最上義光歴史館
歴史館からのお知らせ
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【最上義康/もがみよしやす】 〜悲運の嫡男〜
「義光のご子息、修理大夫殿が使者となって、山形から日駆けでこちらまで来られた。何の御用かまだ聞いていないが、たぶん加勢を依頼する使者かと思われる。(相談をしたいので)明日朝早くおいでいただきたい。お待ちしている」 慶長5年(1600)9月15日、夜中の10時ごろに、伊達政宗はこのような内容の手紙を叔父の留守(伊達)政景に発した。 最上領は、このとき直江兼続ひきいる上杉軍の猛攻撃を受けていた。 荒砥から萩野中山を経て、白鷹山の北方をとおる山道(現、狐越街道筋)沿いに侵攻した上杉軍は、9月13日に最前線の畑谷城(山辺町)を攻め落とし、ただちに山形盆地に駆け下って、14日には山形城南西の要害、長谷堂城攻撃にとりかかった。 同じ頃には、最上領内の多くの砦は、つぎつぎに落城、あるいは守備を放棄して明け逃げという状態だった。 長谷堂城が落ちれば、山形は裸同然となる。山形の民衆はおびえていた。 「会津(上杉)勢、モハヤ上山・長谷堂ヲ攻メ破リ、山形ニ乱入トイフモアレバ、イヤトヨ、明明日押寄スルナド」 うわさし合い、てんでに財産を持ち運んで山奥へと逃げ隠れた。 これは『奥羽永慶軍記』の記述である。 まさにその9月15日、義康が使者となって援軍要請のために、山を越えて北目城(現仙台市太白区)に駐留していた伊達政宗のもとへ走ったのであった。 一族の最重要人物である嫡男が使者になったのである。最上一統にとって危急存亡の重大局面、ここは家臣では駄目だという義光の判断が働いていたのであろう。 政宗は、最上への援軍派遣を了承した。 馬上 百八十七騎。 鉄砲 四百五十四丁。 弓 二百三十八張。 鎗 二百六十六丁。派遣人数合計 千百四十五。 (史料により差異あり) かなり本格的な援軍と言ってよいだろう。総司令官は、叔父の留守政景(伊達上野介)。伊達家でも南方の福島境方面に上杉の脅威を感じていたはずだが、しかし、最上への応援軍派遣を決定したのだった。 政宗にとって義光は伯父、使者となって来た義康は従弟。当時山形には母・義姫がいた。司令官となった政景は、義姫の夫・輝宗の弟であった。 政宗からの返書は、16日付け。 「万々修理殿(義康)からお聞きした。そのうち千二百ばかり援軍を差し向けるので、ご安心あれ。近年は仲たがいして情けないことも少しはあったが、そんなことはこの際打ち捨てて、この身にかえても味方します」 義康は、この書状をもらって、すぐさま山形に帰ったはず。その報せは、義光をはじめ最上全軍を歓喜させたに違いあるまい。 だが、援軍の山形到着は遅れて、ようやく22日に笹谷峠を越えた。上杉主力軍の布陣は山形盆地の西側山麓であった。本陣は菅沢山、現沢泉寺付近とされるが、大森山の清源寺と推定される記事も米沢方の文書には見られる。 長谷堂城を中心とする攻防戦は、9月末まで続く。 9月晦日夜10時ごろに、関ケ原で徳川家康軍勝利の報せが届くと、政宗はすぐさま写しを義光へ届ける手配をする。 同じ報せは、直江にも別方向から届いたと見え、翌日の10月1日(太陽暦11月5日)には、撤退する上杉勢を最上・伊達連合軍が追撃する。長谷堂から柏倉・門伝・村木沢(いずれも山形市西部)にかけては、激烈な戦闘が展開され、殿軍(しんがり)をつとめた上杉鉄砲隊の巧妙な射撃に、追う最上軍も苦戦を強いられた。 大将義光が、この戦いでは鉄砲隊の標的にされ、兜の真っ向に銃弾が命中した。 側近の堀(筑紫)喜吽は、義光の馬前で戦死した。上級家臣、志村藤右衛門も戦死した。このとき、山を隔てて父の苦戦を見た義康は、部下一千とともに馬から下りて駆け付け、横合いから敵を追い散らし父の危急を救ったという。 慶長出羽合戦は、長谷堂合戦の後にも、翌年の酒田城攻撃がある。 完全な終局は、慶長6年4月である。終始一貫徳川家康の盟友として戦った義光は、57万石の大大名となる。 勝者家康は、慶長8年2月、京都において征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を創始する。 徳川の時代が始まったのである。 義光、58歳。山形にいる長男義康は29歳、江戸にあって家康、秀忠のおぼえめでたい次男家親は22歳であった。 4月に京都にいた義光が、領国山形に帰ったのは、おそらくは夏のうちであろう。広大な最上領は、これから新たな発展を遂げるべき時となっていた。 この時点での大問題は、後継者をだれにするかということだった。 熟慮を重ねた結果が、家親となった。長男義康は、言わば廃嫡である。