最上義光歴史館

歴史館からのお知らせ
家親は二男か!?三男か!?


 この度、最上義光歴史館が『三部抄』写本を購入した(『山形新聞』2016年8月26日記事参照)。『三部抄』は、鎌倉時代前期の歌人藤原定家(1162〜1241)が書いた歌道の参考書で、数多くの写本が作られた。この『三部抄』写本には二箇所に奥書があり、一つ目のものは「詠歌之大概」「秀歌之躰大略」の末尾に記され(�)、二つ目は残る三つ「未来記」「雨中吟十七首」「百人一首」を含む一番最後の所に記されている(�)。
 

奥書�


奥書�

 奥書�には「此詠歌大概者、最上之御本所義光御三男家親、頃風雅御執心之由及承、染老筆奉贈者也 慶長元年十二月廿六日 七十三歳紹巴(花押)」とあり、慶長元年(1596)紹巴73歳の時に書かれた。奥書�には「右三部抄紹巴法眼墨跡之奥染愚筆畢、小野忠明近年依連歌執心、従山形家親朝臣頻所望云々、此度上洛之次一覧之間、加判形者也 慶長十年卯月下旬 素雪斎玄仍(花押)」とあり、慶長10年(1605)に紹巴の長男玄仍が書いた。この奥書は『山形市史』史料編1(1973年)でも既に紹介されている(303頁)。
 ただここで、従来から諸説のあった家親・義親兄弟の長幼関係が再び浮上してきた。
 (1)最上義光の家族についてみてみる。 義光の正妻は、大崎義直(よしなお)の娘で大崎御前(おおさきごぜん)と呼ばれ、長男義康(よしやす)・次男家親(いえちか)それに竹姫・松尾姫・駒姫(こまひめ)を産む。側室に、天童氏(頼貞)の息女や、清水氏の息女も(清水御前)迎えている。天童夫人は天正10年に義親を産んで死去したとされる。
 次に義光の子どもたちを見てみると、長男は義康で、修理大夫に補任された。しかし、熾烈な家督相続をめぐる抗争で、慶長8年(1603)8月に、長男義康は暗殺された。享年29歳。次男は家親(いえちか)で、義光没後、最上12代当主となる。文禄3年(1594)13歳で徳川家康の御前にて元服し、「家」の偏諱(へ3き)を与えられ、駿河守・侍従に補任され、徳川将軍の側近として活躍した。元和3年(1617)3月に山形城中で急死したため(享年36)、子の家信(義俊)が跡を継ぐが(13代)、御家騒動により改易され、近江大森藩1万石で移封した。3男は義親(光氏、氏満、満氏とも)で、義光は義親の方は豊臣秀頼に奉仕させ、その後に義親は清水城主となり、清水大蔵大夫(しみずおおくらだいふ)と称した。義光死後に生じた内紛によって、跡を継いだ兄家親に攻められ、慶長19年10月に自刃した。享年33歳。4男の義忠(よしただ/光茂とも)は、山野辺(やまのべ)城主で山辺(やまのべ)右衛門大夫と称したが、藩主13代最上家信と対立し、改易事件の当事者となる。5男は義直(よしなお/光広とも)で、上山城主となり上 山(かみのやま)兵部大夫(少輔)と称す。6男は光隆(あきたか)で、大山城主となり、大山(おおやま)内膳正と称す。
 女子については系図によって長幼が異なるが、『最上家譜』によると、長女は竹姫(たけひめ)といい、氏家尾張守光氏(あきうじ)妻となる。次女は松尾姫(まつおひめ)といい、延沢能登守満延の嫡子又五郎と婚姻した。3女は駒姫(こまひめ)(伊満/いま) といい 、文禄4年(1595)5月、豊臣秀次(ひでつぐ)に嫁ぐが、「秀次事件」に連座し同年8月2日、三条河原で斬罪、時に15歳。4女は、禧久姫(きくひめ)といい、阿波東根家初代となる親宜の妻となる(拙著『最上義光』〈吉川弘文館、2016年〉参照)。
 (2)家親と義親の長幼関係について考察する。奥書�に「最上之御本所義光御三男家親」とあり、この段階では義康暗殺事件等、後に生じる問題はないので、最上家や豊臣政権への配慮などは必要ない。里村紹巴が誤って記載したのでなければ(73歳は当時としてはかなりの高齢である)、次男義親、三男家親という長幼関係は動かしようがなくなる。
 しかし、『最上家譜』『最上氏系図〈『寛政重修諸家譜』所収〉』『最上家系〈光明寺所蔵〉』『最上家系図〈宝幢寺本〉』『最上家系図〈常念寺所蔵〉』『最上家系図〈菊地蛮岳旧蔵〉』(「義光の三男なり」とある)『清水大蔵公家図書并家来図』(「義親 実ハ最上出羽守之三男」と記す)等、義親(氏満・光氏とも記載)が記載されている系図は全て次男家親、三男義親としている。
 軍記物語も『最上記』『羽陽軍記』『最上合戦記』『奥羽永慶軍記』『会津四家合考』『荘内物語』『羽源記』『白髭水抄』(『鶴岡市史資料編 荘内史料集 1-2』)等、ほぼ全て次男家親、三男義親としている。これらは江戸時代の作のためか、最上家の内実や政権・幕府との整合性をふまえていて、前述の系図と符合が合うようになっている。
 ただ『最上滅亡記』(石川県加賀市立図書館〈聖藩文庫〉所蔵)は、「嫡子ハ修理亮、二男ハ清水大蔵少輔、三男ハ駿河守ト号ス」と記し、『最上斯波家伝』は、義光に5男がいて、嫡子義康・次男清水大蔵大輔・三男山辺右衛門尉・四男駿河守家親・五男源五郎義俊だとする。さらに『北楯氏先祖代々之覚』(『鶴岡市史資料編 荘内史料集 1-2』)にも「一栗兵部」「出羽守二番目之子息清水大蔵与一味仕、駿河守方江謀叛企申」とあって義親を義光の二番目の子とする。こらの記録・覚等はいずれも内容が史実にはほど遠く、その記述部分だけを大写するわけにはいかないが、「次男義親、三男家親」説も根強くあったこともうかがわせる。したがって奥書�は、この説を裏付ける一次史料ということになる。
 家親・義親ともに天正10年生まれで、母親が異なることなども長幼関係が混乱する原因となっていると考えられるが 、いずれにしても長幼関係については 今後の課題である。

