最上義光歴史館
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【山野辺義忠/やまのべよしただ】 〜水戸徳川家の重鎮となった〜
最上義光が巨大な人物だったことは言うまでもないが、その血を分けた息子たちのなかにも、非常にすぐれた人物がいた。 四男山野辺義忠(改名前は光茂)は、その筆頭に挙げることができるだろう。 天正16年(1588)生まれ。父義光43歳であった。 幼名を比治利丸(ひじりまる)と称したという。義光のほかの子等同様、系図類には生母として「某氏」とあるだけだが、おそらくは正室大崎夫人の所生かと思われる。夫人は40歳に近かったのではあるまいか。 義光の子供たちの生年を見ると、長男義康は1575年生まれ、松尾姫・78年、駒姫・81年、竹姫・84年、それにこの光茂は88年生まれ。異論はあるかもしれないが、14年間に生まれたこの5人を同腹としても矛盾はない。 家親(義光没後、山形城主)と光氏(後清水城主、義親)は、ともに1582年(天正10)生まれで当然異母兄弟、駒姫とは1歳違いの弟に当たる。 家親の実母は、慶長3年(1598)12月14日逝去「高月院殿妙慶禅定尼」と最上家過去帳に記載がある。光氏は天童夫人(天正10年10月12日没)の子らしく、彼の領した清水(現大蔵村)の興源院が母子の牌所となっている。 これら七人の兄弟姉妹からずっと離れて、光茂とは11歳違いの五男光広(1599生、後上山城主)、六男大山光隆(1602生、後大山城主)、徳島で亡くなった女子(旧東根城主、後徳島藩家臣、里見親宜の妻)がいるが、この3人は義光の最後の妻となった、30歳ほど年下だった清水夫人の生した子ではあるまいか。 さて、四男が義忠を名乗るようになった時期ははっきりしない。山形で見られる名乗りは「光茂」である。鶴岡市の高木家、松山町石川家の慶長年間と推定される文書や、山辺町専念寺、山形市千手堂吉祥院、朝日町大谷大行院の文書など、すべて「光茂」である。 慶長5年の出羽合戦のときは、13歳の少年であったから、戦陣には加わらなかったと見え、水戸徳川家の『水府系纂巻第三十八』には「関原ノ證人ト為テ神君(徳川家康)ニ参リ静謐ノ後従五位下ニ叙シ右衛門大夫ニ任セラル」とある。人質として家康のもとに預けられたというわけだが、その折家康は「将来恐るべき怪童」と評したという。どこか並々ならぬ素質を具えていたのであろう。 関ケ原戦後は山野辺家の名跡をつぎ、右衛門大夫を称し、1万9千300石を領した。山野辺は、山形の北西7キロメートルばかりの所にあり、本城を支える重要な城池であった。領地の範囲は、現在の山辺郷周辺の平野部と白鷹丘陵の山間地、及びその西の最上川が峡谷となって北流する五百川郷(現朝日町)を含む範囲だったらしく、最上家改易のとき接収された朝日町の八ツ沼城は「山野辺右衛門の内」と伊達文書に記載されている。 15歳そこそこの少年でありながら重要な一城をあずかったのも、それなりの器量の持ち主だったからであろう。もちろん、すぐれた家臣団があってのことと推測される。伝承によると、光茂は現在の大石田町深堀で育ち、山野辺に入部するに際して連れてきたという、いわゆる「深堀三十六人衆」と称される人々が家臣団の中核をなしていた可能性もあるが、これについては今後の更なる検討が必要だろう。 後藤禮三氏の研究をもとに、山野辺城主時代の業績を箇条書きにすれば次のようになる。 1 山野辺城の拡張改修 2 城下町の建設と市の開設 3 釣樋堰の開鑿など灌漑治水事業 4 神社仏閣の護持 5 交通路の整備 最上家改易(1622)までのおよそ20年、山野辺の青年城主としてこれらの事業を成し遂げ、城下町山野辺を小規模ながらも山形の衛星都市として完成させたのである。 57万石の大大名となった奥羽の重鎮最上義光は、しばしば長期にわたって京都、江戸などに滞在しなければならなかった。そういうとき、留守をまもって領内政治を取り仕切ったのが、確かな史料があるわけではないが、近くに居城を持つ山野辺光茂ではなかったか。 ともあれ、彼がすぐれた力量の持ち主だったことが、後にお家騒動の原因となったのは、まことに皮肉な巡り合わせであった。 義光亡き後藩主となった兄・駿河守家親が元和3年(1617)3月に急病で亡くなると、その子源五郎家信が12歳で山形の主となる。