最上義光歴史館
歴史館からのお知らせ
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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【志村光安 (10)】 まとめ 志村光安に関わる慶長期以前の書状史料は皆無で、最上氏が勢力を拡大する段階での動向は周辺史料に頼らざるをえず、従って詳細な検討は困難であった。ただ、義光が最上家中の実権を掌握した初期の段階から近臣として義光に付き従っていたことは確かであろう。 光安が通称として「九郎兵衛」を名乗っていた事について、いくつかの周辺史料にその記載が存在している。嫡子の志村光惟が「九郎兵衛」を襲名している事から考えても、恐らくそれは事実としてよいだろう。その後光安は通称を「伊豆守」に変更しているが、その画期は慶長初期頃であろうと推測される。 慶長五(1600)年、慶長出羽合戦において、光安は長谷堂城の守将として活躍した。上杉軍撤退後、最上軍は諸城奪回の動きを見せるが、当年から翌年にかけての庄内攻めにおいて光安は主導的役割を果たしていたようだ。 その後、光安は、新関久正・下吉忠らとともに最上家へ加増された庄内へと配属された。酒田城主として転出した以降の史料は豊富であり、光安ならびに庄内諸将の動向をある程度検討する事が可能であった。 書状史料を検討するかぎり、最上中級直臣衆出身の進藤但馬・日野備中・原美濃らが庄内において内政実務を実行していたように見受けられた。筆者は、まず前提としてこれらの者たちが事実志村らの家老職であったかどうかを再検討し、城付きの家老であることはほぼ確実であったろうとの再確認を行った。その上でこれらの者達の権限を検討したところ、原・進藤らは各々密に連絡を取りながら領内の民政を行い、警察権、徴税権を行使していることが判明した。その上で志村光安は庄内衆の取り纏め役として由利・庄内・山形の連絡を仲介する役割を負っていたようだ。しかしながら、藩政における大規模事業である治水事業は義光主導で実行された形跡が顕著で、実務に当たったのは中低級の義光直臣層だった。つまり、庄内の政治権力は上下を問わず志村・新関・進藤ら最上氏直臣層出身者に握られており、またその施政の背景には義光自身の意向が強く働いていることが想起される。ゆえに、庄内は義光直臣層による領国支配のテストケースだったのではなかろうか、という仮説を提示しえるだろう。 <了> 最上家臣余禄 記事一覧へ→ 本城満茂(1)へ→ |
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最上家信奉納の神馬図
天童城本丸趾に建つ愛宕神社には「慶長八年(1603)菊月」の棟札があったとされるが、今は所在が確かめられない。その後、寛文年間に暴風のため社殿が破壊し、現在の建物は延宝六年(1678)に再興されたと伝える。 当社に山形最上家の最後の城主、家信が奉納した紙本金地着色の神馬図一幅が伝わり、天童市の文化財となっている。 ![]() 紙本金地著色「神馬図」 天童市・愛宕神社 写真提供:天童市美術館 縦188・0センチ、横212・0センチとたいへん巨大である。構図が似ていることが指摘されている若松寺(天童市)の郷目貞繁筆の絵馬よりも大きく、最上家の当主の奉納品としていかにもふさわしい。図には「奉納/馬形/一疋/為諸願/成就/(欠失)/九月二十四日 家信」という墨書があるが、肝心の年号部分が欠損している。裏面には「慶(カ)□□四年酉九月□四日/□□源五郎家信自筆/愛宕社奉納」と記された後世の貼紙があるが、当然のことながら絵馬から掛軸に改装した後のものである。慶長十四年が酉年にあたるが、家信はわずか四歳でしかなく自筆という文言と矛盾する。箱に「御宝物最上出羽守少将義光公御真筆」と書かれた板が打ち付けられているので、義光存命中の年号にしようとする意図的なものが感じられる。 ![]() 『山形市史』は奉納年次を元和六年(1620)としている。同じく家信が奉納した山形市内の日枝神社の絵馬に「おさめたてまつる馬形三疋/元和六年十月十六日 家信」と記されているのを参考にしたのだろう。日枝神社の絵馬は猿が馬を曳く様子を描いた珍しい図で、猿が描き加えられているのは日枝神社の使いが猿だからである。また、猿は厩を守るとされている。 厳密に言えば、奉納の年は家信の在国期間を点検したうえで結論を出すべきである。なぜ在国中に限るかと言うと、江戸から送り届けたのでは藩主が奉納した効果が薄らぐからである。以下では『山形県史』史料編の「金石文」の項に集められた、家信による造営、寄進史料をもとに在国期間を考えてみた。あわせて、小野末三氏による綿密な考察「山形藩主・最上源五郎義俊の生涯」を参照した。 最上家信は元和三年三月に父の最上家親が死去したニカ月後に、わずか十二歳で家督を相続している。当時の習慣では大人として認められるぎりぎりの年齢であった。江戸で生まれ育った家信は相続後なるべく早く国の家臣らに顔を見せる必要があった。家信の若さに不安があったのか、幕府は元和四年九月に最上領検使として榊原左衛門をさし向けている。おそらく、それまでに家信は帰国していたはずである。 家信は帰国するや領内安定を願って矢つぎばやに各地の神社を再興している。元和四年七月に鳥海大権現薬師堂と遊佐町の蕨岡大物忌神社を再興し、八月にはかねてから進行していた慈恩寺本堂落成法要を執り行ない、九月には酒田市の亀崎八幡神社を再興している。また、致道博物館に伝わる擬宝珠には「羽州鶴岡垂虹従山形三日町橋令造立之畢 元和四戊午年霜月吉辰」の銘文があるので、これも家信の助力によるのであろう。 このほか『神道体系 神社編』に収録されている羽黒山本社東之坊早鐘銘には「元和三年五月廿八日」の年紀と、「国主時代源朝臣家信公」という耳慣れない文言が記載されている。五月は相続直後にあたるので、父、家親の事業を受け継いだのであろう。もう一つ、西之坊勤仕鐘銘として「元和四年林鐘(六月)吉日」という年紀とともに「国主源朝臣家信公」と記載されている。ここから元和四年の六月から十一月まで造営事業が連続していることがわかる。家信は相続後一年ほどたった六月までに帰国して検使を迎え、在国中に新しい藩主の威光を示そうと、もろもろの造営にいそしんだのであろう。 家信は翌年の正月は山形で過ごしている。『梅津政景日記』によれば、元和五年二月に秋田藩主が参府の途中、天童にて家信より贈り物を受けているからである。三月の細川忠興書状には「東奥の衆すみやかにのぼらるの由」とあるので、やがて家信も江戸に向かったのであろう。五月には秀忠上洛につき江戸留守居役を勤め、六月には取り潰しとなった福島正則の江戸藩邸の接収にあたり、功績をあげている。 ところが翌年の元和六年三月になって幕府は再び監視役を山形に派遣している。「家士など相論おだやかならず。家信、放逸、淫行をほしいままにして、家臣の諌めを用いず。」という理由からだった。『徳川実紀』の同年九月十二日の条には、家信が舟遊びの挙げ句に大名という身分でありながら船頭と争論した、という不名誉なことが記録されている。ただし、同年七月から九月にかけて江戸城普請に携わる家臣らを労う家信の書状(山形市史・史料編1)が存在することによって、この時には家信が山形に在国中だったことが明らかなので事実はともかく、時期については誤りとしなければならない。 元和六年には元和四年と同じように家信の神社への寄進、造営が連続している。おそらく、家臣間の不和を静めようとする願いがこめられていたのだろう。十月には先にもふれたが日枝神社に絵馬を奉納し、十一月には鶴岡市湯田川の田川八幡神社、十二月には飽海郡八幡町の一条八幡神社を再建したことが棟札によってわかる。