■執筆:伊藤清郎 (山形大学名誉教授)「歴史館だより�24」特集「三部抄」より
「三部抄」について ―内容と成立を中心に―


 一 「抄」とは何か
 現代で「抄」と言えば、「ある作品などから精進したり、抜き出したりしたもの」の意味で用いられる。ところが、古典では、以下の意味でも使用されている。

ア さまざまなものを集成したもの
イ 注釈書
ウ 現代で言えば、ノートにあたる聞書

 西行に仮託された説話集「撰集抄」、鴨長明の歌論集「無名抄」は、アの例である。江戸時代・元禄期の国学者北村季吟が著した「源氏物語湖月抄」は、イの例である。また、室町期の五山僧は、多くのウに該当する「抄物」を残した。(イ・ウの内容は重なることもある)
 この「三部抄」ではアの意味で使われている。すなわち「三部」の書を集約したものの意となる。

 二 内 容
 書名は「三部抄」であるが、その内容は、いずれも新古今時代の大歌人にして古典学者藤原定家と何らかの形で関係する五種の書から成る。


 一は、「詠歌大概(えいがのたいがい)」。建保三〜四年(一二一五〜六)に後鳥羽院皇子・尊快法親王(十二〜三歳)のために書いた。初学者のための、和歌に対する心得・基本的な考えが記されている。


 二は、「秀歌躰大略(しゅうかていのたいりゃく)」。一とセットになっており、八代集の中から心がけて学ぶべき和歌を示している。(一・二はまとめて一書とされることが多い)小学館「新編日本古典文学全集・歌論集」に、口語訳も付されて所収。


 三は、「百人一首」。内容については周知のことと思う。文暦二年(一二三五)に、定家は、愛息為家の舅たる宇都宮入道頼綱の求めに応じて、「百人一首」の基盤となる百一首から成る「百人秀歌」を選定した。その後、定家または為家が、「百人秀歌」から三首を切り出し、代りに後鳥羽院・順徳院の作を入れたものである。「百人一首」の完成者は、定家・為家の二説あって定まっていない。多くの解説書がある。


