最上義光歴史館

最上家と最上義光について
【東根源右衛門景佐・親宜/ひがしねげんうえもんかげすけ・ちかのり】
〜徳島に伝わった最上の血筋〜
   
 徳島と言えば蜂須賀家25万余石の城下。「阿波おどり」「十郎兵衛と巡礼お鶴」の人形芝居、鳴門海峡に逆巻く「うずしお」。観光資源には事欠かない。
 さて、市の南郊に丈六寺がある。室町時代の重要文化財建造物が立ち並び、質実な中世禅林の面影が今に残る。鬱蒼たる木立ちに囲まれた寺域の一角に、徳島藩の重臣だった里見家の広大な墓地がある。数ある墓標のなかでも特に目につくのが、白い標柱の立つ2基の五輪塔墓である。標柱の銘は、右が「里見家九代 東根源右衛門親宜之墓」、左がその妻「山形城主 最上出羽守義光娘」。
 夫は寛文3年11月11日死去。妻は同4年8月6日死去。最上家ゆかりの夫妻が、ここに眠っているのである。
  *  *  *  
 東根家は山形最上家の一門で、東根を本拠とした。
 元和8年(1622)、最上家改易により、幕命によって東根源右衛門親宜は、徳島藩預かりとなる。当初は客分として優遇されたが、藩主蜂須賀家政(蓬庵)の請いを受けて家臣の列に加わり、以後中老格となって藩主に仕え江戸時代を経過する。本姓の里見氏に改めたのは明治初年である。
 各種系図でみると、東根氏は天童里見氏の系統とされる。
 初代は頼高。徳島に伝わる里見氏『歴代系図』でも頼高を天童頼直の子とし、「居城東根/元祖/里見薩摩守/養源寺殿華屋椿公大居士」と添え書きがある。
 東根七代目の頼景が、酒田城攻めのおりに一番乗りをしたが、敵弾に斃れる。即日、弟景佐が義光から跡目相続を許されたうえ軍奉行を命じられ、酒田城攻略に大功があった。これを賞されて、来国光の刀と金短冊の笠印を賜ったという。
 義光は57万石となった慶長7年(1602)に、東根家に対して6千石・3千石と2回にわたって知行を加増した。宛行状には「里見薩摩殿」とある。同11年と推定される義光の手紙では「東根薩摩どのへ」とあることから、このころは「里見」のほかに「東根」も名字として使われたらしい。
 景佐ら東根一門は、連歌を愛好した。義光が山形に招請した古典研究家にして歌人であった一華堂乗阿が、光明寺においてしばしば連歌を指導したとする古記録があるが、東根一族もまたそういう場に臨席したのであろう。
 慶長12年と推定される、7月27日付の景佐あて里村昌琢書状によると、東根家では2年前に連歌一巻の添削をしてもらった。さらに、この年にも新たに二巻を届けて指導を請うた。このとき土産として贈った「紅花二十斤」に、昌琢は「分に過ぎたお志」と感謝した。紅花は、当時最上の名産になっていたのである。
 この書状には「玄仍が亡くなったとお聞きでしょう。どんなに驚かれたことか推察いたしております。是非なき次第」と書かれており、連歌の宗匠、里村玄仍の死去は慶長12年7月4日であることから、同書状の年代が確定される。
 次に、年不記、壬(閏)十月一日の書状がある。10月が閏月となったのは、景佐の在世中では慶長17年(1612)だけであるから、この年であろう。景佐から家臣高橋雅楽助にあてた書状で、連歌の規則を昌琢に問い合わせたことが記されている。
 関ヶ原合戦以後、義光の連歌作品は見られないが、それにもかかわらず、景佐らは独自に京都と連絡を取って、昌琢の指導を受けていたことになろう。
 義光が没し、後継者家親が急死し、15歳の藩主源五郎家信のもとで、最上領内が混乱していた元和6年(1620)8月7日、景佐は嫡子親宜あてに遺書をしたためた。
 「自分が相果ててしまったならば、源五郎様に相続の御礼に参上せよ・・」に始まり、「源五郎様へのご奉公を大事に」というように、主家を思い、我が家の永続を願う心情が流露している遺書である。同時に、若い最上の当主家信をめぐる重臣たちの不協和ぶりをも、しっかりと見つめ、「山野辺右衛門、小国日向(自分の妻の実家)、楯岡甲斐守光直の三人には、自分の形見を分け与えよ。何ごともこの三人と相談すれば、悪いことはあるまじく……」と教え、その末尾には驚くべき予言を書き残した。
 「最上の国も、三年とはもつまい。せめて国替えにでもなったら(以下、意味不詳)」というのである。
 明日をも知れぬ病老の身で、最上家の将来に大きな不安をいだいていたのだ。景佐はこの年12月24日に病没した。
 この時点で、源右衛門親宜は義光の娘を妻にしていた。最上宗家を支えるべき重要な立場に位置づけられていたのである。
 親宜は、慶長20年(1615)5月27日に、主君家親の一字をもらって元服したが、このとき15歳だとすると、生まれは慶長6年(1601)となる。
 妻となった女性は、義光の最後の妻、清水夫人のなした娘であろう。名は記録に見えないが、淡路に住んでおられる里見家親族の家では「禧久姫」と伝える。同腹と思われるきょうだいには、義光の五男上山光広(1599生)、六男大山光隆(1602生)があり、「禧久姫」もまたこの兄弟に近い生まれであろう。
 元和8年(1622)8月、景佐が懸念していた最上改易が現実となる。源右衛門親宜22歳のこととなるだろう。
 親宜は、12月22日、幕命によって預け先とされた徳島に到着する。以後、藩主蜂須賀家政(号蓬庵)はなにかと彼を優遇した。藩主から源右衛門にあてた手紙は『東根市史編集資料第8号』に収録されているが、その数は28通にのぼる。それらは、「四季折々の挨拶から何かと心配りを示す、温かい内容のものばかり」と、最上家研究家、小野末三氏は述べておられる(『新稿 羽州最上家旧臣達の系譜』)。
 親宜は4年後の寛永3年(1626)に、1,000石の高祿を給されて藩の重役待遇となる。亡くなったのは前記寛文3年だが、慶長六年生まれとすれば、享年は63歳ということになる。翌寛文4年8月6日に亡くなった妻「禧久姫」も似た年齢だったろうと思う。
 思えば、長姉松尾姫は1606年出羽にて没、次姉駒姫はそれより前1595年に京都で悲劇的な死を迎えた。三姉竹姫は改易後、夫氏家親定とともに長州萩に移り住み、1626年43歳で亡くなった。そして、末娘「禧久姫」は、南国徳島で夫とともに40年の歳月を過ごし、奥羽の名門最上家の娘として、生涯を全うしたのだった。
 四姉妹のうち、最も幸福な一生だったと言えるかもしれない。
■■片桐繁雄著
山形藩主・最上源五郎義俊の生涯