いつまで在国していたか不明だが、翌年の元和七年五月の銘がある伝山形城大手橋擬宝珠(酒田市佐藤家)が存在することや、大沼浮島神社の石灯籠に「羽州最上山形源五郎源家信 元和七辛酉年六月吉日」の銘があることから、元和七年六月までは在国していたようだ。 『梅津政景日記』によれば、元和七年十月十三日に佐竹義宣は江戸城での茶会のため家信の招待を断っているので、それまでには江戸に戻っていた。佐竹義宣は翌年の元和八年三月の書状で、最上家信の町屋での傾城狂いと酒乱による不行跡を伝えており、八月になってついに所領の没収が決定した。十七歳だった家信はわずか一万石に改易され、近江に転封となった。 一般には家信が義俊と改名したのは改易後とされるが、元和九年閏八月十三日付け慈恩寺別当宛書状に「最源五家信(花押)」とあるので、改易後もしばらく家信を名乗っていたようだ。改名の時期はまだはっきりしていないが、翌年二月に寛永と改元されているので、このあたりが改名のきっかけになったかもしれない。愛宕神社の絵馬は改名前の寄進ではあるが、改易後とは考えにくい。諸社への寄進は元和四年六月から十一月までの間と、六年十月から七年六月までの間に集中している。ただし、『神道体系』の羽黒山の部には「藤松丸木像」の銘文として「国主時代山形源朝臣家信公 干時元和八稔卯月吉日」という意味の取りにくい記載がある。これをも含めるならば、改易直前の元和八年も範囲に入れなくてはならない。 本図は26・5センチ四方という日枝神社の絵馬とちがって規模がきわめて大きいことを考えると、初めて入国を果たした元和四年(1618)の可能性を考えてみたくなる。奉納日の直前の九月十二日に幕府の最上領検使を迎えていることもその心証を強くする。「諸願成就」の中には検視が無事終わることを願う意味もあったのかもしれない。絵馬は九月に奉納されている。上述のように家信が九月に在国していたのは元和四年と六年である。七年の可能性もまったくないわけではないが、除外してもよいだろう。 奉納先の愛宕権現は火除けの神でもあるが軍神でもある。愛宕権現は武神らしく馬に乗る姿をしている。そこに巨大な絵馬を奉納して、入国早々に家臣らに君主としての意気込みを見せようとしたのだろう。たまたまかもしれないが、元和四年は午(うま)年にあたる。だが、日枝神社に猿を描いた絵馬を奉納した同六年が申(さる)年だったことを考えると、単なる偶然とも思われない。ここでは元和四年を奉納の年と考えておきたい。 この絵馬からは初めて領国と家臣を目にする、年若い大名の心の昂ぶりが感じられないだろうか。図は、白地に茶色の横縞が入った小袖に緑色のたっつけ袴を穿き、紐を足首で結ぶ皮足袋に草鞋履きの若者が手綱を強く引いて、はやる馬を抑えながら駆けて行く光景である。形式的な図がほとんどの絵馬の中にあって他には見られない躍動感がある。口取りを画面中央馬体の前に配して馬よりも強く印象づけようとしており、風俗画としても見ることができる。腰に結んだ赤い帯に差した脇差は印籠刻鞘風の拵で、金色の盛上げ彩色が施されている。若者の月代を剃らずに頭部全体の髪を短く伸ばした髪型と、南蛮風俗を意識したものだろうか、首の回りに認められる鋸歯状の襟飾りが印象的である。 ![]() 風俗や馬の表現からすると家信の署名がなければ、この図はおそらく寛永期以降の作とみなされるだろう。だが、本図が元和四年(1618)の作であるならば、従来、寛永期とされていた風俗画、代表的な作品をあげれば国宝の「彦根屏風」などを、元和期にまでおし上げる有力な根拠となるだろう。その可能性についてはすでに『風俗画の近世』(至文堂 日本の美術)において指摘したことがあるが、本図の存在を知ってその意をいっそう強くした。 元和期の作とはっきりとわかる絵画は少ない。元和五年の建物に描かれた旧円満院(現在は京都国立博物館)障壁画中の風俗画は、慶長二十年(1615)に描かれた名古屋城対面所の風俗図の系統を引く。