おさむ茶マイルーム

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実はワタクシも金髪時代ありましたよ、宴会時一瞬ですけどね。そんときの画像が、これですねん。
ベースのようなワイド顔、たるんだ頬(昔は小顔だったんですよ?)、正直カミングアウトしたくなかったんですけどね…w。



 最近ネットで話題になってる新インターネット症候群とやら…以下10項目に1つでも該当すれば、立派な新インターネット症候群患者ということになっちゃうらしい。
ワタクシがあてはまるのは�,鉢�、1日に何回かはmixiやブログ共にログインしちゃってますから、立派な症候群だよね?気をつけよお〜と。

�ー�閉型RSS強迫観念 
RSSで更新が告知されたWebサイトは、
チェックしないと気が済まないという症状。

��mixi中毒
「少しでも時間があればmixiにアクセス」
「他人の新着日記にはコメントを残さないと我慢できない」など。

��ブログ失調症
ブログ運営者がかかりがちな疾患の一つで
「目にするものすべてをネタにしなければ気が済まない」病気。

�し納�板型ストレス障害
水を得た魚のように、巨大掲示板に自己表現の場を求める。
行き過ぎるとあちこちの掲示板でたたかれることになるが、
たたかれているうちに、自己の守備力が向上する

�ゥ優�マ性同一性障害
メッセンジャーやチャット、掲示板、SNS、
ブログなどで男女双方のキャラクターを使い分け己の性別が不確かになる病気。

�Ε�ークション型慢性疲労
早朝でも深夜でも、ネットオークションで気になる商品を落札するのに余念がなく、
慢性的に疲労がたまる病気。

�Д優奪肇押璽犇�迫症
ゲームのことが気になって、勉強も食事も手に付かなくなる病気。

�┰于颪し榔�
何度だまされても学習できず、次のアタックをしてしまう不治の病。

��ダウンロード依存症
P2Pソフトなどを多用し回線速度をギリギリまで利用して
データをダウンロードすることに生きがいを見出す危険な病気。

��ネットショップ浪費癖
衣類、食物、家具、文房具、PCやパーツ類、
書籍やDVDなど、ありとあらゆるものをネット上で買ってしまう病気。




 ついに白いものが降ってきましたね、今日は1日ごろ寝です。正月のめでたいネタにちなんで、今日もめでたいネタを…皆さん"ひょっとこ"をご存知でしょうか?だれやねん、お前だろうって言ってるのは。

 我が家では縁起物として、ひょっとこお面を神棚に飾っております。 "ひょっとこ"は、目をむき口を突き出した、こっけいな表情をしておりますが、そのルーツを探っていくと意外な正体が…なんと、ひょっとこは「神様」だったのです!"ひょっとこ"は一体どんな神様なのか?
岩手県等に伝わる、"ひょっとこ"の面の由来話を読めと判ってきます。話せば長くなるので結論だけ…"ひょっとこ"は"火男"が転訛したもので、あの突き出した口は火に息を吹きかけるためのもの、つまり"ひょっとこ"はかまどの火を司る神様だったのです。

 今は火を点けるのも消すのもワンタッチですが、昔は一度消してしまうとなかなか点けられないもの、火種を絶やさぬこと、また、火勢をうまく操って煮炊きするのは重要なことでした。そんな大切な火が燃えている場所、暖かな食事を作るためのかまどに神が宿っていると考えられるようになったのだそうです。
 正月早々、またウンチク語ってしもうた、受け売りですけど…。


 「いじめ」は今にはじまったことではないが、昔は生徒間のいじめには生徒同士による解決策があった。「いじめられたから」といって「死」に逃避的な解決を求めるとはあまりにも短絡的でひ弱な行動ではあるまいか。
 ワタクシの少年時代は、生徒同士も教員たちも「鉄拳による制裁」が日常の学校での生活であった。育ち盛りの少年たちにとって「鉄拳教育によって」はじめて行動の善し悪しを教え込まれたようなところがある。それでいて登校を拒否するようなことはしなかった。

