最上義光歴史館

歴史館からのお知らせ
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【志村光安 (3)】


 さて、志村光安は軍記物史料の中でどのように位置付けられているのだろうか。『奥羽永慶軍記』の記述に、それがよく現れている一文がある。

  『奥羽永慶軍記』最上義守逢夜討事
   最上出羽守義光ハ、清和天皇八代孫義家ノハ十一代ノ後胤、(中略) 
   誠ニ君々タレハ臣々タリトカヤ、時ノ執事氏家尾張守、
   元来忠有テ義アリ、謀ハ楠カ肺肝ノ中ヨリ流レ出ルカ如キモノ也、
   今一人ハ志村九郎兵衛尉、其心剛ニシテ武威ノ名顕レ、
   然モ口才人ヲクシキ、イカナル強敵ト言トモ彼ニ逢テハ即降リヌ、
   彼等ハ皆君臣ノ礼厚クシテ国治リ、栄耀家門ニ及ホシ給フ(注7)

 これを読む限りでは、光安は氏家尾張守と並び義光の腹心中の腹心として捉えられている。また、「口才人ヲクシキ」と弁舌の才がある人物とされている。特に『奥羽永慶軍記』においてはこれが強調され、光安が使者としての役割を果たす場面が多く記述されている。

  『奥羽永慶軍記』羽州天童合戦事
   …志村九郎兵衛ヲ使者トシテ密ニ延沢ニソイハセケル…(中略)
   志村元来口才名誉ノ者ナレハ…(注8)

  『同』 白鳥十郎被討事
   …志村九郎兵衛ヲ使者トシテ信長公ヘ遣シケル…(中略)
   志村九郎兵衛ヲ使者トシテ、白鳥ノ所ニソツカハシケル、
   志村急キ谷地ニ至リ、(中略)…志村元来口才名誉ノ者ナレハ…(注9)

  『羽陽軍記』義光小田原江使者之事
   …御使者として志村伊豆守を小田原江被遣、…(中略)
   秀吉公伊豆ノ守を御前江召され、(注10)

 このように、信長への貢物を届ける使者や、小田原の秀吉への使者を拝命している記述があるが、これが全て事実であるか裏付けはとれない。ただ、全く才能が無く、実績の無い分野での活躍が軍記物史料に記され、また語り草となることはなかろうから、義光が光安を使者としてよく用いていたのであろうという推測は成り立つ。ただし、慶長期に比して文禄以前に志村が発給した行政関係の文書の残存状況が少ない事を考慮すれば、行政文書を発給し、領内統治に直接的に携わるような位置にはいなかったとも考えられる。

 次に光安の槍働きであるが、史料によって多少のばらつきはあるものの、最上家の勢力が伸張する天正以降においての主要な合戦の陣立てにはほとんどその名が記されている。一々内容に触れる事はしないが、義光に近しい直臣という立場上、義光自らが参戦した合戦には光安も随行していると推測するのが妥当だ。

 最後に「九郎兵衛」から「伊豆守」への移行時期の問題を少し検討したい。「伊豆守」の名の初出は、『最上記』『羽源記』では慶長五(1600)年長谷堂合戦条である。『奥羽永慶軍記』ではそれより若干前の文禄四(1595)年有屋峠合戦条で、その画期は十六世紀最終盤に集中している。『最上記』は、成立が寛永十一(1634)年と軍記物史料の中でも最も早く、しかもその著者は最上遺臣であるという。1590年代には実際に著者が生きて最上家内にいた可能性が高く、明確な意図があってその名乗りを書き分けていると推察できる。その契機として真っ先に考えられるのは長谷堂城主就任もしくは嫡子光惟の元服であるが、それを裏付ける史料が見られないため、あくまでこれは推論の上に成り立った仮説にしかすぎない。ただ、『奥羽永慶軍記』に、下治右衛門が上杉氏より最上氏に下り、改めて尾浦城将として配置されたときに名乗りを治右衛門から対馬守に変えた、という記述があって、自らが城主層となると同時にその名乗りを変えることはよくあったようだ。光安の場合も、子飼いの直臣の城主就任にあたり、義光が志村に対し権威付けのため官途名を与えたのであろうか。ともかく、慶長四(1599)年発給の書状において、山形の寺社統制に長崎城主中山玄蕃とともに「伊豆守」が参画している記述があり、この時点で光安は「伊豆守」を名乗り、山形近郊にその所領を持って行政に携わっていた事は確かであろう。

