戦国観光やまがた情報局
直江兼続が天正18年(1590)、小田原征伐の折、富士山麓の社から曽我兄弟の木像を請い受け、越後直峯の城下に社を建て神達明神と名づけました。
後に米沢移封の際にこの社も移され、兼続没後は実家樋口家の屋敷神となり、7月16日の例大祭は町内あげての祭りで賑わいます。 ▼交通:JR米沢駅から車で約10分 ▼地図:Google Maps |
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今回からいよいよ幸村登場!で、その父昌幸は何だか非常にずる賢い人物に描かれていましたが、演じているのは「岩松了」さんです。役者でも数々の映画やドラマに出ています(「のだめ」のお父さんとか)が、脚本家としても有名な方です。何せ脚本の芥川賞と言われる「岸田國士戯曲賞」受賞者ですから。
実はこの方、今回の演出陣の中でも「奇才」として知られる高橋陽一郎Dの幻の名作「日曜日は終わらない」の脚本も担当。今回の出演はそのつながりでしょうか。 |
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天文16年(1547)〜天正15年(1587)
新発田城主・新発田尾張守長敦の弟。新発田家は兄長敦が家督を継いだため、五十公野家を相続し、五十公野源太と名乗るが後に治長と改名。 謙信の死後勃発した「御館の乱」では景勝に味方し、戦功をあげ武名を轟かせた。 天正7年(1597)兄長敦が病死すると、生家の新発田家を相続。名を重家と改名。 「御館の乱」後の論功行賞で、恩賞を不服として景勝を見限り、信長に通じて挙兵。信長の支援を受け、新潟・沼垂などを占領し戦線を拡大していった。 しかし、天正10年(1582)信長が本能寺で自刃すると、秀吉と家康の抗争に乗じて勢力伸張を画策した重家は、両者の停戦で孤立したところを景勝に攻められ、新発田城は落城。天正15年(1587)自害。享年41。 |
天地人ゆかりの新潟県・福島県・山形県の首都圏アンテナショップを巡って、
3県の温泉宿泊券や特産品が当たる「天地人スタンプラリーキャンペーン」を実施します! スタンプを全て集めると、抽選で各県の温泉宿泊券や特産品が合計69名に当たります。 さらにパンフレット(スタンプ台紙)には、各店舗で使える特典クーポン付きです! ぜひこの機会に、3県のアンテナショップに足をお運びください。 『新潟・福島・山形アンテナショップめぐり「天地人」スタンプラリーキャンペーン』 開催期間 平成21年8月1日(土)〜平成21年10月4日(日) 応募期間 平成21年8月1日(土)〜平成21年10月9日(金) キャンペーン終了いたしました。たくさんのご応募ありがとうございました。 スタンプ設置場所 山形県 おいしい山形プラザ(銀座) 福島県 福島県八重洲観光交流館(八重洲) 新潟県 表参道・新潟館ネスパス(表参道) ※詳細は下記パンフレットを参照ください。 (ダウンロード完了まで少し時間がかかります。) スタンプラリーパンフレット表面(PDF形式) スタンプラリーパンフレット裏面(PDF形式) ...もっと詳しく |
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天文3年(1534)〜天正10年(1582)
天下布武を目指した型破りな戦国武将として名高い。 尾張斯波氏の家老織田信秀の嫡男。18歳で家督を継ぐ。永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元を破ると天下統一に向けて勢力を拡大し、長篠の戦い(1575)で武田勝頼を破る。 その後上杉家家督争いの「御館の乱」に乗じて、上杉領である能登・加賀を攻略。天下統一まであと一歩に迫りながら天正10年(1582)6月2日、本能寺で家臣明智光秀に急襲され自害。享年49。 信長は合理主義に徹し、才能ある家臣は身分を問わず登用昇格させた、まさに能力主義者であった。 |
県立置賜文化ホールと米沢市上杉博物館の機能を併せ持った文化施設です。 ...もっと詳しく |
上杉神社の宝物館で大正12年(1923)に開館。平安時代から江戸時代までの各時代にわたる甲冑、刀剣、武具、絵画、仏書画、仏具、陶磁器、漆器、服飾、文書、墨跡など重要文化財131点、重要美術品を含む多数を収蔵・展示しています。収蔵品のほとんどは上杉謙信、景勝、鷹山、直江兼続の遺品などです。 �■祁鄲茖何緲貌�前後(展示替えのため) �E澣─�11/26〜翌年3月下旬) ※2月第2土曜日・日曜日の上杉雪灯篭まつり中は開館します。 ...もっと詳しく |
