最上義光歴史館
歴史館からのお知らせ
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《平成21年1月分の入館者アンケート集計結果》
この集計結果は平成21年1月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。 常設展示 (1/1〜1/31) 開館日数・・・・・・・・・・24日間 入館者数・・・・・・・・・・579人 回答者数・・・・・・・・・・ 21人 1.歴史館をどこで知りましたか (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・10% (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・0% (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・14% (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・9% (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・5% (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・0% (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・24% (8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・19% (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・14% (10) その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・5% 2.歴史館の入館は何回目ですか (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・76% (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・10% (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・14% 3.ご覧になられた感想 (1)内容はいかがでしたか �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・24% �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・57% ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・19% �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・0% (2)最上義光と最上家について �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・14% �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・86% ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・0% �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�% (3)入館料について �々發ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�% ��適当である・・・・・・・・・・・・・・・90% �0造ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�% 〜利用者の声〜 ◎斯波氏についてや、義光以前の最上氏についても展示してほしい。 ◎おみやげやグッズを充実させてほしい。 ◎展示品の解説がわかりやすかった。 |
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宝光院の文殊菩薩騎獅像
山形市八日町にある天台宗宝光院所蔵の文殊菩薩騎獅像について問題点を述べてみたい。この文殊菩薩騎獅像については、松尾剛次氏の見解が発表されており、これを踏まえて考察する。ただし、騎獅像そのものの評価および宝光院の歴史については割愛する。 文殊菩薩騎獅像の上部から左上部には次の文言が刺繍されている。「出羽国最上/中野内/寿昌寺住/源末葉/永浦尼繍/永禄六年癸亥四月十七日」とあり、この騎獅像は永禄6年(1563)4月17日に中野の寿昌寺に住する源氏の末葉の永浦尼が刺繍したことになる。 問題は、騎獅像の右上部にある一行をどう読むかである。松尾氏は「上宝光院住増圓」と解読し、永浦尼が宝光院住職増円にこの文殊菩薩騎獅像を寄付したと理解されていることである。 しかし、これには問題がある。まず、この刺繍の文言のうち「出羽国最上……永禄六年癸亥四月十七日」の文字は、その大きさや字配りには納得できるものがある。しかし、「上宝光院住増圓」の文字は騎獅像の右上部に偏り、文字も若干小さい印象を受ける。少なくとも、全体の文言の中でこの部分はバランスを欠いていると言わざるを得ない。「上宝光院住増圓」の文字は「出羽国最上……永禄六年祭亥四月十七日」の文字が刺繍された後に付け足されたものではないかと思われる。ただし、永浦尼の刺繍であることを否定するものではない。しかし、後補となれば、当初から宝光院住職増円に寄付されたとするには疑問がある。 最大の問題は、この部分を「上宝光院住増圓」と解読してよいかということである。このうち「上」については、すぐ左隣に「最上」の「上」の文字があり、比較すると非常に違和感がある。この「上」は「之」と読むべきではないかと考える。とすれば、この部分は「出羽国最上/之宝光院住増圓」と続けて読むほかはないのではないかと思われる。読み方としては異例ではあるが、このように考えざるを得ない。とすれば、この騎獅像は増円の発願により永浦尼が刺繍したと考える余地もある。 次に寿昌寺および永浦尼についてである。刺繍文によると、寿昌寺は中野にあったわけだが、現在中野に寿昌寺は存在せず、その痕跡も知られていない。永浦尼が住する尼寺であるが、松尾氏が「寿昌寺は最上義守の菩提寺」と断定する根拠は何であろうか。従来、義守の菩提寺は龍門寺しか知られておらず、寿昌寺に関する手がかりはない。 さらに、この刺繍は永浦尼を「源末葉」としている。永浦尼は源氏の後裔で尼となった人物である。松尾氏は永浦尼を「義守妻(義光の母)」とされているが、義守の妻については、いまだ確認されていない。わずかに小野少将の娘とする説があるが、確実なものではなく、また小野氏が源氏の後裔であったとは思われない。 義守の妻が夫の存命中、しかも最上氏の当主であった時期に、夫に先立って剃髪・出家し、尼僧となることは考えられない。源氏の後裔となれば最上一族で、義守の姉妹である可能性が高いと思われる。また、義守は中野義清の次男とされるので、義清の妻、つまり義守の生母の可能性もある。 【附記】宝光院の文殊菩薩騎獅像は、現在山形大学附属中央図書館の所蔵となっている。 ■執筆:粟野俊之(大本山永平寺史料全書編纂室室長) 「『村山民俗学会』会報 第207号」(発行日2009年1月1日)より転載 ※掲載にあたっては、執筆者の粟野俊之氏並びに村山民俗学会会長野口一雄氏の許可を得て、村山民俗学会事務局市村幸夫氏のご協力をいただきました。 |
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【山野辺義忠/やまのべよしただ】 〜水戸徳川家の重鎮となった〜
最上義光が巨大な人物だったことは言うまでもないが、その血を分けた息子たちのなかにも、非常にすぐれた人物がいた。 四男山野辺義忠(改名前は光茂)は、その筆頭に挙げることができるだろう。 天正16年(1588)生まれ。父義光43歳であった。 幼名を比治利丸(ひじりまる)と称したという。義光のほかの子等同様、系図類には生母として「某氏」とあるだけだが、おそらくは正室大崎夫人の所生かと思われる。夫人は40歳に近かったのではあるまいか。 義光の子供たちの生年を見ると、長男義康は1575年生まれ、松尾姫・78年、駒姫・81年、竹姫・84年、それにこの光茂は88年生まれ。異論はあるかもしれないが、14年間に生まれたこの5人を同腹としても矛盾はない。 家親(義光没後、山形城主)と光氏(後清水城主、義親)は、ともに1582年(天正10)生まれで当然異母兄弟、駒姫とは1歳違いの弟に当たる。 家親の実母は、慶長3年(1598)12月14日逝去「高月院殿妙慶禅定尼」と最上家過去帳に記載がある。光氏は天童夫人(天正10年10月12日没)の子らしく、彼の領した清水(現大蔵村)の興源院が母子の牌所となっている。 