 教育とは4才児からでは遅すぎるのだ!家庭教育の重要さが求められるゆえんがそこにあるのだ。家庭教育には「教育」というよりは「躾の大切さ」が問われるものだ。3才児とは目に入れても痛くない程の可愛い盛りの子供だ。可愛いさの反面、子供には「反発心」が育ちつつあるのも同時期だ。そこで「躾の時期」を見過ごしては親にも児童にとっても将来まで禍根を引きずることになる。

 学校に入る前までの教育こそが親達による家庭での教育なのである。各々の理由はあるだろうが「家族全員が揃って食卓を囲む」ことが実行されている家庭から児童たちの大それた行動が生まれるわけがない。この大事な時期に的確な躾もしないで、学校に「子供の躾」を要求し責任を押しつけるのは人の親として恥ずべき行為ではないでしょうか?。

 また、文科省を頂点とする教育委員会の存在が問題であろう。教育者として功労はあったとしても、定年退職後のいわば名誉職に違いない。第一線を離脱した人物が現場を監督するのだから経験の有無は別としてもエネルギーの枯渇した名誉職はひたすら役人同様「事なかれ主義」に安住して、怖れるのは名誉に傷がつくことだけであろう。したがって、責任の追求を嫌い隠蔽体質をこよなく構築するのであろう。教育フォーラムのやらせは酷いが、教育界の体質を如実に物語るものとして国民は怒り狂うべきではないだろうか。



 某ネットサイトで拾った「幸福感」うまいこと言うよなw。

一日だけ幸せになりたかったら床屋に行け。
一週間だけ幸せでいたいなら結婚せよ。
一年だけ幸せに暮らしたいなら家を建てよ。
一生涯幸せでいたいなら正直な人間であれ。今年一年に感謝



 痛ましい自殺のニュース報道が毎日続いている。責任の所在を明らかにする事は勿論大切であるが、学校や地域として緊急に対応する事の方が重要であると思う。
 テレビ報道のあり方について連鎖を招いているとの指摘もあるが、単純にマスコミだけの問題として片付けられないと思うが、大人が責任のなすり合いをしているかのような報道はいかがなものかとも思う。かけがいの無い命を自ら絶つと言うのは本当に悲しい事であり、必ずや支えてくれる人がいるはずで、周りの人達はそれに気付かなければならないと強く思う。
 特効薬などとうてい考え付かないが、「いじめは犯罪」である事を子供も大人もしっかりと受け止めるべきであると感じているが…違うだろうか?。


 「団塊の世代」の団塊という言葉は私はあまり好きではない。一まとめにされ、商品に例えれば一山いくらで売られるような気がするからだ。でもそうした造語がすでに社会的市民権を得ているのだから仕方がないのか。

 ところで「団塊の世代」は一方で「食い逃げ世代」とか「嫌われ世代」などと世間では悪口を言われ、その一方で「お宝世代」などともてはやされている。
 前者の食い逃げ、嫌われ世代の意味は、年金はじめ医療や介護など、この年代まではある程度は法的に保障され、また60年代後半から70年代始めの学生運動に象徴されるように好き勝手に生き、高度経済成長の時流に乗ってきた連中じゃないか!の意味を多分に含んでいる。

 後者のお宝世代は、はっきり言ってお金、つまり退職金を指しているのである。預金がほしい銀行筋や消費を当て込む大手サービス業は我々を宝の山と扱ってくれているだけである。
 つまり団塊の世代とは「クソミソ」一緒にされる世代なので、これを自覚しないと大きなまちがいを犯すことになるのではないかと、同世代で酒を酌み交わしながら話をしてつくづくと感じた。

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 今日は久しぶりに予定なしで、雨降りも重なってゴロ寝サンデー。
こうなるとTV見てるしかありません。アンビリーバボーの再放送で、館林さんという女子高校生が自動車事故で受けた頚椎損傷という障害による絶望の日々から家族や友人との葛藤、そして介助犬アトムとの運命的な出会い、そしてアトムと共に学び歩んだ大学生活…そんなドキュメントでした。

 彼女と介助犬の関係は、「一方的に介助犬から何かしてもらうではなく、何をしてあげられるか」とインタビューで答えていたように、当事者でしか理解できない対人間以上の絆の強さを感じました。