家信は江戸生まれ、江戸育ち、全国有数の57万石の大封土と、大名クラスの重臣をはじめとする多数の家臣団を統治するには力不足だった。(以下、別項と重複することをお許し願いたい。) 「義俊(当時は家信)若年にして国政を聴く事を得ず。しかのみならず常に酒色を好みて宴楽にふけり、家老これを諌むといえどもきかざるにより、家臣大半は叔父義忠(光茂)をして家督たらしめんことをねがう」と、『最上氏系図』(寛政重修家譜)は述べている。 このとき、義忠は30歳であった。一族・家臣団の多くは、信望あつい彼に最上の未来を託そうとしたのだった。むろん、義忠自らも領内の最高権力者、責任者となって、出羽国を発展させることに、強い自信を持っていたに相違あるまい。重臣のほとんどが彼を推した。中心となったのが義光の弟楯岡甲斐守光直、千軍萬馬の勇将として知られる鮭延越前守秀綱。 一方、これに強く反対し「家親の死は、楯岡らの陰謀による毒殺。源五郎家信こそ正統」と幕府に訴え出たのが、一族の老臣松根備前守光広であった。だが、幕府はこれを無根の説と退けて、彼を九州柳川の立花家に預けた。そのうえで重臣たちを呼び出し「皆で最上家を守り立てよ」と説得したにもかかわらず、重臣の多くはこれを拒否した。 最上のトップたる義忠が、並み居る幕府閣僚を前にして何を語ったかは知ることができないが、自己の主張信念を曲げることはなかっただろう。 元和8年8月、最上家は改易となった。 多くの家臣は禄を失って流浪するものが少なくなかった。 このときに義忠は、岡山池田家に預けられた。ここで約12年を過ごし、寛永10年(1633)9月、三代将軍徳川家光じきじきの命令によって、水戸徳川家の家老として1万石で仕えることとなった。類まれな処遇というべきだろう。 水戸藩主頼房は、やがて三男千代松(1628〜1700)の教導役を命じたそうである。 非行少年と心配された千代松は、青年時代から急速に変貌をとげ、仁義の大道を歩むようになる。そうして、ついには名君・水戸光圀公と仰がれるようになるわけだが、その蔭には山野辺義忠の豊かな薫陶があったのであろう。 頼房が没する(寛文元年/1661)と、光国(のち、圀に改む)が藩主となる。これを見届けたのち義忠は隠居して仏門に入り、道慶と号する。 義忠の後を嗣いだ義堅は、光圀の妹である利津姫を妻に迎えている。その後も山野辺家は、幾度か主家と縁組を重ねている。改易のとき九州細川家に預けられた楯岡甲斐守光直の孫が、山野辺家の養子となったという奇しき因縁もある。最上義光の血筋は、こうして水戸徳川家を支える名門として伝えられたのである。 茨城県那珂市にある常福寺は、水戸徳川家の菩提寺で、浄土宗の名刹として知られている。境内の入り口には、山野辺家の墓所がある。巨大な五輪塔が四基立ち並んでおり、右端が義忠の供養塔である。牌記は「良源院殿前堅門貞誉松座道慶大居士」。 山形にも、山野辺家にゆかりある小堂がある。 立石寺奥の院近く、中性院前にある「最上義光公霊屋」がそれである。 これを建立したのは、たぶん山野辺義忠であろう。年次不明6月晦日の千手院別当あての光茂書状に「今度山寺にて玉屋(霊屋)直し申し付け……」とあるが、これは義光没後まもないころに建てた霊屋が破損したので、修理するよう手配したものであろう。 また、館林市に伝わる『山形風流松木枕』には「宝暦十三年(一七六三)二月七日に、義光公百五十年忌、この御子孫(義忠の子孫)より御弔いあり」という記事があるが、これはたぶん山寺の霊屋のことであろう。水戸に移ってから百五十年たった後にも、山野辺家は先祖のふるさと山形との縁を大切にしていたのである。もっとも、この年は義忠の百年忌にもあたっていたので、その供養も兼ねたのかもしれない。 霊屋内には、義光・家親二代の位牌を中に、山野辺義忠親子三人の位牌も納められている。義忠の牌記は次のとおり。 「義光次男従五位上 山野辺右衛門太(ママ)夫義忠 寛文四天極月十四日午ノ上刻」 「次男」は誤記かどうか。正室が生んだ男子としては、次男に当たるという意味か。 寛文四年は1664年。「極月」は12月。午ノ上刻は正午少し前ごろ。77歳、堂々たる生涯であった。 東根家に嫁いだ腹ちがいの妹が、遠い徳島で亡くなったのは同年8月のことだが、お互いにそういう事実を知ることができたのだろうか。 ■■片桐繁雄著 |
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【楯岡甲斐守光直/たておかかいのかみあきなお】 〜兄・義光のために祈った〜