【五 三河領分五千石の地】

 寛永八年(1631)十一月、源五郎義俊は失意の内にその生涯を閉じた。そして、嫡子義智は幼年にして本領を継げず、三河領分は没収され近江領五千石最上氏の誕生となった。義俊代の近江領分については、その領分とも考えられる五千石が、引き続き旗本最上氏に受け継がれたことから、その概要を知ることができる。しかし、三河領分については、それらを伝える関係史資料には全く恵まれずに来てしまった。
 その一つの原因として考えるならば、山形の先人達が「三河五千石は遂に不払いに終わってしまった」などと無視してきたことから、これが現在まで引き継がれて来ているようだ。その最近の一例としては、『西川町史・上』(平8年)は、「最上義俊母子は近江で五千石を与えられ、蒲生郡大森に居住した。ほかに三河において五千石、合わせて一万石が与えられるはずであったが、義俊の没する寛永八年まで、またその没後も三河での給地は履行されていない」と、三河の地は空手形に終わってしまったと述べている。このように山形県内の公史でさえも、事実に反した記述となっているのが現状である。
 伝来の地を離れ、僅かな封地を宛行われた最上家が、十年に満たない領有期間であったことからか、その存在すら忘れ去られてしまったようだ。それは最上家が去った後の領主達の移り変わりの中で、関係資料も何時の間にか四散していったことであろう。それでも幸いなことに、僅かながらも加茂郡梅坪村(現愛知県豊田市梅坪)の一ケ村に、最上領の一部であったことを示す、次のような貴重な記録が残されていた。

            「梅坪村高の由来    天和元年」
        梅坪村
高弐千弐百弐拾弐石弐斗五升弐合、右百年以前慶長拾四年酉ノ年洪水ニ而大川瀬違、田地之内押切大川筋となり、田地多クつふれ川原と成、それより永川荒地と成申候、其後又々山田之内用水出水とまり荒地所々多ク有之候、それより高千百石余永川無田荒地ニ成申候、只今千百石余新田共有反百性持高、本領分と申ハ七拾年以前ニ元和八年梅坪村分郷と成り、最上源五郎様へ高六百三拾七石余渡り申候、其時挙御領主三宅大膳正様御領知之内梅坪村庄屋彦惣・喜右衛門両人より水帳之内書わけ、善右衛門と申を最上領之庄屋と立テ、其外脇八人付申候、又其後寛永拾年酉ノ年岡崎御城主本多伊勢守様御領分と罷成申候、本領分と申事ハ御代官鳥山牛助様御之分最上領之分前より御支配被遊候間本領と御名付披遊候、   
 (注、長文のため関係箇所のみを抜粋した)