この経緯について『義光記』『永慶軍記』『羽源記』などの一致するところはこうである。 嫡子修理大夫義康は武勇知謀ともにすぐれ、家督相続は確かだろうと思われていた。ところが、義光の側近と義康の家臣が威勢を争い、ついにさまざまな思惑が取り沙汰されるようになった。 「大殿もご老齢なのに、いつまでも隠居なさらないのは、家督は家親様にとお考えだからだろう。」 そう噂が広がれば義康も「あるいは、さもありなん」と思うようになる。 いっぽう、義光の近臣からみれば、「殿ご健康なるに、隠居を望まれるとは、いかが」ということになる。 たまたま、義康が光明寺で遊宴を催したときに、脇差が抜けて左の股を少し怪我をしたことがあった。これを聞いた義光側近は、「義康様は家督を譲ってもらえないのを恨んで、自害を図られた」と偽り告げた。 それ以後親子の仲はひどく不和になってしまった。 一門はもちろん、家老・寺社方までみな和解なさるようにと申し上げたが、ついに和解にいたらなかった。 この状態を、江戸に上った義光が家康に相談した。家康は、 「修理大夫は総領であろうとも、親の言い付けに背くは親不孝、国の乱れのもとともなろう。可愛い子供でも、国には替えられまい。帰国のうえ生害させるが良かろう。とはいっても、それは親が自分で考えるべきこと」と、示唆したという。 帰国した父から、高野山へ行き(出家して)先祖の菩提を弔えと命じられた義康は、わずか十数名の家来とともに山形を立ち去る。義康の邸の中では、多くの女房たちが声をあげて泣き叫ぶばかりだった。 義康一行が月山の峠を越えて、庄内櫛引の一里塚にさしかかったとき、松林の中から突如激しい銃激を浴びた。義康は下腹部を二つ弾に射抜かれて落馬した。伏兵であった。 義康の家来たちは、必死に戦ったが多勢に無勢、ついに全員討ち死にする。 襲ったのは、戸井(土肥)半左衛門のグループだった。 義康は、こうして非業の最期を遂げる。慶長8年8月16日であったという。 義光は、この事件の顛末をいたく悲しみ、山形の義光山常念寺を菩提寺とさだめて寺領百石を寄進、鶴岡の常念寺をも義康を弔う寺として、寺領138石を寄進した。 義康暗殺が、果たして父親の意思によるものかどうか。最上家所蔵の「分限帳」には戸井半左衛門の名に「成敗」と添え書きがあるところから見ると、主君義光の意思に反した故に「成敗」されたのかもしれない。 義康の死については、切腹と伝えるものがあり、また死に場所や年月日も異説がある。 慶長2年正月、義康が当時の連歌の大家だった里村玄仍と交わした短連歌がある。 「一夜とは霞や隔て今日の春 義康 雪残りつつしののめの空 玄仍」 広島大学の国文学研究室にも、義光と義康、親子そろって一座した百韻連歌1巻があり、ここでは義康の7句が選ばれている。そのうちの2句。 山の端や更けても霧の晴れざらん 鳴くもただ幽かなりけりきりぎりす 慶長2年初秋の作であろう。とすれば、義康23歳だった。 平成14年、義康四百年忌を期して、山形常念寺では立派な供養碑を建立して、非業の最期を遂げた若き最上家の嫡男を弔った。 ■■片桐繁雄著 |
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今回から、ちょとだけ出羽合戦の連載を・・・
うりゃ (((( -_-)乂(-_- )))) うりゃ 勝負! 出羽合戦の流れを現代で感じてみてください。 それから・・・・ このネタは、かなり(; ̄- ̄;)ドキドキしながら書いておりますので、 あたたかく見守ってください。 1600年、関ヶ原の戦いがありました。 同じ頃、山形でも最上軍VS上杉軍の戦いがありました。 (メ-_-) ・・・☆・・・(-_-メ;) これを、新暦に直すと・・・ なっ!(;°▽°) なんと!!(  ̄▽ ̄)/ ちょうど今月が・・・ と言うことで、【おびどめ日記】で出羽合戦を特集してみます。 ナッツは、(σ‐ ̄)歴史が苦手なので・・ 歴史に詳しい方々・・ 広い心で・・・ ★その一★ 10月1日 (旧暦9月3日) 徳川家康が会津攻めを中断して、西に向かったのを知り・・ 塩→∴∵へ(^^へ) (ノ ^^)ノ∴∵←塩 米沢で会議中⌒★( -人-) 作戦1・・・徳川家康を追いかけて戦う。 作戦2・・・家康を追いかけず、後ろの最上を攻める。 その他にも、いろいろな作戦があったんでしょうが・・ 上杉景勝は、作戦2に決定しました。 最上を攻める絶好の機会だったんでしょうね。 ★⌒★⌒★⌒★⌒★ もしも、作戦1で家康を追撃していたら・・・ ちょっと気になるナッツでした。(。 ̄_ ̄。)ノ |
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《平成20年8月分の入館者アンケート集計結果》