 もし、自分が交通事故に遭って車椅子生活しかできなくなったら…「彼女と同じように立ち直ることができるだろうか?」「いくら家族の手助けがあっても、身の回りのことなどで負担をかけてしまう」という現実に耐えることができるのだろうか…と逡巡しました。

 でも、あのハンディを感じさせない頑張る姿は、ブラウン管を通してですが、生きるために必要な勇気メッセージそのものでした。日常の雑事に流されて、大きなことが見えなくなり小さなことに悩んでる自分…滑稽に見えて、足もとを見つめ直す意味でいい番組でした。



 日曜日、セミナー参加のため山形市へ。休日のせいか早く着きすぎたため、文翔館付近をしばし散策。日ごろ何気なく通り過ぎるだけでしたが、あらためて近くで見るとルネサンス様式を基調としたレンガ造りの威厳なたたずまいにただただ圧倒されるばかりでした。

 ネットで調べたら、文翔館は県庁舎と議事堂として大正5年6月に建てられ、昭和51年県庁移転まで行政&立法府として使用されたとか。昭和59年に国の重要文化財に指定された後、昭和61年から修理工事を始め、10年の歳月をかけて平成7年9月に完成したそうです。

 何でも不要になったものを切り捨てる時代、この大正の古き良き時代の薫りを保存した当時の県の判断には喝采をおくります。たまにはお役人もよいことやるじゃん。夜のライトアップした姿も、昼と違った表情をみせてくれて、県民ひとしく大事にしたい宝物の一つです。



人間っていくつになっても、毎日を無我夢中で走っていると思いませんか? 
20代の頃の自分と、今の自分を比較すること自体がおこがましいですが、気持的には「自分はまだ青春の中にいる」そんなモチベーションを持ち続けることが、前向きに生きていくために大事な要素なんじゃないでしょうか? 

先月、妻恋コンサートに何万人も集まったおやじ&おばんさん、同じ思いを共有してんだよね。
 これから自問自答しながらも、心の内にある情熱に火を灯し続けるように努力して行きたいと願うものです。
 それでは、わがバイブルとする「青春」の詩を、秋の夜長ジックリと噛みしめましょうか〜w。


「青春」 サムエル・ウルマン(宇野収・作山宗久訳)

青春とは人生のある期間ではなく
心の持ち方をいう。
バラの面差し、くれないの唇、しなやかな手足ではなく
たくましい意志、ゆたかな想像力、もえる情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の清新さをいう。

青春とは臆病さを退ける勇気
やすきにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する。
ときには、20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。
年を重ねただけで人は老いない。
理想を失うときはじめて老いる。
歳月は皮膚にしわを増すが、熱情を失えば心はしぼむ。
苦悩、恐怖、失望により気力は地にはい精神は芥(あくた)になる。

60歳であろうと16歳であろうと人の胸には
驚異にひかれる心、おさな児のような未知への探求心
人生への興味の歓喜がある。
君にも我にも見えざる駅逓が心にある。
人から神から美、希望、よろこび、勇気、力の
霊感を受ける限り君は若い。

霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ
悲嘆の氷にとざされるとき
20歳だろうと人は老いる。
頭を高く上げ希望の波をとらえるかぎり
80歳であろうと人は青春の中にいる。


 宮沢賢治好きですねえ、というより尊敬してます。有名な「雨ニモマケズ」の詩は、永遠の心の応援歌です。
雨ニモマケズ   風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ  丈夫ナカラダヲモチ
欲ハナク  決シテ怒ラズ  イツモシズカニワラッテイル
一日ニ玄米四合ト  味噌ト少シノ野菜ヲタベ   

 この詩を読んでると、一日四合の玄米を消化する胃腸の強靱さばかりでなく、私たちが現在失ってしまったものが何であるかを、強烈なメッセージとじゃないかと、思い知らされる。清貧、質素、奉仕、献身、慈悲心、愛など…。
 キツネやタヌキが語り、森の木や風が歌う童話を通して賢治が表現したかったのは、ただ自らの自然と宇宙に対する驚きと人間のちっぽけさを問いたかったのではないか。
賢治のような人間になれたらいいよね、少しでも近づきたいけど絶対無理、だから尊敬するんだろうね。

