最上義光歴史館
歴史館からのお知らせ
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ケーブルテレビで放送される施設紹介番組の撮影がありました。
*ベニちゃん*が歴史館に来館してくれました。ヽ(^▽^@)ノ 撮影風景を遠くから隠し撮り中・・パチ /■\_・) おっ!! (ノ*゜▽゜*)ニパ こっち向いてくれたぁ〜 ベニちゃん可愛いぃ〜♪♪(*´ー`) その頃、館内では・・ 今回、ベニちゃんを案内する 歴史館サポータークラブ「義光会」会長の 阿部さんが甲冑を身に着け、笑顔で余裕のご様子⌒★ ベニちゃんを出迎える準備中です。 出陣待ちの会長。顔がだんだん真剣に・・・ もしや・・会長 緊張してる? (* ̄m ̄) ププッ ベニちゃんが館内に入って会長と ご対面〜♪ しっかりと握手をしていました。 うらやましい・・・(・_・。) ナッツも後で、ベニちゃんに握手してもらお〜 (* ̄▽ ̄*)エヘヘ ベニちゃんと会長で写真をパチリ⌒☆ 会長・・・ やっぱり緊張してる? ( ̄ ▽  ̄;)大丈夫? 緊張していると思った会長は、撮影では絶好調♪ 本番に強い! カメラ目線も忘れていません。 さ〜すが会長だね。(^▽^)b 実は、会長が着用している陣羽織には、 ベニちゃんの缶バッチが付いているのよね。o(@^◇^@)o ちなみに、会長が手に持っている扇子も、ベニちゃん扇子でした。 可愛い♪ベニちゃんと、頼もしい「義光会」会長の勇姿は、 3月にケーブルテレビで放送予定だそうです。 ぜひ、見て下さいね〜。ワク p(^‐^q=p^‐^)q ワク |
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《平成23年度12月分の入館者アンケート集計結果》
この集計結果は平成23年12月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。 企画展 (12/1〜12/31) 開館日数・・・・・・・・・・・24日間 入館者数・・・・・・・・・・・701人 回答者数・・・・・・・・・・・・87人 1.本日は最上義光歴史館に �ヾ覯菘犬鮓�に来た・・・・・・・・・・・・・・・3% �⊂鐇濺玄┐鮓�に来た・・・・・・・・・・・・・63% �N省�見に来た・・・・・・・・・・・・・・・・21% 2.�´�の方、企画展を何で知りましたか (1)ポスター・チラシ等・・・・・・・・・・・・4% (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・2% (3)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・1% (4)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・0% (5)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・0% (6)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・14% (7)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・3% �△諒�、当館をどこで知りましたか (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・13% (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・2% (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・5% (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・1% (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・2% (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・5% (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・・7% (8)観光案内所 (駅など) ・・・・・・・・・・・9% (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・17% (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・2% 3.歴史館の入館は何回目ですか (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・75% (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・7% (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・5% 4.ご覧になられた感想 (1)内容はいかがでしたか 常設展示 �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・30% �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・47% ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・9% �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・1% 企画展 �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・10% �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・13% ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・1% �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・0% (2)最上義光と最上家について �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・30% �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・53% ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・0% �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ粥� 〜利用者の声〜 ◎丁寧な資料解説でよく理解できた。 ◎満足した。もっとPRすると入館者が増えると思う。 ◎説明が大変わかりやすかった。 ◎最初に来たのがきっかけで、小学生の娘が歴史に興味を持ち、また来館しました。