも槍や面などの遺品も展示されています。


財団法人宮坂考古館
米沢市東1丁目2-24
Tel.023-23-8530

【開館時間】
午前10時〜午後5時(4月〜9月)
午前10時〜午後4時(10月〜3月)

【休館日】
月曜日(祝祭日の場合は翌日)

【入館料】
大人300円 大高校生200円 小中学生100円 (団体割引あり)


マップ>>こちら


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前田慶次郎の兜(「南蛮笠形兜」米沢市・宮坂考古館所蔵)のペーパークラフトです。画像は縮小版です!!南蛮笠の兜に裃のような肩当、鱗形袖と…傾奇者にふさわしい異風ないでたちのヨロイです!!

【ダウンロード】
  ↓↓↓
前田慶次郎所用「南蛮笠形兜」のペーパークラフト(大)

前田慶次郎所用「南蛮笠形兜」のペーパークラフト(小)


★ほかの武将兜ペーパークラフトは>>こちら

※このペーパークラフトは米沢市の木村吉孝氏が企画し、川島印刷、精英堂印刷が設計製作したものです。


本年もよろしくお願いいたします。
大変ご無沙汰(約三年ぶり)しております!!

木村☆社長
↓↓↓

のペパクラをアップします!!

木村☆社長!!遅くなってスミマセン(>人<;)みだしのとおりです!!

以前予告したとおり、木村☆社長は天下三槍(日本号、蜻蛉切、御手杵)も公約どおり完成させていました。

今回(一年以上前ですが…)は刀、脇差、小刀、笄、そして刀掛け…(汗)!?

「ペーパークラフト甲冑 オプション」ということですが…木村☆社長なかなか地味なところを攻めますネ!!

刀と脇差はカスタムできます!!

いま話題の刀剣女子の方々も是非挑戦してみてください!!難易度は案外高めですヨ!!

木村☆社長!!次はいよいよ「鬼切」と「鬼丸」をお願いします!!

※木村☆社長のペーパークラフト>>こちら
【見つけた「最上下向道記」下 】

片桐繁雄(上山市立図書館長)

 山形城主最上義光の求めに応じて、山形市の光明寺住職になった学僧一花堂乗阿が、京都から山形までの道中や山形での暮らしを記した「最上下向道記」から、山形の町について書かれた原文を揚げてみよう。
 「山形も近くなれば、造り並べたる家々数多く、柳・桜植えぬ門もなく、見る目輝くばかりなれば、覚えずして又もとの都のうちに帰り入るかと、聞きしにはまさりはべりぬ」(家々は数多く、柳や桜を植えない家もなく、目にまぶしいほどで、気づかぬうちにまた元の都に帰ってきたかと疑われるほど。話に聞いた以上であった)
 乗阿は驚きをこめて山形を称賛した。住民が植木を楽しんでいるさまにも目を向けた。柳、桜は平安京を彩った樹木である。多少の社交辞令はあるにしても、当時の山形はこのように美しかった。
 江戸時代の山形の町の評判は、どちらかといえばあまり良くない。対して、乗阿の描写は最上時代の美しい山形を語って印象深い。
 駕籠に乗って進んでいくと、「人数あまたにて来たれるあり。愚老乗り物をとどめ見はべるに、太守の迎ひおはしますにぞはべる」
 太守義光みずから迎えに出てくださったと、乗阿は感銘し、安心して、「はるばると、さ迷ひくだりし頼りなさも、力得る心地」と書く。
 米沢藩主上杉鷹山がその師細井平州を郊外まで迎えに出たことは有名だが、それより二世紀前、山形においても似たようなことがあったのである。
 こうして乗阿は光明寺に落ち着く。そこへ、京都で知り合った最上一門や家来衆が次々と訪ねてくる。太守からは、暮らしに不自由ないようにと鵞眼(穴開き銭)、八木(米)その他が贈られてくる。米は置き場所にも困るほど。まことに暮らしやすくなったと、乗阿は満足げだ。
 7月になると、七夕のご挨拶として、出羽の国の歌枕として有名な阿古耶の松を詠み込んだ和歌一首を義光に差し上げた。
 「いでてもや阿古耶の松の木がくれもあらぬ今宵の星あひの空」(昔の人は出た月も隠すほどだと歌った阿古耶の松であるが、今宵は牽牛、織り姫の星がその松に隠されることなく出会っている。そんな美しい夜空を見に出てみよう)
 義光の返歌。
 「七夕も逢ふ夜となれば偲ぶかな阿古耶の松の木がくれにして」(七夕星の会う夜となれば、なつかしいあの人がしのばれる。阿古耶の松の木陰にわが身はありながら)
 こうした和歌の贈答は、まさしく上流知識人のみやびである。
 乗阿は山形に足かけ3年いて、慶長10年(1605)には京都に戻った。七条の金光寺に住して文壇で活動を続け、元和5年(1619)世を去った。89歳の長寿であった。
 山形での見聞を詠じ、あるいは書き留めた古人はそう多くない。西行、梵灯庵、大淀三千風、芭蕉、高山彦九郎。このなかに今後は一花堂乗阿が加えられることになる。
 「最上下向道記」は、研究家諸氏が探しあぐねた本であるが、このたび光明寺本が出現したことによって、乗阿の人となりや業績がいちだんと明確にされるだろう。
 400年前の山形の姿も見えるようになった。この貴重な書がより多くの人に親しまれ、山形人の共有財産となるよう願っている。
 なお、光明寺には、乗阿が後陽成上皇、智仁親王らとともに詠んだ「百首和歌」写本もあったことを付け加えておきたい。

