最上義光歴史館

歴史館からのお知らせ
慶長出羽合戦の褒賞としての名刀正宗
  
 現在、「正宗」在銘の大黒と号する短刀がある。これが最上義光が長谷堂合戦を主とする上杉勢との戦いの武功によって徳川家康から下賜されたものであると見なされる。
 それは『最上氏関係資料』に目を通していく過程で、この短刀に同定されると思われる記事が目に付く。先ずは『最上家譜』には、慶長六年(1601)四月に、前年の上杉との合戦の武功忠義による恩賞として、義光が家康から「正宗の御刀」を拝領している。また、「寛政重修諸家譜」の『最上氏系図』や『最上家伝覚書』にも同様の記事があり、その時下賜された品が「正宗の御脇差」であったと記している。
 このように、記録によって刀と脇差との表記上の相違が見られるが、義光が名刀正宗を拝領していることは確かである。しかし、刀と脇差二口の拝領は考えられないから、「刀」を誤記と見なし、「脇差」つまり今に言う短刀であったと解して差し支えないだろう。
 本刀は『埋忠押形』なる刀剣資料に、最上家所蔵として記載されているものである。この資料は、慶長(1596〜)から慶安(〜1652)にかけて、京都の金工家埋忠家(明寿・寿斎・明甫)が扱った刀剣金具類にまつわる刀身の押形、つまり現物の実写図である。


『埋忠押形』所載の最上家所蔵「正宗」の短刀

 この中心(茎)図には「正宗作」と三字銘があり、その両脇に「も加見(最上)殿 壽齋 慶長十三年八月ニかなく(金具)拵共ニ仕候」という記載がある。これによって、慶長十三年(1608)八月、埋忠寿斎が最上家から預かっていた正宗の短刀に、さまざまな金具類や拵を調製したことが窺える。なお、「おもて 新藤五によく似申し候」とあり、正宗の師の国光の直刃調に似ているといい、また「うら 焼き直しと申し候」とあるが、刃文を再び焼き直したとは見られないようである。
 拝領の正宗は、家康ゆかりの品として最上家の宝物の一つとなり、七年あまりを経て金具や拵を新調したのであろう。そして少なくとも、山形最上家が健在の間は本刀が献上品となったり、移動したりした形跡は窺えない。ところが、この正宗はいつの頃からか「大黒」を冠するようになり、譜代大名の堀田家が所蔵することになった。その後、明確な年代は定かでないが、昭和に入って民間人の手に渡り現在に至っている。
 「大黒」の号の由来は分からない。正宗の短刀の中では大ぶりであることは確かである。あるいは、七福神の一つ大黒天が福徳を招来する神であるという、信仰上の意味合いの呼称であろうか。ともあれ、この手の称号は、その時々の所有者や状況等によって割と単純に呼称され、それが独走してしまうような傾向は否めない。
 正宗は鎌倉時代末期(1310〜1330)に活躍した、相模国(神奈川県)鎌倉の刀工である。室町時代から名工として注目されてきたが、信長・秀吉・家康と時代が下がるにつれ、しだいにその名声が高まっていった。家康の遺品の分配台帳である『駿府御分物刀剣元帳』には、家康の遺品として十八口もの正宗が記載されている。中でも、有力大名からの献上品も目立っており、秀吉の時代より一段と正宗が重宝されていることが分かる。
 したがって、家康から拝領の正宗は、義光の勲功に対する最大級の返礼であったと見てよいだろう。ともかく、正宗となると、「正系の宗家(一族の中心となる本家)や嫡流」という意味合いも加わって、各大名家を中心に贈答用(献上品)としてだけでなく、守り刀や家宝として珍重されてきた。また、そのような評価の高さを反映して、江戸時代から現代に至る多くの刀工たちが、正宗を目指して作刀してきたのである。
 現存する正宗のうち、正真の在銘品は極めて少ない。管見によれば本刀の他に、短刀が四口、刀が一口を数えるのみである。あとは無銘の物を鑑定家本阿弥家が正宗と極めたものである。この本阿弥家もまた、正宗の評価を高めるのに一役買っていた。江戸時代には、真偽入り乱れて多くの正宗が存在したものと思われるが、鑑識眼の向上につれて淘汰されてきたのである。

