最上義光歴史館

歴史館からのお知らせ
ぺパクラ武将兜でお世話になっている
木村☆社長から新作が届きました。
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チト地味ですが…兜をディスプるときにマストなアイテムです!!
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義光兜が完成した当時…ぺパクラ兜が完成しても、直置きとか紙を丸めたモノに飾るんじゃネエ…などと木村☆社長に兜立を要望していたのでした!!

社長イイヒト!!ちゃんと覚えていてくれて→約束を果たしてくれました!!

…というコトで、歴史館では通常版の他に黒漆ver.と朱漆ver.もアレンジ大関でこしらえてみました!!
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通常版


黒漆ver.


朱漆ver.

いかがでしょう!?ぜひ挑戦してみてください!!

「天下三槍」は>>こちら
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※このペーパークラフトは無料でダウンロードできます。




この兜立に最上義光の兜(歴史館Ver.)を据えると…
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最上義光所用「三十八間総覆輪筋兜」ペーパークラフト(最上義光歴史館Ver.)のダウンロード>>こちら

※このペーパークラフトは米沢市の木村吉孝氏が企画したものです。

※木村吉孝氏の他のペーパークラフト>>こちら
関東に於ける最上義光の足跡を求め ―特に関ヶ原戦以後に限定して―

【あとがき】

 山形藩主・最上義光の死から僅かにして、最上家は領国の崩壊を見るに至った。ここにその要因については、数々の説が挙げられてはいるが、主家一族の相剋に、それぞれ組した者達による権力争いによるものかと、探せば話題は尽きないようだ。あの戦国の世を生き抜き、徳川の世の奥州の一角に覇を成し遂げた義光である。その義光が残した偉大なる通産を、僅かにして失ってしまう程に、義光の死の反動の大きさは、凡なる後継者だった家親そして義俊の器量の無さから、結果は一国を失うことになってしまった。
 本稿は、関ケ原の役以後、徳川の政権下のもと江戸に集中せる諸大名の中に、羽州の最上義光の姿も見られた。そして、大坂の役を知らずに去ってしまった義光の、江戸を基点としての関東での動向を、残された僅かな史料を基に纏めたものである。それは勿論のこと、義光のその前後に歩を進めていた上方、本国での動きにも、多少は調べる必要が生じてこよう。
 義光が営々として築き挙げたものが、一瞬にして崩れ去ってしまった。そして、その失われた多くの物の中から、忠実に最上家を語る手立てを探すことはできないのか。勿論のこと、それには他家史料の利用が不可欠であることは、論を待たないであろう。
 本稿は、『山形県・地域史研究』(26・27号 平成13・14年)に収録したものに、新たな視点のもとに改訂、また訂正などの手を加え、書き改めたものである。

終り

■執筆:小野未三

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関東に於ける最上義光の足跡を求め ―特に関ヶ原戦以後に限定して―

【七 最晩年期を迎えて】

 最晩年期の慶長十七・八年頃の義光は、江戸での公儀へ「誓書」提出の正月五日に始まる。義光に残されたこの二年余の年月は、病躯を押しての領国経営の仕上げの時期であった。それはそれは庄内での開拓事業の根幹となる灌漑用水路の開削事業は、三月に始まる北館大堰の工事を以て、一応の幕を降ろしたといえよう。
 十七年正月、公儀に「誓書」を提出した義光が、帰国の途に就いたのはいつ頃であったか。それは三月に始まる大堰開削に併せての帰国だったのか。義光の北館大学宛の書状[注1]を見てみよう。

(イ)
おって京都ニて存もよらぬ我等くらいの事、御所様よりおほせ出され、くわふん忝なき事、かたかたにまんそくの事、尤ニ候、
  以上
藤十郎さうさうしやうし出候へは、よき事とまんそく候、殊にゆわ井のよしにて、たるさかな内て・中たてめんめんにさし上候、則五月一日をゆわい候へハ、そさうニ候へ共、かたひらとらせ候、端午ニちやしく候へく候、何事もめてたく、かしく
  五月一日   出
   北館大覚(学)とのへ

(ロ)
こゝもとかはる事なく候ゆかしくあるましく候、江戸するか(駿河)御しつかに候へく候、  以上
つるおか(鶴岡)のしよたうく(諸道具)風すかし候ハんためニ此もの共相下し候、さて又そこもとふしんなにほと出候や、心もとなく候へハ、かれらもとりの時分くハしく可承候、めてたくかしく
  五月九日   出
   北館大覚とのへ