            「梅坪村年貢免状」
    末年免相之事
高六百六拾七六斗六升八合ハ
[  ]高之内   梅ケ坪村
 一 三百三拾三石八斗弐升ハ定免[  ]
             [  ]
    免高
 一 三百三拾三石八斗四斗八合ハ弐ツ[  ]究
 候、惣百性立合、無損徳様[  ]閏十月廿日前
 ニ急鹿骨済[  ]也、
          [  ](役人名)
          [  ](役人名)
   寛永八年
      九月十三日
       庄屋百性中とのへ
     梅ケ坪村申之歳御物成下札
 一 高六百三拾七石六斗六升八合      本高
     内
    高百七捨石七斗壱升四合       当日損
     残高四百六拾六石九斗五升四合
       内
      高四百拾五石八斗三升九合    田方
       此取七拾四石八斗五升壱合   壱ツ八分
      高五拾壱石壱斗壱升五合     畑方
       此取五石六斗弐升弐合六夕   壱ツ壱分
     取合八捨石四斗七升三合六夕
    右之通定所也、庄屋小百性不残寄合、そんとく無之様
    ニ割、皆済可有候、当日損ニ付、当冬究免相之内、御
    そん所ヲ引、下札如此、
                      鳥 牛助(印)
     寛永九年申極月十八日       鈴 八右(印)
              梅ケ坪村
              庄  や
              小百性中

 当時の梅坪村は、現在の愛知県豊田市の内にあった。慶長十四年(1609)に近くを流れる矢作川の大洪水により、田地の多くが潰れ河原となり「永川荒地」となった。最上家領有後にも氾濫があり、絶えず矢作川の流れに左右されていた耕地であったようだ。元和八年(1622)当時の梅坪村は、衣領(三宅康盛)と岡崎領(本多忠利)の相給となっていた。この内の衣領六百余石が、最上領として成立したのであった。その年貢免状を見ても約半分が「定免」になっている。これは荒地のために土地の年貢の定量を決め、年々の豊凶により変化させないことを意味している。このように、三河五千石の内の一ケ村だけではあるが、不安定な土地であったことが分かる。
 このように、梅坪村の六百余石は、最上家にとっては歓迎すべき耕地ではなかったであろう。また先述した「村高の由来」にも挙げてはいるが、「…本領分と申事ハ御代官鳥山牛助様御支配之分、最上領分前より御支配被遊候間、云々」とあるように、幕府代官の管轄下にあったのではないかと、主体性を欠いた最上領分の成立を見ることができる。
 この「年貢免状」の発給は義俊の死の二ケ月前のことである。また上知後の寛永九年(1632)の「御物成下札」には、はっきりと幕府代官の署名があり、幕領に組み入れられたことが分かる。そして、本多忠利の岡崎領となったのは二年後である。このように、三河からは梅坪村六百余石の領分しか確認できなかったが、幕領・藩領・旗本領と入り交じった三河の地から、僅かな期間でしかなかった最上領の痕跡を見いだすことは、簡単なことではない。思うに、この梅坪村の「分郷」という村を分ける形での、六百余石の最上領の成立は、村の行政にも大きな影響を及ぼしたであろう。残りの四千余石の所領地の配分形態も、また数ケ村に渡る「分郷」という形で、三河領分五千石の成立を見たのではないかと推測したい。これは近江領分にも相通じるものではなかったろうか。壱万石の大名とは名ばかりの、幕府代官の関与する異常な領国支配であったとしか思われないのである。
 
 (付記)
 この項は、『豊田市史・近世1』・『豊田市史・資料編上』などを参考にしてまとめたものである。今まで三河領分については、それらを示す確たる資料等にも恵まれずにいた。しかし、昭和五十年代には既に地元の市史が取上げていたのである。編者は最上関連の史料等を解明しながら、併せて義光以後の最上家の変貌を語っている。しかし、三河の最上領については、これ以上に詳しく知り得る手掛かりはつかめないと、根本史料の稀薄さを指摘している。梅坪村六百余石は、三河全体の一割強にしか過ぎない。残りの四千三百余石の村々は何処に在ったのだろう。
■執筆:小野末三

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【野辺沢能登守満延/のべさわのとのかみみつのぶ】 〜最上家随一の豪傑〜
   
