最上義光歴史館
歴史館からのお知らせ
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《平成23年度3月分の入館者アンケート集計結果》
この集計結果は平成24年3月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。 企画展 (3/1〜3/31) 開館日数・・・・・・・・・・・27日間 入館者数・・・・・・・・・・1,013人 回答者数・・・・・・・・・・・123人 1.本日は最上義光歴史館に �ヾ覯菘犬鮓�に来た・・・・・・・・・・・・・・・・7% �⊂鐇濺玄┐鮓�に来た・・・・・・・・・・・・・・55% �N省�見に来た・・・・・・・・・・・・・・・・・38% 2.�´�の方、企画展を何で知りましたか (1)ポスター・チラシ等・・・・・・・・・・・13% (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・15% (3)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・4% (4)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・2% (5)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・9% (6)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・45% (7)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・13% �△諒�、当館をどこで知りましたか (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・10% (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・10% (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・13% (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・1% (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・0% (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・13% (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・・6% (8)観光案内所 (駅など) ・・・・・・・・・・12% (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・28% (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・6% 3.歴史館の入館は何回目ですか (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・93% (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・6% (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・2% 4.ご覧になられた感想 (1)内容はいかがでしたか 常設展示 �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・40% �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・46% ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・13% �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・1% 企画展 �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・42% �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・40% ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・16% �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・2% (2)最上義光と最上家について �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・39% �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・55% ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・1% �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�% 〜利用者の声〜 ◎卒業存積がおもしろかった。(めずらしい)大名行列の絵巻が良かった。屏風の色調がすぐれている。合戦の説明がわかりやすかった。 ◎案内、説明してもらい大変勉強になった。次回は妻もつれてきたいと思う。 ◎卒業存積がおもしろかった。大正〜昭和にかけて取り上げられる絵の題材が変化していくのが大変興味深く、当時の美術教育の変遷がわかっておもしろかった。 ◎順路を示す看板のようなものがほしい。 ◎大変詳しく案内の方に歴史を教えてもらい、また来たいと思った。 ◎戦国時代〜江戸幕府までの間の資料、内容がもっと知りたい。 ◎親切にガイドしてもらい、良かった。 ◎説明文、マーク等を大きく、もう少しわかりやすくすれば良いと感じた。 スクリーンを使っての説明があっても良いと思う。 ◎山形にいても知らなかった義光のことがわかった。 ◎コーナー4の5項目の業績で義光の業績が良く分かり、大河ドラマの最上家の 位置が分かった。 ◎山形の歴史が良く分かった。 ◎かりがねの旗は切断したのでしょうか?絵図では三段になっておりますが。 ◎武具などに興味があるので、もう少しそれらの類があれば良かったと思う。 ◎最上家は意外と大きな藩なのが分かった。 ◎無料でいいものを見せてもらえて(特に義光や伊達政宗の書状)良かった。 ◎図が多く用いられており、分りやすかった。 ◎無料になったのがいい。(以前は有料だった。) ◎気軽に見られ、勉強にもなった。 ◎ボランティアガイドの方の説明が良くて、歴史の時代背景などつなげてくれて良かった。やはり一人で勝手に見ていたら、解らずじまいで帰る所だった。大変よく 勉強になり、歴史が増々好きになった。 ◎もう少し刀が見たい。 ◎企画展が面白かった。昔の子供たちの字の上手なことにびっくりした。我が身を振り返り恥ずかしくなる。友人の意見で企画展の絵はがきを作り売り出してはとい う意見があった。 ◎TVドラマになるといいと思う。 ◎展示品を増やしてほしい。 ◎ホームページなどで広報お願いします。とてもよかった。 ◎説明がとても丁寧で大変勉強になった。また勉強して、改めて来たいと思った。 ◎ガイドの方にお願いしたかったが、今回は時間が無かったので次はお願いしたい。 ◎最上義光最高。今度はもっと時間をかけて見に来たい。 ◎資料がきちんと展示されていて、すばらしい。無料で見せて頂き感謝。 ◎クイズ等で興味をひかせている所が良いと思う。 ◎ガラスの中の字が小さいので目の悪い人には見えづらい。 ◎昔と今の山形が最上義光歴史館を見て分かった。また機会があったら来たいと思う。 ◎子供たちの卒業記念はびっくり、大正四年の絵が良かった。説明してくれる人もいたので良かった。 ◎無料にするのはもったいないくらいの内容。300円くらい取って、より充実した内容を期待する。 ◎最上義光の悪いイメージを払拭できるように、お願いしたい。 |
■名称
「鐵[kurogane]の美2012」 〜武士[mononofu]と日本刀〜 ■会期 4月10日(火)〜7月8日(日) ■内容 収蔵品の中から武士との係りがわかる刀剣資料10振を公開しています。 ■展示刀剣 太刀 銘 一 備前国吉(以下切)/嘉暦二(以下切) 太刀 銘 藤光/元和元□□月十日給之兼松又四郎源吉政 短刀 銘 則国(黒田家伝来/重要美術品) 短刀 銘 備前長船住景光/元徳三年五月日(重要美術品) 刀 朱銘 来国次 太刀 銘 備□長船盛重 刀 銘 月山正信作 太刀 銘 出羽国酒田住兼高作/八幡宮奉納源家親 脇指 銘 (三日月)大慶直胤作/文化二年八月日 脇指 銘 池田一秀入道龍軒/文化十一年二月日 袁茂政所佩 |
