最上義光歴史館

歴史館からのお知らせ
 ★⌒★その二★⌒★

 10月6日 (旧暦9月8日)

 直江兼続を総大将とする上杉軍が最上領に進軍開始。
 
   (ヾ(・(((ヾ((・(ヾ(・_・)ゞ)・))ゞ)))・)ゞ)

 上杉の大軍が、置賜や庄内からも続々と山形に押し寄せてきます。


 *上杉軍*

作戦1・・最上領内にある出城を攻め落としながら、山形城を落とす。
     (まわりから、じわじわと・・)

作戦2・・全軍で、山形城に攻め込む。
     (一気に勢いで!)

 直江兼続は、作戦1に決定!


 *最上軍*

作戦1・・出城の多くを放棄して、山形城、長谷堂城、上山城を拠点として、迎え撃つ。
     (村や田畑が荒らされるのを避けたいし、放棄すれば最小限の被害で・・・)

作戦2・・それぞれの城で迎え撃ち、徹底的に戦う。
     (返り討ちに!)

 最上義光は、作戦1に決定!

                   ★⌒★⌒★⌒★⌒★

 ついに、上杉軍が動きだして・・・

 最上軍の作戦って、義光クンの性格が出てますよねぇ。

 ナッツなら・・・

 迷わず逃げます。C= C= C= C=┌( ・_・)┘→→→

 だって・・

 └|∵|┐怖いし・・

 まだ、((((゜゜;)死にたくないし・・

 現代に生まれて、本当に、良かったです。

                   \(▽ ̄\)〜〜〜〜〜♪
【最上義康/もがみよしやす】 〜悲運の嫡男〜

 「義光のご子息、修理大夫殿が使者となって、山形から日駆けでこちらまで来られた。何の御用かまだ聞いていないが、たぶん加勢を依頼する使者かと思われる。(相談をしたいので)明日朝早くおいでいただきたい。お待ちしている」
 
 慶長5年(1600)9月15日、夜中の10時ごろに、伊達政宗はこのような内容の手紙を叔父の留守(伊達)政景に発した。
 最上領は、このとき直江兼続ひきいる上杉軍の猛攻撃を受けていた。
 荒砥から萩野中山を経て、白鷹山の北方をとおる山道(現、狐越街道筋)沿いに侵攻した上杉軍は、9月13日に最前線の畑谷城(山辺町)を攻め落とし、ただちに山形盆地に駆け下って、14日には山形城南西の要害、長谷堂城攻撃にとりかかった。
 同じ頃には、最上領内の多くの砦は、つぎつぎに落城、あるいは守備を放棄して明け逃げという状態だった。
 長谷堂城が落ちれば、山形は裸同然となる。山形の民衆はおびえていた。
 
 「会津(上杉)勢、モハヤ上山・長谷堂ヲ攻メ破リ、山形ニ乱入トイフモアレバ、イヤトヨ、明明日押寄スルナド」

うわさし合い、てんでに財産を持ち運んで山奥へと逃げ隠れた。
 これは『奥羽永慶軍記』の記述である。
 まさにその9月15日、義康が使者となって援軍要請のために、山を越えて北目城(現仙台市太白区)に駐留していた伊達政宗のもとへ走ったのであった。
 一族の最重要人物である嫡男が使者になったのである。最上一統にとって危急存亡の重大局面、ここは家臣では駄目だという義光の判断が働いていたのであろう。
 政宗は、最上への援軍派遣を了承した。 

 馬上 百八十七騎。 鉄砲 四百五十四丁。 弓 二百三十八張。 鎗  二百六十六丁。派遣人数合計 千百四十五。 (史料により差異あり)

 かなり本格的な援軍と言ってよいだろう。総司令官は、叔父の留守政景(伊達上野介)。伊達家でも南方の福島境方面に上杉の脅威を感じていたはずだが、しかし、最上への応援軍派遣を決定したのだった。
 政宗にとって義光は伯父、使者となって来た義康は従弟。当時山形には母・義姫がいた。司令官となった政景は、義姫の夫・輝宗の弟であった。
 政宗からの返書は、16日付け。

 「万々修理殿(義康)からお聞きした。そのうち千二百ばかり援軍を差し向けるので、ご安心あれ。近年は仲たがいして情けないことも少しはあったが、そんなことはこの際打ち捨てて、この身にかえても味方します」