 数多い最上家臣のなかで「豪傑」として名をあげるなら、トップはやはりこの人物ということになろうか。
 山形両所宮の鐘を1人ではずし、鶴子(尾花沢市)までもっていったという伝説がある。また、剛力ぶりを試そうとした主君義光が、逆に彼から追われて逃げ、桜の古木にしがみついた。満延がそれを引き離そうとしたら、木が根こそぎ抜けてしまったというお話もある。
 中山町長崎円同寺の釣り鐘(長谷堂清源寺蔵。県指定文化財)をかぶって運んだという伝説も、現物があるだけにおもしろい。かぶっても目が見えるように鐘乳を1個もぎ取ったという穴が、その鐘にはあいている。さらに、この人物は只人ではない、天人が生んだ子供なのだなどという話まで作られた。それだけ、彼の豪力は広く知られていたのだろう。
 もともとは、尾花沢市野辺沢(現尾花沢市延沢)に城を構えていた豪族で、本姓は「日野」だったらしい。14世紀に東根を支配した平長義につながるとする説もある。
 元亀元年(1570)以後の数年間、天童氏を中心とした北部の豪族グループは、出羽南部を統一しようとする最上家に、結束して抵抗していた。
 山形の軍勢が攻め立てても、舞鶴山の要害にたてこもった同盟軍は、頑強に抵抗をつづけた。さすがの山形勢も、ともすると追い立てられがちだった。
 それというのも、軍略にすぐれ、そのうえ、5尺の鉄棒を振り回して縦横無尽に戦う豪傑満延がいるからだ、なんとかせねばと義光は、譜代の重臣氏家守棟の意見を聞く。氏家はここで「野辺沢の息子と最上の姫君を結婚させて、親類になったらいかが」と進言した。
 当時、政略結婚は、大名同士、豪族同士が戦争を避ける方策として、重要な役割をになっていた。当事者はもちろん、一般民衆も、これで戦いがなくてすむのだから、望むところだった。
 義光は、満延の嫡子又五郎に長女松尾姫を与え、息子同然に扱うことを約束する。
 満延は、義光が自分を高く評価して、息子に娘をくれるとは「弓矢取る身の誉れ」と、ひじょうに喜んだ。こうして野辺沢は同盟から離脱する。
 この婚約がいつなされたのか、正確なことはわからない。かりに天童氏が逃亡した天正12年(1584)だとすると、又五郎は3歳、松尾姫は7歳だったことになる。これは、2人の没年と年令からさかのぼっての推定である。
 幼い者同士の婚約で、野辺沢が山形側につくと、同盟はたちまち崩壊してしまう。
 支えを失い、孤立した天童頼久(頼澄)は、最上勢の攻撃の前にあえなく城を捨てて奥州国分氏をたよって逃亡してしまう。満延は、義光側近の重臣となって、野辺沢2万石を与えられる。
 天正18年、義光は軍勢をつれて上京する。そのときは満延が先駆けをつとめた。翌年の正月に、義光は従四位に叙され侍従に任じられた。全国諸侯と同様、豊臣政権の一翼に編入されたわけだ。京都での勤めを終えて帰国する矢先に、満延は病に倒れる。
 『延沢軍記』などによると、意識は正常だったが、運動機能が思うに任せぬ病状のようで、あるいは脳梗塞に冒されたのではないかと思われる。口から出る言葉も、とぎれとぎれだった。
 「ご家来に加えていただいてから、殿のご恩は数えきれない程でございます。このたびのご上洛にも先駆けを仰せ付けられ、まことに名誉なことでございました。それなのに、ご帰国というときに、このような病にかかり、お供できないのは不忠のいたり、まして私の病気ゆえに出発を延期してくださったご恩は、とうてい忘れることができません。どうぞ一日も早く国元へお帰りなって、まつりごとをなさってください。もし、これが永遠のお別れとなりましたならば、くれぐれも又五郎のことをよろしくお頼み申し上げます」
 満延の言葉に、義光も涙ながらにこう言い聞かせた。
 「病気のそなたを置いて帰国するのは本意ではないが、そなたも言うとおり国元の政治も大事だし、秀吉公へも帰国の届けを出したこととて、そう延引もできないのだ。又五郎のことは決して粗略にはせぬ。くれぐれも大切に養生してくれ」
 そう語り聞かせて、在京中の費用と療養費を過分に与えて、後ろ髪引かれる思いで帰国の途についたのだった。
 3月14日、彼は京都で客死する。遺骸は知恩院に葬られた。報せを聞いた義光は、ことのほか悲しんで落涙したという。主従として、人間として、あたたかい心のつながりのあったことが実感される。
 娘婿となった又五郎を、義光がたいそう可愛がったことは、義光が九州名護屋から在山形の家臣伊良子信濃あて、文禄2年(1593)5月18日の手紙からうかがわれる。
 「野辺沢家内、おのおの堅固のよし、文見申し候て満足申し候。いつかいつか下り申し候て、又五郎夫婦のもの、見申したく候」
 このときまでに、2人は祝言をすましていたのであろう。年若い娘夫婦をいつくしむ父親義光が、ここにはいる。
 又五郎は、父の跡を嗣いで野辺沢2万石を領する。遠江守康満を名乗っていたが、後で義光の一字を拝領して「光昌」と改名し、最上一門の家老格となる。妻となった松尾姫は、しかし、慶長11年4月1日、29歳で短い生涯を終えた。
 ちなみに、尾花沢では例年能登守祭りを開催して、戦国の豪傑をしのんでいる。
■■片桐繁雄著
【谷柏相模守/やがしわさがみのかみ】 〜畑谷合戦で勇戦した武人〜    