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 そう、あの宮沢賢治のものだ。先日、花巻の訪れた羅須地人協会(晩年の住んだ家)の伝言板に今でも書かれている。訪れる人に賢治さんの凛とした生き方を伝えてくれる黒板です。
 自宅は花巻空港の横にある花巻農業高校に移転されているので、「下ノ畑」は実際にはもっと離れたところにある土地なのですが、今もまだ賢治さんが清く理想を掲げ、田畑で汗を流しながら人々とともに生き続けているような思いが伝わってきます。

 昔は、ほかの家に訪問するとき、了承を取ってから伺うことは少なかったのではないかと思う。今のように、携帯電話や電子メールはもちろんのこと、電話もあまり普及していない当時では「こんにちわ〜」と突然お邪魔してもそれが不思議ではない。
 
 今は訪問する方があらかじめ連絡するのが現在のエチケットとなっている。
時間に無駄がなく過ごせるという意味では、便利な世の中だ。さしずめ現代で『仕事ニ出カケテ居リマス』と黒板に書いてあれば、「泥棒さん、お入りください」と言っているようなものだ。
 何かにつけ大らかに生きた昔のほうがいい時代じゃなかったか、との思いを強くする今日この頃である。


 最近のニュースに接するたび、ショッキングな事件ばかりで、世の中物騒になったものです。ゲーム感覚で殺人が行われ、人間が本来持っているはずの優しさとか思いやりはどこへ行ったのか、と嘆かざるをえません。
 ワタクシは団塊世代が育った昭和30年代は、貧しく不便ではありましたが、心の豊かさが今より数倍はあったように思います。夏ともなれば、井戸水で冷やしたスイカやトマトの美味しかったこと、道路で日が暮れるまで遊びまわったものです。

 その後日本は高度経済成長に入り、豊かで便利な生活を手に入れましたが、その反面大事なものを忘れてしまったような気がします。
団塊世代を捉えて「2007年問題」とマスコミが喧伝しておりますが、「生まれてから墓場まで」また競争をしいられるのでしょうか(笑)。もうゆっくりしたい気持ちもあるし、もう一働きして輝いてみたいといった未練がなくもない。はてどうしたらいいものか、実に悩ましい。


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「お前の汚れは、石鹸で落ちる。けど、石鹸で落ちない汚れってもんもある。人間、長くやってりゃあ、どうしたってそういう汚れはついてくる。」ドラマ「北の国から」で、五郎が純に言ったせりふじゃなかったかな。父としてそんな五郎に及びもつかないけど、最近こんな言葉がズシリと来るわけで…。それが悲しいわけで…本当に情けないわけで…。♪あ〜ああ〜あ〜、うう〜うううう〜…、こんな切ない気持ちなるのは、秋が近いせいでしょうか。

「疲れたら休め、彼らもそう遠くには行くまい」怠け者の私の座右の銘です。ある欧米の作家が言った言葉らしいですが、馬齢を重ねた今、彼らはずいぶん遠くに行ってしまい、その姿も見えなくなってしまったような気がしますw。
 
最近、自分の中で逡巡しているのが「生き方探し」。私には仕事も家庭も、それなりの人間関係もある。世間の範疇から見れば、「ごく平凡」のカテゴリーに当てはまるのかもしれないが、何かが物足りない。別に金持ちになりたいわけでもない、有名人を目指しているわけでもない。女性にもてたいわけでもない、どれもそこそこでいい。ただ、納得いく生き方をしたい。充実感がほしい。

 だったら、具体的に何を望んでいるのだ。即座に答えが思い浮かばない。天井を仰ぎながら目をつぶる、心の奥へ奥へと進むようなイメージを思い描く。1つフレーズが浮かんできた�犒譴�騒ぐ�瓠�
 
そう言えば、久しく、アドレナリンが沸き立つような状況には接していない。無意識のうちに拳に力が入り、身体が震えるような感覚。私はそれを求めているかも。闘争本能はかすかに残っているようだし、まだ男の生き様にこだわっている。だったら、心に身を任せるのもいいかもしれない。まずは自分の足で一歩前に出てみよう、すべてはそこから始まるはずだから…。