 義康は、この書状をもらって、すぐさま山形に帰ったはず。その報せは、義光をはじめ最上全軍を歓喜させたに違いあるまい。
 だが、援軍の山形到着は遅れて、ようやく22日に笹谷峠を越えた。上杉主力軍の布陣は山形盆地の西側山麓であった。本陣は菅沢山、現沢泉寺付近とされるが、大森山の清源寺と推定される記事も米沢方の文書には見られる。
 長谷堂城を中心とする攻防戦は、9月末まで続く。
 9月晦日夜10時ごろに、関ケ原で徳川家康軍勝利の報せが届くと、政宗はすぐさま写しを義光へ届ける手配をする。
 同じ報せは、直江にも別方向から届いたと見え、翌日の10月1日(太陽暦11月5日)には、撤退する上杉勢を最上・伊達連合軍が追撃する。長谷堂から柏倉・門伝・村木沢(いずれも山形市西部)にかけては、激烈な戦闘が展開され、殿軍(しんがり)をつとめた上杉鉄砲隊の巧妙な射撃に、追う最上軍も苦戦を強いられた。
 大将義光が、この戦いでは鉄砲隊の標的にされ、兜の真っ向に銃弾が命中した。
 側近の堀(筑紫)喜吽は、義光の馬前で戦死した。上級家臣、志村藤右衛門も戦死した。このとき、山を隔てて父の苦戦を見た義康は、部下一千とともに馬から下りて駆け付け、横合いから敵を追い散らし父の危急を救ったという。
 慶長出羽合戦は、長谷堂合戦の後にも、翌年の酒田城攻撃がある。
 完全な終局は、慶長6年4月である。終始一貫徳川家康の盟友として戦った義光は、57万石の大大名となる。
 勝者家康は、慶長8年2月、京都において征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を創始する。
 徳川の時代が始まったのである。
 義光、58歳。山形にいる長男義康は29歳、江戸にあって家康、秀忠のおぼえめでたい次男家親は22歳であった。
 4月に京都にいた義光が、領国山形に帰ったのは、おそらくは夏のうちであろう。広大な最上領は、これから新たな発展を遂げるべき時となっていた。
 この時点での大問題は、後継者をだれにするかということだった。
 熟慮を重ねた結果が、家親となった。長男義康は、言わば廃嫡である。この経緯について『義光記』『永慶軍記』『羽源記』などの一致するところはこうである。
 嫡子修理大夫義康は武勇知謀ともにすぐれ、家督相続は確かだろうと思われていた。ところが、義光の側近と義康の家臣が威勢を争い、ついにさまざまな思惑が取り沙汰されるようになった。
 「大殿もご老齢なのに、いつまでも隠居なさらないのは、家督は家親様にとお考えだからだろう。」
 そう噂が広がれば義康も「あるいは、さもありなん」と思うようになる。
 いっぽう、義光の近臣からみれば、「殿ご健康なるに、隠居を望まれるとは、いかが」ということになる。
 たまたま、義康が光明寺で遊宴を催したときに、脇差が抜けて左の股を少し怪我をしたことがあった。これを聞いた義光側近は、「義康様は家督を譲ってもらえないのを恨んで、自害を図られた」と偽り告げた。
 それ以後親子の仲はひどく不和になってしまった。
 一門はもちろん、家老・寺社方までみな和解なさるようにと申し上げたが、ついに和解にいたらなかった。
 この状態を、江戸に上った義光が家康に相談した。家康は、
 「修理大夫は総領であろうとも、親の言い付けに背くは親不孝、国の乱れのもとともなろう。可愛い子供でも、国には替えられまい。帰国のうえ生害させるが良かろう。とはいっても、それは親が自分で考えるべきこと」と、示唆したという。
 帰国した父から、高野山へ行き(出家して)先祖の菩提を弔えと命じられた義康は、わずか十数名の家来とともに山形を立ち去る。義康の邸の中では、多くの女房たちが声をあげて泣き叫ぶばかりだった。
 義康一行が月山の峠を越えて、庄内櫛引の一里塚にさしかかったとき、松林の中から突如激しい銃激を浴びた。義康は下腹部を二つ弾に射抜かれて落馬した。伏兵であった。
 義康の家来たちは、必死に戦ったが多勢に無勢、ついに全員討ち死にする。
 襲ったのは、戸井(土肥)半左衛門のグループだった。
 義康は、こうして非業の最期を遂げる。慶長8年8月16日であったという。
 義光は、この事件の顛末をいたく悲しみ、山形の義光山常念寺を菩提寺とさだめて寺領百石を寄進、鶴岡の常念寺をも義康を弔う寺として、寺領138石を寄進した。
 義康暗殺が、果たして父親の意思によるものかどうか。最上家所蔵の「分限帳」には戸井半左衛門の名に「成敗」と添え書きがあるところから見ると、主君義光の意思に反した故に「成敗」されたのかもしれない。
 義康の死については、切腹と伝えるものがあり、また死に場所や年月日も異説がある。
 慶長2年正月、義康が当時の連歌の大家だった里村玄仍と交わした短連歌がある。