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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【氏家守棟(13)】 しかし、その和議も翌天正十五(1587)年には破られて最上家の庄内侵攻が本格化し(注40)、十一月までには武藤義興を滅ぼしている(注41)。翌天正十六年の二月には、由利十二頭の一人である岩屋朝盛から氏家尾張守に書状が送られており(注42、43)、岩屋が昨冬庄内へ下向した義光に参上した様子が伝えられている。わざわざ庄内においての出来事を連絡している内容であることから、氏家尾張守は天正十五年の庄内攻略には参加しなかったか、あるいは義光と交代し山形に帰陣した可能性を指摘できよう。 書状史料の上で、再び氏家守棟が登場するのは天正十九(1591)年の事である。 前年から引きつづいたいわゆる太閤検地において、前年に仕置軍の先導として仙北に入った鮭延秀綱・寒河江光俊は、小野寺氏領湯沢城に滞陣し上浦郡の領有権を主張する構えを見せたが、奉行色部長真の勧告により同地を退陣したと見られる(注44)。しかし、天正十八年末から天正十九年春にかけて最上義光が上洛、秀吉に対して工作した結果、上浦郡は最上家の領有権が認められた(注45)。これに関して、守棟は色部に対し、最上家が上浦郡の領有権を獲得した件を伝え、また百姓の逃散に対処するよう要請した書状を色部に対し発給している(注46)。同内容を記した鮭延秀綱書状(注47)の中で「山形留守居氏家尾張守」と明確に記載されており、守棟は、義光上洛中の在国衆を管轄する責任者である事が推測されるのである。 これ以降「氏家尾張守」の名が記載される書状史料は途絶える。『奥羽永慶軍記』最上義光・伊達政宗閉門之事条で、両家の代表的家臣の名が挙げられているが、その中に「氏家尾張守」の名はない。この記事内容は文禄四(1595)年の出来事を指しており、恐らく守棟は文禄四年までに死亡しているものと推測されるが、根拠としては若干薄いと言わざるをえない。新たな史料の発見が待たれる。 以上、書状史料を中心として氏家守棟の動向を探った。守棟は、最上義光の代理として各地を転戦し、また義光へ対する他家よりの書状の披露や添状の発給等を担当しており、軍事外交面での活躍が顕著である。義光の上洛中は「山形留守居」としての役割を課されており、氏家氏には、斯波氏入部から引き続く家宰的性格が強く残存していたと考えられる。 〈終〉 (注40) 『山形県史 古代中世史料1』 第二高等学校所蔵文書 五月廿五日付武藤義興書状写 (注41) 『秋田県史 資料編第1巻』 田村文書 霜月廿四日付最上義光書状 (注42) 『山形県史 古代中世史料1』 秋田藩家蔵文書 衣更着九日付岩屋朝盛書状 (注43) 天正十六年の年号比定は『山形県史』による。 (注44) 『秋田県史 資料編第1巻』 色部文書 十月廿五日付鮭延愛綱書状 (注45) 『秋田県史 資料編第1巻』 色部文書 二月八日付鮭延愛綱書状 (注46) 『秋田県史 資料編第1巻』 色部文書 二月廿六日付氏家守棟書状 (注47) 『秋田県史 資料編第1巻』 色部文書 二月廿八日付鮭延愛綱書状 |
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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【氏家守棟(12)】 天正十年も秋に入る頃から、最上家の庄内へ対する干渉が活発化する。九月には庄内国人来次氏秀が同国人砂越次郎へ書状を送り、鮭延秀綱が連絡を寄越した事を伝えており、秀綱による調略の手が庄内へと伸びている事をうかがわせる(注32)。さらに十一月には、前述した通り、義光が安東愛季に対して、白岩八郎四郎が大宝寺に通じた為これを討伐したこと、来春中には清水・鮭延両氏を率いて庄内へ攻め込むので、時を同じくして攻め入って欲しいという内容の書状を送っている(注31)。