 また、次の十八日付の書状[注2]には、「此時分気相も能候ハゝ罷下見候ハゝ、皆々も悦我々のなくさみに成候ハン物をと呉々残多候」と、気分も良いのでそちらに赴いたならば、皆も喜ぶだろうが、それも出来ない残念さを述べており、暗に体調の悪さを伝えているようだ。次の七月二日付の書状[注3]は、義光が大石田から清川に下ることを伝えている。そして、七月の末には開削工事の完工を見たのであるが、八月五日の書状には、その功を賞すると同時にこの月の十八日には参府することを伝えている。
 この今年初めての参府は、体調も思わしくなかったのか在府期間は短く、大学宛の十月廿七日付の書状[注4]から察すると、もうその頃には帰国していたようにも思われる。義光は今年は雪も多く大変だろうから、来春三月の中頃には山形に来て、積もる話しを聞かせてくれと、書き伝えている。
 この年、義光は国元の個人や寺院に対し、六月四日付の「寄進状[注5]」を多く発給している。そこには少将出羽守の署名が見られる。暮の十二月に始まる禁中仙洞普請の助役に、最上家も招集されている。上杉家の記録には、禄高に応じて銀の拠出が為されたとあり、労力の他にそれなりの負担を強いられたのだろう。
 翌十八年の正月を国元で迎えた義光は、四月に入って参府した。新年の江戸表は大名達による恒例の参賀、そして駿府へと華やかな年の初めとなる。しかし、この年の初めには義光の姿を見ることはできない。義光の江戸入りは四月に入ってからである。一月三日には、多くの国持ち大名の使者が駿府を訪れている[注6]。そこには最上家の使者の姿もあった。

三日、於御座処三献之御祝、宰相殿、中条将殿、少将殿、御装束、国持衆名代、献御太刀御馬、羽柴肥前守利家、米沢中納言景勝………最上出羽守義光……(後略)

 この時、義光は未だ山形に在った。これが義光も新年には駿府に入り、駿府築城の祝辞を述べ、太刀と馬を献上して帰国したというが[注7]、それは誤りである。また駿府城の新築はもう五年前のことであり、改めて祝辞を述べる必要もないであろう。
 この時、伊達政宗、上杉景勝などは新年を江戸屋敷で迎えている。最上家の使者は誰が勤めたであろうか。坂紀伊守であったろうか。
二月十三日付の秀忠よりの書状[注8]がある。内容からすると、新年の献上品に対しての謝辞かと思われる。

為音信蝋燭弐百挺、銀子五十枚、并黒之馬壱疋到来、入念候段歓思候、将又所労無油断養生肝要候、猶本多佐渡守可申候也、 恐々謹言
  二月十三日  秀忠(御判)
   最上少将殿

 このように、慶長十八年(1613)の正月を病床で迎えたであろう義光が、病躯を押して参府したのは四月に入ってからだ。それは林光宛の書状[注9]からはっきりする。

(長文のため前文は省略)…江戸へ十八日ニ上着候、即刻従御城預御使者、色々過分之御諚共にて、翌日御前へ被召出、仕合無残所候而、早々令下国、気相養可致之由、御意共ニ候へ共、これ迄参、駿府へ御見廻不申候者、如何と存、今日江戸を相立、加の川迄着候義ニ候、於駿府にも弥以仕合能、頓而加致帰国候、気相も少々験気に候、御祈念故と存事候、猶以無油断御祈祷頼入候、尚帰国之上直々可申理候、恐々謹言
  卯月廿六日  義光(小黒印)
林 光様

 義光は四月十八日に江戸に入り、翌日には早々に登城し秀忠に会う。秀忠は義光の体調を安じたのであろう、早々に帰国せよとの事。しかし、義光はここまで来て駿府を尋ねないことにはと、今日(廿六日)江戸を出て加の川(神奈川宿)まで来たことを告げている。しかしこの時、義光は駿府入りを果たしたであろうか。文面から察るに少しは元気になったとはいっているが、病躯を押しての長旅である。果たして駿府へ入ったのか。それには大変な気力を必要としたであろう。こゝに五月二十日付の家康からの書状がある。