■執筆:布施幸一(財団法人日本美術刀剣保存協会会員)「歴史館だより��16」より
      《平成21年9月分の入館者アンケート集計結果》
 
 この集計結果は平成21年9月1日から同30日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。



          常設展示 (9/1〜9/30)

        開館日数・・・・・・・・・・30日間
        入館者数・・・・・・・・・6,252人
        回答者数・・・・・・・・・・・47人


  1.歴史館をどこで知りましたか

   (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・・12%

   (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・・6%

   (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・12%

   (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・・2%

   (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・・0%

   (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・16%

   (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・・16%

   (8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・・10%

   (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・・10%
   
    (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・14%


  2.歴史館の入館は何回目ですか

   (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・・87%

   (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・11%

   (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2%


  3.ご覧になられた感想

   (1)内容はいかがでしたか

     �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・・55%

     �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・・40%

     ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4%

     �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・・0%

   (2)最上義光と最上家について

     �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・・51%

     �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・・47%

     ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・・2%

     �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%


  〜利用者の声〜

 ◎もう少し、子供向けにやわらかい記し方もあった方がよい。

 ◎貴重な資料があるにもかかわらず、無料なのが正直驚いた。

 ◎大変勉強になった。

 ◎分かりやすい小学生用のしおりがあって、館内を回りやすくてよかった。

 ◎有料だと思っていたが無料で入りやすく、展示のクオリティも高く最高だっ
た。

 ◎最上義光の事をあまり知らなかったが、展示物は興味深い物が多く楽しめた。

 ◎入館料無料はすごいと思う。

 ◎義光の兜の復元前も見てみたかった。

 ◎政宗の母が、なぜ義光の元へ帰ってきたのか知りたかった。

 ◎英文又は、中国語の説明をつけた方が外国人にも理解しやすいと思う。

 ◎男性解説員の説明が、とてもわかりやすくて興味深かった。

 ◎刀と太刀の違いが分かってよかった。

 ◎今度は上杉の展示物も借りてきて展示してほしい。

 ◎説明してくれた方の話がとても興味深く、面白かった。皆さんの人情・情熱に心打たれた。最上義光も好きになった。応援します。
      《平成21年8月分の入館者アンケート集計結果》
 
 この集計結果は平成21年8月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。



          常設展示 (8/1〜8/31)

