最上義光歴史館

最上家と最上義光について
「最上家をめぐる人々」は平成8年4月1日から平成11年4月1日まで山形市の広報誌「広報やまがた」に連載された原稿に新項を加え加筆訂正しながら、新たに片桐繁雄氏(元最上義光歴史館事務局長)が編集したものです。


最上家をめぐる人々 

【目次】

山形を政治の中心とした・・・・・・斯波兼頼  
最上三十三観音巡礼のはじまり・・・光 姫  
第九代山形城主・・・・・・・・・・最上義定
歴代最長期の山形城主・・・・・・・最上義守
戦陣の間にすわりこみ・・・・・・・義 姫
悲劇の美少女・・・・・・・・・・・駒 姫 
義光の妹義姫の子・独眼竜・・・・・伊達政宗
義光の妻たち1・・・・・・・・・・大崎夫人 
義光の妻たち2・・・・・・・・・・天童夫人 
義光の妻たち3・・・・・・・・・・清水夫人 
悲運の嫡男・・・・・・・・・・・・最上義康 
名門最上家の御曹司・・・・・・・・最上駿河守家親 
改易時の山形藩主・・・・・・・・・最上源五郎家信
水戸徳川家の重鎮となった・・・・・山野辺義忠 
兄・義光のために祈った・・・・・・楯岡甲斐守光直
秋田南部を舞台に活躍・・・・・・・本城豊前守満茂
俳人・松根東洋城の先祖・・・・・・松根備前守光広
信頼厚い譜代の重臣・・・・・・・・氏家伊予守定直・尾張守守棟
酒田繁栄の土台をきずいた・・・・・志村伊豆守光安
最上家臣団のエリート官僚・・・・・坂紀伊守光秀
重文の仏像にかかわり?・・・・・・鮭延越前守秀綱
文武にすぐれた勇者・・・・・・・・江口五兵衛光清
畑谷合戦で勇戦した武人・・・・・・谷柏相模守
最上家随一の豪傑・・・・・・・・・野辺沢能登守満延
徳島に伝わった最上の血筋・・・・・東根源右衛門景佐・親宜
大剛の老侍大将・・・・・・・・・・成沢道忠     
一城の主となった降将・・・・・・・下治右衛門
庄内開発の恩人・・・・・・・・・・北楯大学助利長
太閤秀吉からの�御預け人�?・・・・斎藤伊予守光則
義光の連歌の師・・・・・・・・・・里村紹巴
最上家の文芸を指導した・・・・・・里村家の人々
山形に招聘された文人・・・・・・・一華堂乗阿
伝説にいろどられた祈祷僧・・・・・宝幢寺尊海
主君の馬前で戦死・・・・・・・・・堀喜吽齋
吉良上野介と知り合い?・・・・・・最上義智
勤皇家として活躍・・・・・・・・・最上義連
終わりに・・・・山形を愛した名君・最上義光
【堀喜吽齋/ほりきうんさい】 〜主君の馬前で戦死〜
 
 最上家臣の中には、才能を認められて領外から登用された人物も少なくない。
 堀喜吽もそのひとりで、諸国を兵法修業して“今判官”といわれ、山形に来て義光の側近となっていた。『最上義光分限帳』では「高千石 堀喜吽」とある。
 もともとは筑紫(九州)の生まれだから「筑紫喜吽」と史書に書かれたのであろう。上方で兵法を修業して、さらには文化芸能の達者でもあって、それを認められて最上義光に仕えるようになったと推定されるが、前半生の経歴は不明である。
 京都で開かれた連歌の席には、主君義光と共に16回同席し、義光がなんらかの事情で参加できなかったときにも江口光清と共に1回出席した。計17巻、句数は102句で、最上家臣の中で最も多い。
 喜吽の名がはじめてあらわれるのは、文禄2年(1593)6月13日の連歌会である。このときには、主君義光、僚友江口光清とともに列席して5句を採られた。
 その一つ。紹巴の後につけたもの。