  出羽守就病気、使者差上候刻、被成下御書候、
   御書之写
銀子弐百枚・蝋燭三百挺并鶴到来、入念候歓思召候、所労養生肝要也、猶本多佐渡守可申也、
  五月廿五日  家康(御黒印)
最上少将殿

 また、佐竹義宣へ宛てた四月晦日付の書状[注10]には、「気相之事少々験気之分ニ候、此儘早々好御座候可と存申候」と、少しは元気になったことを告げている。また義光の甥の松根備前光広が、熊野権現に義光の病平癒を祈る「祈願野[注11]」がある。

  以上
最上出羽守義光就煩、神馬壱疋并鳥目百疋奉納候、於御神前、御祈念頼入迄候、猶彼使者可申述候、 恐々謹言
  八月廿日  白岩備前守
             光広 (花押)
熊野那智
 御別当 御宿所

 この「祈願書」は、帰国した義光の病状を察した光広が、その平癒を願ってのものではなかったか。そして、義光の江戸・駿府への旅はこの年が最後となったのである。天正以来、常に家康の庇護のもと羽州の大守としての地位を勝ち取った義光である。気力を振り絞っての江戸、駿府への道を歩んだのであろう。『古今武家盛衰記』は次のようにいっている。

義光の曰く、我死遠からじ、我家康公の厚恩を得ること年久し、之に依って最期の御目見せん、各用意せよと、家人等之を諌む、義光聴かず、俄に内立ち同年九月駿府へ赴く、此事先立ちて家康公聞き給ひ、本多上野介正純を上使とし、途中迄遣され、労らひ給ひ、本丸式台迄、乗物似て参るべき旨仰越さる、義光関悦し、上野介同道にて登城するに、御居間迄召寄せられ、種々御懇志の詞、且病体を問ひ給ひ、御手づから御茶を賜はり、急ぎ帰国し心の儘に補養すべし、帰国の道なれば、江戸へも立寄り、将軍へも対面すべしとて、自筆の御書を添え遣さる、其文に日く、

今度出羽守不厭老病、今生之為暇乞令参府候条、諸事御懇意専一候、 以上
  九月廿一目  家康
   秀忠公へ

斯く認め義光に預け給ふ、義光感涙を催し退出すれば、押付け上使を以て、御夜着呉服并御菓子等を賜ふ、夫より義光江戸へ赴き、先立ちて家康公の御書を上る、此時も途中迄上使あり、御玄関迄乗輿にて登城、又御懇意の仰数々あり、偖御小袖金銀等腸はり、早々帰国し補養すべしと、御直に暇賜けりれば、翌日江戸を立ちて十月上旬山形へ到着し、今は思ひ置く事なしと、大いに喜ばる、終に慶長十九甲寅年正月十八日逝去、六十九歳、

 義光の駿府入りは九月に入ってからであろうか。先の林光宛ての書状には四月廿六日に駿府への道を取り、加の川(神奈川宿)まで来たといっている。しかし、このまゝ駿府へと歩を進めて行ったのか。家康はこの月の十七日には関東へ放鷹の旅に出かけ、二十七日には江戸城に入っている[注12]。義光の駿府入りはいつ頃であったのか。
 師走の十七日、将軍からの書状は、家親の江戸での役儀三分之一免除を知らせるものであった。それは義光への暖かき配慮を示すものであった。

所労験気之由弥養生尤ニ候、然者駿河守参在江戸の条、年来之役儀三ケ一免除候間、可得其意、猶本多佐渡守可申也、
  十二月十七日  秀忠(御判)
   最上出羽守とのへ

 この年の義光にとっては、念願の羽州の大半を掌中に収め、更に将軍家との深き繋がりを築き挙げたという満ち溢れた歳月であったろう。そして、明けて十九年正月十八日、波乱に満ちたその生涯を閉じる。六十九歳。
「梅津政景日記」 
正月廿九日、出羽守様御死去之様子、館岡(楯岡)宿にて承届候、十八日に御死去被成候と、在々まてふれまハリ候由、
「最上家伝覚書」 
慶長十九寅歳正月廿五日、権現様相州小田原御働座被遊候刻、去十八日出羽守少将義光死去仕候由、同名駿河守家親飛脚差上候、本多佐渡守殿則言上之、駿河守儀急致下着、仕置等可申付旨被仰出、則帰国仕候、
■執筆:小野末三