これら七人の兄弟姉妹からずっと離れて、光茂とは11歳違いの五男光広(1599生、後上山城主)、六男大山光隆(1602生、後大山城主)、徳島で亡くなった女子(旧東根城主、後徳島藩家臣、里見親宜の妻)がいるが、この3人は義光の最後の妻となった、30歳ほど年下だった清水夫人の生した子ではあるまいか。 さて、四男が義忠を名乗るようになった時期ははっきりしない。山形で見られる名乗りは「光茂」である。鶴岡市の高木家、松山町石川家の慶長年間と推定される文書や、山辺町専念寺、山形市千手堂吉祥院、朝日町大谷大行院の文書など、すべて「光茂」である。 慶長5年の出羽合戦のときは、13歳の少年であったから、戦陣には加わらなかったと見え、水戸徳川家の『水府系纂巻第三十八』には「関原ノ證人ト為テ神君(徳川家康)ニ参リ静謐ノ後従五位下ニ叙シ右衛門大夫ニ任セラル」とある。人質として家康のもとに預けられたというわけだが、その折家康は「将来恐るべき怪童」と評したという。どこか並々ならぬ素質を具えていたのであろう。 関ケ原戦後は山野辺家の名跡をつぎ、右衛門大夫を称し、1万9千300石を領した。山野辺は、山形の北西7キロメートルばかりの所にあり、本城を支える重要な城池であった。領地の範囲は、現在の山辺郷周辺の平野部と白鷹丘陵の山間地、及びその西の最上川が峡谷となって北流する五百川郷(現朝日町)を含む範囲だったらしく、最上家改易のとき接収された朝日町の八ツ沼城は「山野辺右衛門の内」と伊達文書に記載されている。 15歳そこそこの少年でありながら重要な一城をあずかったのも、それなりの器量の持ち主だったからであろう。もちろん、すぐれた家臣団があってのことと推測される。伝承によると、光茂は現在の大石田町深堀で育ち、山野辺に入部するに際して連れてきたという、いわゆる「深堀三十六人衆」と称される人々が家臣団の中核をなしていた可能性もあるが、これについては今後の更なる検討が必要だろう。 後藤禮三氏の研究をもとに、山野辺城主時代の業績を箇条書きにすれば次のようになる。 1 山野辺城の拡張改修 2 城下町の建設と市の開設 3 釣樋堰の開鑿など灌漑治水事業 4 神社仏閣の護持 5 交通路の整備 最上家改易(1622)までのおよそ20年、山野辺の青年城主としてこれらの事業を成し遂げ、城下町山野辺を小規模ながらも山形の衛星都市として完成させたのである。 57万石の大大名となった奥羽の重鎮最上義光は、しばしば長期にわたって京都、江戸などに滞在しなければならなかった。そういうとき、留守をまもって領内政治を取り仕切ったのが、確かな史料があるわけではないが、近くに居城を持つ山野辺光茂ではなかったか。 ともあれ、彼がすぐれた力量の持ち主だったことが、後にお家騒動の原因となったのは、まことに皮肉な巡り合わせであった。 義光亡き後藩主となった兄・駿河守家親が元和3年(1617)3月に急病で亡くなると、その子源五郎家信が12歳で山形の主となる。家信は江戸生まれ、江戸育ち、全国有数の57万石の大封土と、大名クラスの重臣をはじめとする多数の家臣団を統治するには力不足だった。(以下、別項と重複することをお許し願いたい。) 「義俊(当時は家信)若年にして国政を聴く事を得ず。しかのみならず常に酒色を好みて宴楽にふけり、家老これを諌むといえどもきかざるにより、家臣大半は叔父義忠(光茂)をして家督たらしめんことをねがう」と、『最上氏系図』(寛政重修家譜)は述べている。 このとき、義忠は30歳であった。一族・家臣団の多くは、信望あつい彼に最上の未来を託そうとしたのだった。むろん、義忠自らも領内の最高権力者、責任者となって、出羽国を発展させることに、強い自信を持っていたに相違あるまい。重臣のほとんどが彼を推した。中心となったのが義光の弟楯岡甲斐守光直、千軍萬馬の勇将として知られる鮭延越前守秀綱。 一方、これに強く反対し「家親の死は、楯岡らの陰謀による毒殺。源五郎家信こそ正統」と幕府に訴え出たのが、一族の老臣松根備前守光広であった。だが、幕府はこれを無根の説と退けて、彼を九州柳川の立花家に預けた。そのうえで重臣たちを呼び出し「皆で最上家を守り立てよ」と説得したにもかかわらず、重臣の多くはこれを拒否した。 最上のトップたる義忠が、並み居る幕府閣僚を前にして何を語ったかは知ることができないが、自己の主張信念を曲げることはなかっただろう。 元和8年8月、最上家は改易となった。 多くの家臣は禄を失って流浪するものが少なくなかった。 このときに義忠は、岡山池田家に預けられた。