米沢藩祖である上杉謙信公を祀る神社。 ...もっと詳しく |
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享禄3年(1530)〜天正6年(1578)
越後守護代・長尾為景の末子として、春日山城に生まれた。幼少期を春日山城下の林泉寺にて学問を学んで過ごした。14歳で元服すると、越後国内の反乱鎮圧に活躍、家臣団の信望を集める。そのため、兄・長尾晴景と対立するも、越後守護・上杉定実の仲介で、晴景の養子となり、19歳で越後守護代長尾家の家督を継いだ。 定実には跡継ぎが無く、越後守護上杉家が断絶すると、将軍・足利義輝から越後国主の地位を認められた。また、助勢を求めてきた関東管領・上杉憲政を庇護し、のちに憲政から関東管領職と上杉家の家督を譲られた。 信濃方面では、村上義清らの救援要請を受けて、武田信玄と激戦を繰り広げ、この戦国史上に有名な川中島合戦は五度に及んだ。また、関東地方にもたびたび出陣し、北条家と戦った。のちには、北陸方面で織田軍とも戦い、これを打ち破っている。 天正6年(1578)春日山城内で倒れ、急死した。享年49。このため相続争い(御館の乱)が起こった。謙信の養子の二人が争い、上杉景勝が勝利を収めた。 尊骸は、越後、会津、米沢と、上杉家の転封とともに移され、現在は米沢市内の上杉家廟所に祀られている。 |
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弘治元年(1555)〜元和9年(1623)
坂戸城主・長尾政景の次男として生まれた。父・政景が死去すると、春日山城に移って叔父・上杉謙信の養子となった。天正6年(1578)謙信が急死すると、謙信のもう一人の養子・上杉景虎との間で相続争いが勃発。この御館の乱に勝利し、上杉家当主の座についた。 その後、豊臣秀吉に臣従、関係強化に努めた。のちに五大老の一人に列せられた。慶長3年(1598)、会津120万石に加増移封され、会津若松城主となった。 秀吉の死後、台頭してきた徳川家康と対立。家康は上杉征伐の軍勢を催し、下野国小山まで出陣したものの、上方で石田三成らが挙兵したことを知ると、軍勢を反転。腹心の直江兼続が追撃を主張したものの、景勝はこれを聞き入れなかった。 関ヶ原の戦いの後は、米沢30万石に削封され、米沢藩初代藩主となった。大坂冬の陣では、徳川方として参戦、先鋒として鴫野の戦いで勝利を収めた。元和9年(1623)、米沢城で死去。享年69。 |
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天文23年(1554)〜天正7年(1579)
小田原城主・北条氏康の七男。幼名・三郎氏秀。宿敵同士だった北条と上杉の同盟が結ばれたことで、上杉謙信の養子として春日山城へ迎えられる。謙信が名乗っていた景虎の名を与えられたほか、景勝の妹・華姫との結婚など一族として厚遇される。 天正6年(1578)謙信の死後、兄・北条氏政の援軍を受け、景勝と家督を争う(「御館の乱」)が、翌7年(1579)篭城した御館は景勝軍の猛攻を受け落城。小田原へ逃亡するが、途中立ち寄った鮫ヶ尾城で城主・堀江宗親の謀叛に遇い、3月24日自害。享年26。 景虎の子・道満丸は、3月17日、四ツ屋砦で前関東管領・上杉憲政と自害。わずか9歳であった。 |
当初は城内御堂の避難所として建てられたものですが、上杉景勝没後、米沢藩主代々の墓所となりました。 ...もっと詳しく |
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山本寺景長(さんぽんじかげなが):1550〜1582
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約450年前(天文5年)、鮭延典膳貞綱公(秀綱の父)の菩提寺として開かれました。
山門と山門の間に鉄道が走り、踏切があります。境内に踏切がある寺は、全国的にも珍しいものです。
▼交通:JR真室川駅から車で約7分
▼駐車場:有り(無料)自家用車可
▼拝観料:なし
▼所要時間:15分
▼所在地:真室川町大字新町22−13
▼問合せ:真室川町教育課 TEL 0233−62−2305