最上義光歴史館
最上家と最上義光について
「最上義光のもう一人の妻―義康、家親の生母を考えるに」
本稿は最上義康と家親の生母について考察してみることとしたい。 最上氏諸系図(注1)では、最上義康は義光の嫡男で天正三年(一五七五)に生まれた。一方、家親は次男として天正十年(一五八二)に生まれた。これは諸系図では一致するので、特に問題ない。彼らの兄弟については、諸系図では五人いることが共通している。すなわち、長男の最上義康、二男の家親、彼らの弟は清水光氏(後述)、山野辺光茂(のちに義忠)、上山光広(義直とも)と大山光隆である。一方、妹は野辺沢(延沢)光昌室、氏家国綱室、東根親宜室、そして豊臣秀次側室の四人が確認される(注2)。 今回の検討対象となる二人の生母はどうであろか。従来、義光の正室は大崎氏で、側室は二人居り、すなわち天童氏と清水氏といわれている。そして、義康と家親の生母は同じとされながら、義光正室の大崎氏とも次の正室の天童氏ともされている。 『山形市史史料編1最上氏関係史料』(以下は『市』と略す)で所収される諸系図では、義康の生母が明記されるのが以下4つである。すなわち、 ①寛政重修諸家譜最上氏系図、「母は某氏」(注3) ②宝幢寺本最上家系図、「母は天童四位少将頼貞女」(家親と同じ)(注4) ③菊地蛮岳旧蔵最上出羽守義光系図、「少将殿本奥の腹の子也」(注5) ④菊地蛮岳旧蔵最上系譜、「母は天童四位少将頼貞女」(家親と同じ)(注6) ①は単に「某氏」とあるのみで、より具体的に明記するのは②③④であるが、上述したように、義康の生母は大崎夫人と天童夫人との二説が存在することが一目瞭然である。 さて、詳しくみると、②と④は同じく義康の生母を天童頼貞の娘とし、家親とは同腹の兄弟であると記されているのに対して、③はやや曖昧ではあるが、「少将殿本奥」の子となっている。問題は③の「少将殿本奥」は誰なのだろうか。 彼女たちに関してはすでに故川崎浩良氏(注7)、松尾剛次氏(注8)、片桐繁雄氏(注9)の考察があるので、詳しくはご参考いただきたい。ここでは二人の母を絞って若干検討をしてみたい。 そもそも、大崎夫人については、生年、そして義光の正室としていつ輿入れしたかは不明であり、その出自については大崎義直の娘という説があるが、確証はまったくなく、定かではない(注10)。もしそれが正しいというならば、義光と大崎義隆とは義兄弟関係となる。 『最上源氏過去帳』(以下は「過去帳」と略す)では彼女を「山形殿内室、奥州大崎家女」として文禄四年(一五九五)八月十六日に死去し、法名は「月窓妙桂大禅尼」である(注11)。大崎夫人を義光の正室としているのが『東大史料編さん所架蔵影写本最上家譜』のみで、ほかに、『光明寺本最上家系』注(注12)と前掲②の『宝幢寺本最上家系図』は義光の正室を天童夫人としている。つまり、最上家各系図では大崎夫人の存在をあまり知らないことが窺える。 一方、片桐氏の紹介によれば、義光の正室として知られる天童夫人は義光の三男清水光氏を生み、天正十年(一五八二)で死去したという(注13)。それ以外、彼女については一切わからない。 果たして大崎夫人は義康の生母かどうかは確証が欠いているが、義康が生まれた天正三年は「最上の乱」の翌年であり、その時点、対戦相手の天童氏との関係はまだ険悪らしい。それにしたがって、片桐氏は「義光の長男義康が生まれたのが天正三年であるから、正室は、これ以前に嫁いだはずである。それが天正初めのこととすれば、山形は天童・中野グループと激しい抗争を繰り広げていた真っ最中となる。はたして天童家から入ったのかどうか」と、天童氏の女を対立状態にもかかわらず、正室として迎え入れることに対して疑念を呈している(注14)。 たしかに、義光と義守との内紛は少なくとも元亀二年から天正二年まで断続的に続いていたので、その間に義光が敵の天童氏の女を正室とするのはまったく不可能とはいえないがものの、やはり天正二、三年の政治情勢から見ればやや考えにくい。 また、系図③の「少将殿本奥」についても、系図自体の検討は要るが、上述した天童夫人はすでに天正十年に死去したとされ、大崎夫人と見られる「月窓妙桂大禅尼」は十二年後の文禄四年に死去したのであり、系図③にある「本奥」とは「本妻」、「正室」という意味だから、より長生する大崎夫人を指すのが妥当ではなかろうか。 ところが、注目すべきは「過去帳」ではもう一人の女性がいる。それは「家親実母」という付記があり、法名が「高月院殿妙慶禅定尼」(以下は「高月院殿」と略す)とある女性である。家親については次節で触れることにして、ここは「高月院殿」を注目したい。 この「高月院殿」は今までの通説では義康と家親の生母であり、大崎夫人と同一人とされているが、大崎夫人=「高月院殿」であるかどうかは片桐氏も明確に示していない(注15)。「過去帳」では、この女性は慶長三年に死去したと記されており、大崎夫人のこと「月窓妙桂大禅尼」の死後三年だった。