戦国観光やまがた情報局

 鮭延城址の近くには、鮭延氏の菩提寺である正源寺がります。山門は、高さ13m、間口9.7m、奥行6.1m、12脚の堂々たる桜門です。
 約450年前(天文5年)、鮭延典膳貞綱公(秀綱の父)の菩提寺として開かれました。
 山門と山門の間に鉄道が走り、踏切があります。境内に踏切がある寺は、全国的にも珍しいものです。

▼交通:JR真室川駅から車で約7分
▼駐車場:有り(無料)自家用車可
▼拝観料:なし
▼所要時間:15分
▼所在地:真室川町大字新町22−13
▼問合せ:真室川町教育課 TEL 0233−62−2305

米沢市西部、鬼面川西岸の高台に鎮座する神社。
古くから、置賜郡成島荘の鎮守として崇敬をあつめ、長井氏、伊達氏、上杉氏といった歴代領主によって、改築・修理が行われてきました。

伊達政宗は、八幡神社への信仰が篤かったらしく、米沢から岩出山へ移る際に、この成島八幡宮を分霊し、岩出山城内に祀りました。
後に、政宗は仙台開府にあたって、総鎮守として大崎八幡宮を創建し、大崎地方にあった大崎八幡宮と米沢から分霊してきた成島八幡宮を合祀しました。現在、大崎八幡宮社殿は国宝に指定されています。

直江兼続が天正18年(1590)、小田原征伐の折、富士山麓の社から曽我兄弟の木像を請い受け、越後直峯の城下に社を建て神達明神と名づけました。

後に米沢移封の際にこの社も移され、兼続没後は実家樋口家の屋敷神となり、7月16日の例大祭は町内あげての祭りで賑わいます。

▼交通:JR米沢駅から車で約10分
▼地図:Google Maps
今回からいよいよ幸村登場!で、その父昌幸は何だか非常にずる賢い人物に描かれていましたが、演じているのは「岩松了」さんです。役者でも数々の映画やドラマに出ています(「のだめ」のお父さんとか)が、脚本家としても有名な方です。何せ脚本の芥川賞と言われる「岸田國士戯曲賞」受賞者ですから。
実はこの方、今回の演出陣の中でも「奇才」として知られる高橋陽一郎Dの幻の名作「日曜日は終わらない」の脚本も担当。今回の出演はそのつながりでしょうか。

天文16年(1547)〜天正15年(1587)
 新発田城主・新発田尾張守長敦の弟。新発田家は兄長敦が家督を継いだため、五十公野家を相続し、五十公野源太と名乗るが後に治長と改名。
 謙信の死後勃発した「御館の乱」では景勝に味方し、戦功をあげ武名を轟かせた。
 天正7年(1597)兄長敦が病死すると、生家の新発田家を相続。名を重家と改名。
 「御館の乱」後の論功行賞で、恩賞を不服として景勝を見限り、信長に通じて挙兵。信長の支援を受け、新潟・沼垂などを占領し戦線を拡大していった。
 しかし、天正10年(1582)信長が本能寺で自刃すると、秀吉と家康の抗争に乗じて勢力伸張を画策した重家は、両者の停戦で孤立したところを景勝に攻められ、新発田城は落城。天正15年(1587)自害。享年41。
天地人ゆかりの新潟県・福島県・山形県の首都圏アンテナショップを巡って、
3県の温泉宿泊券や特産品が当たる「天地人スタンプラリーキャンペーン」を実施します!

スタンプを全て集めると、抽選で各県の温泉宿泊券や特産品が合計69名に当たります。
さらにパンフレット(スタンプ台紙)には、各店舗で使える特典クーポン付きです!
ぜひこの機会に、3県のアンテナショップに足をお運びください。

『新潟・福島・山形アンテナショップめぐり「天地人」スタンプラリーキャンペーン』
 開催期間 平成21年8月1日(土)〜平成21年10月4日(日)
 応募期間 平成21年8月1日(土)〜平成21年10月9日(金)

キャンペーン終了いたしました。たくさんのご応募ありがとうございました。
 
 スタンプ設置場所
    山形県 おいしい山形プラザ(銀座)
    福島県 福島県八重洲観光交流館(八重洲)
    新潟県 表参道・新潟館ネスパス(表参道)