この集計結果は平成20年8月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。 常設展示 (8/1〜8/31) 開館日数・・・・・・・・・・27日間 入館者数・・・・・・・・・・2,264人 回答者数・・・・・・・・・・136人 1.歴史館をどこで知りましたか (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・35% (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・1% (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・7% (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・2% (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・1% (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・5% (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・12% (8)観光案内所 (駅など)・・・ ・・・・・・・13% (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・23% (10) その他・・ ・・・・・・・・・・・・・・・1% 2.歴史館の入館は何回目ですか (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・94% (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・6% (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・0% 3.ご覧になられた感想 (1)内容はいかがでしたか �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・・32% �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・・52% ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・・15% �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・・1% (2)最上義光と最上家について �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・・42% �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・・54% ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・・0% �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�% (3)入館料について �々發ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�% ��適当である・・・・・・・・・・・・・・・・78% �0造ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ隠�% 〜利用者の声〜 ◎展示品が少ない。 ◎楽しかった。 ◎刀剣をもっと展示してほしい。 ◎音声ガイドが聞きやすくてよかった。 ◎解説ビデオがあるので、わかりやすかった。 ◎もう少し詳しい資料がほしい。 ◎展示物は少ないけれど、うまくまとめてあって説明がわかりやすい。 ◎伊達や豊臣との関係を詳しく展示してほしい。 ◎義光の人物像が身近に感じられる展示があるとよい。 ◎文字が小さい部分があって、見えない。 ◎解説がわかりやすかった。 ◎映像の近くに家系図があるとよかった。 ◎体験コーナーがあればいいと思う。 ◎全国的に知られていないので、もっとPRした方がよい。 ◎キャラクターが面白くてよかった。 ◎小・中学生向けにクイズもあり、楽しかった。 ◎合戦の内容をグラフィック化して、詳しくビデオで放映してほしい。 ◎詳しく説明があり、資料も多いのでよかった。 ◎手紙に現代語訳がついていたので、人柄を理解することができた。 ◎音声ガイドや、単眼鏡が無料なのがよかった。 ◎展示の順番がわかりづらい。 ◎駐車場の割引券をだしてほしい。 ◎実際に触れることができる物があって楽しかった。 ◎展示スペースが狭い。 ◎暗くする理由はわかるが、一部資料が見えづらい。 ◎山形城の資料を増やしてほしい。 |