 以上、軍記物史料から見える関ヶ原以前の志村光安の姿を見てきた。整理すると、光安は義光政権成立当初から義光の腹心としてその手足となって活動し、天童氏との抗争、寒河江・谷地攻略等の主要な軍事行動に部将として参加していた。同時に弁舌の才にも恵まれ、方々へ使者として遣わされたが、文禄以前は最上家領内の内政的な経営に関わっていた形跡は見られなかった。いくつかの軍記物史料では、慶長の初期あたりを境として「九郎兵衛」から「伊豆守」へとその名乗りを変えており、あるいはその時期に長谷堂城へ移った事がその契機であったろうか。ただ、これらの史料の記述にすべてにおいて全幅の信頼を置くことはできず、この推論はあくまで「軍記物史料から見える」動向であることを重ねて記しておく。
<続>


(注7) 『奥羽永慶軍記』最上義守逢夜討事(『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』)
(注8) 『同上』羽州天童合戦事(『同上』)
(注9) 『同上』白鳥十郎被討事(『同上』)
(注10) 『羽陽軍記』義光小田原江使者之事(『同上』)


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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【志村光安 (2)】


 前述したように、十六世紀中盤から慶長六年に酒田へ移るまでの動向を追う場合、軍記物史料に頼らざるを得ない状況にある。信頼性に制限のある史料群ではあるが、可能な限り、その動向を検討したい。まず検討したいのが、光安の名乗った官途名である。多くの軍記物史料においては、志村光安と思われる人物が「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」という二つの官途名を使用している。この二つの名前が真に同一人物の名であるのかをまず確認せねばならないだろう。
 時期は下るが、書状史料における光安の官途名はどうなっているだろうか。慶長期以降の書状史料を見ると、

   御書中披見、祝着之至候、・・・(中略)・・・恐惶謹言
              志伊
      極月八日      光安
        大津助丞様
       御報  (注2)

 とあり、志村光安が伊豆守の官職名を用いていたのは確かなようである。また、他の史料を見る限り、光安の官職名は一貫して「伊豆守」と記されている。しかしながら、光安が「九郎兵衛」と名乗っている書状史料は一通も見当たらない。それでは、軍記物史料での記述はどうであろうか。目に付くのは、『最上記』と『羽源記』の記載内容である。

  『最上記』城取十郎討捕給事
   去程に其頃出羽国谷地と申所に、(中略) 此も義光公聞召、
   志村九郎兵衛後に号志村伊豆守使者として、最上の家の系図并白の
   大鷹一居・御馬一疋、月山打長身の鑓十丁相揃進上有りけるに、…
   (注3)

  『羽源記』巻之第二 城取十郎討捕謀略之事
   其頃最上谷地と申す所に、城取十郎武任と申屋形あり、(中略) 
   家の子に志村九郎兵衛と申者、後は伊豆守とて酒田の城主となりしを
   使者として、…(注4)

 とあり、この二つの軍記物史料においては「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」は同一人物と扱って物語を記している。また、他の書軍記物史料の記述とこの二つの軍記物史料の「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」の登場場面・活動内容を見比べてみる限り、そのほとんどが合致している。よって、軍記物史料における「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」は同一の人物「志村光安」としてとらえてよいだろう。
 ただし、注意しなければならないのは、光安の嫡子光惟も「九郎兵衛」を名乗っていたということで、これは書状史料に明記されているから確かな事である。
  
   殿様御遠行ニ付而、態飛脚差越候事、令祝着候、
   即頓而下候時可申理間、不具候、恐々謹言、
             志九郎兵衛
    ニ月六日         光惟
         永田勘十郎様  (注5)

 同様に、『奥羽永慶軍記』においても、
 
  『奥羽永慶軍記』庄内城主数代替ル事、付御静謐事
   羽陽田河・飽海ノ両郡ヲ、前代ヨリ庄内ト号ス、
   (中略、以下庄内の支配者が列挙される)
   志駄修理亮  慶長五年迄    
   志村伊豆守  最上ノ郎党、同十九年迄   
   同 九郎兵衛  同元和八年迄(注6)