「立石寺の薬師様の御前に、鰐口一箇を寄進します。そのわけは、出羽の国守、義光公の寿命が長く息災にて、文武ともに久しく発展するよう祈願するものです。」 慶長13年(1608)10月26日の銘がある巨大な鰐口には、このような内容の漢文がしっかりと刻みつけられている。願主は「山形甲斐守源光直」、義光の弟の祈りのことばである。 光直は一門の家老として、楯岡城主、1万6千石を与えられていた。 この年の前後から、最上義光の領国内は、明るい発展のムードがみなぎってくる。 山形専称寺、宝幢寺、鶴岡極楽寺には京都の「天下一道仁」の鋳造した鐘が納められ、羽黒山の五重塔や慈恩寺の三重塔が落成し、加茂の港は整備され、鶴岡三日町にはじめて橋がかけられ……と、出羽は新たな時代へと変わっていく。 華やかな桃山文化が、ここ出羽の国につぎつぎと移入され、うつくしく花を開かせはじめていた。 光直だけでなく、最上家の重臣たちもきそって、寺院や神社に土地、建物や美術品などを寄進して、領内の平和と発展を祈願した。 この鰐口は、そのころの様子を物語る貴重な史料の一つであり、現在は立石寺の宝物として県文化財の指定を受けている。 だが、最上家の繁栄を願った光直の祈りもむなしく、1622年(元和8)最上家はわずか一万石で近江に移されてしまう。 光直は、幕府の命令で山形を離れ、九州小倉城主細川忠利に預けられることとなった。 忠利は、江戸から国もとの家臣にあてて、わざわざ手紙を書いた。(『細川実記』) 「甲斐守が小倉に着きしだい、百人分の手当てをせよ。宿舎はしばらくは寺をあてるように。家は自分がそちらに行ってから申し付ける。……家来を百二、三十人も連れているのだから、その心得をするように」 奥羽の雄藩、最上家の改易は、諸大名にとって大きな驚きであったのだろう。手紙につづけて、「光直ハ最上義守ノ次男ニテ、義光ノ弟、其姉ハ伊達政宗ノ母堂ナリ」と注があるが、そういう人物を預かるのはやはり大変なことと受けとめられていたのである。 光直はやがて出家して「哲齋」と号し、七年後の寛永6年(1629)5月21日に病没する。年齢は65歳、71歳、二つの説がある。 近くの柳川(福岡県)には、最上家後継ぎ問題で対立した一族の松根光広が住んでいたはずだが、顔を合わせる機会もなかっただろうと思われる。 光直の子孫は、細川家が熊本に移ったのちも千石を与えられ、代々同家に仕えて明治維新を迎えた。 ■■片桐繁雄著 |
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【本城豊前守満茂/ほんじようぶぜんのかみみつしげ】 〜秋田南部を舞台に活躍〜
弘治2年(1556)生まれ。義光より10歳年下。弟だろうという説もあるが、どうやらそうではなく、分家筋の最上一族と見るほうがよいようだ。 『奥羽永慶軍記』『羽源記』などによると、義光の領地拡大作戦や領内支配にあたって、仙北地方(横手・湯沢付近)や由利郡など、現在の秋田県南部を主な舞台として大活躍している。 はじめ楯岡城主として「楯岡」を名乗ったとされ、仙北地方が最上領になった一時期は湯沢を本拠としたために「湯沢豊前守」と称されたこともあった。 最上義光が関が原合戦の後、慶長7年5月に由利地方を与えられてからは、その地方の政治をまかせられ、本城城(現本荘市)を築いて政治の拠点とした。今残る城跡も城下の町並みも、満茂の建設が基礎となっているわけだ。 彼の支配した領地は、最上家の分限帳で見ると実に4万5千石、最上一族、家臣団のなかでは最高の石高である。越後村上や津軽弘前に匹敵する堂々たる大名クラスである。最上の家臣でありながら、秋田の佐竹氏や津軽家とは、まるで対等の大名同士のような付き合いをしていたことが秋田藩の記録類からうかがわれる。さらに、この地域には豊かな金山があったところから、大きな財力をもっていたと想像されるが、これは今後の研究課題としよう。 ちなみに、秋田県側には「本荘市」という地名は、「本城豊前」の姓にちなむという説があり、そうだとすれば最上一族の名字が市の名として残ったことになる。だが、その反対に「本荘」城主になったからその地名を姓にしたと見るほうが妥当かもしれない。 最上家が改易になったとき、満茂は幕府の閣僚であった酒井雅楽頭忠世(前橋藩主)にあずけられた。「預け人」とは、政治的事件に連座して身分地位を剥脱され、大名家に預けられた人物である。そういう身の上ではあったが、満茂は大勢の家来を引き連れて前橋に移転した。その後は酒井家の家臣として召し抱えられたが、知行は本人千石、その家来たち2千石、合わせて3千石という待遇であった。 寛永16年(1639)1月21日没、84歳。宗家の主だった義光の69歳、義姫の76歳も長命なほうだったが、満茂はそれにまさる長寿にめぐまれたわけだ。 その墓は前橋の長昌寺にあり、子孫が姫路に移転してからも、代々墓所をたいせつに守りつづけてきたといわれる。 ■■片桐繁雄著 |
