最上義光歴史館
歴史館からのお知らせ
最上義光歴史館冬の陣第三弾
なりきり★戦国武将コンテスト ○会期 平成28年2月2日-14日 ○会場 最上義光歴史館第一展示室 ![]() 各賞を受賞した3作品以外の作品から投票で「なりきり賞」を決定します。ぜひご来館のうえ清き一票をご投票ください。 ※投票は2月9日まで ◆各受賞作品と選考理由の紹介◆ 【館長賞】 ![]() 姫はわたさぬッ!! 〜わたしのために争わないで 村田 浩樹/村田 煌真 ○最上義光歴史館館長 芦野 均 「娘の駒姫を取り返そうとする義光の必死さに心を打たれました。」 【義光会会長賞】 ![]() 最上女子いざ出陣!! 渡邊 由美/渡邊 朝陽 ○最上義光歴史館サポータークラブ義光会会長 多田 美紀男 「幼い我子(政宗)を守る母(お東の方)の様子が良く表現されていて、お東の方の“強さ”と“優しさ”が感じられます。」 【芸術賞】 ![]() 女・伊達政宗と、其れを守らんとするチビッ子・伊達政宗 奥山 静子/奥山 航成 ○フォトグラファー 奥山 茂俊 「背景と人物とのコントラストのバランスが非常に良い。そして、武将達の力強さが感じられる。」 選考風景 ↓↓↓ ![]() |
▼さあさあお立会い!!第8回の始まりです!!
この展覧会は、山形市民を対象に、所蔵する「宝モノ」を募集して、歴史館の展示室に展示し、広く一般に公開する市民参加型の展覧会として企画しています。 今年は、日本美術刀剣保存協会山形支部とコラボして、会員の方々が愛蔵する自慢の日本刀12振りを展示紹介します。 作品のコメントはすべて出品者にお願いしています!! 自慢の日本刀をご覧ください!! ▼1.主 催 公益財団法人山形市文化振興事業団 ▼2.共 催 山形市、日本美術刀剣保存協会山形支部 ▼3.会 期 平成28年1月21日(木)〜平成28年4月3日(日) ▼4.会 場 最上義光歴史館 (山形市大手町1-53) 第一展示室北側展示ケース ▼5.開館時間 午前9時から午後4時30分まで ▼6.入 館 料 無 料 ▼7.出品中の「宝モノ」の応募規定 (1)応募資格 日本美術刀剣保存協会山形支部の会員であること (2)募集する「宝モノ(刀剣資料)」の条件 ・出品者の所有であるもの ・展示中破損の恐れがないもの ▼8.現在出品中の作品 脇指 無銘 (古吉井) 刀 銘 月山 脇指 無銘 短刀 銘 主水正正清 刀 銘 水心子正秀 (花押)(刻印)/文政元年七月吉日 脇指 銘 水心子正秀譲入道正近之/文化二年七月日 刀 (太刀銘) 荘司筑前大掾大慶藤直胤/文政十三年仲春 刀 銘 於洛陽斉藤豊前守清人造之/慶応三年八月吉日 脇指 銘 藤原清人作/安政三年二月日 短刀 銘 庄内藩藤原清人/為栗本氏造 脇指 銘 岩井信連作/文久三年八月日 短刀 銘 恒平作/平成十八年三月日 |
1月16日(土)と17日(日)の2日間、
最上義光の命日にちなんだ記念イベント 「ヨロイ・カブトを着てみよう!これでキミも戦国武将だ!」 が開催されました!! その二日目の様子を少しご紹介します♪ 槍をダイナミックにかまえる義光!かっこいいですね!! お母さんも、いい一枚が撮れるようにがんばっています! こちらのご家族は、妹ちゃん用の衣装まで自前で準備してきたとのこと! すごい意気込みですね!! みなさんのおかげで楽しいイベントになりました。 参加してくださったみなさま、当日お手伝いしてくださったみなさま、 本当にありがとうございました!! |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum
















本稿では、軍記史料や諸記録に記載されている最上義光の戦歴を列挙する。
本来であれば、一次史料を用いて検討すべき所ではあるが、最上家関連の史料は散逸が激しく、それのみを用いて義光の戦歴を追うことは困難である。ゆえに、軍記史料の中でも比較的成立年代が古く、記載内容に信頼の置ける部分が多数あると考えられている「最上記」「奥羽永慶軍記」やその他記録類を用いた上で、その記載内容に関連する一次史料を挙げることにより史実上確かにその合戦が存在した事実を補強することとした。
凡 例
下表では、「最上義光が直接指揮し、総大将をつとめたとみられる」記述がある合戦のみを抜粋した。
【合戦名】
主戦場となった城名もしくは地名+合戦とした。
【勝 敗】
義光攻撃側…敵大将を討ち取る、城を落とすなどした場合勝利、戦略的目標を達成できず損害を出して撤退した場合は敗北と定義し、当てはまらない場合引き分けとした。
義光防衛側…攻撃側の戦略目的を達成させず、撤退に追い込んだ場合勝利。攻撃側が最上家の軍勢を打ち破る、城を落とすなどした場合を敗北と定義した。
【敵総大将】
敵方の総大将を記した。
【年 代】
推定年代を記した。
【「最上記」「永慶」】
『最上記』『奥羽永慶軍記』に記載の有無を記した。
【備 考】
記載内容の裏づけとなる書状史料や、記録類を記した。また、直接の史料は存在しないものの、その後当該する地域が最上家の領国となっている事が傍証となる合戦はその旨を記した。
※1 この二つの合戦は、軍記史料には記されてはいないものの、『伊達輝宗日記』に経過が詳細に記されている合戦であることからこの表に加えた。係争地域が義光の本拠周辺である現在の山形市・上山市にかけてであることと、相手方が義光の父義守と反義光派の国人衆ならびに伊達輝宗であり、義光にとって危急存亡の状況であったことから、義光自身が当合戦の指揮を執ったことは明白であろう。
※2 近年の研究では、柏木山合戦は存在しなかったのではないかとの論が主流である。おそらく、天正2(1574)年に義光と伊達輝宗が中山・楢下において合戦した事(※1)と、天正16(1588)年に義光と伊達政宗が合戦し、義姫がその仲裁を行った事実(戸蒔文書ほか)が混同されたものであろう。
※3 軍記史料では、鮭延攻めは義光が総大将をつとめたとされているが、実際は重臣の氏家守棟が最上地域一帯の経略を実行したようである(楓軒文書纂所所収文書)。
※4 軍記史料では、敵方大将を武藤光安としているが、「悪屋形」と呼称されていることから、これは武藤義氏の事を指していると考えられる。義氏は天正11年(1583)年に側近の前森蔵人に背かれ自害した。義光が直接の武力をもって庄内を経略した天正15(1587)年には、その跡目は弟の義興が継いでいた。義光が庄内を攻めて武藤義興を攻め滅ぼした事と、義氏敗死の事実とが混同されたものであろう。
■執筆:内野広一(地方史研究家)「歴史館だより��22」より