最上義光歴史館

歴史館からのお知らせ
いよいよ「天地人」の放送が近づいてきました…わが殿最上義光は誰が演じるのか!?出番はあるのか!?もしかして…!?実は…!?ついに…!?

さてさて…主人公直江兼続公のトレードマーク「六十二間筋兜(『愛』の前立の兜)」(上杉神社蔵)はすでに掲載済みですが、このたび、兼続公が仕えた初代米沢藩主上杉景勝公の「日輪雲前立黒漆塗巾着形兜(抹頭形兜)」(上杉神社蔵)のペパクラ兜が完成しました。木村社長ありがとうございますm(_ _)mまだまだ他の兜も計画中とのことですが…次はどの武将ですか木村社長!?


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◆直江兼続公所用「六十二間筋兜(『愛』の前立の兜)」 上杉神社所蔵(画像は縮小版)◆








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天地人・上杉の智将 直江兼続サイト


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◆上杉景勝公所用「日輪雲前立黒漆塗巾着形兜(抹頭形兜)」 上杉神社所蔵(画像は縮小版)◆









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★ほかの武将兜ペーパークラフトは>>こちら

※このペーパークラフトは米沢市の木村吉孝氏が企画し、川島印刷、精英堂印刷が設計製作したものです。
刀 朱銘 来国次

作者/来国次
鎌倉時代
刃長/63.1��
反り/1.8��
重さ/685g

来国次は約700年前に活躍した山城国(現京都府)の代表的な刀鍛冶です。
国次はその作風から、名工正宗の弟子という説もあります。
この刀は、水戸徳川家の家老職を務めた義光の四男山野辺光茂が所持していた刀と伝えます。

姿は、中反り鋒のびごころで姿良く、鎌倉末期の特徴を示す。
鍛は、板目に杢目交じり、地沸よくつき地景入り地斑映り立つ。
刃文は、互の目に丁子、匂口深々として小沸つき明るく冴える。刃中に足太く長く入り、葉・金筋入って砂流しかかり、刃縁打のけ・二重刃入る。帽子は表が掃きかけごころ小丸に浅く返り、裏は乱れ込んで履きかけわずかに返る。
茎は、磨上げ無銘に朱銘で「来國次」と極める。
彫は、表裏とも棒樋丸留め。
太刀 銘 (表)八幡宮奉納源家親/(裏)出羽国酒田住兼高作

作者/兼高 
桃山時代
刃長/101.2��
反り/3.9��
重さ/1365 g

兼高は約400年前の天正から慶長頃の刀鍛冶です。
銘に酒田住とあるとおり、現在の山形県酒田市に居住して鍛刀していました。
美濃関系統の刀工で、初めは上杉家の後援を受け、慶長5年以降も酒田に居住して最上家の厚遇を得て鍛刀しています。
この刀は、義光の二男12代家親が元和2年(1616)に山形市の六椹八幡宮に奉納した刀です。

 10月25日(土)

 山形駅西口で天地人祭りのイベントがありました。

 (⌒▽⌒)ノ その報告をちょっと・・・

       上杉VS最上で ( ⌒o⌒)人(⌒-⌒ )

 物産合戦、味合戦、芸能合戦が繰り広げられました。

    祭┌(・。・)┘祭♪祭└(・。・)┐祭♪祭┌(・。・)┘祭

 米沢・山形の他に、上山・白鷹・山辺を巻き込んでのお祭りです。

 歴史館も天地人PRの為、参加しました。(・ε・)ノ オー!


 天地人では、敵役として登場ですが・・・

 最上義光の事を知ってもらうのにも良い機会なので・・

 というより・・

          ♪♪♪ d(⌒O⌒)b♪♪♪

 「祭りじゃ〜ぁ!!」

 との事で、歴史館も参戦です。(= ̄+▽ ̄=) キラーン★

 おそろいのハッピを着て、張り切ってPRしましたぁ。

 

 隣で米沢のPRをしていたので、敵地視察・・・

                   〔壁〕 _・。) ジ〜

 のつもりが・・

 「かねたん缶バッジ可愛いぃ〜!」

       〜( ̄▽ ̄〜)(〜 ̄▽ ̄)〜 フラ〜

 思わず、買ってしまいました・・

           ♪~♪ d(⌒o⌒)b♪~♪ルンルン

 早速、スタッフカードに付けて戻ったら・・・

 

 最上軍スタッフに、大ブーイング!