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【松根備前守光広/まつねびぜんのかみあきひろ】 〜俳人・松根東洋城の先祖〜
義光の弟である義保の子。義保は長瀞城主。兄の片腕となって出羽南部の平定に尽力したが、天正19年(1591)に戦死。ときに光広は3歳の幼児だった。義光がこれを哀れんで、息子同然にいつくしみ育てたと、宇和島市に残る古記録は伝えている。 光広は成人の後は山形市漆山に居住したこともあったが、西村山の名門白岩家の名跡を継いで「白岩備前守」を名乗る。 慶長5年(1600年)の関が原合戦、長谷堂合戦のときは12、3歳だったから、まず戦陣の経験はなかっただろうと思われる。元和2年(1616)、庄内櫛引郷に居城松根城を築いて松根姓を名乗る。一1万2千石、一書に1万3千石とある。 義光に育てられたことに対する報恩の気持ちからか、最上家を思う心が人一倍厚い人物だったようだ。 熊野夫須美神社に、那智権現別当あて、年次無記8月20日付、光広の書状が一通ある。 「最上出羽守義光が病につき、神馬一疋ならびに鳥目(銭)百疋を奉納いたします。御神前において御祈念くださるようお頼みします」という内容である。 「白岩備前守光広」の署名からみて、松根移転以前であることは明らか。義光の病が重くなった慶長18年(1613)のものと推定される。出羽からははるかに遠い紀州那智に使者を遣わして、病気平癒の祈りをささげたのである。あるいは、光広はそのころ上京中だったかもしれない。 義光が亡くなり、跡を継いだ駿河守家親も3年後の元和3年ににわかに亡くなり、その後を12歳の少年、源五郎家信が継ぐ。とかく問題行動を起こしがちな幼い主君に、家臣たちは動揺する。 家を守りたてるべき重臣たちのなかには、義光の四男山野辺光茂こそ山形の主にふさわしいとして、鮭延越前、楯岡甲斐らの一派が公然と動きはじめる。 かくてはならじ、お家のためになんとかせねばと、光広は「山野辺一派が策謀をめぐらし当主家親を亡きものにした」と幕府に直訴した。幕府でも一大事とばかり徹底的に究明したが、事実無根と判明。偽りの申し立てをした不届きの所業として、光広は九州柳川の立花家にあずけられてしまう。彼はここ柳川でおよそ五十年を過ごす。藩主立花宗茂との親交を保ちつつ、寛文12年(1672)84歳の生涯を終える。 その子孫が四国宇和島の伊達家につかえ、家老職の家柄を伝えて維新を迎えた。 高名な俳人松根東洋城(本名豊次郎1878〜1964)は、この家の9代目にあたる。宮内省式部官などを勤めながら夏目漱石の門下として俳壇で活躍、のち芸術院会員となった。 昭和4年6月、父祖の地である庄内の松根から白岩をおとずれた東洋城は、昔をしのんで次のような句を残した。 故里の故里淋し閑古鳥 青嵐三百年の無沙汰かな 出羽の最上から九州柳川へ、そして更に四国の宇和島へ。先祖のたどった長い長い3百年の道程だった。宇和島市立伊達博物館の庭には、「我が祖先(おや)は奥の最上や天の川」の句碑がある。 最上家の改易で会津・蒲生氏により接収破却された松根城の跡には、最上院がある。光広の妻が晩年に住んだという松根庵には、彼女の墓碑が寂しくたっている。 ■■片桐繁雄著 |
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【氏家伊予守定直・尾張守守棟/うじいえいよのかみさだなお・おわりのかみもりむね】 〜信頼厚い譜代の重臣〜