 と、志村光惟が九郎兵衛を名乗っていた事を記している。ただし、光惟は慶長十九(1614)年に一栗兵部の手によって襲殺されており、元和八(1622)年まで城主であったとしている記事内容の信頼性は低い。ともあれ、軍記物史料における「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」は同一人物とみなしてよく、またその子光惟も「九郎兵衛」を名乗っていたことは確かである。志村光安が史実の上で「九郎兵衛」を名乗っていたかどうか、書状史料の上からは明らかにする事はできないが、親子で官途名を継承する事例はありふれたことで、光安も、伊豆守を名乗る以前は「九郎兵衛」を名乗っていた可能性が高い。
<続>

(注2) 「大津文書」十二月八日付志村光安書状(『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』)
(注3) 『最上記』城取十郎討捕給事(『同上』)
(注4) 『羽源記』巻之第二 城取十郎討捕謀略之事(『同上』)
(注5) 「永田文書」二月六日付志村光惟書状(『同上』)
(注6) 『奥羽永慶軍記』庄内城主数代替ル事、付御静謐事(『同上』)


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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【志村光安 (1)】


 志村光安は、最上義光股肱の腹心として広く名を知られた存在だ。出羽の関ヶ原として有名な「長谷堂城合戦」において長谷堂城の城将として上杉軍の猛攻から城を守り抜いた名将として評価されており、「長谷堂城合戦図屏風」にもその奮戦ぶりが描かれている。また、最上義光の名代として織田信長に拝謁したとされ、ほとんどの軍記物史料において「武勇に優れ」「弁舌巧みな」功臣として光安は描かれている。しかし、志村光安の評価はそれらの事績においてのみ語られる傾向にあり、慶長出羽合戦後酒田へと転封され、三万石という大身の城主として庄内の統治に関わった形跡が見とめられるにもかかわらず、光安に対する検討は一部の市町村史において断片的になされているに留まっている。信頼のおける史料群を参照し、最上家臣団の中でいかなる立場にあったかを再評価する必要があるだろう。

 志村光安の生年は、系図・法名録等がみられず不明である。しかし没年については、遊佐町の永泉寺に建立されている石塔に、「奥大日本前出羽州□□□君候 豆�搬声薜拇啓捨廟狂� 禅定門菩提□報厚恩家・・・于時慶長拾六季辛亥八月如意珠日」とあり、志村光安は慶長十六(1611)に没しているようだ。建立記年がなく、この石塔自体いつ作られたものか、またこの記述が正確なものか判然としないが、いくつかある受取状の発給記年を見る限りでは、慶長十七(1612)年より嫡子志村光惟署名のものが出現し、志村光安署名のものは途絶えている。これを考慮すれば、石塔に記されている没年はそう不確かなものでもないだろう。

 そもそも光安の本貫地はどのあたりであったのか、長谷堂城主に就任する以前、どこを知行地としていたのかを語る一次史料はなく、その動向を追う上での基礎史料が軍記物史料や諸記録群となる以上その断定は難しい。『奥羽永慶軍記』を始めとした軍記物史料では、最上義光に最上家の主権が移行した比較的早い段階からその名が見えており、元々最上家の直臣衆であったことは確かなようである。また、山形市の北部、漆山地区に「志村」という地名が存在するが、元禄年間に記された『元禄郷帳』には「漆山ノ内 志村」という記載があり、江戸期にはこの地名はすでに存在していたようだ。さらに、江戸初期に成立したとみられるいくつかの書写記録には「志村館」との記載があるとされ(注1)、志村氏居館の存在をうかがわせる。その本貫地を姓とするパターンが最上家家臣の多くにみられ、また義光政権初期段階からの直臣であったことも鑑みれば、志村光安の本貫地もこの辺りであったろうか。
<続>

(注1) 『最上時代 山形城下絵図』(高橋信敬 1974)

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《平成22年度5月分の入館者アンケート集計結果》

 この集計結果は平成22年5月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。



   企画展示 (5/1〜5/31)

  開館日数 ・・・・・・・・・・26日間
  入館者数・・・・・・・・・2,931人
  回答者数 ・・・・・・・・・・・53人


 1.歴史館をどこで知りましたか

(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・・18%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・・2%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・11%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・・5%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・・0%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・14%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・・21%
(8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・・・5%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・・16%
 (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7%

 2.歴史館の入館は何回目ですか

 (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・・85%
 (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・13%
 (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2%

 3.ご覧になられた感想

 (1)内容はいかがでしたか

   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・・74%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・・25%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・・0%

 (2)最上義光と最上家について

   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・・55%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・・42%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・・0%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%