        開館日数・・・・・・・・・・31日間
        入館者数・・・・・・・・・5,434人
        回答者数・・・・・・・・・・・79人

 
 1.歴史館をどこで知りましたか

 (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・・27%

 (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・・1%

 (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・・9%

 (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・・2%

 (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・・1%

 (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・・2%

 (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・・26%

 (8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・・・9%

 (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・・11%
  
  (10) その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・11%


 2.歴史館の入館は何回目ですか

 (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・・86%

 (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8%

 (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6%


 3.ご覧になられた感想

 (1)内容はいかがでしたか

   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・・53%
  
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・・33%

   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・・13%

   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・・1%

 (2)最上義光と最上家について

   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・・44%

   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・・48%

   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・・1%

   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%


 〜利用者の声〜

 ◎広く義光のことを伝えてほしい。

 ◎音声ガイドがわかりやすくて良かった。もっとPRしたほうが良いと思う。

 ◎戦国時代の山形、並びに最上が良くわかった。

 ◎個人客として、団体ガイドの方の声が少し耳ざわりだった。

 ◎ガイドさんが親切で、面白く学ばせてもらえた。

 ◎貴重な資料がたくさんあり、ガイドの方もおられて、これだけの施設を維持運営するのは、大変なことだと思う。

 ◎これだけの資料の管理などに経費がかかっているのだから、100円でも200円でも入場料を取った方がよいと思う。

 ◎ガイドさんの説明が大変丁寧で分かりやすかった。

 ◎入場無料なのに、とても分かりやすく勉強になった。

 ◎映像を見る所がほしい。

 ◎子供には少し難しい展示だと思う。

 ◎入場料が無料であったり、子供達がクイズに答えたり、地域に根付いた施設という印象を受けた。

 ◎展示物も大変貴重なものがあり、楽しめた。

 ◎来館前は全く知らなかったが、とてもよくわかり、勉強になった。

 ◎大変興味深かった。
長谷堂合戦図屏風について ― 軍記と屏風 ― 

 近世に入ると合戦図は、時間の経過を追って場面が展開してゆく絵巻から、戦場の地形や展開する部隊を描くのに適した大画面、すなわち、屏風へと形式が変わってゆく。中には関ヶ原合戦図屏風(大阪歴史博物館)や、大阪夏の陣図屏風(大阪城天守閣)のように合戦後さほど間をおかずに描かれた図もあるが、多くは時がたってから回顧的な視点によって描かれたものばかりである。回顧的といってもそこには明確な制作の目的があった。目的は二つある。一つは家祖の軍功を図化して世間に明らかにすることである。軍功の誇示は合戦の美化につながる。もう一つは、敵味方が入り乱れて戦うために実情がわかりにくい合戦の状況を可能な限り調べて記録しようとする姿勢である。それが文章で表現されれば「軍記」となり、絵画化されれば「合戦図」となる。
 文章はより事実に近く、絵画はより遠いと思われがちだが、どちらにしても脚色は避けられない。その点で両者は同等、同格であり、事実よりも意図を読み取るように心がけたい。長谷堂合戦図は基本的に最上軍の戦勝場面のみが描かれ、落城した畑谷城は描かれておらず、援軍として参陣した伊達勢はまったく無視されている。登場する武士の数は少なく、制作依頼者は軍勢の配置には関心がなかったことがわかる。同様に地形も無視されている。紀州本や米沢本「川中島合戦図」のように軍師の指導によって制作された合戦図とは性格が異なる。
 本図は秋田の戸部一憨斎正直が元禄十一年(1698)正月に著わした『奥羽永慶軍記』に基づくとされるが、画中に記された人名を子細に検討すると同記の内容とはかなり違っている。中には軍書や記録に名前を見いだすことができない者も多く含まれており、オリジナル性が強い。かつては絵解き用の台本があったのかもしれない。また、人名が直か書きであることを考慮するならば、書き込まれた時期は制作当初と考えてよいだろう。
 向かって右隻の中心場面は前哨戦の一つで、『奥羽永慶軍記』では「鮭登茂綱会津勢を襲う」とされる段である。同記には鮭延方の軍勢として多くの武士が登場するが、画中の人名で共通するのは「鳥海勘兵衛尉・鮭延典膳頭健綱・沓沢金兵衛・新田十助・鮭延左衛門尉十五歳・鈴木藤蔵十七歳」などごく一部に限られ、しかも、同記には登場せず、かつ、出典を明らかにできない「片野對島守・田中兵部・馬淵伊織・柴田備中守・河田三右衛門尉」などの名がつけ加えられている。このうち「鮭延左衛門尉・河田三衛門尉」の二人の名は別筆である。一方、上杉勢では大関常陸介や小幡播磨守のほかに、「石坂・樋口」の名が記されている。上杉系の『越境記』を母体にした『最上合戦記』などには「石坂勘右衛門討ち死に」とある。また、「樋口」は言うまでもなく直江兼続の生家の苗字である。