従来は、十年間におよぶ元和期は慶長期の尻尾のように扱われてきた。最近、狩野博幸氏によって紹介された元和六年の東福門院入内行列を描き加えた「洛中洛外図」屏風にしても桃山時代の作品との区別が難しい。しかし、今後は元和期を寛永期を先取りした時代として二重写しにして見てゆく必要があるだろう。 『治代普顕記』(『大日本史料』12編47)によれば、最上家信は「平生、遊女傾城にたはふれ、有時は舟をもよおして夜を明かし、有時は居屋敷へ数十人の遊君を招集めかふき躍を事とし」ていたとある。家信が改易された翌年の元和九年に、福井藩主の松平忠直が乱行を咎められて隠居を命じられ、豊後に配流されている。忠直も十三歳で家督を相続し、一国という都の遊女をつれ帰っている。家信と忠直の行跡はぴったりと重なる。松平忠直も最上家信も元和期という、大坂夏の陣の「戦後」という同じ空気を吸いながら、享楽的な日々を過ごした若き大々名であった。 松平忠直は岩佐又兵衛という希代の風俗画家を世に押し出した。一方、最上家信は自筆の絵馬を残した。本図を日枝神社の同じ白黒斑の絵馬と比較すると、尾の表現や斑の具合から見て同筆と考えられ、職業絵師らしからぬ大胆な筆遣いで描かれているところから、伝承どおり最上家信筆とみなす可能性は十分にある。 ![]() 杉板金地著色「猿曳馬図」(三面のうち) 山形市・日枝神社 そうであるならば、最上家信は自身の手で元和期の風俗を今に伝えるという、思わぬ功績を残したことになる。 ■執筆:宮島新一(山形大学教授/日本絵画史)「歴史館だより�17」より |
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最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先
【一 最上氏に仕えていた頃の佐竹内記】 元和八年(1622)最上氏没落による藩の解体は、それはあの大家臣団の消滅を意味するものである。だが武士の道を捨て難く、新たな主家を求めようと、全国に散っていった者達の数も、決して少なくは無かったのである。 この羽州最上時代の三種の分限帳から、佐竹姓を拾ってみよう。 A[最上義光分限帳] 土佐(物頭・655、7石) 太夫(400石) 平内(200石) 政右衛門(物頭・520石) 兵内(200石) 源七(100石) 忠次郎(100石) 内蔵允(100石) 喜八郎(100石) 半左衛門(30石) 雅楽助(20石) 宮内(30石) 弥五郎(10石) B[最上家中分限帳] 土佐(物頭・650石) 太夫(400石) 平内(200石) 政右衛門(物頭・520石) 兵内(200石) 源七(100石) 宮内(30石) 右次郎(100石) 喜八郎(100石) 半左衛門(40石) 雅楽助(20石) C[最上源五郎御時代御家中并寺社方在町分限帳] 内記(220石) 大八(160石) 源六(43石) 平内(74石) 宮内(15石) 忠二郎(42石) 喜八郎(47石) 雅楽丞(10石) 長十郎(5石3人) 五左衛門(30石) 半右衛門(16石) 藤右衛門(5石3人) 以上、最上氏直参の分限帳から佐竹氏を拾ってみたが、これに陪臣として仕える者達を加えたならば、更に多くの佐竹を名乗る者達が居たであろう。この分限帳の佐竹氏の内から、内記と関わりを持つ者が果たして居るのか、その接点を求めるのは困難である。ただ平内とある人物が、後の小泉平内なのだろうか。 ここで、物頭級の土佐・政右衛門・内記の三人を見ると、A・Bには共に土佐・政右衛門が有るが内記は見えず、Cは内記のみで他の二人は無い。土佐・政右衛門の二人は、Cの最上義俊の代には、もう姿を消していたのだろうか。当時の山形城下を措いた[最上家在城諸家中町割図]には、内記・土佐と別々に屋敷があるが、政右衛門は見当たらない。