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[注] 
1、「北館文書」(『山形市史・史料編1』昭四十八年)
2、「狩川八幡文書」(1と同じ)
3、「本間美術館所蔵文書」(『最上川土地改良区史』昭五十三年)
4、「最上川土地改良区文書」(3と同じ)
5、『山形市史・史料編1』昭四十八年
6、「駿府記」(『大日本史料』12編之10)
7、『山形の歴史』(昭三十九年 川崎浩良)
8、この書状の発給年月については、『山形市史・史料編1』所収の「家譜」は三月とするが、『大日本史料』や『徳川実紀』などは二月とする。
9、「慈光明院所蔵文書」(1と同じ)
この年の正月に江戸入りを果たせなかった義光にとっては、寒気の去った時期を待ってのことであったろう。将軍は義光の身体に気を使い、早々の帰国を進めた。義光は駿府を訪れるべく、神奈川宿まで歩を進めた。そして、この書状を認めたのだ。 文中の「加の川」とは「神奈川」のことである。先の舟橋秀賢の日記にも、「十三日、晴、早朝出大磯到着藤沢、過富塚(戸塚)、狩野川(神奈川)、到品川投宿」とあり、中世から近世初頭の頃は、加の川ともいっていた。
10、「佐竹氏記録」(『大日本史料』12編之10)
この書状には、佐竹義宣が三月の晦日に駿府に至り、家康に会い金子・時服などを献上、四月九日に江戸へ下り、七月十一日に帰国の途に就いたとあるから、この書状は江戸にて交わしたものであろう。
11、「熊野夫須美神社文書」(『大日本史料』12編之13)
12、『史料綜覧』慶長十八年九月条
十七日、家康関東ニ放鷹セントシ駿府ヲ発ス、廿七日、家康江戸ニ著シ、江戸城西丸ニ入ル、諸大名、之ニ謁ス、
Foreword  

  My family had been in the service of the Mogami clan for some seven generations when it came to pass that the senior retainers became embroiled in a dispute precipitated by the extreme youth of Yoshitoshi, the new lord of the Mogami domain. Matsune Bizen no Kami lodged a petition with the Edo shogunate alleging an attempted coup by Yamanobe Uemon no Daibu and Sakenobe Echizen no Kami, but when his accusations were judged to be without merit, Matsune was given to the custody of Tachibana Hida no Kami. In the time which followed, Shimada Danjō and Yonekitsu Kanbei, emissaries of the shogunate, repeatedly impressed upon the senior councilors their duty to unite in support of the young Gengorō(1), but Yamanobe Uemon no Daibu had other intentions, and, allying himself with Sakenobe Echizen no Kami, he resisted these orders until the very end. In response to this, the shogunate ordered that the Mogami domain be forfeited, granting Yoshitoshi a small fiefdom of a combined 10,000 koku(2) in Gōshū(3) and Sanshū(4) in its place.
  Finding myself cast adrift in the world, I retired with my family to the rural district of Kasai in the Musashi province, and the years passed by. There was a masterless rōnin from Aizu who also lived in the area, and having both been through similar circumstances, we fell naturally into conversation when we met day or night, commiserating at length over the decline of the families we had served. It was this rōnin who said the following to me:
  “As you suffer increasingly from the maladies brought on by old age, I worry how much time is left for you upon this earth, and it also concerns me that you will be leaving behind many descendants who know nothing of the faithful service rendered by Lord Yoshiaki and Lord Iechika to the noble Tokugawa family. Would it not be wise to commit the memories of all you have seen and heard to paper, leaving this record as an enduring gift for your children and their children after them?”
  I realized the justice of his words, and resolved to do that which had been suggested to me. During the autumn nights when I had a tendency to be wakeful, I reached back into my memory, recording all I could remember of the old tales, which I leave in this manuscript for my descendants.
  I am afraid that I can offer but poorly written accounts lacking in coherence or clarity, and I hope that the reader will forgive this work for its shortcomings.


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(1) Yoshitoshi
(2) A traditional unit of rice that was used to denominate the size of landholdings and the income of samurai
(3) Ōmi province, present-day Shiga prefecture
(4) Mikawa province, present-day Aichi prefecture

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