最上義光歴史館

▼所在地
最上義光歴史館
〒990-0046 山形県山形市大手町1-53
tel 023-625-7101
fax 023-625-7102

くわしい場所はこちらをごらんください>>Google map で表示

▼開館時間  
午前9時から午後5時まで(入館受付は午後4時30分まで)
 
▼休 館 日
月曜日(国民の祝日と重なる場合はその翌日)
※イベントの開催や展示替え作業などにより臨時で開館・休館する場合があります。詳しくはお問い合わせください

▼入 館 料  
大人300円、高校生200円、小中学生100円
※20名以上の団体は2割引になります 
※毎週土曜日は小中学生無料です

※平成21年4月1日から入館料が無料になります

▼アクセス
○鉄道  JR山形駅より徒歩約15分
○バス  霞城公園前バス停留所(大手町バス停)より徒歩1分
○自動車 山形自動車道山形蔵王I.Cより約20分

▼駐 車 場
最上義光歴史館専用の駐車場はありません
お車でご来館の方は隣接する山形市大手町駐車場(有料)霞城公園内駐車場をご利用ください
※駐車料金の割引券等は発行しておりません
※霞城公園内駐車場ご利用の場合、車の出入りは公園北門のみとなっています

観光バスをご利用の場合は観光バス専用駐車場をご利用ください



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最上義光歴史館は,山形市の公の施設です。地方自治法第244条の2第3項の規定により,財団法人山形市文化振興事業団が指定管理者として管理代行を行います。
指定期間は,平成21年4月1日から平成26年3月31日までです。
山形市の担当部局は,企画調整部文化振興課です。(連絡先023-641-1212 内線638)

財団法人文化振興事業団
〒999-3301
山形市大字山寺字南院4223番地(山寺芭蕉記念館)
tel 023-695-2221 fax 023-695-2552 
▼沿革と概要

山形繁栄の基礎を築いた戦国武将最上義光の名を冠した当歴史館は、散逸の危機にある最上家関係の資料を収集、保管、調査研究すると共に、広く一般に公開し、義光公並びに最上家を顕彰する施設として山形市が建設、平成元年12月1日に開館いたしました。

開館当時は鉄筋コンクリート造平屋建で、屋根が日本風の切り妻造り、建物自体はヨーロッパ風の建築様式が用いられ、前庭との調和を図った建物として建設されました。

平成4年2月には、施設の充実を図るため、収蔵庫、第二展示室、研修室及び喫茶室等を増設し、現在の鉄筋コンクリート造平屋建一部二階建が完成いたしました。

当歴史館の敷地は、最上家初代斯波兼頼公の菩提寺光明寺があった場所です。義光公が整備し、居城とした山形城の二の丸東大手門前の一等地に位置しております。現在は、国指定の史跡山形城跡から連なる市街地歴史文化ゾーンの中核として、歴史と文化の情報発信地の役割を果たしております。

▼館内の様子




▼Google ストリートビュー




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燦・虎賁郎将最上義光

 天下麻のごとく乱れた十六世紀、奥羽の世界もまた例外ではなかった。この混乱に終止符を打ち、出羽国に平和と安定をもたらしたのが、最上義光である。
 幾多の困難にうちかって、壮大な国づくりの夢を実現した最上義光。その偉業は、今もなお山形地方に大きな影響を及ぼしている。
 
 古くは南北朝時代、清和源氏の一流、斯波兼頼が出羽探題として最上府中山形にはいり、この地を政治の拠点とする。それから190年の後、天文15年(1546)、義光は第10代山形城主、最上義守の嫡男として生を享けた。その青年時代は苦難の連続であった。米沢の伊達氏、庄内の武藤氏をはじめとする、諸領主との幾多の戦いを経て、16世紀の末には現在の山形県内陸部の過半を領有するにいたる。
 そして慶長5年(1600)、天下を二分した関ヶ原合戦に際しては、徳川家康と連携して会津の上杉景勝と戦い、その論功によって57万石という大々名となる。その版図は置賜地方を除く山形県の全域から秋田県の南部におよび、その広大さと豊かさは、俗に「最上百万石」と称されるほどであった。
 世は乱世から泰平へと、大きな転換期を迎えていた。
 人口の急増、貨幣経済の浸透、生産技術の向上…義光はこうした時代の動きを洞察して、新たな領国の建設に努めた。
 雄大な山形城を築き、周囲には整然とした城下町を建設した。多くの堰をつくって、新田を拓いた。庄内の穀倉地帯は、実に最上義光からスタートしたといって過言ではない。治水、交通路の整備、鉱山の開発、最上川難所の開削、神社仏閣の護持…出羽国は、英傑最上義光の出現によって、画期的な変貌を遂げたのである。