また城北の郊外の一画に、「佐竹内記下屋敷」と広大な区画が有るが、内記の禄高から考えてみると、少しは奇異な感じを覚えるのだが。 内記の最上時代の足跡を探し出すのは難しい。元和八年(1622)藩内騒動による藩の解体は、辛うじて近江・駿河の地に一万石を与えられ、何とか大名として息を継げた最上源五郎義俊(家信)であった。 しかし、この落差の激しい身辺の変化に耐えかねてか、寛永八年(1631)「長々相煩」の中で生涯を閉じることになる。 この失意の義俊に付随の家臣の内に、内記の姿があった。『最上家譜』や『最上家伝覚書』によると、幕閣に於いて、義俊亡き後の家名存続についての協議が為され際の、最上氏側の代表として、柴橋図書・鈴木弥左衛門と共に内記の姿がある。江戸の大手門前の広大な屋敷を明け渡し、向柳原の下屋敷に移った最上氏であった。江戸を一歩も出ない義俊を支え、藩の運営に携わっていた内記であったろう。 しかし、義俊の死により五千石の旗本身分となる最上氏が、禄高の半減に伴う家臣団の整理などに伴い、内記も柴橋図書と共に、最上氏を去ることになる。その経緯について『柴橋家由緒書』は次のように云っている。 源五郎廿六歳ニ而逝去、嫡子最上刑部弐歳之時、壱万石(五千石)被下ル、然所柴橋図書佐竹両人申分重而又有之、刑部御母双方浪人被申付、此時浪人ニ罷成目斎卜改、法名花林春松居士佐竹末孫奥平氏山形之城主美作守方有之、 このように、知行半減の旗本身分の家中に於いては、先ずは家臣団の整理が急務であったろう。柴橋図書と共に最上氏を去った時期は、同じく柴橋氏の記録の[寛永拾一年諸御道具御改脹面人数]の十一名連署の内に、柴橋図書と共に内記の名もあるから、寛永の十二年以後のことであろう。また、この柴橋氏の記録から、内記の子の与二右衛門が、山形藩当時の奥平氏に仕えていたことも分かってくる。 ■執筆:小野末三 前をみる>>こちら 次をみる>>こちら |
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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【志村光安 (9)】 庄内統治の実情を家老等の持つ権限という切り口で見てきたが、以上確認してきた事実関係から一歩押し進め、仮説とするとしたら以下のようになるであろう。 庄内の各地は志村・新関といった譜代直臣や、新しく直臣層へと取り込んだ下対馬へと与えられた。進藤・原ら家老達は、志村光安ら各城主の配下として庄内の民政・警察権の管轄という実務を取り仕切ってはいたが、最上家内での立場は最上家から直接知行を受けた義光の直臣であった。つまり、庄内は山形から離れてはいたが、支配の中心は最上家直臣層によって行われていたのである。また、城主達も、各々連絡を取り合い、最終的な決定権を所持していたと考えられるがそれはあくまで庄内に限っての事であり、城主・家老それぞれ制限を受けた上で領国支配を行っていたように見うけられる。庄内衆の中でも最大の知行高を持ち、最上家中でも大身の部類に入る志村光安とてこれは例外ではなかった。 また、これらは、最上義光自身の意向が庄内支配へ大きく影響していたことを想起させ、進藤ら中級家臣が実務を遂行している点は、他藩に見られるような中低級家臣の藩政参画のテストケースとも捉えられるのではなかろうか。このような義光のコントロールは、大学堰を始めとした新堰開削と、慶長十六(1613)年から翌十七年にかけて行われた庄内・由利検地に象徴される。 北館大学が義光に願い出て、志村伊豆守などが反対したものの義光がゴーサインを出し始まった新堰普請は、反対した志村が担当する区画の遅れが目立つなど当初進展が捗々しくなかったらしい。そこで北館大学は再び義光に申請し、自らの裁量で工事が進められる事となった。この工事には、庄内・由利全域より人足が徴発された。