 ※詳細は下記パンフレットを参照ください。
  (ダウンロード完了まで少し時間がかかります。)
    スタンプラリーパンフレット表面(PDF形式)
    スタンプラリーパンフレット裏面(PDF形式)
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天文3年(1534)〜天正10年(1582)
 天下布武を目指した型破りな戦国武将として名高い。
 尾張斯波氏の家老織田信秀の嫡男。18歳で家督を継ぐ。永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元を破ると天下統一に向けて勢力を拡大し、長篠の戦い(1575)で武田勝頼を破る。
 その後上杉家家督争いの「御館の乱」に乗じて、上杉領である能登・加賀を攻略。天下統一まであと一歩に迫りながら天正10年(1582)6月2日、本能寺で家臣明智光秀に急襲され自害。享年49。
 信長は合理主義に徹し、才能ある家臣は身分を問わず登用昇格させた、まさに能力主義者であった。

県立置賜文化ホールと米沢市上杉博物館の機能を併せ持った文化施設です。
博物館には上杉家の歴史がわかりやすく展示されており、常設展示室では、上杉の歴史と文化を中心とした城下町米沢の歴史が見られます。

織田信長が上杉謙信に贈った国宝「洛中洛外図屏風」や「上杉家文書」など上杉氏ゆかりの文化財を多数所蔵・展示しています。また肖像画や文書など直江兼続関連の資料も多数所蔵しています。

☆大河ドラマ「天地人」の放送期間中は、ここを会場に「天地人博2009」を開催しました。

▼交通:JR米沢駅から車で約10分
    東北中央自動車道米沢中央ICから車で約15分
▼駐車場:自家用車可 バスは隣接のおまつり広場駐車場利用(無料)
▼入場料:有り
▼入館時間:午前9時〜午後4時30分
▼所要時間:60分
▼問合せ:上杉文化振興財団(伝国の杜)(米沢市丸の内1−2−1 TEL0238−26−8001)

▼地図:Google Maps


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上杉神社の宝物館で大正12年(1923)に開館。平安時代から江戸時代までの各時代にわたる甲冑、刀剣、武具、絵画、仏書画、仏具、陶磁器、漆器、服飾、文書、墨跡など重要文化財131点、重要美術品を含む多数を収蔵・展示しています。収蔵品のほとんどは上杉謙信、景勝、鷹山、直江兼続の遺品などです。
ここでは直江兼続所用の「愛」の一字の甲冑も見られます。

設計者は米沢市出身の建築家・伊東忠太で、国の登録文化財になりました。

▼交通:JR米沢駅から車で約10分
    東北中央自動車道米沢中央ICから車で約15分
▼駐車場:隣接のおまつり広場駐車場利用(無料) 大型バス・自家用車可
▼拝観料:有り
▼入館時間:午前9時30分〜午後4時(最終入館:午後3時45分)
▼所要時間:20分
▼休館日:�。厳遒鮟�く第2水曜日

      �■祁鄲茖何緲貌�前後(展示替えのため)

      �E澣─�11/26〜翌年3月下旬)

       ※2月第2土曜日・日曜日の上杉雪灯篭まつり中は開館します。
▼問合せ:上杉神社社務所(米沢市丸の内1−4−13 TEL0238−22−3189)

▼地図:Google Maps


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米沢藩祖である上杉謙信公を祀る神社。
旧米沢城本丸の奥御殿跡に建てられています。

大正8年(1919)の大火で本殿は焼失。現在の本殿は大正12年(1923)、明治神宮や平安神宮の設計者として知られる米沢市出身の文化勲章受章者・伊東忠太により竣工されたものです。

上杉謙信の命日である4月29日(旧暦3月13日)に例大祭が行われ、5月3日までの期間は恒例の米沢上杉まつりが開催されます。

▼交通:JR米沢駅から車で約10分
    東北中央自動車道米沢中央ICから車で約15分
▼駐車場:隣接のおまつり広場駐車場利用(無料) 大型バス・自家用車可
▼拝観時間:開門 午前6時(4〜11月)、午前7時(12〜3月)閉門 午後5時
▼年中無休
▼拝観料:なし
▼所要時間:10分 トイレ利用可
▼案内:ボランティアガイドによる案内可(無料・予約制:米沢観光コンベンション協会 TEL0238−21−6226)
▼問合せ:上杉神社社務所(米沢市丸の内1−4−13 TEL0238−22−3189)