 四は、「未来記」。そもそもこの書名は、聖徳太子などの特別な力を有した人物の、未来を予言した書に使われる。ここでは、定家が、後世に和歌が衰えた時の戒めとして、詠むべきではない例を示したものとされる。
無論、定家仮託の偽書で鎌倉末までの成立とされる。作者は不明。


 五は、「雨中吟(うちゅうぎん)」。四と同じ目的で、定家が自作を集めたとされるが、現在は、孫で一流を成した冷泉家周辺で、延慶三年(一三一〇)までに成立したらしいと考えられている。(一部の作は、定家の作として、玉葉集などに入っている)
 四・五は、一まとめとされることが多く、五種の書の集約ながら「三部抄」と呼ぶ。四・五は、河出書房新社・久保田淳編著「藤原定家全歌集下」に略注などを付して所収。図書館などで手にとっていただきたい。
 
 三 成立と流布など
 この五種の書は、十五世紀後半には「三部抄」としてまとめられていたと考えられる。誰がまとめたかは不明。
 為家の子の為氏を始祖とする二条家(中世和歌の主流派)は、室町中期には絶える。ただし、その弟子たちの流れ(二条流・兼好法師も宗祇も紹巴も、それらの流れを受ける)において「三部抄」は、和歌の入門書・戒めの例を示した書として重んじられていく。
 今川義元は、信長に敗死したため文弱の人とされ評価は低いが、これらの人々は武家貴族の末裔を自任しており、自分たちが宮廷文化(和歌・連歌・物語など)を学ぶことは当然と考えていた。
 その際、宗祇・紹巴のような連歌師が、身につけた古典の教養を、地方の武家貴族の末裔たちにも伝えたのである。この時代、その教養は、誰が師であるかが大切であった。その中で、紹巴が最上家のために筆を執ったことは、実に意味のあることであった。

■執筆:名子喜久雄(山形大学名誉教授)「歴史館だより��24」特集「三部抄」より
《平成29年度5月分の入館者アンケート集計結果》

 この集計結果は平成29年5月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。

          常設展示  (5/1 〜 5/31)

      開館日数・・・・・・・・・・・・・26日間
      入館者数・・・・・・・・・・・・・2,721人
      回答者数・・・・・・・・・・・・・105人

  1.歴史館をどこで知りましたか

  (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・11%
  (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・8%
  (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・16%
  (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・2%
  (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・0%
  (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・11%
  (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・22%
  (8)観光案内所 (駅など) ・・・・・・・・・・ 11%
  (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・15%
  (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・5%

 2.歴史館の入館は何回目ですか

  (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・87%
  (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・10%
  (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・4%

 3.ご覧になられた感想
 
  (1)内容はいかがでしたか
  
   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・57%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・38%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・5%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・0%

  (2)最上義光と最上家について

   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・53%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・46%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・0%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑ�1%

 〜利用者の声〜
◎もう少し広告などでせんでんしたらよいと思う。 もったいない。知らない人が多いと思う。

◎ガイドをしていただけるのは、大変ありがたかった。

◎案内して頂いて本当に良かった。ありがとうございました。

◎年表に江戸の将軍名があるとわかりやすいと思った。

◎大変わかりやすく説明頂きました。

◎また来ます。

◎体験勉強になりました。多くに方が訪問されるよう祈っております。

◎ボランティアの方の解説が大変勉強になった。無料なのが申し訳ないほどでとてもよかった。狭いスペースにさまざまな展示があるので、最上義光の生涯という意味では、もう少し分かる(説明があると)とより良いかと思う。伊達と最上の関係性など企画があると面白いかもしれない。