その割り当ては各々二十石に一人の割合であり(注29)、この普請が最上家内での軍役の一つであること、従って義光主導の元進められたことは明確である。 最上家が庄内・由利を拝領して十年経った後に行われた検地は、一つに幕府による軍役負担の増大、第二に新田等低年貢地の年貢増徴、第三に新田開発による地主層の地位の相対的低下による検地の実施容易化を背景に押し進められたものだった。この検地に奉行として従事したのは、志村や本城といった大身の城主層ではなく、庄内河南は日野備中、河北は進藤但馬、由利は日野・進藤両名の千石前後を知行していた最上直臣達で、さらに請取役(点検役・実質責任者)はいずれも高三百五十~五百石の最上家中堅家臣であり、これら直臣を運用し総指揮をとっていたのは最上義光自身であったのである(注34) 。 <続> (注34) 井川一良「最上氏慶長検地の実施過程と基準」 (『日本海地域史研究 第11輯』日本海地域史研究会 1990、初出は1983) 志村光安(10)へ→ |
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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【志村光安 (8)】 このように、庄内の統治に関する実務の多くは進藤・原らが行っていたように見うけられるのであるが、対して、志村や新関ら城主達が直接庄内の統治に関わったことを示す書状史料は少ない。慶長八(1603)年に志村光安が飛島及び沿岸諸村の雑税を徴収している(注20)が、前述したように慶長十三年段階に進むとその役割は進藤但馬が果たしている(注30)。また新関因幡に関しても、永田勘十郎に預けていた米を売却したい旨を永田へ申し送った書状が見られる程度であり、残存している書状史料は少数である。だが、直接統治に関わった史料がほとんど見られないから城主達の権限は小さいと断定するのは誤りであろう。実務の多くは家老達が実行していたといえども、抱えた案件を「次右衛門殿申上」たり、「即伊豆守に申きかせ」たりしている訳であるから、もちろん義光が介入しない限り最終的な決定権は城主達が握っていたと見てよい。また、北館大学に宛てた最上義光書状でも、 昨日朔日ニ大志田下候、為知候ハんためニ態書状越候、態書状越候、 明日三日ニハ清河へ可下候間、此等之段志村伊豆・下治右衛門方へ、 無嫌夜中可申断候事候、恐々謹言 七月二日 義光(花押) 北館大学とのへ (注32) と、内容は不明であるが、義光は重要な事であるから夜間を厭わず志村・下らへ伝えよと北館大学へ申し送っている。このように、重要な案件は城主同士が通達し、決定していたであろうし、また連携も密であったと考えられる。さらに、由利の岩屋右兵衛へ米の輸送に関して言及した書状を差し送っている(注33)し、笹子山落事件の際も本城(当時は赤尾津)満茂の報告を「上様」つまり山形に差上げ、その返答を中継しているのである。由利地方との交信は志村伊豆守の役割であった。 <続> (注32) 「本間美術館文書」七月二日付最上義光書状 (『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』) (注33) 「秋田藩家蔵文書」八月十七日付志村伊豆守光安書状 (『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』) 志村光安(9)へ→ |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum







【二 佐倉藩掘田氏に仕えた佐竹氏】