「どうぞ親子の争いをおやめください。最上のお家は義光様に任せるのが一番です。」 元亀元年(1570)に義光が家督を嗣ぎ、新たな政策を実行しはじめた段階で、家臣団が父義守派と嫡男・義光派に分かれて対立、領内が混乱におちいった。このとき、病床の氏家定直はこう言って、主君義守をいさめた。 その事情は5月15日付けの義守(入道して栄林)書状によってわかる。 「さてゝゝ此口之儀者、氏家存命不定之刻、意見に及び候条、諸事の不足をさしおき、親子和与せしめ候。定めて祝着たるべく候や」 現代語では「こちらの方では、氏家(伊予守)が生死のさかいにあるときに、意見してくれたことから、いろいろ問題はあっても、親子和解したところだ。まずは目出度いこととしてよいだろう」となる。 義守としては、不満はあれども喜んでいいことと、自分を納得させている文面である。 定直の忠言に従って義守は一旦は政治の世界から引退し、龍門寺に入った。 文献史料を見ると、氏家定直が最上家の重臣として活躍をはじめるのは、義光が生まれる前の天文12、3年(1543、4)ごろからで、主君義守が20歳を過ぎたばかりの時期にあたる。若い山形の主を、定直は懸命に支え続けてきたのである。だからこそ、その病床からの意見には、剛毅な義守も従わざるを得なかったのであろう。 仙台市青葉城資料館の大沢慶尋氏の研究によれば、15世紀前半の当時、米沢の伊達氏と最上氏が外交折衝をするときは、定直が後見となっていたとのことで、「義守政権の宿老で第一の重臣」の地位にあったという。 さらに筆者の意見を述べるなら、その名字の「定」は、さらに前代の「最上義定」から拝領したのではないか。だとすれが、義定の没年とされる永正17年(1520)以前からの、譜代の家臣だということになる。 * * * 義光時代に活躍する氏家尾張守守棟は、定直の子であろう。父が主君の名の一字をもらったのと同じく、彼も義守から「守」一字を拝領したと考えられる。ついでだが、その子「光棟」、孫「親定」もまた、「義光」「家親」の一字をもらったのだろう。 『最上記』によれば、守棟は常に義光の側近にあった。義光が領域拡大の戦いを積極的に進めていった時代、谷地の白鳥氏、寒河江氏、天童、上山の里見氏等との戦いには、さまざまな計略を進言して、成功を収めたとされている。 それだけではない。主君に対して厳しい苦言を呈したこともあった。 永禄年間(1565前後)に、貴志氏が篭もった八ツ沼城(朝日町宮宿)を攻めたとき、義光は真っ先かけてめぼしい敵と渡り合おうとする。一軍の総大将が勢い込んで走り出るのを、兵士たちは「とんでもないこと」と引き止めるが、義光はそれを振り切って進み、例の鉄棒を振り回して相手を仕留め、首を取った。 そのとき、傍に駆け寄った氏家守棟は、「大将ともあろう方がそんな雑兵の首を取って誰に見せようというのか」と、厳しく叱り付けた。義光は叱られてしょげかえり、取った首をかたわらにいた兵に与えてしまった。 まさに信頼厚い重臣なればこそである。 『奥羽永慶軍記』では、義光を「ソノ性寛柔ニシテ無道ニ報ヒズ、然モ勇ニシテ邪ナラズ」と称賛したのに続けて、「誠ニ君々タレバ、臣々タリトカヤ、時ノ執事氏家尾張守、元来忠アリテ義アリ」と、守棟を「志村九郎兵衛(伊豆守光安)」と並べて最上家の最重要な家臣として位置付けている。 守棟は、まさに義光の出羽南部統一事業をささえた大功労者であった。 『最上義光分限帳』には、その子「高壱万七千石 氏家左近」が出ており、城下絵図で見ると、山形城二の丸東大手門の前、元の県立病院の敷地一帯が氏家の屋敷であった。山形城内で最も重要な所に居住していたわけである。守棟の子光棟は、義光の娘「竹姫」を妻とするが、これは別項にゆずる。 山形市平清水の大日堂に、氏家相模守光房が「諸願成就」を感謝して寄進した鉄鉢がある。この人物も、伊予守、尾張守に連なる人物であろう。「慶長六年閏月(この年は十一月)二十八日」とあるから、出羽合戦で勝利を収めた記念でもあろうか。参考までに、尾花沢市六沢の円照寺観音堂に延沢康満が奉納した絵馬も、同年、同月「十七日」の銘がある。この月、山形領内では祝勝パーティーでもあったのか、あるいは戦後の論功行賞が発令されたのかもしれない。 話かわって、古く14世紀の南北朝時代、新田義貞が越前で戦死したときに、その首を取ったのは斯波氏の家来の氏家重国だと『太平記』にはある。このとき新田義貞が佩いていた太刀が、めぐりめぐって最上家に伝えられた名刀「鬼切丸」であるとされる。 斯波氏は現宮城県北部に居住して「大崎」を名乗り、最上家はその分家として出羽最上に入った。両家には共に「氏家」を名乗る重臣がいた。 どうやら氏家氏は、斯波氏、最上・大崎両家とは切っても切れない深いつながりがあったらしいのである。 ■■片桐繁雄著 |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum



【1】
元和3年(1617)3月6日(太陽暦4月11日)、山形藩主最上家親が急逝した。
さて、このとき嫡子源五郎は12歳。そのときどこにいたか、確かな記録はないが、おそらく江戸であろう。
藩主急死。
江戸の藩邸で大騒ぎをしている3月8日、山形では城下が大火に見舞われていた。
「山形寺社多く焼失、当山も残らず類焼」という、光明寺の記録がある。山形ではこの段階で主君の死を知るはずがなく、家臣、町人、寺社関係者にいたるまで、火災の後始末に懸命だったろう。そこに藩主急逝の報せが届いたのである。
英主・義光没後わずか3年、重なる凶事に領内は不安に覆われたに相違あるまい。
ところで地元山形領内の政務は、家親が幕府奥向きの役職のため江戸詰めが多かったことから、一族のめぼしい者や重役層が評定衆となって執行していたと思われる。そうして見たとき、最上藩にはどういう人物がいたか。
まず最上一族ではどうか。
慶長八年(1603)の政変で、長男義康はとうにいない。三男清水光氏(義親)は義光没年(慶長19年/1614)の一族抗争で敗死した。残る主な親類は、次のようだ。
山野辺光茂(義光の四男。後、義忠。天正16年(1588)生まれ、30歳。山野辺城主、1万9千300石)
上山光広 (義光の五男。推定慶長4年(1599)生まれ、19歳か。上山城主、2万1千石)
大山光隆 (義光の六男。推定慶長7年(1602)生まれ、16歳か。庄内大山城主、2万7千石。)
楯岡光直 (義光の弟。永禄8年(1565)生まれか。52歳ほど。甲斐守。楯岡城主、1万6千石。)
松根光広 (義光の弟、義保の子。天正17年(1589)生まれ、29歳。庄内松根城主、1万2千石。)
本荘満茂 (最上家分家筋。弘治二年(1556)生まれ、62歳。由利郡本荘城主、4万5千石)
いずれも大名格だが、上山と大山はまだ10代で、源五郎の叔父とはいっても兄のような若さで、力量は期待できまい。光直はもう年だ。そうなると義光の四男、前藩主の弟という近親者。年齢に不足なく、城池が山形に近いこともあって、藩内第一のリーダー格は山野辺光茂ということになりそうだ。政治の表向きには出なかっただろうが、義光の妹義姫(お東の方)が70歳で健在だった。
いっぽう家臣の方は、寒々とした状況だった。義光とともに戦い、最上家の隆盛をもたらした往年の勇将、智将の多くはすでに亡くなっていた。
志村伊豆守光安…慶長16年(1611)死去。後継者の光惟は義光の死去半年後に、鶴ケ岡城下で勃発した一栗兵部の反乱で殺害された。
氏家尾張守守棟…慶長20年(1615)死去。男子三人がいたようだが、上の二人は早世。三男、左近丞親定は26歳。幼少時から仏門入っていたため、政治には疎かっただろう。
坂紀伊守光秀……元和2年(1616)死去。
上山を領していた里見越後・民部親子、義光の信頼厚かった成沢、谷柏らの一族は、義康廃嫡時の政変で失脚したらしい。最上家を本気で守ろうという気概をもった宿老は少なかった。
残るは、歴戦の勇将鮭延越前守秀綱(真室川/鮭延城主、1万1千500石。56歳)・里見薩摩守景佐(東根城主、1万2千石。老齢、病身だった。)・野辺沢遠江守光昌(野辺沢城主、2万石。30歳代半ばか)・小国日向守光基(小国城主、8千石。年齢未詳)など。
これらの中で、実力者は、血筋、年齢、経歴から見て、随一は鮭延である。こういう状態で、藩主が亡くなり、12歳の長男、源五郎が残されたのである。
【2】
家督相続者は、江戸時代に入ってからは長男と決まったようなものだが、当時はまだこの考えは確立していなかった。12歳の源五郎でよいかどうか。領内でもとりどりの評判があっただろうし、幕府内部でもさまざま検討がなされただろう。しかし、結局幕府は5月3日に源五郎の家督相続を承認し、57万石は安堵された。
同月10日、幕府は未成年藩主であることに配慮し、領内政治の安定を図るべく7項目の指示をだした。内容は次のようなものである。(『徳川実記』『最上家譜』から要約。)
1 義光、家親が定めた制度を変えないこと。
2 家臣の縁組みは、2千石以上の場合、幕府に報告して許可を得ること。
3 訴訟裁断は先代の如く計らい、判定し兼ねる場合は幕府と協議すること。
4 父祖が任じた役職は、勝手に改変しないこと。