氏家は同日付同内容の副状(注33)を送っており、十一月時点では義光と行動を共にして、庄内問題に対応していたのであろうか。安東氏と庄内を掌握する武藤氏は由利地方の主導権を巡って抗争中であり、利害関係の一致する最上と安東は同盟関係にあったといえる。庄内進出は当時の最上家にとって最重要懸案であり、同盟者である安東氏と連絡を密にする事は至極当然とも言える事であった。 翌天正十一(1583)年三月に、武藤義氏は庄内国人前森蔵人(東禅寺筑前)に攻められ敗死する。この前森蔵人の謀反は、武藤義氏の圧政と義光の策動が要因となったものだという(注34,35)。義氏の後継には丸岡兵庫義興が迎えられたが、それで庄内の争乱が収まったわけではなかった。天正十二(1584)年には義興・東禅寺らが上杉氏に接近し、臣従する意思を伝えている(注36)。対して、義光は天正十四(1586)年一月に、東禅寺筑前へ氏家守棟が庄内に出馬する予定であるという内容の書状を送っている。 史料�察\儀郤憩�付最上義光書状(注37) 急度□啓之候、(中略)我々為代官氏尾[欠所]之条、(中略) 夫迄之儀、餘日有間布候得共、先以人数少々可相下之由、 氏尾へ申付候間、少勢之事者、近々可致下着候、定具成儀者、 従氏尾所可被及□候歟、其内之儀、追々後軍可相下之条、 可心安候、(後略) 正月七日 義光(鼎形黒印) 東禅寺筑前守殿へ 「先以人数少々可相下之由、氏尾へ申付候間」とあるように、ここでも、守棟は義光の命を受けて庄内へ軍勢を送る差配を行っている事を読み取ることが可能で、「代官」と合わせて考えれば、庄内方面経略の大部分を守棟が担当していたと考えてよいだろう。『奥羽永慶軍記』によれば同年五月に仙北小野寺氏との間に抗争が起こり、その陣立ての中に「氏江尾張守」の名がみえているが、武藤義興が家臣に対し藤島城防備の勲功を賞している(注38)し、同年冬には伊達政宗の仲介により最上・大宝寺の間に和議が結ばれていることが確認される(注39)ことから、最上家と武藤氏との間に実際に戦闘が発生している可能性は高い。史料の信頼性を考慮すれば、氏家は仙北ではなく庄内へと出陣したとみるのが妥当であろうか。 〈続〉 (注32) 『山形県史 古代中世史料1』 筆濃余里所収文書 菊月二十一日付来次氏秀書状写 (注33) 『山形県史 古代中世史料1』 湊文書 十一月廿五日付氏家守棟書状 (注34) 『来迎寺年代記』 (注35) 『山形県史 古代中世史料1』 別集奥羽文書纂所収文書 卯月一日付最上義光書状 (注36) 『山形県史 古代中世史料1』 上杉家文書 卯月廿八日付武藤義興書状 (注37) 『山形県史 古代中世史料1』 大塚甚内氏所蔵文書 正月七日付最上義光書状 (注38) 『山形県史 古代中世史料1』 高坂文書 天正十四年五月二日付武藤義興書状 (注39) 『山形県史 古代中世史料1』 雑纂諸家文書所収文書 十二月二日付伊達政宗書状 氏家守棟(13)へ→ |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum








【四 慶長十一、二年の江戸城普請の頃】
慶長十年(1605)暮、幕府は翌年三月に開始する江戸城普請手伝いを、諸国大名に命じている。幕府の大名達に発した年寄「奉書[注1]」から、秋田藩宛のものを取り上げてみる。
態令啓上候、御領分之人足、千石ニ付而壱人宛之積を以、
江戸城御普請被仰付候間、来年三月一日至于江戸参着仕様ニ、可被仰付候、為其如此候、恐々謹言
大久保相模守 忠隣
本多佐渡守 正信
秋田侍従殿
人々御中
この年の助役は西国筋の大名が占め、東北・出羽などの大名の参加は無かったようだ。『当代記』には「関東在囲之衆は、去年将軍上洛し給、依造作普請赦免、但去年留守居不上洛の衆、千石に一人つつ人夫を出す」とある。秋田藩が直接、工事に参加したのは十二年であった。
「最上家譜」が云うには、「十一午江戸御城御普請之刻、家人共差上、群夫ヲ召連御普請之御役相勤候之節」、また「寛政重修諸家譜」も「十一年江戸城の普請をうけたまわり、御書三通を下されて労はせたまふ」と、藩の参加を示唆している。だが『当代記』によると、「当月朔日(十二年閏四月)より江戸普請、関八州并安房・信濃・越後・奥州・出羽衆行之、関東衆百万を二十万石宛五年に分、八十万石にて石をよせ、廿万石にて殿守之石垣被築、奥州衆伊達政宗、米沢長尾景勝、会津蒲生飛騨、最上山縣出羽守、今秋田に住の佐竹、云々とあり、十二年参加の東国大名達の名を挙げている。ここで十一年の普請手伝いの様子を見てみよう。