 具体的な地元史料は見つけられないが、他地方の事例から類推して言えば、室町時代(14〜16世紀)を通じて最上氏は多数の在地国人層を従属させてきたはずである。その多くは、おそらく荘園解体期から村落に居館を構え、農民を統率し、土地の名を苗字とする土豪たちだったと考えてよいだろう。
 最上氏分限帳などの文書、あるいは各地の伝承などから推察するに、志村、成沢、野辺沢、飯田、富並,牛房野などは上級家臣に組み込まれ、青柳、岩波、柏倉、渋江、下原、常明寺、成生などは、中級家臣グループとして位置づけられたかと思われる。
 谷柏氏(箭柏、弥柏、矢桐と書いた例もある)は、かなり大きな領地をもった豪族の家柄で、歴代「相模守」の称を許されたらしい。その何代目かの当主が、義光の家臣として外交・軍事で活躍したのである。
 天正2年(1574)。
 春から始まった最上家の内紛と、これに干渉して出兵した伊達輝宗軍との抗争を終結させるため、上山の南方、楢下・中山あたりで、和平交渉が始まった。9月1日から10日まで4回の会談に、最上を代表して出席した人物は、譜代の重臣氏家尾張守が二回、上山城主里見民部が一回。そして、同月10日の最終会談に臨んだのが、谷柏相模守だった。伊達側代表は、政宗の側近富塚孫兵衛であった。
 最上・伊達ともに満足できる条件を練り上げ、伊達軍を退かせようというのだから、大変な役目だった。交渉がまとまって、伊達軍は礼服着用、里見民部も手出しをしないと約束した。9月12日の午前、おりから降りだした秋雨の中を、輝宗軍は自領米沢へ帰っていった。一件落着である。
 このときの谷柏相模守の働きが、氏家尾張守の才覚や里見民部の最上家への忠節とともに民衆の記憶に残り、大きく変形されて民間の説話となったらしい。
 「上山城主満兼は、伊達輝宗の援軍を得て、最上義光と柏木山で戦って敗れた。輝宗の奥方が出てきて戦いを止めさせ、輝宗は帰ってしまった。それでも、山形に叛こうとする満兼を討とうと、最上側が画策する。氏家の策謀に従い、谷柏相模は里見民部としめしあわせて、満兼暗殺と城の乗っ取りを成功させた。その後の上山領の治安維持にも、谷柏相模は敏腕を発揮した」というのである。
 だが、『義光記』『羽陽軍記』その他に「柏木山合戦」として書き留められたこの話には信憑性がない。史実とは大きく食い違う。
 輝宗の妻(義姫。政宗の母)が仲裁したのは、天正16年(1588)である。対立したのは政宗と義光で、輝宗はすでに亡くなっていた。場所も上山の南、中山境である。上山地域はれっきとした最上領で、伊達・上山の連合などあるはずもなかった。『羽陽軍記』はこの合戦を天正7年9月としているが、これまた無根の説で、こうなると全体が作り話である可能性が大きい。
 推察するに、氏家、谷柏、里見ら3人が尽力して戦いを終結させた事実をもとに、架空の合戦譚が仕立てられたのであろう。16世紀、義守、義光の時代に、上山と山形が戦ったということ自体、確実な史料からは認められないのである。 
 次に、谷柏相模の奮戦が語られているのは、慶長5年(1600)出羽合戦のときである。以下、寛政諸家譜『最上系図』、『義光記』『奥羽永慶軍記』などの記事による。
 9月13日、畑谷城が直江兼続軍の猛攻撃にさらされていたとき、援軍として派遣されたのは、谷柏相模、飯田播磨、小国日向、富並忠兵衛、日野伊予らだった。
 ところが、援軍到着前に畑谷は落城する。山形の援兵はこれを聞いて引き返そうとしたが、谷柏と飯田はそれをさえぎり、
 「城は落ちても、残兵や領民がいる。早く行って彼らを救わねばならぬ」
と馬を進めた。手勢を率いて山道を急ぐと、敵兵に追われて、残兵や領民が必死に逃がれてくる。これを見て、飯田は谷柏に向かい、
 「この人々を、一人たりとも敵兵から捕らえられぬよう、山形へ連れ帰ってくれ。しば  らくは、自分が敵を食い止めよう」
と言って、部下とともに雲霞のごとく寄せ来る敵勢の中に躍りこむ。すでに60歳を越えた老武者である。力戦奮闘することしばし。しかしながら、多勢に無勢、ついに力尽きて討ち死にしてしまう。
 それと知った谷柏は、せめて飯田の首なりとも奪い返さねば友情の甲斐もないと、部下に落人を護送するよう命じ、我が身は取って返し、群がる敵兵を蹴散らして戦い、ついに飯田の首を取り戻した。谷柏は友の首をひたたれに包んで、涙ながらに持ち帰ったという。 多くの軍記物語がほぼ一致して語り伝える有名な話で、もちろん、脚色はあるにしても、大筋は史実に近いのではあるまいか。
 さて、この勇者、谷柏相模守については、東大史料編纂所蔵『最上義光分限帳』に、次の記載がある。