5 父祖が勘当追放した者を、領内に立ち入らせないこと。
6 家臣への加増、新規召し抱えは、家信幼稚のうちは幕府の許可を得ること。
7 家臣らが徒党を組むことは厳しく禁ずること。
幕府としては、義光の忠節ぶり、家親の律儀な奉公ぶりを高く評価し、奥羽全体の平和と安定のために最上家を重視していた。だから山形藩が整然と成り立っていくようにと、大所高所からの助言を与えたのだった。源五郎が「家信」を名乗るようになったのは、この前後であろうかと思われるが、定かではない。
ちょうどこのころ、先に義光が三重塔を建造し、3千石といわれる莫大な寺領を寄進した出羽の大寺、慈恩寺の大改修が進行中だった。家親急逝の後は、家信が願主となったのであろう。翌元和4年8月に、本堂が完成し大々的な入仏法会が行われた。
家信は、程なく江戸に出る。そういうときも国元では叔父山野辺光茂らが中心となって、領内政治を行っていたのであろう。
家信は江戸の最上邸(和田倉門付近にあった)に滞在していたと思われるが、たまたま起こった事件解決に大きな役割を果たす。
元和5年(1619)6月、幕府は広島藩主福島正則の改易を決定した。江戸の福島邸を接収するにあたって、家来たちの武力抵抗が予想されたため、幕府は監視・鎮圧の役割を最上家信および、松平忠明、松平忠次、鳥居忠政らに命じた。家信は軍勢を率いて出動し、事なく福島邸の接収を完了した。その功を賞して、秀忠は長光の太刀を褒美として下賜したと、『重修寛政諸家譜・最上氏系図』にある。家信十四歳である。
ところが、家信の評判は悪いほうに向かう。
元和6年9月12日の『徳川実記』に、
「十二日、最上源五郎義俊は、少年放逸にて、常に淫行をほしいままにし、家臣の諫めを用いず、今日浅草川に船遊して妓女あまたのせ、みずから艪をとりて漕ぎめぐらすとて、船手方の水主(かこ/船頭)と争論し、かろうじて逃げ帰る、水主等追いかけてその邸宅に至り、ありしさまを告げて帰りしかば、この事都下紛々の説おだやかならず」
という話が記録されている。大大名の当主になったとはいっても、それなりの教育も、訓練も受けていなかったのだと思われる。藩内部でも混乱が生じたらしい。同年10月16日、家信は山形の山王権現(現、香澄町三丁目日枝神社)に絵馬を3枚奉納した。金蒔絵の板に馬と猿を描き、「おさめたてまつる 馬形 三疋」と幼い筆跡で書き添えられている。猿は山王権現の使いで、馬を御し、しあわせをもたらすとされる。最上歴代が崇敬し、以前は山形城内に鎮座したこの社に、十五歳の藩主は何を願ったのだろうか。
行跡おさまらぬ主君から、家臣は離反しはじめる。重臣たちは相互に不信感をつのらせ、仲間割れしてしまう。この状態を、最上家が幕府に提出した自家の系譜ですら、
「義俊(家信)若年にして国政を聴く事を得ず、しかのみならず常に酒色を好みて宴楽に耽り、家老共これを諫むといえども聴かざるにより、家臣大半は叔父義忠(山野辺光茂)をして家督たらしめん事を願う」(前出、寛政・最上氏系図)と記述する。奥羽の押さえとされた名門大名最上家は、大きく傾きはじめた。
【3】
元和6年8月7日、東根2万2千石の城主、薩摩守景佐は、嫡子源右衛門親宜(ちかよし)あてに遺言状をしたためた。景佐は義光の傍らにあって大きな働きをした人物である。子・親宜は家親から一字をもらい、義光の娘を妻に迎え、最上家とは縁つづきの関係にあった。元の姓は里見氏。慶長七年の義光書状では「里見殿」と書いていたが、11年には「東根殿」となっている。出羽の要地を領する最上一門の誇りをこめて、姓を変えたのだろう。
さて、景佐の遺書は、「自分が死んだなら、源五郎様へ相続の御礼に行くように」から始まって、めんめんと思いを述べた文章である。「少しなりとも少しなりとも、殿様へご奉公いたして、粗略のないように心がけよ」「自分は少しも間違ったことをしなかったからこそ、東根の地をみな頂戴して、そなたへ渡すことができるのだ」
そういうこととともに、山野辺光茂、小国光基、楯岡光直へは、内々で形見を贈るよう指示した。景佐は、藩政運営にあたって、この三人と共同歩調を取っていたのであろう。 そして、この遺書は、最後のところで驚くべき指摘をしている。
「最上の御国、三年とこの分にあるまじく候。せめて御国替えにも候へばいつともにて……」。最上の国もこのままでは三年と持つまい。せめて国替えにでもなったら(以下意味不明)、というのである。義光とともに戦った老臣東根景佐の、最上家の将来に対する厳しい洞察であった。