  同じ蓮となほ契らばや   紹由
  相思う心は更に浅からず  喜吽

 兵法修業のかたわら文化的な教養も身に付けていたのである。
 最後の作は慶長5年3月7日。

  松風の音もあらしに明かりはり 兼如
  苔路分け行く住まひ寂しも 喜吽

 慶長5年10月1日、山形西部の富神山付近で壮絶な追撃戦が展開された。
 退く上杉、追う最上。戦いは激烈をきわめ、上杉方の戦死者1580余、最上軍も623人が戦死(『羽陽軍記』など)。
 この戦いで義光は例の鉄棒を振り回し先頭にたつ。鉄砲の標的になるから前に出すぎるなと注意した喜吽は、逆に「臆病者」と言われ、「臆病かどうか見てくれ」とばかりに走り出たところを、左肩から右胸まで射抜かれて討ち死にした。
 喜吽の心配どおり、義光の兜にも敵弾が命中。危うく命を落とすところだった。弾痕のついた兜は、最上義光歴史館に展示され、激戦の模様をしのばせてくれる。
 喜吽没後に描かれた山形城内図に「堀道喜」という名がある。喜吽と関係があるようだが、各種分限帳にこの人物名は載せられていない。
■■片桐繁雄著
最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先 

【八 羽州を離れた「さむらい」達を想う】

 佐竹内記を棟梁とする佐竹氏の一系を追う作業も、これ以上、進展することは難しいと思う。しかし、少しは納得できる読み物として、受け入れて貰える可能性があれば幸いである。
 最上氏旧臣の佐竹内記と、その流れを引く者達の、異郷の地で再出発を余儀なくされた原因を、ここで追及するのは本意ではない。佐竹氏一系のその後を追い求め、それが最上の「さむらい」の一つの生き方だとして、人々の語りの中に織り込まれていけば、広く最上義光を頂点とする最上氏研究の一助になるのではないか。それが主たる目的なのである。元和八年(1622)八月、最上氏解体により各地に散った旧臣達の、それぞれ歩んで行った道程は平坦なものではなかったろう。
 この内記から始まる佐竹氏一系の、その調査の基となった『親類書』と『佐竹家譜 元小泉』が無ければ、最上の一つの「さむらい」の系譜を、捕らえることは難しかったであろう。特に『佐竹家譜 元小泉』は、後裔の一人である佐竹繁保さんの提供によるものであり、ここに改めて謝意を表する次第である。

終り

主な参考文献
『巌有院殿御実紀巻五十五』
『垂憲録・垂憲録拾遺』
『予陽叢書』(「松山叢談」)
『愛媛県史・近世上』
『三重県史・資料編近世』(「松平家家譜」)
『ふるさと阿波107号』
『佐竹家譜 元小泉』
『芝山町史・資料集4』
『松尾町の歴史』
『掛川市史・中巻』
『上田藩の人物と文化』
『岩槻市史・近世史料編3』
『長野県史・近世史料編1』
『信濃24巻11・12号』(「上田藩の家臣団編成」)
『岩槻市史料・9巻』
『上田藩松平家物語』
『阿部家文書』
『阿部家史料集』
『国史学会・101号』(「忍藩阿部氏家臣団の形成」)
『研究資料集10号』
『山形市史資料51号』
『中津藩史』
『大分県史・近世編2』
『中津藩史料叢書』
『中津藩』
『駒沢大学史学論集・11号』(「柴橋文書」)
『成田市研究・7号』(「佐倉藩掘田氏家臣団の形成と解体」)
『成田市史・近世編史料集1』
『譜代藩政の展開と明治維新』
『佐倉市史・1』
『佐倉市誌資料・2』
『千葉県史料・近世編』(「佐倉藩紀氏雑録」)

■執筆:小野末三
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最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先