 谷柏
  一、高四千石 八騎  鉄砲 十五挺  
    弓 四張  槍 四十八本        谷柏相模

 4千石は、最上家臣のなかでは上位20位ほど。その領地は、成沢分に入っていた黒沢村(430石余)を除く南山形地区全域であろうと思われる。
 寛永13年(1636)、山形藩主保科家が発した「上納一紙」によれば、松原、片谷地、谷柏、津金沢の石高合計は約4千200石となり、分限帳の石高にほぼ等しい。ただし、坂紀伊守光秀が長谷堂1万3千石を領するようになると、谷柏相模は他所で四千石の土地を支配することとなる。一時は長瀞城を預かったと伝えられるが、さだかでない。
 添え書きの「八騎」とは、戦いに際して谷柏氏に割り当てられた馬上武士の数で、これは村落の富裕な農民と見てよい。実戦では物頭、つまり指揮官となる。
 これに鉄砲衆15人、弓衆4人、槍衆48人、馬上を含め計75人を出すよう定められていたわけであるが、いざ出陣となれば、これだけでは済まなかった。
 馬上一騎には、4、5人の小者がつくのが普通だったから、谷柏相模の部隊は百人を上回る人数だったと考えてよい。
 日ごろは鍬・鎌を握って暮らした農民は、いざ戦いとなれば、刀や槍・鉄砲を手にして戦列に加わらねばならなかった。谷柏氏は最上家に従属しつつ、領内に住む農民層を支配し、村落の秩序を維持していたのである。
 谷柏氏の居館が地区内のどこかにあったはずだが、まだ確定されない。斯波兼頼、最上義守、義光らが尊崇したと伝えられる古社[甲箭神社]の付近か、古墳群のある岡のあたりか。いずれ歴史地理的、考古学的調査で判明するだろう。
 ところで、国立資料館所蔵「宝幢寺文書」の最上源五郎時代『分限帳』に、「谷柏」の名は記されていない。畑谷の戦いで奮闘してからおよそ20年ばかり後の文献であるから、その間に何らかの異変があって、国人豪族谷柏家は最上を去ってしまったのかもしれぬ。
 参考として、白石城主片倉氏家臣の諸系譜から、谷柏関係の記載を捜し出し、それらをつなぎあわせてみると、表のようになる。

表は>>こちら

見るとおり、最上氏麾下の谷柏・飯田・富並らの国人豪族(氏家はたぶん別)は、相互に縁戚関係があったことがわかる。氏家家に生まれた光直に、「谷柏の名跡を相続」と書き入れがあるところを見ると、この家は廃絶させるには惜しい名門と見られていたわけである。
 それにしても、義光の信頼を受けて、大きな働きを見せた谷柏相模と、その後継者たちは、いったいどこへ消え去ったのだろうか。
■■片桐繁雄著
【江口五兵衛光清/えぐちごひょうえあききょ】 〜文武にすぐれた勇者〜

 「この城がほしいなら、戦って取るがよい。上杉の習いはいざしらず、最上の武士は最後の一人になろうとも、城を明け渡すことはないのだ。」
 慶長5年(1600)九月、最上領の最前線である畑谷城は、上杉二万余の大軍によって包囲された。城を守る最上の兵は、わずか3百数十人。城主は江口五兵衛光清である。
 上杉方の大将、直江山城守兼続は軍使を城中に送って、「無駄な戦いはやめて降伏せよ。かならず名誉ある処遇をする」と伝えたが、その使者に対して光清が敢然と言い返したのが、ここに紹介した言葉である(『奥羽永慶軍記』による)。
 上杉家の公史『景勝公御年譜』でも、江口五兵衛については絶賛を惜しまない。