とすれば、大崎夫人と「高月院殿」は同一人であることはありえない。 もし「高月院殿」は大崎夫人とは別人とすれば、当時すでに他界したはずの天童夫人はもちろん当てはまらないし、三人目の妻である清水御前は元和八年(一六三八)に六二歳で死去したので、彼女も当てはまらない(注16)。 「過去帳」が言うように「高月院殿」は本当に家親の実母で、大崎夫人とは別人とすれば、義光の妻室は少なくとも四人いることになる。それでは、「高月院殿」は誰だろうか。 まず、「高月院殿」は寒河江に葬られ、そして家親は一時寒河江と名乗っていたことから、「高月院殿」が寒河江氏の出身の女性という可能性があろう。なぜなら、「高月院殿」が大崎夫人であれば、家親が藩主になっても山形に葬られないことは考えにくいからである。 現存史料では義光の妻室の中に寒河江氏の女がいたという記録はないが、その可能性を示唆するものが残される。それが「安中坊系譜」である。その中で寒河江兼広の項では、下記のよう書かれている。(注17) 永禄三年庚申三月、最上義光率兵攻寒河江(中略)後義光和解而以長男義康為兼広聟、大坂秀頼ニ仕、兼広無男子、有女子二人、一高基、二義康妻也 永禄三年(一五六〇)には、むろん義光はまだ家督を継いでいないので、誤記であるが、「義光」を義守に、「義康」を義光に置き換えればどうであろうか。 無論、天正二年以前義守の動向はほとんどわからない状態であり、寒河江氏を攻めた記録も残されていないから、右史料の信憑性が疑わしくなる。 しかし、同系譜によれば、兼広は天文十五年に寒河江家を継いだらしく、史料では兼広が最後に見られるのが永禄四年(一五六四))である(注18)。一方、「はとう物の覚」によれば、それを継ぐ寒河江尭元(注19)は永禄十一年から元亀元年の間(一五六八~一五七〇)に御代始りしたらしいので(注20)、義康が兼広の婿であることはありえないものの、義康でなく、義光であれば矛盾が問題なく解消することになる。それが正しいならば、兼広の娘が義光の妻となり、家親を生んだ「高月院殿」ではなかろうか。 また、大崎夫人の法名は院号がないのに対して、この「高月院殿」は院号が付かれるのは後に家親が藩主になり、生母を尊敬するためであろう。とすると、せめて家親は大崎夫人の子ではないから、「高月院殿」の側で「家親実母」と明記したのも理解できよう。それが正しければ、義康の生母は大崎夫人で、家親の生母は「高月院殿」であるという可能性があれば、二人とも「高月院殿」の子である、ということも別におかしくない。 最後に、寒河江では義康が寒河江尭元の養子であるという伝承は根強いが、上記の「安中坊系譜」では尭元の妻は兼広の娘で「高月院殿」の姉となり、義康が「高月院殿」の子とすれば、息子がない尭元の養子となることは不自然ではない(注21)。一方、通説のように血筋とは関係なく、尭元は義康を養子とし、「高月院殿」の子で、寒河江の血筋を汲む家親が後に寒河江と名乗ったことも特に違和感がない。 いずれにせよ、上記の②、④が言う天童夫人は義康と家親の生母である可能性が低く、そして、明らかな確証がないものの、義康の生母は大崎夫人か「高月院殿」のいずれかと推定したい。 以上、憶測の部分が多いことは否めないが、従来『最上源氏過去帳』と諸系図の比較検討はいまだ数少ないため、本稿はその試みとして一つの仮説を立てることで、最上義光の子息たちの関係のみならず、寒河江氏と最上氏との関係を再考する糸口と期待されたい。 ■執筆:胡 偉権(歴史家/一橋大学経済学研究科博士後期課程在籍生) (注1) ここでいう諸系図は『山形市史史料編1最上氏関係史料』一九七三年(以下は「市」と略す)で掲載されるものである。 (注2) しかし、義康の兄弟の中では、家親以外はいずれも関連史料がきわめて少ないため、不明点が多く、未だそれぞれの実態を把握できないのが実情であるので、今後の課題としたい。 (注3)『市』三二頁 (注4)『市』五五頁 (注5)『市』六五頁 (注6)『市』六九頁 (注7) 『浩良史話集』川崎浩良全集四 郁文堂書店、一九六四年 (注8) 『山形学―山形の魅力再発見』山形大学都市・地域学研究所、山形大学出版会、二〇一一年、初出は二〇〇三年平成十五年度・山形大学公開講座報告集 (注9) 片桐繁雄「最上家をめぐる人々」、最上義光歴史館公式ホームペイジで連載される(http://mogamiyoshiaki.jp/?p=list&c=951)。以下同シリーズは「最」+番号で略す。 (注10) 伊藤卓二「大崎義隆の墓」『奥州探題大崎氏』所収、高志書院 二〇〇三年 (注11)『市』八六頁 (注12)『市』四八頁 (注13) 片桐繁雄「最②」(http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=110860) (注14) 同右 (注15) 片桐繁雄「最⑭」(http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=125693) (注16) 片桐繁雄「最⑩」(http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=111190) (注17)『寒河江市史資料編』大江氏関連史料 一〇五頁、以下は『寒』番号と略す (注18)『寒』三六八頁 宝林坊文書二号 (注19) 寒河江尭元は実名が高基、隆基などの異説があるが、寒河江氏当主の実名 には「元」、「広」の通字が使われるから、「隆基」ではないと考えられる。慈恩寺に見られる「大江ノ尭元」にしたがって、小稿は「尭元」と統一したい。 (注20) 『寒』三七二頁、広谷常治氏所蔵文書二号 (注21) 寒河江氏一部の系譜では、 |
「再検証『鮎貝宗信謀反事件』~政宗・義光の不和発端説の誤りを正す~」
「鮎貝(白鷹町鮎貝を中心とする地頭)のことは、(政宗自らが米沢城から)出馬したので、直ちに(当主鮎貝宗信を)自落(他氏領国への落ち延び)させる。早々に(鮎貝)城中へ打ち入るので詳しくは述べない。」。現在いうところの「鮎貝宗信の政宗への謀反事件の勃発」である。その慌ただしい状況下で認められた天正十五年「十月十四日、伊達五郎(成実)宛、伊達政宗書状」(図1 仙一四三)中の記載である。 図1 伊達政宗書状(竹田 秀 氏所蔵) この事件を『貞山公治家記録』天正十五年十月十四日の条は、『鮎貝宗重入道日傾斎より「嫡子宗信とずっとずっと私は不和の上、最上義光の勧めで(伊達政宗に対する)謀反の企てがあった。私はしきりに意見したが聞き入れなかった。このたびすでに鮎貝城に拠って兵を起こそうとした。私(宗重)は高玉(白鷹町)へ退出した。すみやかに宗信を退治してほしい。」と言上してきた。(政宗公は)時刻を移さずすぐに誅伐すると仰せ出だされた。その時、老臣らは協議して「最上より加勢があるだろう。特に宗信の他にも(伊達家中に)内通の者があるかもしれない。」と政宗に言上した。』と記す。このように、元禄期編纂の伊達家の正史『貞山公治家記録』は、この鮎貝父子の一件を、 ⑴伊達政宗に対する鮎貝宗信の謀反。 ⑵最上義光が鮎貝宗信に勧めたことによる謀反。 としており、この説は現在定説となっている。 さらに『貞山公治家記録』は、「乱を武力鎮圧し鮎貝宗信を自落させた後、政宗は鮎貝日傾斎(宗重)の忠義の志に感謝し、柴田郡の内に采地を与え、二男の七郎宗益を家督に命じ、もとのように伊達家中では一家の上座においた。」と続ける。 ⑶政宗が事件後、鮎貝氏をいかにも手厚く処置した。 という表現である。 果たして、⑴・⑵・⑶は真実なのか。以下、後世の編さん書ではなく、確かな同時代史料のみから検証していこう。 同じく事件勃発の天正十五年「十月十四日、桜田兵衛資親宛、伊達政宗書状」(仙一四一)には次の記載がある。 ➀鮎貝の地において、父で隠居している鮎貝宗重と当主宗信父子の間が取り乱れ、隠居している宗重が鮎貝から高玉へと除かれ、難しい事態となっているので、政宗自身今日下長井へ出陣し下知をもって静める。 ②最上氏と伊達氏の境目のことなので、心得ておくように。 ➀より、鮎貝父子の紛争に、政宗が自らの意志で軍事介入したことがわかる。②より、政宗は軍事進攻する鮎貝の地が最上領との境目であることから警戒していることがわかる。 さらに、同日の天正十五年「十月十四日、後藤孫兵衛信康宛、伊達政宗書状写」(仙一四四)には次の記載がある。 ③鮎貝親子(鮎貝宗重と当主宗信親子)の間に紛争がおき、隠居している宗重らの面々とその仲間(一派)が取り除かれた。政宗はそのまま出陣し鮎貝へ押し寄せて合戦に及び、(宗信の兵)五十人余りを討ち取り、鮎貝城の実城(本丸)ばかりが残る状態となっている。明日は実城を押し破るであろうからご安心ください。 ④その上、最上との国境あたりは何事もなく静かである。 以上、➀・③より、この事件を当初政宗は「鮎貝父子間の紛争」と認識し、政宗自身の判断で鮎貝城へ向けて出陣し宗信を攻めたことが判明する。④よりこの一件で義光は鮎貝宗信に加勢せず全く動いていないことが判明する。 しかし、天正十五年「十一月四日、宮沢元実宛、伊達政宗書状写」(仙一五〇)では、一変して次のような表現となる。 ⑤鮎貝宗信のことは去る十月十四日伊達氏に対する逆意(謀反)を企てたけれども、即刻出馬し、数百人を討ち取り、そのまま鮎貝城に押し詰めたので、鮎貝勢は一日も支えられず、その夜鮎貝宗信は行方知れずになって失踪してしまった。これによりすぐに仕置き(処置・裁定)を行い、翌日十五日に米沢城に馬を納めた。 ⑥その後、何事もなくいかにも静かで平和そのものである。 事件勃発当初「鮎貝父子間の紛争」と認識してた政宗が⑤により、その十九日後に「鮎貝宗信による伊達政宗への謀反」と認識を一変させていることが判明する。