【五 奥平美作守に仕えた佐竹氏】

 忍藩の『親類書』から、佐竹内記の子の儀左衛門と、その一子の市大夫が奥平氏の家中に居たことが分かる。この儀左衛門の奥平氏への仕官の時期はいつ頃であったか。[家臣従属之時代]によると、美作守忠昌の代に採用の藩士は七十名を数えるという。そして、その中に儀左衛門も含まれているから、忠昌の宇都宮藩当時の召抱えであったことが分かる。
 奥平美作守忠昌は、祖母を徳川家康の長女として、祖父信昌の代から家康の知遇を受け、三河譜代の大名として成長してきた。信昌は関ヶ原の戦いの功により、美濃加納藩十万石に封ぜられたが、子の家昌は奥平氏嫡流として、宇都宮にて十万石を領した。元和五年(1619)忠昌の時に下総古河に移ったが、三年後には前任地の宇都宮に再転封となる。寛文八年(1668)昌能の時、父の死去に際し藩内にて不手際があり、二万石を減ぜられ山形に移される。さらに子の昌章の貞享二年(1685)に再度、宇都宮へ転封となった。以後、丹波宮津を経て最後の任地となる豊前中津に移ったのは、享保二年(1717)のことである。
 藩主昌能・昌章の代の寛文八年(1668)から貞享二年までの、山形藩当時の分限帳がある。一つの[奥平氏分限帳]には「弐百石 佐竹儀左衛門」(「相果て」との加筆がある)、そして「御家中総領子」の欄に「佐竹儀左衛門  左五右衛門」とあり、左五右衛門が儀左衛門の子であることが分かる。もう一本の[御家中御知行付名之帳]には、「弐百五拾石  佐竹左五右衛門殿」と、父と同じ禄高であることから、その頃は既に家督を継いでいたのだろう。
 儀左衛門の最上時代については、他の兄弟と同様に何も分からない。その奥平氏への仕官の時期は、奥平氏の初期の宇都宮藩当時であろう。また寛文の終り頃まで生きていたようだから、奥平氏の山形藩時代の初期、古巣の山形に足を踏み入れていたに違いない。
 儀左衛門の藩での業績については、何も分からない。もう子の左五右衛門の代となる元禄から宝永の初期の頃に、町奉行としての勤仕を示す[覚書]が、藩庁記録の内に何点か残されている。 
 儀左衛門、左五右衛門の系譜を引く佐竹氏については、[藩庁記録]の内から、所々にその名を見出だすことができ、廃藩に至るまで存続していたことは間違いない。ただ由緒書などの、確かな資料などには恵まれず、確実な結果を得ることはできなかった。ここに断片的ではあるが、[藩庁記録]から佐竹氏の記録を拾ってみよう。

(イ)元禄十四年(1701)頃から、町奉行として各方面との折衝を行っている左五右衛門がいる。儀左衛門の子の左五右衛門であろう。

(ロ)元文四年(1739)、「四月廿三日、佐竹与一左衛門宰府天神へ御代参被仰付候事」とあるが、この与一左衛門とは誰なのか。前項で松平伊賀守に仕えた佐竹氏の内、与二右衛門が藩を退散したことが分かっているが、この二人の名が似ていることから、与二右衛門と関わりを持つ人物ではなかろうか。あくまでも推測であるが。

(ハ)明和三年(1766)、「佐竹与一左衛門・同儀左衛門苗字只今迄ハ武たけ相名乗申候処、此節ヨリ竹之字相認申度伺有之、被御聞置候事」
 これを見ると、同時期に与一左衛門・儀左衛門を名乗る二人の佐竹氏が居たことが分かる。

(ニ)安永四年(1775)、「二月四日、佐竹与一左衛門二男冨吉願之通嫡子ニ被仰付候事」

(ホ)安政六年(1859)、「八月廿八日、元郡奉行・御破損奉行御免   佐竹儀左衛門」
 
 以上、藩庁記録の内から僅かではあるが、佐竹氏の嫡流と思われる人物を拾ってみたが、これ以外に複数の佐竹氏が見られ、佐竹内記から続く一つの系譜により、中津藩家中に於いて、あの最上の息吹を生き生きと感ずることができた。
■執筆:小野末三