 義光は出羽の人と土地を愛した。信義を重んじ、伝統文化を尊んだ。
  「命のうちにいま一度最上の土を踏み申したく候 水を一杯のみたく候」
  これは、文禄の役に際して、故郷を思う心を述べた手紙の一節。
 「偽りは侍の道にあらず」断固としたこの言葉は、妹義姫(伊達政宗の母)あての書簡にある。
 古典文芸に造詣ふかかった義光と、その家臣たちによって、山形に数多く美術工芸がもたらされた。出羽太守の城下山形に絢爛たる桃山文化の華がまさに咲き誇ろうとしていた。
 だが、その矢先、元和8年(1622)8月の最上家改易によって、こうした動きは滞ってしまう。
 そしてその後、山形はめまぐるしく藩主交替が繰り返される。一貫性のない政治の下に生きねばならなかった山形の民衆にとって、「出羽百万石、黄金の時代」だったのである。
 幕末庄内の勤王の志士清川八郎は、その著書「西遊草」のなかで最上義光の業績をしのんでいる。江戸幕府の儒学者塩谷宕陰は、義光を「虎将」と讃えて漢詩にうたった。
 後世の人々からまで大きな存在として仰がれた義光は、慶長19年(1614)1月18日、波乱と栄光に満ちたその生涯を閉じた。時に69歳。
 出羽国が生んだ最大の英傑、虎賁郎将最上義光。
 その名は、燦として、永く人々に語り継がれていくにちがいない。(勘)
名 前 最上義光(もがみよしあき)
出身地 山形(山形城/現在の霞城公園)
生 年 天文15年(1546)1月
没 年 慶長19年(1614)1月18日(69歳)
墓 所 光禅寺(山形市鉄砲町)
出 自 清和源氏・足利一門斯波氏の支族
家 紋 丸ニ引両筋・竹ニ雀・五七桐・十六葉八重菊



最上義光(もがみよしあき)は今から約450年前の天文15年(1546)1月に最上家10代当主義守(よしもり)の長男として山形城で生まれました。

幼いころは「白寿丸(はくじゅまる)」と呼ばれ、永禄3年(1560)に元服し、将軍足利義輝(あしかがよしてる)から一字をもらって「義光(よしあき)」と名乗ります。通称は源五郎(げんごろう)です。

元亀元年(1570)25歳の時に第11代の当主(城主)になりました。それから約40年の間にたくさんの業績を残します。

慶長7年(1602)には、57万石(徳川・豊臣を除いて全国第5位)の大大名になりました。

慶長16年(1611)には従四位上・近衛少将(じゅしいのじょう・このえのしょうしょう)になりました。

慶長19年(1614)1月18日義光は病のため69歳でその生涯を終えます。



最上家の第1代斯波兼頼(しばかねより)は、今から約650年前の延文元年(1356)にこの地にきて城をつくり、「出羽国最上郡山形郷(でわのくにもがみごうりやまがたごう)」という地名から「最上(もがみ)」という名字を名乗るようになったといわれています。

その兼頼から数えて11代目の当主(城主)が義光です。義光は慶長5年(1600)の慶長出羽合戦(けいちょうでわかっせん)の活躍で57万石という広大な領地をもつようになりました。

現在の山形県のうち置賜地方を除く全部と秋田県の南の一部です。また、義光は57万石を治める城として、これまで住んでいた山形城を三重の濠(ほり)で囲まれた大変大きな城につくり直し、家臣や商人・職人たちが生活する城下町を整備しました。

この時に山形市の原型がつくられたといわれています。義光は現在の山形市の繁栄の礎を築いたといえます。