政宗はこの事件が「鮎貝父子間の紛争」であるという事実を勃発当初から完全に認識していたにもかかわらず、十九日後の十一月四日に「鮎貝宗信による伊達政宗への謀反」であると事実のねつ造を行い、それを家中に宣伝し始めたと考えられるのである。 ⑥は、④と合わせ読むと義光がこの件で最後まで一切加勢せず全く動かなかったことを証明するものである。さらに、鮎貝の一件に義光が関係していることを示す史料は、政宗自身の発給書状をはじめリアルタイムのものは一切なく、政宗自身義光が関係しているとの認識を持っていなかったと考える。『貞山公治家記録』 編者が「最上義光ノ勧メニ依テ叛逆ノ企アリ。」と自らの解釈を記した可能性が極めて高く、事実としては義光はこの一件に全く関係していない公算が極めて高い。 政宗は、鮎貝氏が最上領の境目を領する大きな勢力をもち、伊達家中で「一家」の最上位という位置付けの一方で、伊達氏とは独立した鮎貝七郷を領する国人であることに不安を覚えていた。鮎貝氏が近い将来最上氏と同心し、さらに近隣の境目の「伊達氏の従属国人であるが伊達氏・最上氏の両属的性格をもつ国人(中山の小国氏など)」らとともに、一大勢力となって伊達氏に敵対することになることに大きな脅威を感じていた。そのため鮎貝氏を境目の地から排除し、伊達氏の完全家臣化したいと考えていた。そんな折、「鮎貝父子間の紛争」が勃発したのを好機ととらえ、政宗自ら大軍を率い鮎貝領に出陣し、当主宗信を最上領に自落させ、事後処理として鮎貝氏を柴田郡内へ移し、伊達氏の完全家臣化することに成功したというのが真相であろう。 実は鮎貝氏は、政宗の出自と同じ藤原北家の山蔭中納言を祖とし、その孫の藤原安親が下長井荘の荘官となり、やがて武士として土着化した氏族で、伊達氏に全く劣らぬ名門であった。それもまた政宗にとっての脅威の一つであったろう。 現在、この鮎貝の一件を、「最上義光が北の庄内へ侵攻しそれに集中しており、南の伊達氏からの侵攻を恐れ、その手だてとして義光が鮎貝宗信に勧めて謀反事件を勃発させた。これにより政宗・義光の不和が決定的となった。」と説かれる傾向にある。しかし、これは逆に庄内侵攻で手一杯で義光が介入できないこの時期を好機ととらえ、政宗が鮎貝領へ軍事侵攻し、自らの目的を果たしたというのが実情であると考える。 図2 伊達晴宗知行状(部分 鮎貝宗房氏所蔵) 本来、伊達氏は独立国人である鮎貝氏の本領七郷、そして「天文二十二年正月十七日、鮎貝兵庫頭宛、伊達晴宗知行状」(図2)で保証していた「守護不入」特権(棟役・段銭・諸公事を免除された上に、守護伊達氏の裁判権=検断権の不入を許されること)を有する知行地には入ることができないルールであった。しかしそれを犯して政宗が侵攻するには「正当なる理由」=「政宗への謀反」を創出する必要があったと解されるのである。 尚、政宗・義光の不和が決定的となったのは、天正十五年八月政宗の斡旋により成立した義光と庄内の大宝寺義興の和睦が、十月の義光の庄内侵攻により破綻したことによる。 《註》 ・鮎貝氏は本領「最上川左岸の鮎貝・山口・箕和田・高岡・深山・黒鴨・栃窪の一帯七郷」を領する伊達氏とは独立した国人であった。 ・本文中の「仙一四一」・「仙一五〇」は『仙台市史 資料編』⒑(一九九四年)掲載の「一四一号」・「一五〇号」文書の略。 ■執筆:大沢慶尋(歴史博物館青葉城資料展示館主任学芸員)「歴史館だより№22」より |
The Life of Mogami Yoshiaki
1546 [age one] Born the first son of Mogami Yoshimori, Lord of Yamagata Castle. He was called Hakujūmaru as a child. 1558 [age 13] Celebrated the rite to mark his attainment of manhood, and receiving the right to use the character "Yoshi" [ 義 ] from the Shogun Ashikaga Yoshiteru he took the name "Yoshiaki" [ 義光 ] . 1570[age 25] Succeeded to the head of the Mogami clan. Counting from Shiba Kaneyori, he became the 11th Lord of Yamagata Castle. 1600 [age 55] Battle of Keichō Dewa / Naoe Kanetsugu's Uesugi forces attack Yamagata. Fierce fighting at Hasedo, Kaminoyama and other places in Yamagata Prefecture. 