         (;_;)/~~「いぃじゃん・・・」

 「お祭りだし・・・」

 「義光クンの木札も付けてるもん・・・」

       ( ̄▽ ̄P義光q  ☆

 

 敵だろうと、可愛い物は欲しいです…(。−_−。)ぅん

 反抗期のナッツは、現在もはずしていません。(笑)

                    (@ ̄▽ ̄@)ぇへ@

 そぅそぅ♪

 お祭り開始の指揮をしたのは、

 ☆彡(ノ^ ^)ノ コスプレした館長〜♪

 

 一緒に、かねたん♪も登場〜!\(▽⌒\)

 

      「ぃや〜♪♪  可愛いぃ〜!」(かねたん♪)

 ステージから降りた「かねたん」と写真を撮る歴史館スタッフ★

 本人の強すぎる希望により、モザイク処理させていただきましたが・・

 

 最上の殿(館長)と、かねたんがTVの取材を受けていました。

 

 パチ /■\_・) カメラ

 

 TVを見て「天地人祭り」に来た人も多かったみたいですね。

 会場で、最上義光のお酒も販売していましたよ。

       (「・・) ドレドレ

 

       (^_[・]) ロックオン 

 試飲発見・・・

 でも、仕事中なので我慢です・・・


 味合戦では、両方の鍋を無料配布♪

 

 山形は**芋煮**

 

 米沢は**謙信ちゃんこ**

 並んでいる人に睨まれないように・・・

 

           コソコソ(・_・ )))))((((( ・_・)コソコソ

 「HP用に写真だけ撮らせてくださ〜ぃ♪」

 食べ物の恨みは、恐ろしいですから・・・(^^;)

 お願いして撮らせていただきました。

 

 山形市の芋煮は、里芋・牛肉・こんにゃく・ごぼう・ネギが入っていて

 「しょうゆ味」

 お外で芋煮会やると、最後はカレーうどんに 

 σ( ̄。 ̄)するんだよねぇ。

 家庭によっては、きのこが入ったりします。

 ナッツの知り合いの家では、豆腐が入るとか・・・

      (  ̄− ̄)フムフム

 里芋じゃなく、ジャガイモやサツマイモを入れる人もいました。

     _φ(・_・”)《そんなにあるのか・・・》

 家庭によって具が変わるのは面白いデス。

 地域によって、豚肉で「みそ味」の所も・・

 ★\(ハ ̄ー ̄イ)/★

 それは、豚汁では・・?

 と思う人も居るかもしれませんが、その地域では豚肉・みそ味が「芋煮」

 それが代々伝えられているので、それが郷土料理になっていま〜す。

 (⌒▽⌒)ノちなみに・・

 ナッツ宅では、しょうゆ味で大量のごぼうが入り、まいたけも入りマス。

      ((^^))マル((^^))マル((^^))マルマルマル



 

 米沢の謙信ちゃんこ!

 o(*^^*)o ワクワク

 初めてみましたぁ〜♪

 とんこつがベースになっていると聞きました。

 米沢ラーメン、鯉のツミレが入っていて・・・

 ((o(^-^)o))おいしそぅ〜〜♪

 今回は食べられないみたいなので、

 米沢のどこに行けば食べられるのか、作っている人に取材を・・・

       _ ((φ( ̄ー ̄ )

 「取り扱い店は、募集中で〜す(^ー^;)」

 ( ̄△ ̄;)《なっ・・》

 天童の鍋合戦用に考案されたとかで・・・

 聞いたら、米沢の人でも食べたこと無い人が多いとか・・( ̄ω ̄;)ムム

 今年の鍋合戦の日は、休みもらって食べに行こうかなぁ〜

 米沢で、飲食業の方・・・

 メニューに加えてください。  m(_ _)m



 

 餅つき⌒★ 餅つき⌒★

 見ていて楽しいです♪

 \(^0^)人(^0^)/

 息が合っていて素晴らしぃ。

 昔は、こんな風に餅つきしていたのにね・・

 ナッツ宅も、現代風に「全自動餅つき機」だもんなぁ・・(._.)

 かってに餅になっているから、気にした事なかった。

 便利な時代になっているケド・・

 伝統や文化も残していかなければいけないよねぇ。(。^_・)ノ


 イベントは、天気もよくて気持ち良かったし⌒★

 楽しかったぁ〜♪  ★⌒(*^▽゜)v

 仕事なのに、仕事じゃないみたいだったよ。(笑)

 かねたんにも会えたし、満足×2♪

 来週は歴史館のイベントだし、

 更に楽しみだぁ〜♪  (*^m^*) ムフッ

 今日みたいに、天気がよくなるように・・

 てるてる坊主でも作ってみようかなぁと思うナッツでした。


 


  と・・・

 気楽に思えるのは、今だけで・・・

 イベントで古い雑巾のようにボロボロになる事を、まだ知らない・・・

                        (。 ̄_ ̄。)ノ~~~
     《平成20年10月分の入館者アンケート集計結果》
 
 この集計結果は平成20年10月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。


         常設展示 (10/1〜10/31)
        開館日数・・・・・・・・・・27日間
        入館者数・・・・・・・・・・2,634人
        回答者数・・・・・・・・・・67人