 こうした戦闘場面とは別に右上隅の建物群の前に「成沢道忠」の名のみを記した部隊が描かれている。この挿話は『奥羽軍談』(佐久間昇氏の解説によれば宝暦初年に上林職広が増補)にしか見えない。同書に畑谷落城の知らせを聞いた最上義光が三之丸の飯塚口に成沢道忠らを警固に出した、とあるのに一致する。とすると、背後の建物群は三之丸の武家屋敷ということになる。だが、小山に囲まれている様子からは平城の山形城とは考えにくく、山城の長谷堂城とするのがふさわしい。予定を変更して成沢道忠を登場させたための矛盾だろうか。肝心の城主「志村伊豆守」の一隊はというと建物の下方、画面の端にあって、城との関連性が希薄である。左上隅の上杉勢本隊には「直江山城守兼続・色部修理亮・春日左衛門尉・高梨」の名があるが、『奥羽永慶軍記』に登場しない「色部修理亮」は保科家臣の向井新兵衛吉重が寛文二年に脱稿し、廷宝元年に浄書した『会津四家合考』などに見え、「高梨」については、延宝八年の自序をもつ『近代軍記』(黒川真道編『上杉三代軍記集成』所収)には第五陣に「高梨兵部」とある。
 向かって左隻は、上段に合戦全体の中心となる最上義光勢と直江兼続勢の主力部隊による戦闘が描かれている。『奥羽永慶軍記』巻三十二には最上義光をはじめとして多数の一族、郎党や仙台からの加勢が列挙されているが、図と共通するのは嫡子「最上義安(ママ)公」と「筑紫喜叶(ママ)斎」および、「川隈讃岐守(『奥羽永慶軍記』では川熊安芸守)・山邊右衛門大夫光茂(同じく山部右衛門尉)」だけである。なお、右方に見える「揚松権太夫」は『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』の延宝〜正徳年間に「上松権太夫」の名を見いだすことができるうえに、後ろを振り返る顔の向きからみて、敵陣に取り残された上杉方であろう。
 下段の左半は上段に続く光景で、関ヶ原の合戦で西軍が敗れたとの情報を得た上杉勢が軍を返すのを最上勢が追撃する揚面である。荷駄は別として上杉勢の殿軍が戦う姿勢を見せている点に注目したい。上杉方には「綱嶋勝左衛門・斎藤千右衛門・小倉将監・南條八郎」などの名が記されているが、いずれも『奥羽永慶軍記』には出てこない。『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』によれば、綱嶋勝三郎という者が慶長十九年の大坂出陣に加わっていることや、小倉将監宗信が直江兼続より少扶持を賜り、南条八右衛門が慶長十三年に米沢に帰参したことがわかるので、家中の何らかの情報に基づいているのだろう。
 問題は右半の、前哨戦の一つである上山合戦の場面である。ここにも出典不明の人名が認められるが、諸書では中心となるのは坂弥兵衛が穂村造酒丞を、金原七蔵が上泉主水正を討ち取る場面である。しかし、図では「金原七蔵」が「押野造酒丞」を、「坂上紀伊守」が「本多造酒丞」を討つように描かれている。この組み合わせは他に例をみない。通説に反して上泉主水正を「押野造酒丞」に変えるにはそうとうな裏づけが必要と思われるが、討ち手や死に場所に諸説あることに配慮したのかもしれない。より強調したいことは、上山合戦に坂上紀伊守を登場させるのは上杉系の『近代軍記』のみ、という点である。とりわけ『奥羽永慶軍記』では「本多造酒介」を討った者は「遠藤小一郎」となっており、図が同記に基づかないことは明らかである。
 こうした人名の不一致は本図と『奥羽永慶軍記』との関連性を疑わせる。もともと『奥羽永慶軍記』は写本が少なく、広く流布していなかったので参照した可能性は乏しい。そうであるならば、本図の描き手を著者である戸部一憨(閑)斎とする伝称もあらためて見直す必要がある。伝称の根拠は、本図を入れる箱の側面に「戸部一閑之画屏風一雙入 明治貮拾五年辰八月吉日記 湯沢町斎藤氏」、蓋裏に「戸部一閑之画最上合戦之図一雙入」とある墨書による。また、これとは別筆で蓋の前面に「斎藤五左衛門」とある。斎藤家の当主は代々五左衛門と称していたが、遅くとも安政二年までに「左太夫」と名乗りを変えている。もし、図と箱が一体のものであるならば、屏風は江戸時代末には現在の所蔵者のもとにあったことになるが、筆者の伝称がそこまでさかのぼるかは不明である。
 戸部一憨斎が絵を描いたことは戸部家に「戸部弌憨」の印章をそなえた水墨画の「船子夾山図」が伝わり、地元の湯沢市や横手市に涅槃図が三幅現存することから事実である。ただし、いずれも仏画、禅機図といった宗教画に画題が限定されていることに注意したい。なお、やはり戸部家に伝わり、一憨斎筆とされる源平合戦を描いた屏風は彼より早い時期の職業絵師の手になるもので、同人の作品ではない。「長谷堂合戦図」の筆致には町絵師らしい手慣れたところがあり、一憨斎の余技になるとは考えられない。その単純化された樹木や山野の表現には板本挿図、人物には初期の役者絵からの影響が認められる。一般に町絵師の作品は制作年代の判定が難しいが、上限は宝永四年(1707)十二月に亡くなった一憨斎の晩年に重なる可能性がある。だが、彼が亡くなる直前の同年四月に描いた湯沢市・善龍寺の涅槃図の老筆ぶりと比べると「長谷堂合戦図」の筆致は若々しく、同じ人物の手になる可能性はない。一方、下限は十八世紀中頃といったところだろう。
 実は、本図が長谷堂合戦を描いた図であることが判明したのは、湯沢市の文化財としてその存在が世に知られるようになってからで、比較的近年のことである。それまでは湯沢の小野寺氏と最上勢が戦った「有屋峠合戦図」と称されていた。いったん主題が忘れ去られていたという事実や人名に別筆が若干加わっている点は、制作主のもとを離れてからある程度の歳月と幾人かの手を経たことを物語っている。戸部一憨斎筆という伝称は本図が湯沢にもたらされた後から付け加えられたのだろう。
 本図は山形で制作されたに違いない。鮭延氏の活躍や喜吽斎の討ち死など、図の骨格は最上系の軍記に取材している。ただし、随所に独自の調査のあとが認められ、流布する軍書に基づかない、まったく独立した作品と言える。とくに上杉系の資料を積極的に取り入れている点は重要で、制作主はそれらを入手できる立場にあったらしい。どの軍記にもない、坂上紀伊守が敵将を組み伏せる場面が下段の中央に描かれている点に注目するならば、合戦後に長谷堂城主となった坂(坂上)紀伊守光秀ゆかりの者を制作主として考えるのも一案だろう。興味深いことに、坂氏一族には最上家改易後に上杉藩士となった者がいる。
(本文を草するにあたっては斉藤茂美氏、戸部尚武氏、善龍寺御住職の多大なご協力を得ました。皆様に感謝します。)