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【里村紹巴/さとむらじょうは】 〜義光の連歌の師〜
   
 義光が桃山時代を代表する連歌作者だったことは国文学者の間で広く知られているが、彼が師と仰いだのは里村紹巴(1524〜1602)だった。義光より22歳年上である。紹巴のことは、歴史辞典類や文学史の書籍類に詳細に記されているので、ここでは特に最上家との関係を書いてみる。
 文祿2年(1593)2月、義光は秀吉の朝鮮出兵に従い九州名護屋の陣営にあった。たまたま京都では紹巴の一門が、春の連歌会を催そうとして、発句を最上義光からもらうこととなった。これに応じて、義光の発句と、これに和した宿老氏家守棟の脇句(連歌の第二句)が届いた。守棟も名護屋陣にあったのだろう。

  梅咲きて匂ひ外なる四方もなし 義光
  幾重霞のかこふ垣内      守棟

 春がおとずれて梅が咲き、清らかな匂いがあたり一面に満ち満ちている。ここは幾重にも霞に包まれた、のどかな屋敷の内である、というような趣である。これに、第三句として、紹巴がつづけた。

  春深きかげの山畑道見えで

 深みゆく春、かなたの山畑をめぐる細道もいつしか霞の中に消え失せている、というのである。以下つぎつぎと詠じつづけて百韻連歌(五七五 ― 七七 ― 五七五…と百句で完了)とした。2月12日の日付があり、現存する義光連歌としては最初のものである。
 名護屋・京都を使者となって往復したのは、江口五兵衛光清だったらしく、彼はそのまま連歌会に参加して五句が選び入れられた。この連歌の写本は、国立国会図書館、内閣文庫、天理大学図書館に所蔵されている。
 紹巴は、この発句がよほど気に入ったと見えて、夏になって義光が帰京した折を見はからって、改めてみずからが脇句をつくって連衆に示し、百韻に仕立てた。珍しいことをしたものだ。このときには家臣、江口光清、堀(筑紫)喜吽の名もある。この2人は義光が連歌会に参加するときよく随伴した。教養豊かで風雅を解する人物だった。
 紹巴と義光とは、早くから親密だったようだが、いつから交流が始まったかといえば、義光が京都に長期間滞在するようになった天正18年(1590)秋よりあと、特に侍従に任じられた天正19年正月以後だろう。だから、わずか2〜3年の間に、義光と紹巴は親しくなったわけだ。
 紹巴は本姓松井氏。奈良に生まれ、連歌の道にこころざして京都に出た。「これより苦しみ努めて、そのわざ妙にいたり、王侯士庶みな師と仰ぐ……その名天下にあまねし」(続近世畸人伝)という状況になったという。
 彼にかかわる有名な話として、明智光秀が本能寺に織田信長を襲う数日前(天正10年5月末)に、愛宕社で催した連歌会で、

  時は今あめが下しる五月かな     

という光秀の発句に、天下(あめがした)を奪おうという意思が秘められていたことを知りながら、さりげなく第三句を作ったという話がある。あとで秀吉からこの点をただされたそうだが、しかし、それでもって信を失うことはなかった。大坂、伏見、聚楽第に伺候し、さらに吉野の桜狩り、高野山での連歌会と、秀吉の側に侍することが少なくなかった。連歌師は、古典文学の研究者であり、連歌・短歌の実作者でもあったから、紹巴のみならず、里村家の人々はいずれも、京都を中心とする文学芸術の世界で幅広く活動していた。芸術文化に深く関心を寄せていた義光は、光彩に満ちた京都文芸界に、積極的に飛び込んだのであろう。素地は山形にいるとき相当程度は出来ていたのだろうが、妻子同伴で在京期間が長くなったことから、自然に京都文人との交流も密になったと思われる。
 さて、紹巴が義光と同座した連歌会は20回に及ぶ。
 紹巴は、豊臣秀次による謡曲注釈の事業ではリーダー格となり、聚楽第にしじゅう出入りしていた。義光もときどき伺候していたと見え、聚楽御殿で催したと考えられる連歌もある。紹巴が発句、義光が脇句を詠じた。