1602 [age 57] Became a great daimyo with land holdings which produced 570 thousand koku [135 million liters] of rice. His was the fifth largest domain, outside of Tokugawa Toyotomi's clan. At this time Yamagata was completely laid out as a fully equipped castle town. 1611 [age 66] Took a high ranking position in the Guards, Jyushii Konoe-no-shōshō. Brought the Shōnai Plain under cultivation by building irrigation systems at Kitadateseki and Inabazeki. 1614 [age 69] Died of illness in Yamagata Castle on January 18. Was buried at Kōzenji in Yamagata City. |
Profile of Mogami Yoshiaki
【Birthplace】 Born in Yamagata Castle 【Birthday】 Tenbun 15 (1546) (Year of the Horse) 【Blood type】 !? (But we know his nephew Date Masamune was type B) 【Occupation】 Lord of Yamagata Castle (much like being the Governor of Yamagata Prefecture today) 【Official rank】 Jyushii Konoe-no-shōshō 【Family crest】 Two horizontal lines in a circle "Bamboo and Two Sparrows" and others 【Hobbies】 Martial arts, calligraphy, reading (apparently he loved old, classic books) 【Favorite food】 shiobiki (grilled salted salmon) 【Academic specialty】 Japanese language (He was very good at renga linked verse) 【Nickname】 "The Tiger General" (which related to his official rank of general) 【Wife】 Legal wife: Ōsaki Secondary wives: Tendō, Shimizu and others 【Father】 Mogami Yoshimori (Tenth Lord of the Mogami family) 【Mother】 !? (Not clearly identified) 【Siblings】 Younger brothers Yoshiyasu and Yoshihisa, younger sister Yoshihime (Mother of Date Masamune) 【Children】 Boys: Yoshiyasu, Iechika, Ujimitsu, Akishige, Akihiro, Akitaka Girls: Matsuohime, Komahime, Takehime, Kikuhime 【Forebears】 Shiba Kaneyori (First Lord of the Mogami Family) 【Ancestors】 The Seiwa Emperor (Seiwa Genji) 【Died】 January 18, 1614 (age 69) Mogami Yoshiaki was the 11th lord of the Mogami clan. Born in January of 1546, little is known about his physical appearance, but an ancient document refers to him as “over 180 cm in height, with a fair complexion and keen and piercing eyes which distinguish him from the