<2006/11/17 山形新聞夕刊掲載>
【見つけた「最上下向道記」 上 】

片桐繁雄(上山市立図書館長)

 斯波兼頼の山形入部650年記念イベントにかかわって、兼頼を開山と仰ぐ山形市の光明寺が秘蔵する文書の閲覧を許され、その折に驚くべき一巻の典籍に遭遇した。一花堂乗阿の紀行文「最上下向道記」である。
 乗阿は僧であると同時に、桃山・江戸初期(1600年前後)に京都を中心に活躍し、「源氏物語」「伊勢物語」「古今和歌集」などの古典研究に寄与した学者として、国文学研究史では逸することのできない人物とされる。当時は歌人、連歌宗匠としても聞こえていた。
 貞門俳諧の祖松永貞徳は、その著「載恩記」に乗阿との接触を記した。また、若き日の儒学者林羅山と論争したことも知られている。なかなかの学者、文人だったようだ。
 山形城主最上義光は上洛中に乗阿から「源氏物語」の指導を受け、切紙(一種の免許状)まで授けられたとされ、これが機縁となって乗阿を光明寺住職として招請したのであった。これに応じて最上に下ったいきさつを書いたものが、「最上下向道記」である。
 この度確認した写本は、元禄3(1690)年7月21日に、光明寺住職其阿量光が其阿自筆本によって書写した旨、奥書にある。
 これまで国文学会では正式の題名は知られていなかったと見え、小高敏郎博士は「近世初期文壇の研究」では単に「道之記」としている。乗阿にそういう述作があることは別ルートから知られても、現在は所在不明だったからで、小高博士自身「探索中だが、目睹の機を得ない」と述べておられる。それが山形に実在したのである。
 体裁は巻物、未表装。巻首に「最上下向道記」の内題がある。散文の間間に和歌、発句などをちりばめた伝統的な紀行文形態である。
 本文冒頭は、乗阿73歳の慶長8(1603)年、義光の懇篤な勧誘で山形に赴く決心を固めたことから始まる。
 旅支度を整え、友人知己と別れの連歌会を開き、梅雨前の5月12日(太陽暦6月21日)に京都を発つ。琵琶湖を舟で北上し、敦賀からは「舟に乗り、山路に移り、ここかしこの旅寝重ねて」金沢に着く。越中中田(富山県高岡市)近くでは落馬して腰を痛め、以後は馬をやめて駕籠にする。直江津(新潟県上越市)では有名文人到来ということで連歌会が催される。怪我が治っていない乗阿は、脇息につかまりながら指導をする。道中の宿々では高名な乗阿と知って、しきりに発句をせがむ。乗阿は、所がらにふさわしい句を作って、亭主に与えたりもする。こうして旅を続け、越後本庄(同県村上市)を経て、出羽に入る。
 「羽州庄内、今あらため鶴岡というに到れば、御城の普請の奉行衆とて両三人、今行くべき先々の道のことまで沙汰せらる」
 「亀ヶ崎」(酒田市)「鶴ヶ岡」(鶴岡市)と名が改められたのは同年3月だから、乗阿が通ったのは地名が変わって間もないときだった。一泊して、翌日は最上川をさかのぼる舟に乗る。舟を降りた所は、寺津(天童市)か船町(山形市)であろう。はるばると旅して、ほどなく山形に着くわけだが、さて、乗阿は山形をどう見ただろうか。(下に続く)

<2006/11/16 山形新聞夕刊掲載>

最上義光(11代)、家親(12代)の菩提寺。
義光の五輪塔墓をはじめ、殉死者4名の墓、家親・義俊(13代)の墓碑が立っている。庭園は、江戸初期の遠州流庭園として、市指定の名勝。