ここで約12年を過ごし、寛永10年(1633)9月、三代将軍徳川家光じきじきの命令によって、水戸徳川家の家老として1万石で仕えることとなった。類まれな処遇というべきだろう。 水戸藩主頼房は、やがて三男千代松(1628〜1700)の教導役を命じたそうである。 非行少年と心配された千代松は、青年時代から急速に変貌をとげ、仁義の大道を歩むようになる。そうして、ついには名君・水戸光圀公と仰がれるようになるわけだが、その蔭には山野辺義忠の豊かな薫陶があったのであろう。 頼房が没する(寛文元年/1661)と、光国(のち、圀に改む)が藩主となる。これを見届けたのち義忠は隠居して仏門に入り、道慶と号する。 義忠の後を嗣いだ義堅は、光圀の妹である利津姫を妻に迎えている。その後も山野辺家は、幾度か主家と縁組を重ねている。改易のとき九州細川家に預けられた楯岡甲斐守光直の孫が、山野辺家の養子となったという奇しき因縁もある。最上義光の血筋は、こうして水戸徳川家を支える名門として伝えられたのである。 茨城県那珂市にある常福寺は、水戸徳川家の菩提寺で、浄土宗の名刹として知られている。境内の入り口には、山野辺家の墓所がある。巨大な五輪塔が四基立ち並んでおり、右端が義忠の供養塔である。牌記は「良源院殿前堅門貞誉松座道慶大居士」。 山形にも、山野辺家にゆかりある小堂がある。 立石寺奥の院近く、中性院前にある「最上義光公霊屋」がそれである。 これを建立したのは、たぶん山野辺義忠であろう。年次不明6月晦日の千手院別当あての光茂書状に「今度山寺にて玉屋(霊屋)直し申し付け……」とあるが、これは義光没後まもないころに建てた霊屋が破損したので、修理するよう手配したものであろう。 また、館林市に伝わる『山形風流松木枕』には「宝暦十三年(一七六三)二月七日に、義光公百五十年忌、この御子孫(義忠の子孫)より御弔いあり」という記事があるが、これはたぶん山寺の霊屋のことであろう。水戸に移ってから百五十年たった後にも、山野辺家は先祖のふるさと山形との縁を大切にしていたのである。もっとも、この年は義忠の百年忌にもあたっていたので、その供養も兼ねたのかもしれない。 霊屋内には、義光・家親二代の位牌を中に、山野辺義忠親子三人の位牌も納められている。義忠の牌記は次のとおり。 「義光次男従五位上 山野辺右衛門太(ママ)夫義忠 寛文四天極月十四日午ノ上刻」 「次男」は誤記かどうか。正室が生んだ男子としては、次男に当たるという意味か。 寛文四年は1664年。「極月」は12月。午ノ上刻は正午少し前ごろ。77歳、堂々たる生涯であった。 東根家に嫁いだ腹ちがいの妹が、遠い徳島で亡くなったのは同年8月のことだが、お互いにそういう事実を知ることができたのだろうか。 ■■片桐繁雄著 |
さあさあお立会い!!山形市民の「宝モノ」を紹介します!! この展覧会は、山形市民を対象に、「わが家の宝モノ」を募集して、歴史館の展示室に展示し、広く一般に公開する市民参加型の展覧会として企画しました。 自薦他薦を問わず、また、洋の東西・時代・評価額・文化財としての価値なども一切問わず、山形市民の自慢の「宝モノ」を幅広く募集し展示紹介しています。 大変珍しい「宝モノ」やおもしろいエピソードがある「宝モノ」、「えーーー…」とびっくりする!?「宝モノ」などなど…楽しい展示になっています。 1.主催 財団法人山形市文化振興事業団 2.共催 山形市 3.会期 平成21年1月14日(水)〜平成21年4月5日(日) 4.会場 最上義光歴史館 第一展示室北側展示ケース 5.開館時間(平成21年3月31日まで) 午前9時30分から午後5時まで 6.入 館 料(平成21年3月31日まで) 大人300(240)円、高校生200(160)円、小中学生100(80)円 ※( )内は20名以上の団体料金。 ※毎週土曜日は小中学生の入館は無料 7.出品中の「宝モノ」の応募規定 (1)応募資格 山形市在住の者 (2)募集する「宝モノ」の条件 ・「宝モノ」として誇れるもの(自薦他薦は問いません) ・出品者の所有であるもの ・展示期間中に変質しないもの(生物や食物などは不可) ・展示中破損の恐れがないもの ・最上義光歴史館に展示可能な大きさのもの 8.現在出品中の「宝モノ」 「最上義光公時代 山形城下絵図」 「鋳物型」 「平清水白化粧片口」 「油絵」 「武内宿禰 三谷光月作」 「神武天皇 松根多吉作」 「菊花立岩図 細谷度外筆」 「巻物(無我流捕手目録)」 「古いおもちゃ」 「『機械學宣言 地を匍う飛行機と飛行する蒸気機関車』稲垣足穂・中村宏」 「『自転車』中村宏画」 「無題 中村宏画」 「陶器雛」 「明治天皇御尊影」 「市之丞正次の鐔」 「日々好日軸 野村万蔵筆」 「気楽坊 平櫛田中作」 「古いカメラ」 「三宝荒神図 祐徳作」 「南無妙法蓮華経の名号 日通筆」 「枯木名鵙(複製) 宮本武蔵」 「現代詩手帖」 「雲龍図」 「水心子正秀画像」 「山形交通三山電鉄・高畠電鉄廃止日の記念乗車券」 「漢詩『風雲山形城』」 「のらくろ」 ※宝モノの名称は出品者によります。 |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum





【一 義俊遺領を継ぐ】(2)
元和四年(1618)二月九日、寒松の記録[]年首到来覚帳に、義俊よりの進物として「小袖弐領 綾ハフタへ」があったことを記している。この覚帳は四ケ年分しか見ることはできないが、[日暦]にも断片的に進物の記録があり、寒松からはその年の運勢を見る年筮の進呈とを併せ、義俊の寒松への儀礼的な付き合いは、最上家大破以後もしばらくは続いていったのである。
同年某月、寒松は義光弟の楯岡甲斐守光直の求めに応じ、達磨像に「碧眼遠来東 渡江冷坐嵩 万人何得敵 面壁一 張弓」と詩文を書き入れた。この詩文の前後の配列から察して、一月末から二月にかけての時期かと思われる。この際、寒松は「最上甲斐守求之」と、本姓を使用していることから、この時期の甲斐守は、末だ楯岡姓を名乗っていなかったのではと、別な意味での疑問を投げかけている。また 同五年六月には、「題屏風画四首 最上源五郎家人鮭庭越前守求之」と、重臣の鮭延越前守秀綱の求めに応じて、屏風画に四首の詩文を書き入れている。
このようにして、最上の重臣達も寒松の面識を得ていたことが判る。そして、義俊襲封の早い時期に於いては、江戸の藩邸で義俊を補佐しながら、藩の運営にあたっていた重役は、いずれも反義俊の立場を示した、この二人であったものと考えられる。
同年九月、少年藩主への交代に伴う監察目的と思われる、幕府検使榊原左衛門が山形に派遣された。秋田藩士梅津政景の九月十二日付の日記に、「最上より日野備中書状参候、様子ハ、最上為御検便、榊原左衛門殿御下之由」[注1]と記している。藩主義俊としての初の山形入りは、おそらくこの時期ではなかったろうか。またこの時の幕府検使の山形派遣についての記録は、今のところ政景日記以外には見えていない。最上家騒動の調停に公の手が入ったのは、二年後のことである。この時期の検使派遣は、あくまで藩主交代による藩内監察を目的としたものと、解釈すべきであろう。
翌五年三月九日付の細川忠興書状によれば、「東奥之衆正宗をハシめいつれも頓ニ被上之由候、此衆路次迄も罷出候ハ、西国衆暇出可申と推量候」[注2]として、東国大名達もやがて出府してくるだろう。そうすれば西国大名達も帰国できるだろうと、この時期の東国大名達の在国を報じている。
同五年二月二十八日、秋田藩主佐竹義宣は参府への途中、天童にて義俊より贈物を受けている。
山方より源五郎様、浅場(羽)下総と申仁、御使者ニ被遣候、御音信物太(大)樽五つ・鳫五つ・しめ鮑弐百人桶壱つ・米弐十表(俵)・大豆拾表被遣候、米・大豆をハ御返被成候、
ある藩主が出府の途中、他藩の城下を通過の際に、藩主が帰国中ならば互いに品々を贈り合うのが儀礼のひとつであったようで、翌二十九日の日記には、その様子をつぶさに伝えている。また昨年九月に山形に入った検使役人が、未だ山形に居たことも判る。
二月廿九日、てん堂(天童)より川崎まて御出被成候、福原彦大夫、最上源五郎様へ為御使者、てんとう(天童)より被参候、御太刀・御馬比内糟毛被進候、日野備中所へ鍋倉鹿毛被遣候、拙者ハ榊原左衛門殿・牟礼郷右衛門殿へ為御使者参候、 (中略) 源五郎様御両人之御検使衆も、長町ノはつれ迄御迎ニ御出被成候、源五郎様より御使者として、日野備中被参候、御太刀馬代銀子弐拾牧(枚)被遣候、備中為音信蝋燭百挺差上被申候、[注3]
佐竹義宣の江戸入りは三月六日、そして伊達政宗も仙台を発したのが三月十八日で、上杉景勝も九日には米沢を離れている。このように山形近辺の各藩主も、相次いで出府しているので、義俊も相前後して山形を離れたものと考えられる。
この幕府検使衆と共に、領内査察の日々を過ごしていたであろう新領主と、そして検使自身が半年に渡る滞在中に、最上の内情をどの程度調べ上げたであろうか。一年後の家中騒動の調停を目的とした目付派遣が、その伏線は既にこの時期にあったのではなかろうか。