ordinary samurai.” When a still-youthful Yoshiaki succeeded his father as head of the Mogami clan, there was no unified rule over the Yamagata area. Yoshiaki addressed this situation by conquering the other lords of the area and consolidating control over the region with himself as the supreme military and political ruler. In the year 1600, a great battle took place in the Yamagata region. A large enemy army attempted to invade Yoshiaki’s domain, and as these enemy soldiers outnumbered Yoshiaki’s own force by more than two to one, their victory seemed virtually assured. However, using the geographical terrain of the region to its advantage, Yoshiaki’s army fought and defeated the invading force, protecting the Yamagata domain and making Yoshiaki a hero in the eyes of his subjects. Yoshiaki is known for his many significant accomplishments. In addition to safeguarding the peace of the region, he brought stability to the lives of inhabitants through the measures he implemented in a wide range of areas including agriculture, manufacture, transport, commerce, religion, and culture. His crowing achievements were the reconstruction of Yamagata Castle into a large and imposing fortress and the establishment of the surrounding castle town. This castle town would in time become Yamagata city, the capital of Yamagata prefecture, and would serve as a model for the modern layout of the city as it exists today. Yoshiaki died of illness on January 18, 1614 at the age of 69, a relatively advanced age for an era in which life expectancy for warriors was said to be around 50. Greatly beloved by his underlings, Yoshiaki was followed in death by four grieving retainers who committed ritual suicide to join their master. Yoshiaki continues to be remembered for his many accomplishments, and is referred to as the “Tiger General”in honor of his great legacy. |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum
周知の通り、山形城主最上義光の父・義守は元々最上氏一族の中野氏の出身で、九代目義定の養嗣子として家督を継いだ人物である。そもそも、中野氏は最上氏三代目満直の子・満基を祖とし、そして八代目義淳の時、次男・義清に中野氏を継がせたと言われている。だから、宗家最上氏にとって中野氏は最も近い血筋を引いている分家といえる。