 「城主は江口五兵衛道連(ママ)というものである。かねてから評判の忠信無二の義士であり、父子ともに立てこもった。信条ひとしき者は結束するというとおり、従う勇士はいずれも一騎当千の者ばかり、百余人ママが篭城した。直江山城守は諸将と相談して、なんとかして五兵衛父子を味方にしようと計略をめぐらしたが、江口は義士であり全く聞き入れなかった」

 義光もまた、上杉軍の襲来を前にして、
 「畑谷城のような山中の小城で戦ったとて、とうてい持ちこたえることはできぬ。急いで山形に帰り生死をともにせよ」

と再三撤退を命じたが、光清は、
 
 「常々この城をあずかっているのは、このような時のためでございます。いま危うい時に城を捨てたとあっては武士の名折れ。もとより一命を捨てる覚悟であるからには、ここで華々しく討ち死にし、忠義の心を後世に残す所存でございます」

と、いっこうに従おうとしなかった。
 義光は見捨てることはできぬと、飯田播磨守、谷柏相模守、小国日向守らの援軍を派遣したが、その甲斐もなく、畑谷の孤城は9月13日に落城、全員城を枕に討ち死にを遂げた。玉砕であった。時に光清55歳。ともに討ち死にした一族は、次男小吉23歳、甥松田久作(一書に忠作)40歳。彼らの奮戦ぶりは江戸時代に書かれた軍記物語に詳しいが、もちろん、想像をたくましくした部分もあるだろう。
 援軍としておもむいた飯田相模守も、乱戦のなかで戦死した。その首を取り返そうと、引き返して戦った谷柏相模守の友情も、多くの軍記物語の語るところだ。
 兼続は、9月15日付け、僚友秋山伊賀守あての手紙で、

 「去る十三日、最上領畑谷城を乗り崩し、撫で斬りを命じて、城主江口五兵衛父子含めて、首を五百余り討ち取った。簗沢の城も空け逃げ、在々(村々)に放火し、昨十四日には最上の居城に向かい陣を構えている……」

と書いた。「撫で斬り」とは、刃にあたる者皆殺し、の意。壮絶、悲惨な戦いであった。
 慶長出羽合戦の「悲劇の城」。それが江口五兵衛の畑谷城だった。
 ところで、この光清はただ勇敢・信義の武人というだけではない。古典文芸に通じ、すぐれた感性をもった人物だった。そのことは、残された連歌作品や手紙から明らかに見て取れる。
 連歌についていえば、文禄から慶長初年にかけて、彼が連なった連歌は、現在確認されるだけで14巻、句数は76句である。
 その最初、文禄2年(1593)2月12日の連歌では、5句が選入された。

   秋の雲まよふあとより晴れ渡り  禅昭
   つばさ離れず雁わたる空     光清

 秋空に浮かぶちぎれ雲が行方さだめず流れ去り、しだいに晴れていく。これが山名禅昭の句。これにつけた光清の句は、そのあとの晴れ渡った空を、雁の列が渡っていくという景である。「つばさ離れず」が仲良く助け合って旅をする雁の姿を描いて、いかにも温かい。これに、景敏が付けて、視点を色づきはじめた田圃へと移した。

   はるかなる田づらも色になりそめて 景敏

 景敏は連歌の大家として、義光はじめ最上一族と深い交流があった。慶長4年10月以後に改名して里村昌琢を名乗り、後水尾上皇から古今伝授をうけた。後に江戸幕府の連歌所の宗匠として重きをなした人物である。寛永13年(1636)2月に63歳で没した。
 江口光清は、このような一流文人たちと一座して、奥深い文芸の世界に心をあそばせることのできる武人だった。単なる武骨な田舎ざむらいではなかったのである。
 手紙では、光清が僚友加藤掃部左衛門にあてた一通が、山形市村木沢の旧家、加藤家に秘蔵されている。
 掃部左衛門が村木沢の一部「悪戸」というところに館を構え、堀を掘りめぐらしたことを「むつかし」いこと、つまり「結構でない」と言い、悪戸に住まいする衆は、村木沢衆と上手に付き合わなければ立ち行かぬ、その点にじゅうぶん気配りをしてほしいと、懇切な忠告を与えた手紙である。「四月二日」の日付はあるが、年次はわかっていない。推定では慶長2年7月以後、戦死するまでの3年余の間だろうと思われる。
 文武両道にすぐれた勇者、名誉ある死をとげた江口光清のことは、畑谷落城の悲話とともに長く人々に語り継がれている。
 戒名は清浄院殿江月秋公大居士。山辺町畑谷の、古城跡を眼前に見上げる長松寺の境内に、彼を弔う古い家型塔婆がある。墓地の一画には彼を讃える漢詩を刻んだ石碑がたち、1999年の秋四百年忌を修して建立された五輪供養塔がある。
 人柄といい、戦いぶりといい、彼のことは末長く語り継がれることだろう。
■■片桐繁雄著
【鮭延越前守秀綱/さけのべえちぜんのかみひでつな】 〜重文の仏像にかかわり?〜