前回とは違った視点で見てまわり、楽しかった。 ◎ガイドの方の説明がとてもわかりやすく、最上義光と山形の関係をよく知ることが出来た。 ◎最上家中興の祖としてもっと有名になって良いと思う。業績も偉大なのにもったいない。 ◎弾による兜の破損の部位を表示してほしい。 ◎見学していたら、ガイドの方がわかりやすく説明してくれて、とても勉強になった。またゆっくり来たいと思う。 ◎史跡めぐりツアーを企画してほしい。 ◎「音声ガイド」があったのでわかりやすかった。 ◎わかりやすく見やすかった。(時間的にも)これからも頑張ってほしい。 ◎レプリカ品の展示などが多い他の博物館と異なり、最上義光公の正真の兜を常設 展示しているその意気や、良し!! ◎入場無料&ガイド無料、すばらしい!!これからも郷土の魅力を発信し続けてほしい。 ◎もう少し配置を考えた方が良いと思う。順を追っていきにくい。 ◎入場料を取っても良いと思う。ガラスごしにある説明文については、もう少し大きめに書いてほしい。 ◎無料でこの内容はとても良かった。解説がわかりやすくて良かった。 |
企画展「(第4回)市民の宝モノ2012」 〜卒業存績と最上義光公百万石行列絵巻〜
▼さあさあお立会い!!今年は山形市の「宝モノ」紹介します!! このたびは、山形市が所蔵する宝モノの中から、大正3年(1914)から昭和4年(1929)までの山形市尋常小学校・高等小学校の卒業生(11歳・13歳)の書や絵画の優品を年度毎に掛軸にあつめた「卒業存績」9幅と第13代山形市長大久保傳蔵氏が昭和30年に市宝に認定した「最上義光公百万石行列絵巻」5巻を紹介します。 ※今回は公募による市民の宝モノの紹介はお休みです。 ▼1.主 催 財団法人山形市文化振興事業団 ▼2.共 催 山形市 ▼3.会 期 平成24年1月11日(水)〜平成24年4月8日(日) ▼4.会 場 最上義光歴史館 (山形市大手町1-53) 第一展示室北側展示ケース ▼5.開館時間 午前9時から午後4時30分まで ▼6.入 館 料 無 料 ▼7.休館日 毎週月曜日 【卒業存績/そつぎょうそんせき】 大正3年から昭和4年までの山形市内の尋常小学校と高等小学校の各校から卒業制作で最も優れた生徒(11歳から13歳)の作品をあつめて一幅の掛軸にまとめたものです。櫻井浜江(さくらいはまえ)や高嶋米吉(たかしまよねきち)、石澤健吉(いしざわけんきち)など大正から昭和初期に活躍した地元の著名な芸術家の幼少期の作品も見ることができます。 【最上義光公百万石行列絵巻/もがみよしあきこうひゃくまんごくぎょうれつえまき】 大正11年に山形市在住の彫刻家服部午山(1880-1968)が制作。将来義光祭で大名行列を執り行うために当時の市長小鷹鋭健(おだかえいけん)が依頼しました。昭和30年に大久保傳藏(おおくぼでんぞう)市長が市宝に認定したと記されています。最上義光をはじめ家臣団あわせて715名が描かれ、長さは約46メートルにも及ぶ大作です。 |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum








【七 伝承の中の半左衛門】
土肥半左衛門については、現今の多くの刊行物は、越中出身で元は上杉の家臣であったと認識しているようだ。それは今に伝わる多くの軍記類からも知ることができる。その中で増田土肥の半左衛門とする記述は、[奥羽永慶軍記]からの、義光の関ヶ原の役後の小野寺勢攻めに先導役として父と共に参加した時と、翌年春の酒田の上杉勢を攻めた際の、下一党の奮戦の最中に於ける「爰ニ山北ヨリ来リシ土肥半左衛門一陣ニ進ミ」と、二ケ所に見られる。しかし、その後の酒田の攻防戦に度々見られる半左衛門とは、越中土肥の半左衛門のことで増田土肥ではない。
先に取り上げてはいるが、増田地方の諸資料に云う、「義光公上意ニ而半左衛門殿切腹」とは、どんな落度があって切腹に至ったのか。増田土肥の半左衛門が、義康・義親への襲撃事件のいずれかに、関わりを持っていたからであろうか。しかし、決定的な証しとなるものは何も無い。そして、残された一女は新庄藩戸沢家で土肥の名跡を継ぎ、家名を伝えた。片方の越中土肥は元和二年(1616)四月、子息と共に相果て断絶した。この二つの流れを汲む土肥半左衛門が、それがどのような曲折を得ながら、別人格の半左衛門像を生みだし、どのような形で伝承されてきたのであろうか。
越中土肥の半左衛門の最期の地の倉津は天童市蔵増の内、当時の蔵増村蔵増楯の内に館址がある。天正の昔、天童氏に仕え後に最上氏に降った倉津安房守守俊の領地であった。子の日向光忠(親信)の時、最上郡小国に移り小国を姓とする。その一族かと思われる小国摂津が、「蔵増 高八千石」と分限帳に見えており、半左衛門の最期の地は、小国氏の勢力圏の内であったのだ。
この地に、「土肥半左衛門」にまつわる伝説が残っている。その墓と称される石塔などが現存している。その語りとして『最上四十八館の研究』(丸山茂・昭十九年)から、少し拾ってみよう。
…天正八年最上郡小国城主細川三河守が滅亡した時、その封土の全部を安房守嫡子が頂戴、小国日向守光基と称したが……西常得寺の境内に倉津家家老土肥半左衛門の供養塔がある。その由来を寺伝に聞くと、天童落城の時、家老土肥は身を以て安房の背信を責め、諌死したのだという。土肥半左衛門といえば慶長八年、父の義光の勘気に触れた義康が、高野山への逃避行路を六十里越街道に選んだ時、田川郡山添一里塚に於いて、義光の命により…義康を亡き数に入れた者と同名である。天正十二年に自滅した人が、慶長八年に生きている道理はないから、両者のいずれかが間違っているのか、又は後者の土肥氏は前者の子孫であったかのいずれかである。
このように、この筆者は土地の古伝などを基にして書き上げたのだろうが、土肥半左衛門に就いての認識とは、この程度のものであったのだろう。蔵増の西常得寺には、寛永二年(1625)建立の半左衛門の供養塔がある。その案内板に書かれた「解説文」(天童市教育委員会・平成九年)を読んでみよう。
…この杉の木の下には、倉津安房守の家老職土肥半左衛門の供養塔といわれる石像五輪塔がある。土肥半左衛門は最上義光によって倉津安房が、小国に転封される時、これを止めようとして聞き入れられず、この杉の木の下で切腹したといわれ、供養塔はその時に建立されたと伝えられている。
このように、蔵増の地で寛永の昔から伝えられてきた半左衛門像を見ると、[家記]に描かれた半左衛門達の悲惨な最期の様子を、真近かで知った蔵増の人々が、その一族の非業な最期を哀れみ、この地に供養塔を建て密かに供養し続けて来たのではないか。もう旧主の最上家は遠く去っては行ったが、反逆人の汚名を著せられ葬られた者達である。供養塔の建立は事件から九年後のことであり、表だっての供養も出来なかったであろうが、人々の記憶の中に生き続けてきた出来事は、時の移りと共に形を変えながら、今のような半左衛門像を造り上げたのではなかろうか。
■執筆:小野未三
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