■執筆:宮島新一(山形大学教授/日本絵画史)「歴史館だより�16」より


【長谷堂合戦図屏風 斉藤茂美氏蔵】


【右隻】


【左隻】

※長谷堂合戦図屏風の詳細についてはこちらをご覧ください>>こちら
関ヶ原合戦と最上義光 ― 義光宛家康書状を読み解く ―

【はじめに】
 今年(西暦二〇〇〇年)は、関ヶ原の戦いからちょうど四〇〇年ということで、関ヶ原の戦いに対する関心の度が高くなっている感じがする。そこで、″東北版・関ヶ原″などといわれる長谷堂城の戦いにからめ、そのときの最上義光の動向を追いかけてみたい。
 周知のごとく、家康は、関ヶ原の戦いを前にして、諸大名に実にたくさんの書状を出しており、慶長五年(一六〇〇)に入って、戦い直前九月十四日までの分だけでも一六九通を数えている。書状の内容は、恩賞を約したものもあれば、上方での戦況を報じたものもあり、作戦上の指示を与えたもの、さらには東軍へ誘ったものなどまちまちであるが、これら政治工作、すなわち、根まわしが進められたことを意味する。
 そこで、ここでは、家康から最上義光に宛てられた書状を通して、義光が、家康の考える大きな関ヶ原戦略の中で、どう位置づけられるのかを見ていくことにしたい。なお、書状については読み下しにして引用した。原文は、中村孝也編『徳川家康文書の研究』中巻にあたっていただきたい。