 〜利用者の声〜

 ◎解説してもらえる事を、わかりやすく案内書などで掲示してほしい。

 ◎ガイドの方の説明が面白く、とても楽しむ事ができた。
 
 ◎よく説明してもらえて大変良かった。

 ◎こんなに良い資料があるのに無料なのは嬉しい。

 ◎決して大きな歴史館ではありませんが、展示がわかりやすく、大切にされているのが伝わってきた。

 ◎受付やボランティアの方が大変親切で、来てよかった。

 ◎無料、そしてわかりやすい説明、今までに初めてだった。

 ◎入場料は取るべきだと思う。「ただでもいいから見ていって」という姿勢は、むしろ歴史館の存在を安っぽくしている。今後の事を考えるなら、料金を取り資 料収集や広報等の資料の足しにすべき。知名度が上がれば、個人所有の歴史的資料が出てくる事もあると思う。

 ◎「紙かぶと」「花押帳」等をチケット代わりにして入館料を取った方が良いと思う。

 ◎音声ガイド貸し出しの看板を分かりやすい所に置いたほうが良いと思う。

 ◎説明が楽しかった。

 ◎説明してもらって大変勉強になった。最上家の事をもっと知りたいと思った。

 ◎ガイドの方の話しに興味を持った。年齢等に合わせての楽しい話し方で、素晴らしいと思う。入場料を取った方が良いと思う。

 ◎ボランティアの方の説明が丁寧で分かりやすかった。最上のイメージが良くなった。

 ◎展示物の説明を見やすくしてほしい。

 ◎時間がなく、説明を聞くことができず残念だった。もっと名前が全国に広がるように頑張ってほしい。

 ◎10名のグループで来館しましたが、見学後にコーヒーを飲みながら色々な説明をしてもらえて、思い出深くなった。

 ◎丁寧な説明で分かりやすく楽しませてもらった。少々疲れたと思っていたら、コーヒーを飲みながら休む事もできて良かった。

 ◎説明された方が分かりやすく、丁寧に話してくれたので良かった。

 ◎あまり関心がなかったけど、説明を受けて視野がひらいた感じがした。

 ◎スタッフとボランティアの方々の意気込みが強く伝わってきた。

 ◎案内して下さった方の説明が大変良かった。
 《平成22年度4月分の入館者アンケート集計結果》

 この集計結果は平成22年4月1日から同30日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。



       企画展示 (4/1〜4/30)

    開館日数 ・・・・・・・・・・28日間
    入館者数・・・・・・・・・2,791人
    回答者数 ・・・・・・・・・・・53人


 1.本日は最上義光歴史館に・・・

   �ヾ覯菘犬鮓�に来た・・・・・・・・・・・・・・・・・0%
   �⊂鐇濺玄┐鮓�に来た・・・・・・・・・・・・・・・92%
   �N省�見に来た・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8%

 2.�´�の方、企画展を何で知りましたか
  
  (1)ポスター・チラシ等・・・・・・・・・・・・・0%
  (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・・0%
  (3)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・20%
  (4)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・・0%
  (5)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・20%
  (6)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・・60%
  (7)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・0%

   �△諒�、当館をどこで知りましたか
 
  (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・・16%
  (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・・4%
  (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・・8%
  (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・・0%
  (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・・0%
  (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・・2%
  (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・・18%
  (8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・・18%
  (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・・29%
  (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6%

 3.歴史館の入館は何回目ですか

  (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・・83%
  (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・11%
  (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6%

 4.ご覧になられた感想

  (1)内容はいかがでしたか
 
 〜常設展示〜
  
   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・・40%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・・42%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・・17%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・・2%
  
 〜企画展示〜

   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・33%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・33%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・33%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・0%


 (2)最上義光と最上家について

   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・38%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・60%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・2%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%

 〜利用者の声〜

 ◎とても詳しく説明してもらえたので良かった。

 ◎広く一般の方々に知ってもらえるよう、分かりやすく伝えていただきたい。

 ◎書状などに現代語訳を付けてほしい。

 ◎無料は止めた方が良いと思う。

 ◎好きな食べ物などが分かると良かった。

 ◎館内をもう少し明るくしてほしい。

 ◎音声ガイドの�發�バラバラで戸惑うので、順番に並べてほしい。

 ◎大変勉強になり、楽しかった。

 ◎こんな立派な歴史館とは、知らなかった。

 ◎楽しかったので、また来たいと思う。

 ◎音声ガイドがあって良かった。

 ◎ボランティアの方の説明が良かった。

 ◎売店が小さいと思う。

 ◎音声ガイドの飛び番がどこにあるのか分からなかった。

 ◎駒姫の事を初めて知った。長谷堂城のことだけでなく、こんな話も世に伝えていただきたい。
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【鮭延秀綱 (8)】