 「一夜とは霞や隔て今日の春 義康
  雪残りつつしののめの空   玄仍」

 広島大学の国文学研究室にも、義光と義康、親子そろって一座した百韻連歌1巻があり、ここでは義康の7句が選ばれている。そのうちの2句。
  
 山の端や更けても霧の晴れざらん
 鳴くもただ幽かなりけりきりぎりす
 
 慶長2年初秋の作であろう。とすれば、義康23歳だった。
 平成14年、義康四百年忌を期して、山形常念寺では立派な供養碑を建立して、非業の最期を遂げた若き最上家の嫡男を弔った。
 ■■片桐繁雄著
 今回から、ちょとだけ出羽合戦の連載を・・・

 うりゃ (((( -_-)乂(-_- )))) うりゃ 勝負!

 出羽合戦の流れを現代で感じてみてください。

 それから・・・・

 このネタは、かなり(; ̄- ̄;)ドキドキしながら書いておりますので、

 あたたかく見守ってください。

 1600年、関ヶ原の戦いがありました。

 同じ頃、山形でも最上軍VS上杉軍の戦いがありました。

 (メ-_-) ・・・☆・・・(-_-メ;)

 これを、新暦に直すと・・・

 なっ!(;°▽°)

      なんと!!(  ̄▽ ̄)/

 ちょうど今月が・・・

 と言うことで、【おびどめ日記】で出羽合戦を特集してみます。

 ナッツは、(σ‐ ̄)歴史が苦手なので・・

 歴史に詳しい方々・・

 広い心で・・・

 
 ★その一★

 10月1日 (旧暦9月3日)

 徳川家康が会津攻めを中断して、西に向かったのを知り・・

     塩→∴∵へ(^^へ) (ノ ^^)ノ∴∵←塩

 米沢で会議中⌒★( -人-)

   作戦1・・・徳川家康を追いかけて戦う。
   作戦2・・・家康を追いかけず、後ろの最上を攻める。

 その他にも、いろいろな作戦があったんでしょうが・・

 上杉景勝は、作戦2に決定しました。

 最上を攻める絶好の機会だったんでしょうね。

                   ★⌒★⌒★⌒★⌒★

 もしも、作戦1で家康を追撃していたら・・・

 ちょっと気になるナッツでした。(。 ̄_ ̄。)ノ
      《平成20年8月分の入館者アンケート集計結果》

 この集計結果は平成20年8月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。


          常設展示 (8/1〜8/31)
          開館日数・・・・・・・・・・27日間
          入館者数・・・・・・・・・・2,264人
          回答者数・・・・・・・・・・136人


 1.歴史館をどこで知りましたか

 (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・35%
 (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・1%
 (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・7%
 (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・2%
 (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・1%
 (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・5%
 (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・12%
 (8)観光案内所 (駅など)・・・ ・・・・・・・13%
 (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・23%
  (10) その他・・ ・・・・・・・・・・・・・・・1%

 2.歴史館の入館は何回目ですか

 (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・94%
 (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・6%
 (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・0%

 3.ご覧になられた感想

 (1)内容はいかがでしたか

   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・・32%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・・52%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・・15%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・・1%

 (2)最上義光と最上家について

   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・・42%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・・54%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・・0%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%

 (3)入館料について

   �々發ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%
   ��適当である・・・・・・・・・・・・・・・・78%
   �0造ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ隠�%