▼地図:Google Maps


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享禄3年(1530)〜天正6年(1578)
 越後守護代・長尾為景の末子として、春日山城に生まれた。幼少期を春日山城下の林泉寺にて学問を学んで過ごした。14歳で元服すると、越後国内の反乱鎮圧に活躍、家臣団の信望を集める。そのため、兄・長尾晴景と対立するも、越後守護・上杉定実の仲介で、晴景の養子となり、19歳で越後守護代長尾家の家督を継いだ。
 定実には跡継ぎが無く、越後守護上杉家が断絶すると、将軍・足利義輝から越後国主の地位を認められた。また、助勢を求めてきた関東管領・上杉憲政を庇護し、のちに憲政から関東管領職と上杉家の家督を譲られた。
 信濃方面では、村上義清らの救援要請を受けて、武田信玄と激戦を繰り広げ、この戦国史上に有名な川中島合戦は五度に及んだ。また、関東地方にもたびたび出陣し、北条家と戦った。のちには、北陸方面で織田軍とも戦い、これを打ち破っている。
 天正6年(1578)春日山城内で倒れ、急死した。享年49。このため相続争い(御館の乱)が起こった。謙信の養子の二人が争い、上杉景勝が勝利を収めた。
 尊骸は、越後、会津、米沢と、上杉家の転封とともに移され、現在は米沢市内の上杉家廟所に祀られている。
弘治元年(1555)〜元和9年(1623)
 坂戸城主・長尾政景の次男として生まれた。父・政景が死去すると、春日山城に移って叔父・上杉謙信の養子となった。天正6年(1578)謙信が急死すると、謙信のもう一人の養子・上杉景虎との間で相続争いが勃発。この御館の乱に勝利し、上杉家当主の座についた。
 その後、豊臣秀吉に臣従、関係強化に努めた。のちに五大老の一人に列せられた。慶長3年(1598)、会津120万石に加増移封され、会津若松城主となった。
 秀吉の死後、台頭してきた徳川家康と対立。家康は上杉征伐の軍勢を催し、下野国小山まで出陣したものの、上方で石田三成らが挙兵したことを知ると、軍勢を反転。腹心の直江兼続が追撃を主張したものの、景勝はこれを聞き入れなかった。
 関ヶ原の戦いの後は、米沢30万石に削封され、米沢藩初代藩主となった。大坂冬の陣では、徳川方として参戦、先鋒として鴫野の戦いで勝利を収めた。元和9年(1623)、米沢城で死去。享年69。
天文23年(1554)〜天正7年(1579)
 小田原城主・北条氏康の七男。幼名・三郎氏秀。宿敵同士だった北条と上杉の同盟が結ばれたことで、上杉謙信の養子として春日山城へ迎えられる。謙信が名乗っていた景虎の名を与えられたほか、景勝の妹・華姫との結婚など一族として厚遇される。
 天正6年(1578)謙信の死後、兄・北条氏政の援軍を受け、景勝と家督を争う(「御館の乱」)が、翌7年(1579)篭城した御館は景勝軍の猛攻を受け落城。小田原へ逃亡するが、途中立ち寄った鮫ヶ尾城で城主・堀江宗親の謀叛に遇い、3月24日自害。享年26。
 景虎の子・道満丸は、3月17日、四ツ屋砦で前関東管領・上杉憲政と自害。わずか9歳であった。

当初は城内御堂の避難所として建てられたものですが、上杉景勝没後、米沢藩主代々の墓所となりました。

米沢城解体後の明治9年(1876)、藩祖上杉謙信の墓所を城内御堂より移し、参道正面奥に一間社流造の社殿を造営し祀りました。

御廟所の配列は、中央正面に謙信があり、その向かって左に2代景勝、4代綱勝、6代吉憲、8代宗房、10代治憲、12代斉定の祠堂が並び、中央より向かって右に、3代定勝、5代綱憲、7代宗憲、9代重定、11代治広の祠堂があります。

歴代藩主の廟所が置かれているのは珍しく、昭和59年(1984)国指定史跡となりました。

▼交通:JR米沢駅から車で約10分
    東北中央自動車道米沢中央ICから車で約15分
▼駐車場:有り(無料) 大型バス・自家用車可
▼拝観料:有り
▼拝観時間:午前9時〜午後5時
▼所要時間:30分
▼休館日:年中無休
▼トイレ利用可
▼案内:ボランティアガイドによる案内可(廟所敷地内無料・予約制)
▼問合せ:上杉家廟所(米沢市御廟1−5−30 TEL0238−23−3115)

▼地図:Google Maps


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山本寺景長(さんぽんじかげなが):1550〜1582
  一門衆。不動山城主山本寺定長の弟。天正6年の御館の乱で、定長は上杉景虎に味方したため景勝軍に敗れた。弟景長は上杉景勝に味方し活躍した。
  天正8年(1580)景長は兄定長のあと、山本寺家を継ぎ不動山城主となった。
  天正10年(1582)織田信長の攻撃を受けて魚津城は落城し、景長は竹俣慶綱、吉江宗信、吉江信景、安部政吉らとともに自刃した。