◎勉強不足のせいか、解説の方の解説がよく理解できませんでした。

◎人となりを知りたかった。余り知らない人なのでよく説明いただき、ありがとうございました。時間がとれなくてすみません。

◎ていねいな説明ありがとうございました。大変判り易いガイドでした。

◎山形市を訪問するにつけ、調べて山形市と最上の関係を知りました。それ迄は知りませんでした。

◎無料な事におどろきます。とてもわかりやすい展示だと思います。

◎たっぷり説明していただきました。ありがとうございました。

◎説明して下さった方が良くわかるように説明して下さいました。山形出身なのでわかりました。ありがとうございました。また来たいと思います。

◎とても親切に説明され、よかったです。

◎案内と説明も本当に楽しかった。また来たいと思いました。

◎入場料やガイド料をとってもいいと思います。

◎スタンプラリーなどの楽しめる事や説明もわかりやすくて、よかったです。山形にまつわる詳しいお話、ありがとうございました。

◎説明員の方に親切にうかがって良くわかりました。


◎動画の説明があればもっとわかりやすくて良いと思いました。無料の Wi−fi があれば、とても便利だと思う。

◎説明ボランティア、ありがとうございました。今日は時間が少なかったため、また次回ゆっくり見学させてもらいます。

◎解説してくれた方が、無知な自分に対しても分かりやすく説明してくれたので、興味をもって聴くことができました。ありがとうございました。

◎ボランティアの人が説明がよく、親切だった。

◎伊達政宗については知っていたが、今回、最上義光の人物について詳しく知る事が出来て良かった。仙台の青葉城にもフリーWi-Fiがつながってあるのですが、最上義光歴史館でもWi-Fiがつながれば便利だと思う。

◎ボランティアガイドの説明がわかりやすかった。

◎直接、専属で親切ていねいに説明して頂き、よく分かりました。


◎刀が大変素晴らしい。

◎説明もよくわかり楽しめました。知らないことばかりだったので勉強になり、山形を再発見でき、次回もぜひきてみたいです。ありがとうございました。

◎親切丁寧に対応いただけまして、誠にありがとうございました。

◎最上家は子孫が存命というのはおどろきです。あまり知られていないのが残念にですね。

◎ボランティアの方に案内していただいたことで、とてもわかりやすく、興味も持てました。山形市は無料で入館でき、荷物も無料で預かって下さり、無料で案内までして下さる施設が多くてとてもありがたいです。旅がとても充実したものになり山形の印象もUPしました。ありがとうございました。

◎親切に御説明頂き、とても楽しくわかりやすく良い時間を過ごさせて頂きました。ありがとうございました。最上家の大河ドラマが出来ると良いですね。
時代の波に乗り遅れない歴史館
常に進化を続ける歴史館を目指し!

なんと!!
このたび展示解説に新たなツールを導入しました。
↓それがこちら!

タブレットです(^^)
解説ボランティアさんが使う補助道具として新たに導入しました(^^)


展示室では細かいところまで見えづらい資料や
現在展示していない資料なども
タブレットで詳しく見せることができます。

このタブレット、5月の連休から導入しておりました。
ひと月経ち、最初は使用に戸惑っていたボランティアさんたちも
今やスイスイ使いこなして解説に役立てています(^^)

最新機器を使いこなすボランティアの皆さん、カッコいいですね!
高橋刀工の作業場、恒厳鍛刀場には
とても可愛いニャンコちゃんがいらっしゃるとのこと
それは猫好きの私にとっては聞き捨てならない話です!!
どんな仔なのでしょう(^^)

高橋刀工の愛猫のリリー(メス5歳)です(^^)
鍛刀場のそばで拾ったそうです。


作業中は窓際でおとなしく座っています。
エラいですねー(*^^*)
かわいいですねーー(**^^**)
さっそくですが群馬県前橋市の富士見町にあります
恒厳鍛刀場の潜入レポートです(^^)

木村社長が撮影してきた写真と一緒にお楽しみください♪

御手杵(おてぎね)の槍は現在、樋入れ(ひいれ)という槍身にそって中央に細長く溝を彫り入れる作業が行われていました。

御手杵は断面が三角形ため、面が三面あります。
そのうちの一面を師匠である上林恒平刀匠が、
残りの二面を高橋恒厳刀が彫っています。

現存する写真資料などと比べやや浅めの彫りをほどこしているそう。
そのため、重量の差は200グラム程度ではないかとのこと。

↑こちらは樋を掻くのに使う道具です。
蜻蛉(とんぼ)と呼ばれるそう。
両側にのびた形がトンボに似てるからかな??
細い道具からはじめてだんだんと太い道具に交換して
樋を広げていくそうです。


彫ったら鑢(やすり)をかけて砥石(といし)で研ぎ、
これを繰り返していきます。

現在は彫り終わって、樋の磨き作業を行っているそうです。
このあと専門の日本刀の研師に渡して、刀を砥いでもらいます。
今年の秋ころに完成予定とのこと。

いよいよですね(^^)
去年からレポートしてきただけに完成が本当に楽しみです。