一方、義光の祖父にあたる義定について、すでに片桐繁雄氏は当館のページで詳しく解説している(注一)。片桐氏は『大江系図』を注目し、最上氏と寒河江氏、そして山野辺氏の縁戚関係を整理した(注二)。簡単に要約すればすなわち、「義定は山野辺氏から妻を入れ」て、その妻の母は寒河江宗広の娘とされている。また、宗広の娘には「中野妻」と記されており、それは正しいとすれば、寒河江氏は最上氏、中野氏とも縁戚関係を持つわけである。
―二、再び『大江系図』へ―
ただ、ここで注目しておきたいのはその前である。再び『大江系図』を見てみると、宗広の一人の姉妹にも「中野妻」と注記されており、そして、その女性より前には「中野妻」となった女性がいない。それは何を意味するのだろうか。
まず、上記の『大江系図』を信用すれば、寒河江氏は二代わたって中野氏と縁約を結んでいることになる。また、時代的に考えると、殆どの最上氏系図では、義定の父・最上義淳は永正元年(1504)頃に死去したとされている(注三)。一方、義定の母は明応八年(1499)に死没したので、義定の生年下限はそれ以前となる(注四)。そしてその没年は永正十七年(1520)とされているから、義定とすでに中野氏に入嗣していたはずの義建は遅くても永正元年以前、上限は大体文明末ないし長享年間頃(1470/80年代)の生まれと推定される。
一方、寒河江氏側を見てみると、『大江系図』では、寒河江知広(宗広の父)は明応三年(1494)に死去したとされている。それによって、「初代の中野妻」となった宗広の姉妹の生年下限は明応三年とならねばならないから、彼女は中野義建とはほぼ同世代の人間ということは十分にあり得る。
さらに、『常念寺本最上家系図』では、義淳は「中野山形両知行」とあり、言い換えれば、義淳は山形、中野両方の領主で、後に子・義建に中野氏を継がせた通説を踏襲すれば、「初代の中野妻」となった宗広の姉妹の結婚相手は選択肢として父の義淳か、子の義建としか思えないが、ここでは、子の義建に比定したい。
―三、二代目の「中野妻」の夫―
そうすると、片桐氏が指摘された宗広の娘(二代目の「中野妻」)の夫は誰なのだろうか。残念ながら、宗広の娘の生没年は伝えられていないため、仕方なくて先の方法で推算してみよう。
偶然なことに、宗広は義淳と同じく永正元年(1504)に死去したとされる。その末子で家督を相続した孝広は文亀三年(1503)生まれと記されるから、姉にあたる宗広の娘の生年下限は文亀三年となる(注五)。
それに対し、中野氏に継いだ義建はどうだろうか。先にも指摘した通り、彼の生年はせいぜい長享(1480年代後半)頃の生まれだろうから、年代的には宗広の娘とも合致するが、一方、息子の義清は『山形市史』所収の諸本の最上氏系図をみれば、義守の実父として登場を明記されるのはほとんどであるから、彼を無視することができない(注六)。
ただし、孫の義守は大永元年(1521)生まれで、その後、二歳で宗家に継いだと伝わるから、当時、父の義清はまだ青年と思われる。ただ、それにしても、義清の時代は父の義建がもちろん、伯父の義定とも差が小さく、むしろほぼ重なってしまうから、やや不自然と感じる。可能性として義建は若くして義清を生み、さらに義清もまた若くて義守を生んだとしか考えられないのだろう(注七)。
―四、高野山観音院過去帳の発見―
ここで注目に値する史料がある。それは、高野山観音院過去帳甲本である。
同史料は近年『仙台市史』の補遺史料として『市史せんだいvol.12』に既に紹介された(注八)。それは紀伊高野山観音院に所在したとされる伊達氏と関係する人物の過去帳である。その中には伊達氏のほか、最上を含むほかの南奥羽諸豪族の位牌も記録されているため、極めて貴重な史料というまでもない。
さて、その中にはこのような記録が残される。
東前院殿 モカミ サカヘ殿姉
快庵良慶長光尼位 中野殿大方 逆修
天文十六年未
すなわち、「快庵良慶長光尼」(以下は便宜上「長光尼」と略称する)という女性は天文十六年(1547)に逆修を行ったのである。逆修とは死後の行事を生前にあらかじめ執り行うことだから、「長光尼」は天文十六年当時にはまだ健在するわけである。
大方とは貴人の母を指す通称で、つまり、「長光尼」は中野殿の母親である。このように、「長光尼」という最上中野殿の大方で、寒河江殿の姉である女性の存在は確かだが、問題は彼女の素性である。いったい誰だろうか。
―五、「長光尼」と義守―
前記した寒河江・中野・最上三氏の関係をもう一度見ると、候補として最も有力なのは、義清の妻と推定される宗広の娘(二代目「中野妻」)である。実際、時代的に考えると、天文十六年の時点の最上義守は既に二十五歳と数え、当時は最上家当主だから、「中野殿」と称することはありえず、なお、父の義清は中野氏家督の座に据えることもやや不自然に覚える。