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1595年8月2日 豊臣秀次の家族や仕えていた女性達30数名が
京都の三条河原で打ち首にされました・・・ その中には、義光の娘の駒姫(お伊万の前)も入っていました。 資料を見ると・・ {夫の秀次に会う前に殺された}とか、 {まだ15歳だった。} なんて聞くと・・ とても可愛そうに思えて・・ ナッツは、初めて事実を知った時、衝撃がはしりました。 新暦に直すと9月2日・・ 今日が 命日 なんですよね・・ |
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ペパクラの作品報告〜
(。 ̄_ ̄。)ノ~~~ ドモ ( ノ^^)ノ作品�癸� 前回作った、最上義光の兜( 館長製作 ) 後ろから 難易度★★★ 紙強度★★★★★ 兜の構造は、難しくないんだけど・・ 厚紙を使ったから、くっつかない(泣)だから、難易度も星3個です。 ちなみに、厚紙とは・・ 兜を飾る土台になっている紙と同じ物です。 館長は、苦労してました・・ ( ノ^^)ノ作品�癸� 直江兼続の兜( ナッツ製作 ) 後ろから 難易度★★★★ 紙強度★★★★★ 館長に対抗して厚紙を使った為に・・・ ナッツは泣きました・・(ノ▽・、)クスン カッターで指を切りそうになりながらも完成♪ 力を入れて切らないと、厚紙だから切れない。 指にカッターの窪みが・・ ( ノ^^)ノ作品�癸� 前田慶次郎の兜( 館長製作 ) 後ろから 難易度★★★ 紙強度★★★ 前の2作品の苦労を踏まえ、厚紙に貼り付けずに中厚? 厚めの紙に印刷することに・・ 切りやすい。 くっつきやすい。 作りやすい。\(●⌒▽⌒●)/ニャリーン 紙の強度は落ちましたが、館長絶賛。 義光も兼続のも、この紙を使えば苦労しなかったカモ・・ 兜以外の部分も作っていれば、 前田慶次郎の兜の難易度は・・・ ( ノ^^)ノ作品�癸� 上杉謙信の兜( ナッツ製作 ) 後ろから 難易度★★★★★ 紙強度★★★ 直江兼続の兜を作っているので、楽かと思ったら・・・ (;^_^ A フキフキ 飯綱明神の前立が・・ 細かい所も切り抜くので集中しないと・・ 次の日、ぉ眼メ(=ΦωΦ=)が筋肉痛に・・(意味不明) ナッツの好物→油揚げ (焼いて食べるのが好き♪) 前立に狐サマもいるので、親近感もちましたぁ。 ( ノ^^)ノ作品�癸� 武田信玄の兜( 館長製作 ) 後ろから 難易度★★★★ 紙強度★★★ 完成図が思い浮かばなかったらしく、 信玄の兜の資料を見ながら苦労して作っていました。 ナッツは、上杉謙信で燃え尽きたため・・・ 遠くから、(  ̄3 ̄)〜♪館長を見守っていました。←ちょっと薄情? 武田信玄は義光と戦っていないケド、 上杉謙信VS武田信玄という事で作ってみましたょ。 5人の武将の兜が揃ったので、歴史館のロビーに飾ってみることに。 数が揃うと、迫力〜! 「木村サンの新作ができたら、また作りましょうね館長。」 館長無言・・・・ (/。\)ミザル [(−−)]キカザル (‐×‐)イワザル |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum



10月6日 (旧暦9月8日)
直江兼続を総大将とする上杉軍が最上領に進軍開始。
(ヾ(・(((ヾ((・(ヾ(・_・)ゞ)・))ゞ)))・)ゞ)
上杉の大軍が、置賜や庄内からも続々と山形に押し寄せてきます。
*上杉軍*
作戦1・・最上領内にある出城を攻め落としながら、山形城を落とす。
(まわりから、じわじわと・・)
作戦2・・全軍で、山形城に攻め込む。
(一気に勢いで!)
直江兼続は、作戦1に決定!
*最上軍*
作戦1・・出城の多くを放棄して、山形城、長谷堂城、上山城を拠点として、迎え撃つ。
(村や田畑が荒らされるのを避けたいし、放棄すれば最小限の被害で・・・)
作戦2・・それぞれの城で迎え撃ち、徹底的に戦う。
(返り討ちに!)
最上義光は、作戦1に決定!
★⌒★⌒★⌒★⌒★
ついに、上杉軍が動きだして・・・
最上軍の作戦って、義光クンの性格が出てますよねぇ。
ナッツなら・・・
迷わず逃げます。C= C= C= C=┌( ・_・)┘→→→
だって・・
└|∵|┐怖いし・・
まだ、((((゜゜;)死にたくないし・・
現代に生まれて、本当に、良かったです。
\(▽ ̄\)〜〜〜〜〜♪