【4】
こうして、最上家内部は混乱を深め、改易への道筋を走ることとなる。詳細なのが『徳川実記』である。現代語になおしてみる。(本来は藩主は「家信」、山野辺は「光茂」とすべきところだが、この記事では「義俊・義忠」となっているので、それに従う。)
…義俊は年若いために、みずから国政を掌握し、決裁することができなかった。常に酒色にふけり宴楽をもっぱらにし、重役家臣らが忠告をしても、取り入れようとしなかった。そこで家来たちの多くは、義俊を藩主の座から退かせ、叔父にあたる山野辺右衛門義忠を藩主にして、最上家を継がせようと望んだ。
ところが、家老の一人、松根備前守光広は承知しなかった。のみならず、彼は先代家親の死についてまで、「毒殺の疑いあり」と幕府に訴え出た。
当時、家親の急死には不穏な風説があったという。家親が鷹狩りのため城を出ての帰途、一族の家老楯岡甲斐守の家で宴を催したが、家親はその席でにわかに病を発し、ついに絶命してしまった。これは、同じく家老格の鮭延越前守と楯岡甲斐守が共謀して、山野辺義忠を主にしようと計って毒をすすめたのだ………というような話である。松根はこの噂を取り上げ、江戸に上って幕府にこう訴え出た。
「鮭延らは、山野辺を主にしようと考えて家親を毒殺し、また若年の義俊をすすめて酒色にふけり、国政を乱すように仕向けたのだ」
事実なら大事件である。幕府では酒井雅楽頭忠世が双方を邸に呼び出し、取り調べをしたが、松根の言い分には根拠がないことが判明した。松根は虚偽の訴えをしたとしてただちに罪人とされ、九州柳川の立花家にお預けとなった。
その後、幕府では町奉行島田弾正利正・米津勘兵衛由政を使者として、将軍の意向として次のように伝えた。
「義俊は年若くて政務が行き届かず、家臣らが騒動に及んでいる。最上というところは、奥羽越後に境して、東国第一の要地である。しばらく領地を幕府で預かり、義俊には6万石を与えよう。九人の家老も心を一つにして補佐し、国政を確実にするなら、義俊の成長後に本領を返すこととする。義忠はじめ家老一同、明日参上のうえ返答せよ」
しかしながら、山野辺、鮭延らの家老たちは、
「厳命承りましたが、松根のような逆臣を厳しく処分もなさらず、そのままにしておかれるのでは、またまた同様の讒臣がでて問題を起こすでしょう。そうなったらどうなることか。いよいよ義俊の本領を収公なさるとならば、我々家老どもはみな最上家から暇を取って出家遁世し、高野山に籠ろうと存じます」と、申し上げた。
義俊は若年無力、家老は不仲、そのような最上家に一国を預けることはできぬ。幕府は、元和8年8月18日、ついに断を下した。
最上領、25城、57万石は収公する。代わって、近江・三河に合わせて1万石を与える。
こうして、義光が築き上げた最上百万石は、崩壊した。
江戸時代を通じて、これほど大きな大名が改易処分となった例は、ほかにない。先にあげた福島正則は安芸広島約50万石、肥後熊本、加藤忠広もほぼ同じ。最上家の57万石は最大である。しかも最上家は、家康、秀忠二代にわたって親密な関係にあったにもかかわらずである。最上家改易は、全国諸大名にとって衝撃的な事件だった。
【5】
この年家信は17歳。詳細な経緯はわからないが、江戸城和田倉門前の最上邸は返還させられた。名字の「家」字は家康から父がもらい、それを引き継いだものだったが、これも元和9年8月以後に返したと見え、「源五郎義俊」が呼び名となる。
寛永8年(1631)7月15日、義俊は「一遍上人絵巻」を山形光明寺に再寄進する。これははじめ義光が光明寺に寄進し、訳あって一時源五郎のところで預かっていたものだった。「文祿三年七月七日 義光寄進」と巻末に銘記されているから、義光が京都で華やかに文化活動をしていた、そのころにあたる。現在は国指定重要文化財、奈良国立博物館に寄託、保管されている。
義俊は、絵巻物を寺に返して4箇月ばかり経った11月22日、1歳の男児、仙徳丸(後、義智)を残して江戸で亡くなった。二十六歳であった。浅草の万隆寺に葬られ、墓碑はそこにある。山形の光禅寺にも、祖父義光、父家親の墓と並んで、後日建立された墓碑がある。
若くして逝った薄倖な最上の主を悼んで、翌年4月吉日に山形七日町の法祥寺に供養の五輪塔を建てた人物がいた。
「寒河江之住人、微力をもってこれを造立す」と刻まれている。
■■片桐繁雄著