 〜利用者の声〜

 ◎展示品が少ない。

 ◎楽しかった。

 ◎刀剣をもっと展示してほしい。

 ◎音声ガイドが聞きやすくてよかった。
 
 ◎解説ビデオがあるので、わかりやすかった。
 
 ◎もう少し詳しい資料がほしい。
 
 ◎展示物は少ないけれど、うまくまとめてあって説明がわかりやすい。

 ◎伊達や豊臣との関係を詳しく展示してほしい。

 ◎義光の人物像が身近に感じられる展示があるとよい。

 ◎文字が小さい部分があって、見えない。

 ◎解説がわかりやすかった。

 ◎映像の近くに家系図があるとよかった。

 ◎体験コーナーがあればいいと思う。

 ◎全国的に知られていないので、もっとPRした方がよい。

 ◎キャラクターが面白くてよかった。

 ◎小・中学生向けにクイズもあり、楽しかった。

 ◎合戦の内容をグラフィック化して、詳しくビデオで放映してほしい。

 ◎詳しく説明があり、資料も多いのでよかった。

 ◎手紙に現代語訳がついていたので、人柄を理解することができた。

 ◎音声ガイドや、単眼鏡が無料なのがよかった。

 ◎展示の順番がわかりづらい。

 ◎駐車場の割引券をだしてほしい。

 ◎実際に触れることができる物があって楽しかった。

 ◎展示スペースが狭い。

 ◎暗くする理由はわかるが、一部資料が見えづらい。

 ◎山形城の資料を増やしてほしい。
 1595年8月2日  豊臣秀次の家族や仕えていた女性達30数名が

 京都の三条河原で打ち首にされました・・・

 その中には、義光の娘の駒姫(お伊万の前)も入っていました。

 資料を見ると・・

 {夫の秀次に会う前に殺された}とか、

 {まだ15歳だった。}

 なんて聞くと・・

 とても可愛そうに思えて・・

 ナッツは、初めて事実を知った時、衝撃がはしりました。

 新暦に直すと9月2日・・

               今日が 命日 なんですよね・・

 ペパクラの作品報告〜
           (。 ̄_ ̄。)ノ~~~ ドモ
 ( ノ^^)ノ作品�癸�
 
 前回作った、最上義光の兜( 館長製作 )

 

 後ろから

 

    難易度★★★
    紙強度★★★★★

 兜の構造は、難しくないんだけど・・

 厚紙を使ったから、くっつかない(泣)だから、難易度も星3個です。

 ちなみに、厚紙とは・・

 兜を飾る土台になっている紙と同じ物です。

 館長は、苦労してました・・


 ( ノ^^)ノ作品�癸�

 直江兼続の兜( ナッツ製作 )

 
 後ろから

 

    難易度★★★★
    紙強度★★★★★

 館長に対抗して厚紙を使った為に・・・

 ナッツは泣きました・・(ノ▽・、)クスン

 カッターで指を切りそうになりながらも完成♪

 力を入れて切らないと、厚紙だから切れない。

 指にカッターの窪みが・・

 
 ( ノ^^)ノ作品�癸�

 前田慶次郎の兜( 館長製作 )

 

 後ろから

 

    難易度★★★
    紙強度★★★

 前の2作品の苦労を踏まえ、厚紙に貼り付けずに中厚?

 厚めの紙に印刷することに・・

 切りやすい。

 くっつきやすい。

 作りやすい。\(●⌒▽⌒●)/ニャリーン

 紙の強度は落ちましたが、館長絶賛。

 義光も兼続のも、この紙を使えば苦労しなかったカモ・・

 兜以外の部分も作っていれば、

 前田慶次郎の兜の難易度は・・・


 ( ノ^^)ノ作品�癸�

 上杉謙信の兜( ナッツ製作 )

 
 後ろから

 
    難易度★★★★★
    紙強度★★★

 直江兼続の兜を作っているので、楽かと思ったら・・・

 (;^_^ A フキフキ

 飯綱明神の前立が・・

 細かい所も切り抜くので集中しないと・・

 次の日、ぉ眼メ(=ΦωΦ=)が筋肉痛に・・(意味不明)

 ナッツの好物→油揚げ (焼いて食べるのが好き♪)

 前立に狐サマもいるので、親近感もちましたぁ。


 ( ノ^^)ノ作品�癸�

 武田信玄の兜( 館長製作 )

 

 後ろから

 

    難易度★★★★
    紙強度★★★

 完成図が思い浮かばなかったらしく、

 信玄の兜の資料を見ながら苦労して作っていました。

 ナッツは、上杉謙信で燃え尽きたため・・・

 遠くから、(  ̄3 ̄)〜♪館長を見守っていました。←ちょっと薄情?

 武田信玄は義光と戦っていないケド、

 上杉謙信VS武田信玄という事で作ってみましたょ。

 5人の武将の兜が揃ったので、歴史館のロビーに飾ってみることに。

 数が揃うと、迫力〜!

 
 「木村サンの新作ができたら、また作りましょうね館長。」

 館長無言・・・・
           (/。\)ミザル [(−−)]キカザル (‐×‐)イワザル