【第一報 七月七日付】

 急度申し入れ候。仍って会津表出陣の儀、来る廿一日に相定まり候。その表の衆、同心有り、御参陣有るべく候。然者、最寄(前カ)申し候如く、北国表にて北国の人衆を相持ち、会津へ打ち入らるべく候。猶、津金修理亮・中川市右衛門申し達すべく候。恐々謹言
(慶長五年)七月七日   御諱御判(徳川家康)
       出羽侍従殿(最上義光)
                     (「古文書集」十)

 家康は、六月十八日、伏見城を発し、会津討伐に向かった。「五大老」の一員であるにもかかわらず、上杉景勝が会津に引っこんだまま、領内の軍事強化を進めていることを、「豊臣家に対する謀反」と判断したためである。もちろん、家康の腹の中には、畿内を留守にすることによって、石田三成の挙兵を誘うという思惑もあった。
 七月二日に江戸城に入った家康が、七日付で最上義光に出した書状がこれである。ちなみに、会津攻めにあたって家康が定めた部署はつぎの通りである。
 
 白河口   徳川家康・秀忠および東海・畿内の大名
 仙道口   佐竹義宣
 伊達・信夫口 伊達政宗
 米沢口(最上ロ)最上義光と仙北(最上川以北)の諸大名 
 津川ロ(越後ロ)前田利長・堀秀治・同直寄・村上義明・溝口秀勝

 七日付書状に、「猶」としてみえる津金修理亮と中川市右衛門の二人は、家康の家臣で、このとき、使者となって山形に赴いている。もっとも、この二人は、単なる使者ではなく、家康から最上家に送りこまれた軍監のような立場だったのではないかと思われる。というのは、同じ七月七日付で家康がこの二人に宛てた覚書が「書上古文書」にあり、そこに、会津へ攻め入るときには義光を先手とすること、戦いになったときには兵糧を義光から借りることなどが指示されているからである。
 そして、家康は、予定通り、七月二十一日に江戸城を出陣し、会津攻めに向かった。ところが、二十二日、二十三日と軍を進める内に、三成挙兵が次第にたしかな情報として入ってくるようになり、二十三日、下総の古河に着いたところで、進軍中止を指令した。それを物語るのがつぎの義光宛第二報である。

【第二報 七月二十三日付】
                   
 急度申し入れ候、治部少輔(石田三成)・刑部少輔(大谷吉継)才覚を以って、方々に触状を廻らすに付て、雑説申し候条、御働の儀、先途御無用せしめ候。此方よりせ重ねて様子申し入るべく候。大坂の儀は、仕置等手堅く申し付け、此方は一所に付、三奉行の書状披見の為これを進せ候。恐々謹言
(慶長五年)七月廿三日   家康御判
       出羽侍従殿(最上義光)
                     (「譜牒餘録後編」四)

 この文書は、家康が会津討伐中止を指令した一番早いものである。このあと、二十四日に家康は下野小山(おやま)まで進み、二十五日、有名な「小山評定」を開き、そこで、反転して畿内にもどり、石田三成を討つ作戦を決めている。そして、家康自身、二十六日に小山の陣を引き払い、八月五日に江戸城にもどるわけであるが、その間、諸大名に精力的に書状を出している。つぎの第三報もその一つである。

【第三報 七月二十九日付】

 急度申し入れ候。仍って上方奉行衆一同の者、鉾楯の由申し来るに付て、会津の閣、先ず上落せしめ候。併、中納言(秀忠)差し置き候条、彼表働の儀を相談尤に候。猶、後音の時を期すべく候。恐々謹言
(慶長五年)七月廿九日   御諱御判(徳川家康)
       出羽侍従殿(最上義光)
                     (「古文書集」十)