同年五月八日、義俊は将軍秀忠の上洛に際しては、江戸留守居を命ぜられているので、四月中までには江戸へ入っていたであろう。そして、まもなく起きた広島藩主福島正則改易事件に於ける、鎮圧勢の一員として参加したことは、義俊の藩主として初めての軍役であった。
五月八日御上洛御首途ありて、神奈川に迫らせらる、本城は国松君、西城は若君をとどめ守らせ給ふ、鳥居左京亮忠政・内藤左馬助政長・酒井宮内大輔忠勝・松平下野守忠郷・松平式部大輔忠次・最上源五郎義俊・福島左衛門大夫正則等留守す、[注4]
この正則の改易事件の直接の原因を、上意を得ずして広島城普請を行ったものとされてはいるが、その根はもっと深いところにあったのであろう。幕府の正則に対しての詮索は、すでに四月中から始まっており、正則は江戸に留め置かれ審議が続けられていた。そして六月二日には正則改易の沙汰が下った。在京中の秀忠の許に在った久世広宣・坂部広勝は、正則が異議を申したてるならば珠すべしとの命を帯び、江戸へ向かった。坂部氏の『寛政譜』に義俊の名が見えている。
福嶋左衛門大夫正則罪ありて国除かるるのとき、広勝、久世広宣とともに御前にめされ、汝等いそき江戸におもむき、正則もし異議に及ハゝ松平下野守忠郷、松平式部大輔忠次、鳥居左京亮忠政、最上源五郎義俊等の兵を下知し、これを誅すへきむね仰をかうむり、御手つから御謀略の書二通を授けらる、
また[最上家譜]も、義俊の働きを次のように伝えている。
元和五未福島左衛門大夫御改易之節、家人共異心ヲ含候由流布二付、源五郎ヲ被召、彼屋敷江馳向可請取、若家人等及異議候者、不残討捕可申旨被仰付、御城ヨリ直二福島屋敷江馳参請取、為御褒美長光御刀ヲ賜、
また[武功雑記][注5]は「(正則が)江戸ノ内二福嶋屋敷三ヶ所アル内、福嶋イヅレノ屋敷二被居候事シレズ、シカレハ、今度御上洛二付而、御留守二被召置候、人数三万ヲ一万ツヅノ手当ナリ」といい、それを受けて[常山紀談][注6]は、「正則ノ邸ノ門前二蒲生下野守忠郷、裏門へハ鳥居左京亮打向ヒ、皆士卒物具シタリケリ、芝へハ最上源五郎義俊打向ヘリ」として、義俊が芝屋敷に打向ったことを伝えている。
この事件の山形藩出兵に際しては、若き藩主を支え藩の指揮に当たったのは、鮭延越前守秀綱ではなかったか。先の寒松の記録から、この年の六月には在府していたことが判っており、また『続々本邦史記』[注7]から、この事件に関わる記事の中にも、越前を最上家の責任者として取り上げている。更に正則が信濃に配流されるまでの間、最上家が正則の身柄を預かっていたのではという、次のような記事もある。
去程二両上使より正則墨付請取しさるによって、家士中合て城明渡さすの旨先宿頭を以執城中まて意を訴におよひ、再三に及ひ早打を下し、家来共の決定斯のことく注進ありしかハ、各訴への上ニて正則家来とも方えの直判墨付早速さし出すへきの旨、最上家へ御連判を以徒遺されしかハ、正則御預りの節より最上家ニおゐて鮭延越前守正則一件の支配たりしゆへ、正則にむかひて江戸表より厳命の趣申渡し、云々
この記事は、家中の籠城の気配に包まれた広島城の状況を、急遽江戸表に知らせ、その善後策に走っている様子の一端を述べているものである。越前が最上家の指揮をとっていたことは、この記事から伺い知ることができるが、果たして正則の身柄を最上家内に拘束していたのであろうか。しかし、他にこれを裏付ける確たる史料を見つけ出すことはできない。ただ、正則預かりの経緯について、次のような最上家に関わる記事が書き残されていることから、単に屋敷接収に兵を動かしただけではなく、それ以外にも正則との間に、何らかの関わりがあったのではなかろか。
[内史畧][注8]より、正則改易事件についての記事の中に、「出羽山形最上氏御預にて長命にて終わる」としている。
[元寛日記][注9]の元和五年の条に、「上使御請之旨言上ス、於是可被馳羽州庄内賜四万石由、重テ有上使申シテ云、為流人ノ身四万石無其用上返ス、仍於配所賜一万石最上源五郎義俊預之守護ス」とある。
■執筆:小野末三 (H)
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[注]
1、[梅津政景日記](『大日本古記録』)
2、[細川家史料](『大日本古記録』)
3、[注1]に同じ
4、『台徳院殿御実紀・巻50』
5、『大日本史料・12編30』
6、[注5]に同じ
7、『内閣文庫所蔵文書』
原本は不明だが、写本は色々と形を変え各所に見られる。史料として信用度に疑問もあるが、最上家に関わる記述の多さには、目を見張るものがある。
8、『岩手史叢・1』 昭48年
9、『内閣文庫所蔵史藉叢刊』