さらに「サカヘ殿姉」という記事を重視すれば、天文十六年当時の寒河江氏の当主は兼広で、彼が寒河江家当主となった翌年である。その前の当主である広種は孝広の異母兄にあたる人物で、「長光尼」の兄弟である。したがって、合わせて考慮すると、「長光尼」は兼広の姉という可能性もあるが、裏づけられる史料がなく、そして孝広、広種との関係をも考慮すれば、やや低いと思われる。
ここで、筆者の憶測が許されれば、前述した通り、寒河江宗広と義定とは同世代であり、そして宗広の娘は義清ともほぼ同世代の人から考えると、「長光尼」は宗広の娘で、義清の妻である。さらに、天文十六年当時の中野殿は「長光尼」と義清の子で、最上義守の兄弟に当たる人物と推定したい。
―六、「長光尼」と永浦尼とは―
上記の推測には一つの疑問が残る。すなわち、あの宝光院の文殊菩薩騎獅像を編んだ永浦尼との関係である。それに関しては、松尾剛次氏は永浦尼を義守の妻と比定している(注九)。それに対して、当館にも掲載された粟野俊之氏の考察によれば、粟野氏は刺繍にある「源末葉」という文言を重視し、永浦尼を義守の姉妹としている(注十)。
先に結論から言えば、「長光尼」は寒河江氏の出身だから、「源末葉」はありえないため、永浦尼とは別人に違いない。ただ、「長光尼」と永浦尼は共に中野氏ゆかりの女性と見てよく、「長光尼」は義清の妻で、当時の中野氏当主の母親であれば、永浦尼と同時期に存在する可能性が高く、可能性としては「長光尼」と永浦尼は親子、もしくは嫁姑関係かもしれない。
―七、おわりに、最上氏と中野氏―
以上は片桐氏の成果に基づいてさらに整理・推測されたものである。上記の鄙見が許されれば、更なる可能性は生み出そう。
というのは、のちに天正二年の最上の乱において、『性山公(伊達輝宗)治家記録』に登場する「中野」の比定である(注十一)。『治家記録』天正二年の記事では、中野氏の名を「氏淳」としており、昔はその人を義光の弟・義時と比定されていたが、義時の実在は疑わしくなり、近年の大沢慶尋氏の研究では、それを義守ではないかと推測されている(注十二)。
ただし、「長光尼」の発見によって、すくなくとも天文年間には中野殿がまだ実在しており、義守とは同時期に存在する人という可能性が高くなるから、天正二年の最上の乱の「中野氏淳」は果たして義守かどうかは、また再考する必要があろう。
むろん、関連史料は極めて少ないため、新しい史料の発見に俟たねばならないが、上記の拙論はあくまでも一つの仮説として提示し、今後の研究に役立てばと切に願う次第である。
※最上中野寒河江系図案 >>こちら
■執筆:胡 偉権(歴史家/一橋大学経済学研究科博士後期課程在籍生)
≪注≫
(注一)http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=94673
(注二)ここでいう『大江系図』は、『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』所収「天文本大江系図」である。
(注三)『山形市史 史料編一 最上氏関係史料』所収する各種の最上氏系図に参照
(注四)『山形市史 史料編一 最上氏関係史料』所収「最上源代々過去帖」
(注五)中世武家の系図類には、女性に関する記載は殆ど簡略されるから、兄弟同士との長幼の序は不明なところが多い。孝広の場合、家督相続の際には父は他界しているから、幼年の家督相続との可能性が高く、宗広の娘はその姉と考えられる。
(注六)その殆どは、義守には「中野義清次男」という傍注が入れられている。
(注七)実際、義定の生没年から考えると、義守との年齢差はそんなに大きくないのであり、義定は弟が入嗣した中野氏が三代を経歴することは本文の推測したようにならねばならないだろう。
(注八)『市史せんだい』vol.12、2002年、仙台市
(注九)http://www.yamagata-u.ac.jp/jpn/yu/modules/topics0/article.php?storyid=17
(注十)http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=125870
(注十一)実際、『治家記録』天正二年の記事は「伊達輝宗天正二年日記」を参考にして作成されたものである。「日記」のほうでは、「中野」のみ記されて、「氏淳」の名は出ていない。仙台藩による『治家記録』の編さん過程で、どのような情報を以て「氏淳」と比定されたかは不明である。ただ、「氏淳」の読みに関しては明記されていないものの、「うじあつ」も「うじきよ」も読めるため、後者の場合、「義清」(よしきよ)の誤記という可能性もあるが、一つの仮説として掲げておきたい。
(注十二)大沢慶尋「「天正二年最上の乱」の基礎的研究 : 新発見史料を含めた検討」、青葉城資料展示館研究報告、青葉城資料展示館編,特別号、青葉城資料展示館, 2002年(改訂版)