  5  小 括

 鮭延に関する基礎的な問題について述べてきた。根本史料が限られている上、軍記物史料という難しい制約を抱える史料を用いながらの検討であった。

 まず鮭延氏と最上氏、あるいはそれにかかわる南出羽の国人衆についての研究史を整理した。市町村史等で考察されているが如く、大きな歴史の流れの中での多くの登場人物の中の一人として鮭延秀綱を捉えているものが大多数で、いくつか優れた個別論文はあるものの鮭延に関する個別研究の蓄積はまだまだ多いとは言えない。これは、最上家のその他の家臣、ないし南出羽の国人についてもあてはまる。

 第1節では、鮭延氏が真室地方に割拠した当初の状況を整理した。また、天正九年に最上義光の傘下へ降った直後から、天正期に最上家が勢力を伸張させていく段階において、最上家中において鮭延がどのような立場にあったか、またどのように立場を変化させていったかにスポットを当てて検討を進めた。
 鮭延秀綱は、その利用価値を大きく認めた最上義光の期待を受けてその傘下に加わった。その「利用価値」の一つに挙げられるのは、小野寺氏や武藤氏ら周辺大名や、その麾下にあった国人領主達とのコネクションであったと推察される。秀綱は、そのパイプをバックボーンとして、最上家が武藤氏・小野寺氏ら周辺大名との抗争を繰り広げる過程での外交活動や抵抗勢力の調略に尽力した形跡がみられた。義光はその働きを高く評価し、最上家内での鮭延の存在感は次第に高まっていったと考えられる。

 第2節では、仙北検地に伴う雄勝郡の領有問題に関わる鮭延秀綱の動向を追った。
 鮭延は、奥羽仕置軍の先導として小野寺氏領国へと進駐した。元々鮭延氏は小野寺氏の麾下にあり、仙北事情に精通した鮭延は先導者として適任であった。湯沢に進駐した鮭延は、「公儀」の権威を背景に主君の最上義光と連携しつつ雄勝郡の実効支配を進めた。その過程において、鮭延は一貫して現地責任者の立場であり、上杉家家臣の色部長真や小野寺家中との折衝を行っていた事が史料から読み取れる。結果として最上家は、豊臣政権より上浦郡(雄勝・平鹿郡を合わせた通称とされる)の一部を領土として追認されたと見え、湯沢城主として楯岡満茂が配置された。しかし、同地域での火種はくすぶり続け、以降幾度かの軍事的衝突が小野寺氏と最上氏の間で繰り広げられたと考えられる。これら一連の仙北問題において、鮭延秀綱は非常に重要な役割を果たしていたのである。

 第3節では、慶長期から元和期にかけての最上家内における鮭延の立場の変化を検討した。
 慶長五(1600)年に発生した、いわゆる「慶長出羽合戦」において、鮭延秀綱が長谷堂城救援・庄内反攻などに活躍した事は諸書の記すとおりである。徳川政権下において、最上家領国五十七万石が成立した後も鮭延は重用されたと見え、義光没後も最上家内の中枢重臣の一人として領国経営に参画していた。家中における序列では、由利本城に四万五千石を領する本城満茂には劣るものの、非親族系家臣の中では一際高い立場に位置していたとみられる。

 第4節では鮭延の官職名について時期的推移も考慮しながら考察した。鮭延秀綱は、その生涯において「典膳」と「越前守」の二つの官職名を名乗っているが、書状史料・軍記物史料の記事を見る限りその二つの官職名は慶長五(1600)年前後を画期として使い分けられている可能性を指摘した。その理由の仮説として、鮭延郷に勢力を確立した鮭延秀綱の父貞綱も「典膳」を名乗っており、慶長五年の出羽合戦において初陣を飾った嫡子左衛門尉の元服時に、父から受け継いだ鮭延郷の守護者としての「典膳」という名乗りを継がせた、あるいは継がせる前段階として自らの官職名を越前守と変えた可能性を提示した。

 以上の問題について考察を行ったが、鮭延氏にまつわる問題はこれだけではない。鮭延氏の鮭延郷入部時期、最上家改易時の動向等残された課題は少なくない。後稿を待ちたい。
<了>

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