 1.歴史館をどこで知りましたか

 (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・21%
 (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・6%
 (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・8%
 (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・0%
 (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・1%
 (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・6%
 (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・23%
 (8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・13%
 (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・18%
  (10) その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・4%


 2.歴史館の入館は何回目ですか

 (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・90%
 (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・6%
 (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・4%


 3.ご覧になられた感想

 (1)内容はいかがでしたか

   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・・39%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・・51%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・・1%

 (2)最上義光と最上家について

   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・・47%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・・52%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・・0%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%
 
 (3)入館料について
 
   �々發ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%
   ��適当である・・・・・・・・・・・・・・・・82%
   �0造ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ隠�%

 〜利用者の声〜

 ◎展示物の一覧や、写真資料のCD・DVDを販売してほしい。

 ◎指揮棒を見る事ができなかったのが残念だった。

 ◎虎将と呼ばれる由縁がしりたい。

 ◎解説が解りやすくて良かった。

 ◎展示品が少ない。

 ◎義姫の資料がほしい。

 ◎館内は、とてもきれいで資料も豊富だった。

 ◎当時用いられていた陣太鼓がおもしろかった。

 ◎長谷堂の屏風の解説がわかりやすくて良かった。

 ◎近世の事も展示してほしい。

 ◎もっと広くしてほしい。

 ◎もう少し活躍がわかるように、展示品を充実させてほしい。

 ◎子供でも理解できる説明書きがとても良かった。

 ◎もっとPRしてほしい。

 ◎もう少し鎧などを見たい。

 ◎直江兼続の年表を詳しく説明してほしい。

 ◎とても楽しかった。

 ◎ビデオモニターの広場を広くしてほしい。

 ◎出羽合戦についての資料を増やしてほしい。

 ◎わかりやすくて、とても良かった。

 ◎感動した。

 ◎全体的に良かったが、グッズを増やしてほしい。

 ◎音声ガイドがわかりやすい。

 ◎資料保存の為とはいえ照明が暗くて説明文がよく見えにくい。

 ◎県立博物館、美術館、等の共通券を作ってほしい。
山形藩主・最上源五郎義俊の生涯

【はじめに】

 羽州の地に五十有余万石の領国を築きあげた最上義光が、栄光に満ちたその生涯を終えたのは慶長十九年(1614)一月のことだった。それから八年後の仲秋の頃、孫の源五郎が何故に領国崩壊への道をえらばねばならなかったのか。
 徳川恩顧の父家親早なる死の後は、家中の源五郎の排斥の気配も、さして感ずることなく幼年の源五郎に家督が許されたことは、それが家中の総意に適うものとは限らないにせよ、本領安堵に落ち着いた現状を見るとき、家中一同も一時の安堵の思いに身を馳せたことであろう。しかし、それも束の間のことであって、次第に高まる一族の重臣達を筆頭にしての抗争が、藩主義俊の家中統率の無能さを、表面に出しての論争に発展するところとなっていった。
 義俊の五年余の山形藩主時代は、一片の自己主張すら藩政に反映させることは困難であったろう。それは若年の身に加えて、身辺に漂う悪しき風評の全てが、必ずしも自己の為せる業とは言えないまでも、己の意思の欠如を如実に物語ったものといえよう。祖父義光が営々として築き上げた大藩を守りきるには、若き藩主とそれを支える側の体制では、どうすることもできなかったのである。
 元和三年(1617)五月の襲封から、三年後に起きた幕府監察の導入は、それは最上家内での醜聞を白日のもとにさらけだす結果となった。そして改易を迎えるまで、幕府の表向きの政治的な関与は無かったにせよ、絶えず監視下のもとに置かれていたのであった。そして藩内を二分しての対立の構図がやがては幕閣要人達の利害に絡む論争の場へと、発展して行ったという。
 遠く中世の代に端を発した最上の家を、破滅の道に追い込んだ原因、そしてその責任は誰が取らねばならぬのか。若き源五郎義俊にその全責任を負わせるのは酷であろう。むしろ己の権力保持に汲々としていた重臣達に、義俊を満足に支え切れなかった責任を問うべきである。
 ここでは、最上家側での義俊に関わる記録の希薄さから、その生きざまを満足に語る程に、充実したものを探しだすことは難しい。それでも、何とか義俊の痕跡を捜し求めながら、その生涯をたどって行ってみたい。なお源五郎が家信から義俊に改名したのは、改易後のことであるが、本稿では義俊に統一している。
■執筆:小野末三

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