慶長五年(1600)の関ケ原の戦いの後、徳川氏の覇権確立による豊臣大名の排除により、多くの譜代大名を創設している。三代将軍家光の寛永初期の頃、新しく幕政の担当者として、新参譜代大名による幕政が行われるようになる。その新たな担当者の一員として、堀田加賀守正盛が登場してくる。寛永三年(1626)御小姓組番頭から、野州佐野一万石の大名となった正盛は、同十二年(1635)老中に列すると武蔵川越三万五千石へ、そして三年後には十万石にて信州松本へと移る。しかし、僅かにして同十九年(1642)六月に下総佐倉へと移り、前期佐倉藩の創設となる。
この正盛の大名家創設の寛永初期の頃から、家臣団の増強と編成が始まったのであろうから、佐竹氏の仕官の時期は、少なくとも松本藩時代の頃であろう。佐竹氏の記録の初見となるものは、[掘田加賀守正盛分限帳](実は子の正信の代、明暦から万治三年までの間という)である。この万治三年(1660) とは、慶安四年(1651)将軍家光の死に殉じた正盛の後を継いだ正信が、この年に無断帰国などの理由で改易され、前期佐倉藩掘田氏の終焉となる年である。分限帳には六名の佐竹氏の記載がある。
佐竹伝兵衛(二百石) 辰之助(二百石) 市兵衛(百石) 友右衛門(二十人扶持) 万左衛門(四十俵三人) 辰之助母(女儀 五十俵)
また、市兵衛には「松平伊賀守殿へ」、万左衛門には「久世大和守殿へ」と、掘田氏改易後の仕官先を示す加筆が為されている。これは、全てではないが、一部の藩士の間にも見られる。この分限帳の成立の頃は、内記は既に死亡、子の初代・伝兵衛が継いでいたものと思われる。
元和八年(1622)八月、小大名に転落した最上義俊に近侍し、藩の再生に勤めてきた内記が、最上氏を離れ堀田氏に仕官した時期はいつ頃であったか。それは堀田氏が川越から松本へと転封を重ね、寛永十九年(1642)に佐倉藩成立を見る頃、掘田氏家臣団の大幅な増強が為された時期であった。
多くの浪人達が仕官の口を求め、集まって来たのであろう。内記が最上氏を去った時期は、早くとも寛永の十二年(1635)以後のことであろう。そして、内記の名を掘田氏の内から初めて見出だすのは、松本へ転封が決まった二ケ月後の五月、藩主正盛が江戸より松本へ遣わした諸役人から、[松本諸役人誓紙之前書]という誓書を提出させている。その中に、寅五月十五日付の内記を含む五人の連署があり、内記の掘田氏に仕官していたことが分かる。
このように、内記の仕官の時期は、掘田氏の川越藩時代の頃で、最上氏を去ってから間もない頃であったろうが、早々に役に就く程の評価を受けた人物であったのだろう。もう一点、内記に関わる貫重な記録が有った。それは寛永十七年正月付の[覚書]の一つに、次のような記録が有った。
右之奉行役者相除、左近煩指合有之節者、御城中御番以下見廻可申旨被仰出候事、
この覚書きは何を語っているのだろうか。内記が何か体調でも崩し、奉行役でも免除されたのではないか。このように二点の記録から、僅かながら内記の堀田氏家中での存在を、確認することができる。『親類書』の佐竹伝右衛門が、父の伝兵衛の死期を「十年以前」と記していることから、祖父内記の死期はそれ以前の、寛永の終り頃ではなかろうか。もう正信の分限帳には、内記の後を継いだ伝兵衛の名が有った。
また、卯正月廿日付の[江戸役人之覚]に、奏者番として伝兵衛の名がある。日く
右者弐人宛ニ而一日一夜替り、夜者壱人ニ而御番可相勤旨被仰出候事、
また[物頭之覚]には、日く
一、御持弓拾張 佐竹伝兵衛
此足軽拾壱人小頭共ニ
この二つの役に就いた伝兵衛とは、内記の子の初代・伝兵衛なのか、孫の二代・伝兵衛(伝右衛門の兄)なのかはっきりしない。この当時の卯正月に該当する年は、寛永十六年(1639)と慶安四年(1651)である。
以上、掘田氏家臣となった佐竹内記と、その一族の姿を垣間見ることができた。しかし、辰之助、市兵衛、友右衛門、万左衛門、また辰之助母などが、内記とどのような繋がりを有していたのか、掘田氏内部の調べからは、満足な結果は得られなかった。
■執筆:小野末三
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