慶長十一年二月、大名関東へ下り、江戸城石垣ヲ築、其々ノ町場ニ大名等タチツケヲ著シ、自身爰ニ居ス、台徳公朝夕両度ツゝ御普請場へ御歩行ニテ御廻リ遊ハサル、御城初ノ御普請故、欺アルヘキ事、大名等モ尤ノ事也、戦場之役ヲ勤ルトハ、御普請御手伝役ハ、物ノ数ニモオラサルヘシ、扨此節マタハ諸士未タ屋敷ナキ故、町屋ニ宿ス、[注2]
このように、大名達は直接普請場に出向き、工事を督励していたのであろう。この時期は藩自体の屋敷も完備されてはおらず、家臣や多くの人夫達の宿舎の確保も、大変な仕事であったであろう [注3] 。「最上家譜」に、次のような秀忠からの書状がある。
(前略)
同十一午江戸御城御普請之刻、家人共差上、群夫ヲ召連御普君之御役相勤候之節、
(イ)
就其許普請、差越使者之苦労之程察恩召候、猶口上申含候也、
五月十二日 秀忠 (御黒印)
最上少将とのへ
(ロ)
為普請見廻差越使者、炎天之時分苦労之程察思召候、将又帷子如目録遣之候、猶之候、猶口上申含候也、
六月廿一日 秀忠 (衛黒印)
最上少将とのへ
(ハ)
来翰令被閲候、然者今度普請延引ニ付而之差上候者共、自路次罷帰候由尤候、被入念候旨早々示預、本望之至候、猶期後音之時、 恐々謹言
六月廿八日 秀忠 (御判)
最上出羽守殿
この三通の書状のうちから(イ)、(ロ)は「最上少将」宛となっているが、義光の少将叙任は慶長十六年(1611)以降であるから、これはそれ以後の普請の際に下されたものと考えるべきである。これが「最上家伝覚書」では、(イ)は「五月十三日、御黒印、最上侍従とのへ」と。(ロ)は「最上侍従とのへ」。(ハ)は「家康御判」としている。このように、同じ最上家側の記録とは申せ、何時しかこのような誤りも生じてくるようだ[注4]。
『出羽三山史料集』には、「初ニ義光庄内ヲ切取納後、慶長十一年六月最上出羽守義光、羽黒御参詣有り」と、六月には在国している。
「武徳編年集成」(『東京市史稿』)は次のようにいう。
朔日江戸城本丸ノ天守修造始ル、伊達・蒲生・上杉・最上・佐竹・溝口・掘・村上・等是ニ与ル、天守台二重目ハ伊達政宗一人ニテ是ヲ修造ス、天守台石垣ハ南部。津軽両家是ヲ築ク、関東及ヒ信州御譜代ニ非サル十万石ヨリ一万石ノ輩、其高都合二百万石ヲ五組トシ、其四組石ヲ運送シ、一組ハ是ヲ築ク、
この十二年の工事開始は前年度を引継ぎ、閏四月に始まっている。伊達家は天守閣の築造と、最上家と同様に掘開削にも従事している。またこの年は駿府城の二度目の工事も始まっている。『当代記』は次のようにいう。
此比、駿河為普清、越前・美濃・尾張・三州。速江衆下る、上方衆去年江戸普請に被下衆、此度駿河へ悉相下、是は何も一万石二万石、或は千石二千石とりの小身の衆也
この工事は七月には一応の完成を見るが、暮に失火で消失、改めて完成したのは翌年の十月である。初めの完成時には朝廷、諸大名の祝賀を受け[注5]、義光も「慶長十二未七月、神君駿府江御移之節、参府恐悦、国許ノ土産献上」と、「最上家譜」はその駿府入りを伝えている。
■執筆:小野末三
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[注]
1、『江戸幕府の制度と伝達文書』(角川書店・平十一年 高木将作)
2、「君臣言行録」(『東京市史稿』)
3、『千代田区史・上巻』(千代田区・昭三十五年)
毛利家文書によると、家臣の普請役割当てを総数2,988人として、十一年正月には1,980余人が萩を出発、これも軍役の一種として藩から補助があるとしても、家臣達にしては大きな経済的負担となり、この江戸勤番を果たすために負債に苦しられ、藩自体も京・堺の商人から多くの金子を工面したという。
4、『山形県史・第二巻近世編上』(山形県・昭六十年)
この書状については、慶長十一年義光が人足を途中で帰国させ、将軍より与えられた感状である。普請延期とはこの年は西日本の大名達による普請であったので、最上勢はすぐ帰国したのではといっているが、「最上少将」についての疑念は示していない。
5、『史料綜覧』(慶長十二年七月条)
駿府城修築ノ功竣り、家康、之ニ移ル、尋テ、太刀・馬ヲ家康ニ賜ヒ、政仁親王モ亦、太刀・馬ヲ賜フ、秀忠・豊臣秀吉及ビ諸大名等、各大名達、冬物ヲ進メテ賀ス、