 不思議な仏像が一体、真室川町内町の薬師堂にある。
 奈良時代か白鳳期の作かと思われるブロンズの薬師如来像で、国指定重要文化財となり、今は特別に建てられたお堂のなかに安置されている。
 いったいなぜ、こんなにすぐれた仏像が山形県内にあるのか。すくなからず謎めいている。
 16世紀の終わりごろ……。
 この付近を領していたのは、鮭延(真室川)城主、佐々木典膳という武将であった。彼は、源平合戦のむかし宇治川の先陣で名を挙げた近江源氏の名門、佐々木高綱の子孫であるという誇りをもって、義光に従おうとしなかった。
 義光は大軍をさし向けて鮭延城を攻撃し落城させたが、武勇才知にすぐれた典膳を惜しんで、庄内に逃げ去るのを見逃してやったという。典膳はこの事実を後で知り、その温情を忘れず、後年最上義光に帰参したと軍記物語類にはある。
 義光はかれに1万千5百石という高禄を与え、鮭延越前守秀綱と名のらせた。その後の秀綱は、義光の側近として知謀才覚を発揮、なかでも慶長5年の上杉軍山形侵攻に際しては、長谷堂城への応援軍としてはなばなしい活躍ぶりを見せる。
 泰平の世になってからは、鮭延城(真室川町)を居城として、町づくりに尽力、現山形県最上郡北部の発展に大きな成果をあげた。
 嫡子、左衛門尉も父にまさる文武すぐれた人物だった。15歳で長谷堂合戦に出陣、その戦いぶりは「諸人ノ耳目ヲ驚カス、異国ハ知ラズ、本朝近代ノ弓矢ノ少年ニシテ是程ノ武功ハイマダ聞カザレバ…」と『奥羽永慶軍記』は絶賛している。だが、十八歳で亡くなった。以後、秀綱は妻をめとらなかったのであろう。血筋は絶えたという。
 義光没後の最上家は、家親の早世に端を発し、少年源五郎家信が家督を相続するに至って、重臣たちの離反がはじまる。
 「家信は器にあらず、山野辺光茂を主君と仰ぐべし」と主張した旗頭が秀綱であった。これに対して「若年といえども、源五郎家信こそ正統」と、一族の松根備前守光広らは主張した。最上の家臣団は、二つに分裂してしまったのである。
 抗争は幕府の審問に付される。「幼君を補佐して最上家を全うせよ」という幕府閣僚の助言を、鮭延秀綱をはじめとして、山野辺・楯岡らは受け入れなかった。その結果、元和8年8月、最上家は57万石を没収されて、近江・三河1万石へ改易となり、重臣たちはそれぞれ各地の大名に預けられた。
 秀綱はこの時、審問の中心となった土井大炊頭利勝(当時佐倉、のち古河城主)に預けられた。実は、駿河大納言忠長から仕官の誘いがあったとも、彦根井伊家からの招きがあったともいわれ、秀綱の人物力量は広く諸侯の知るところとなっていたのである。
 土井家では彼を優遇して、古河に移転した後も大堤庄5千石を与えた。秀綱はそのうち3千石を出羽から連れていった譜代の家来18人に分け与えた。これが話題となって、越前は知行すべてを家来に与え、自らは清貧に甘んじ、家来たちの施しを受けて晩年を送ったという話にもなった。
 物欲に恬淡たる武人の生き様というべきか。戦国時代の荒波をくぐって生き抜き、泰平の世になってからも固い信念をもって、人生を全うした出羽の英傑の一人といえるだろう。
 正保3年(1646)6月21日没。84歳。菩提寺は古河市鮭延寺。秀綱の屋敷跡に建立され、その名もゆかりの故地「鮭延」にちなんだものだ。この寺は、反骨の儒学者熊沢蕃山の墓があることでも知られている。
 真室川町では、秀綱を町発展の恩人として顕彰している。また、同町正源寺は、秀綱父子を丁重に弔い、境内奥の二人の墓はいつも清浄に保たれ、香華の絶えることがない。
 さて、例の仏像、真室川にあるからには、名門の武人、鮭延秀綱が持ってきたものにちがいない……地元の人々がそう考えるのも、かれに対する敬愛の念の表れだろう。
■■片桐繁雄著