 ここで注目されるのは、会津のことはひとまずさしおいて、まず上方にもどり、三成を討つことにしたことを義光に伝えていることと、「秀忠を押さえとして残したので、今後のことは相談するように」といっている点である。
 つまり、七月二十九日の時点では、家康は秀忠を残すつもりでいたことがわかる。事実、秀忠軍が下野宇都宮を陣払いしたのは八月二十四日であった。そのあと、代わったのが結城秀康ということになる。
 江戸城にもどった家康は、何と二十六日間もの間、動こうとしなかった。その間、東軍先鋒として福島正則ら豊臣恩顧の大名たちが東海道を西に攻めのぼり、八月二十三日には岐阜城を攻略している。家康から義光への第四報はそのことにかかわるものである。

【第四報 八月二十七日付】

 急度申し入れ候。去る廿三日午の刻、岐阜の城乗崩し、中納言(織田秀信)兄弟一人も洩らさず撫切申す由注進候条、書状持たせ進せ候。政宗より参るべく候。我等父子も出陣申し候間、万事そこもと御行仰せ付けられ給うべく候。委細(今井)宗薫申すべく候間、具にする能わず候。恐々謹言  
(慶長五年)八月廿七日   家康御判
       出羽侍従殿(最上義光)
                     (「譜牒餘録後編」四)

 家康はこのように、東軍先鋒の戦いの模様を義光に報じており、翌日にも、第五報(八月二十八日付)で三成らが美濃に出てきたことを伝えている。

【おわりに】
 九月十五日の関ヶ原の戦いを前にした義光宛家康の最後の書状は九月七日付で、これが第六報ということになる。
 そこでは、三成らを大垣城に「追籠」たことを報じ、「其口、政宗と相談し、油断無き行等、分別尤に候」といっている。
 おそらく、この第六報が義光の手もとに届く前のことと思われるが、上杉景勝の老臣直江兼続が最上領へ侵入してきた。九月十三日には、山形城の支城である畑谷城が攻められ、城将の江口五兵衛父子が殺され、水原親恵率いる上杉軍はその勢いで長谷堂城を包囲しているのである。
 上杉軍の猛攻を支えながら、長谷堂城が破られた場合、本拠山形城も危なくなると判断した義光は、長子義康を政宗の本陣北目城に人質として送り、援軍の要請をしている。
 結局、政宗は自分の名代として伊達政景を援軍に送り、最上・伊達連合軍有利な状況となった。その長谷堂城の攻防戦の最中、具体的には九月三十日の朝といわれているが、関ヶ原での東軍勝利の報が最上陣営に届けられ、ついに、十月一日、長谷堂城攻囲の上杉軍が撤退したのである。

■執筆:小和田哲男/静岡大学教育学部教授・文学博士(2000年執筆当時)・静岡大学名誉教授 (2009年) 「歴史館だより�7」より
常設展示の一部で慶長出羽合戦をテーマに慎ましやかに公開している資料のなかに「慶長鎮東軍鑑」(山形県立博物館蔵)という冊子があります!!

「最上義光物語」や「最上合戦記」とは異なり第三者的な見方で慶長出羽合戦を叙述していて、直江兼続や石田三成の出自の他に、上杉家臣団の合戦後の動向なども記されています!!




さらに前田慶次郎の有名な逸話の数々も記され、その中に「大ふへんもの」の旗指物の記載をみることができます!!



そして…

このたび、米沢の田村さんから前田慶次郎の旗指物が寄贈されました!!



田村さんは前田慶次郎とともに長谷堂合戦の撤退戦で殿を務めた田村宮内少輔のご子孫とのこと!!

田村さんのご好意に感謝申しあげます(礼)

さて…慶長出羽合戦も間もなくです!!
人気沸騰中の前田慶次郎の登場シーンは果たしてあるのでしょうか…!?

※「慶長鎮東軍鑑」の公開は2009年8月31日までです!!