  写し絵の紅葉はちらぬ宮居かな  紹巴 
  牆(かき)ほの四方や風寒き音  義光 

 「御殿の襖や壁面に描かれた紅葉は、冬近くなっても散らずに宮居を飾っている。めでたいことよ」というのが発句。「御殿をめぐる高い土塀の外は、寒い風の音がしている」というのが脇句である。関白の住まいであるから「宮居」といってもおかしくない。これは文祿3年10月25日(太陽暦12月6日)開催の連歌である。
 文祿4年(1595)秀次は謀反の言い掛かりをつけられ、高野山に追いやられて自決させられる。家臣も、親しかった公家や大名も罪人とされた。義光は閉門、15歳の娘駒姫は処刑された。伊達政宗も譴責を受けた。
 紹巴も秀次の謀反謀議に加わったとされ、財産没収のうえ近江に追放された。およそ2年ほどは三井寺門前で侘び住まいを余儀なくされたが、こういう事態のなかでも、義光は恩師紹巴と音信を絶やさなかった。
 翌年の7月、義光は連歌に関する質問をまとめて紹巴に届け、教えを請うた。近江まで出向いて直接伝授を受けたこともあったようだ。紹巴のほうも、年末には義光の息子で十五歳の家親が文学好きだと聞いて、藤原定家の『詠歌大概』を自筆で書き写しプレゼントしている。紹巴と義光は、互いに深い信頼で結ばれていたのである。
 紹巴と義光の関係や業績については、連歌史研究の最高権威木藤才蔵博士の『連歌史論考』などに詳しい。
 紹巴が流謫を解かれて帰京したのは慶長2年(1597)の夏ごろであろう。8月7日の夕刻から、京都文人のトップクラスが集まり、紹巴を主賓とする連歌会が開かれた。場所は残念ながらわかっていない。
 呼びかけは興山寺の応其(おうご)。豊臣秀吉が尊敬した傑僧で、世に木食上人として知られている。同席者は細川幽斎、徳善院僧正前田玄以、准三后聖護院道澄、大納言日野輝資、新三位参議飛鳥井雅庸、山城守山中長俊、近衛家に仕えた文人北小路友益、これに紹巴の身内である昌叱、玄仍、景敏(後改名、昌琢)の3人が加わった。義光がこの華々しい席に招待されたのである。
 全巻すぐれた句の連続で、数多い桃山時代連歌のなかでも秀作であろう。義光の句は七句選び入れられたが、他に比していささかの遜色もない。それどころか内容の深さ情趣の豊かさは、他をしのぐ感さえある。時に紹巴74歳、義光は52歳であった。実作品は、『最上義光連歌集 第三集』をご覧いただくとして、ここでは略させていただく。義光と紹巴が一座した最後は、慶長5年(1600)の初夏である。日付はないが、おそらく5月上旬だろうと思われる。発句は紹巴。

  秋に散ることわりは憂き若葉かな

「明るい若葉も、秋には散るのが定め、それがもの悲しい」の意。義光は9句が選び入れられた。このときは、江口光清も堀喜吽も同席していない。
 実はこの一箇月ほど後の6月には、義光は家康の意を受けて、会津上杉討伐に向けて山形に帰らねばならないときであった。そしてこの連歌が、現在確かめられる義光連歌の最終作品ということになる。
 上杉の大軍を迎え撃ったいわゆる慶長出羽合戦(長谷堂合戦)で、光清も喜吽も戦死した。ともに連歌を楽しんだ側近2人の死に、義光はどんな感懐を抱いただろう。
 紹巴は、慶長7年(1602)4月12日に没した。慶長元年の文書に「七十三歳」と自記しているところから、年齢は79歳ということになる。
 57万石の大封を得た義光は、その後も上洛の機会は少なくなかったが、師を失い、気心知れた家臣両人を失っては、連歌を楽しむ心境には、もはやなれなかったのかもしれない。関ヶ原合戦以後、義光の連歌を見出すことはできない。
■■片桐繁雄著
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【本城満茂 (1)】


