最上義光歴史館

最上家に伝わる義光愛用の鉄製の指揮棒です。

重さは1750gもあり、刀のおよそ2倍の重量です。
義光が実践で使用したとすれば、相当腕力のある人物だったことが想像されます。

指揮棒の表面には、「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光(せいわてんのうまつようやまがたでわのかみうはつのそうよしあき)」と刻まれています。

清和源氏であること、山形出羽守であること、剃髪していないが仏に仕える身であることなどを示しています。

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長谷堂合戦は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の地方戦です。

山形県のほぼ全域で、東軍の最上軍と西軍の上杉景勝の重臣直江兼続の軍が戦いました。
長谷堂は山形城から目と鼻の先、山形市の西方に位置します。

屏風は右隻が9月15日の様子、左隻が10月1日前後の様子です。

最上軍、直江軍とも有名な武将は名前が表記されています。
大将の最上義光も直江兼続もしっかり描かれています。
作者はこれまで戸部正直といわれてきましたが、近年その伝承について見直されています。詳細は>>こちら


▲右隻:長谷堂の攻防。右手には、長谷堂城主志村伊豆守の出陣姿が描かれています。左手には、軍配を持つ直江山城守ほか上杉軍の精鋭が描かれています。右上の建物が長谷堂城です。(※クリックすると拡大します)


▲左隻:退却する上杉軍と追撃する最上軍が描かれています。中央には、有名な鉄の指揮棒をふるって猛追する大将最上義光、左手には、鉄砲隊に守られた寄せ手の大将直江山城守が描かれています。(※クリックすると拡大します)

【参考】
解説シート〜長谷堂合戦図屏風
解説シート〜武将詳細図
軍旗(伝直江軍部隊旗)

桃山時代(16世紀)
作者/不明・材質/絹
縦156.0cm×横222.0cm
最上公義氏寄贈

慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の地方戦・出羽合戦(通称:長谷堂合戦)の上山口の戦いで、東軍の最上軍が西軍の上杉軍の直江兼続の家来本村親盛の部隊に勝利したときに、戦利品として持ち帰ったものと伝えます。
この旗は「かりがねの旗」と呼ばれ、絹の白地に墨で飛翔する一羽の雁を描いた斬新なもので、モダンなデザインです。
旗の素材に絹を用いる例は、上杉家だけでなく最上家や伊達家にも現存しています。
『山形市史 中巻』に、『米沢五十騎組旗明細帳』に「かりがねの旗、行衛不明」とあるのがこの旗だと記されていますが、はっきりしません。

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丸く円を描いた竹の図柄に二匹の向かい合った雀が配されています。最上家の家紋の一つです。竹に雀は上杉家や伊達家が有名ですが、最上家もこの紋を用いていました。この家紋は最上義光が愛用した三十八間金覆輪筋兜の鍬形台の中心に据えられています。

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長谷堂合戦は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の地方戦です。

山形県のほぼ全域で、東軍の最上軍と西軍の上杉景勝の重臣直江兼続の軍が戦いました。
長谷堂は山形城から目と鼻の先、山形市の西方に位置します。

屏風は右隻が9月15日の様子、左隻が10月1日前後の様子です。

最上軍、直江軍とも有名な武将は名前が表記されています。
大将の最上義光も直江兼続もしっかり描かれています。
作者はこれまで戸部正直といわれてきましたが、近年その伝承について見直されています。詳細は>>こちら


▲右隻:長谷堂の攻防。右手には、長谷堂城主志村伊豆守の出陣姿が描かれています。左手には、軍配を持つ直江山城守ほか上杉軍の精鋭が描かれています。右上の建物が長谷堂城です。(※クリックすると拡大します)


▲左隻:退却する上杉軍と追撃する最上軍が描かれています。中央には、有名な鉄の指揮棒をふるって猛追する大将最上義光、左手には、鉄砲隊に守られた寄せ手の大将直江山城守が描かれています。(※クリックすると拡大します)

【参考】
解説シート〜長谷堂合戦図屏風
解説シート〜武将詳細図

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