 本稿では、本城満茂に関わる考察を展開していく。本城満茂は、最上氏支族楯岡氏の出身で、義光の傘下に加わった後は最上勢の中核として各地を転戦し、特に仙北地方の係争において功績が大であった最上家家臣である。関ヶ原合戦後、最上家は庄内・由利地方を加増されたが、本城満茂は由利地方の統括者として同地に転封され、由利郡の統治並びに近隣大名の佐竹氏との折衝の窓口となった。由利郡に入封されるにあたって本城満茂は最上家最大である四万五千石の知行を配当されており、最上家中の重鎮としての機能を最上義光から期待されていた人物と捉えることができよう。なお、本城満茂は時期によって楯岡・湯沢・赤尾津と名字を変更しているが、本稿では原則的に「本城」で統一した。

 さて、本城満茂に関する先行研究は、前述した鮭延秀綱・志村光安に比べ蓄積が大きい。しかし、そのほとんどが関ヶ原後由利郡へ移封された後のもので、本城氏の家系に関する諸問題や本城氏が最上家家臣団へ組み込まれ、由利へと移るまでの動向はおざなりにされ、先行研究にも疑問点が多い。再検討を行うべき余地は大きいと言えるだろう。
 本城氏に関する研究に先鞭をつけたのが姉崎岩蔵氏である。姉崎氏はその著書『由利郡中世史考』(注1)で、古代から近世にかけての由利の歴史に関わる史料を収集、考察検討を加えたが、その収集作業のなかで本城氏の子孫と交流を持ち、残存していた古記録・系図・書状史料を見出し、世に出した。姫路酒井家の家臣本城氏が由利本城氏の後裔であることを決定付け、最上家統治時代の由利郡に関して本城城の築城時期を慶長十五(1610)年であるとし、新出の古地図を元に城下町の区画を検討した。また、楯岡氏と由利郡本城の地名についても触れ、楯岡氏の本姓が本城であり、これを在地名にした可能性を示唆している。

 姉崎氏以後、北国日本海沿岸地域の政治状況と中央政権・地方大名政権との関連を中心に据えた検討を押し進め、本城氏に関する問題を包摂したいくつかの優れた論証を発表したのが長谷川成一氏である。氏は『本荘市史』(注2)において、姉崎氏の行った考察の矛盾点を解消しつつ、元来由利郡に割拠していた国人衆がどのように最上氏領国へ組み込まれていったか、また移封された本城満茂が由利支配をどのように実行したかを検討し、由利本城氏に関する基礎研究に多大な成果をあげた。さらに、氏の論考で注目されるのが、幕藩体制成立期における出羽国の社会状況について考察した「慶長・元和期における出羽国の社会状況 ――山落・盗賊・悪党の横行と取り締まり――」(注3)である。慶長十四(1609)年に発生した越後「金鑿衆」(かねのみしゅう、金掘職人の意)が山落(やまおとし、山賊・盗賊の意)の手によって大量に殺害された事件をモデルケースにして、最上と佐竹の連携を示す書状史料を軸に、領主の司法警察権力と、山中に盤踞している武力小集団とのせめぎ合いを浮き彫りにしたこの論考は、本城氏の政略動向を検討しようとする本稿に大きな示唆を与えるものである。

 ただし、長谷川氏の論考はあくまで由利郡の支配を中心に据えたものであるから、本城氏が由利に入部する以前の動向や諸問題に関する検討は比較的手薄である。ゆえに、検討の余地があると思われる。
<続>

(注1)『由利郡中世史考』(姉崎岩蔵 矢島町公民館 1970)
(注2) 『本荘市史 通史編1』(本荘市 1987)
(注3) 『「東北」の成立と展開 : 近世・近現代の地域形成と社会』所収 (沼田哲 編 岩田書院 2002)


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