直江信綱(なおえのぶつな):?〜1581
  譜代・旗本衆。上野国総社長尾顕景の子。与板城主直江景綱の娘お船の方の婿となる。上杉景勝の奉行職。
  天正9年(1581)春日山城中で、御館の乱の論功行賞のもつれから、毛利秀広が山崎秀仙を斬殺。秀仙と一緒にいた信綱はとっさの出来事に驚き、秀広に斬りかかったが、逆に斬殺されてしまった。


泉沢久秀(いずみさわひさひで):?〜1615
  上田衆。上杉景勝の直臣。慶長3年(1598)景勝の会津移封に伴い、荒砥城1万1千石の城代となった。
  慶長6年(1601)米沢移封により2千8百石を知行した。元和元年(1615)死去。嗣子が無く泉沢家は断絶。


甘粕景継(あまかすかげつぐ):?〜1611
  上杉景勝の景の一字を賜わり、名を備後守景継と改める。
  文禄2年(1593)庄内酒田城主となった。慶長3年(1598)景勝の会津移封に伴い、2万石の白石城主となる。慶長16年(1611)死去。墓は米沢市林泉寺にある。


鉄 景信(くろがねかげのぶ):?〜1597
  もと上田坂戸城主長尾政景の家臣。政景死後、上田衆を掌握して領内を治め、景勝が謙信の養子となると側近として春日山城へ移り、謙信に従属、戦功を挙げた。
謙信死後は景勝の直臣となり、上田衆を率いて五十騎組の精鋭を作り上げた。


河田長親(かわだながちか):1545〜1581
  上杉謙信の重臣。永禄12年魚津城主となり越中守将を統括した。天正9年(1581)4月8日、魚津城で死去。


吉江宗信(よしえむねのぶ):1505〜1582
  譜代衆。謙信、景勝二代に仕える上杉家重臣。蒲原郡吉江城主。景勝時代には老齢となり留守城在番となる。
  天正9年(1581)河田長親病死により越中魚津城在番となるが、翌天正10年(1582)、信長軍に包囲され越中魚津城で自刃した。


吉江景資(よしえかげすけ):1527〜1582
  譜代、旗本衆。吉江城主で謙信の旗本として春日山城の留守を預かった。
  天正6年(1578)の御館の乱では上杉景勝方として軍功をたてる。
  天正9年(1581)から越中魚津城守備に付くが、翌10年、信長の攻撃を受け、父宗信と共に自刃した。


菅名綱輔(すがなつなすけ):?〜1582
  越後国衆。菅名但馬守。上杉謙信・景勝に仕える。御館の乱では、景虎方の拠点となった加茂城を攻め落とした。
  のち新発田重家の乱でも奮戦したが、放生橋の戦いで討死した。


本庄繁長(ほんじょうしげなが):1539〜1613
  揚北衆。元服と同時に家督を相続し本庄城主となる。
永禄11年(1568)信玄の調略に応じた繁長は上杉氏から独立を目論むが、謙信の猛攻を受け、嫡子千代丸(後の顕長)を人質に降伏。
  御館の乱、新発田攻め、最上攻めで活躍するも恩賞はなかった。
  慶長3年には1万1千石の福島城主に任ぜられる。家康との和睦交渉をまかされ、上杉家は改易を免れた。
  慶長18年(1613)死去。享年75.嫡男顕長が先立って死去しているため、家督は次男義勝が充長と改名し相続した。


中条景泰(ちゅうじょうかげやす):1558〜1582
  吉江景資の次子。謙信より一字を賜わり景泰と名乗る。天正2年中条家を相続し鳥坂城主となった。天正10年越中魚津城で自刃。享年25。


水原親憲(すいばらちかのり):1546〜1616
  大関阿波守親信の子、弥七郎。謙信・景勝に仕え水原家を相続。慶長3年、5千5百石で亀ヶ城主(猪苗代城)となった。
  最上攻めでは兼続の本隊に属し畑谷城、長谷堂城を包囲。上杉軍の撤退に際し殿軍を務め活躍した。
  慶長6年には会津三奉行に任ぜられる。慶長19年の大坂冬の陣にも鉄砲隊を率いて参陣。元和2年(1616)死去。享年71。


竹俣利綱(たけのまたとしつな):?〜1614
  揚北衆。竹俣城主竹俣慶綱の嗣子がなかったため、長尾景人が竹俣城主を相続し、利綱と改名した。
  会津移封に伴い守山城主となり、米沢城に移り慶長18年死去。


市川房綱(いちかわふさつな)?〜1657
  竹俣利綱の遺領を相続した房綱は、慶長19年の大坂冬の陣と元和元年大坂夏の陣に出陣。寛永9年(1632)江戸家老になった。寛永12年には米沢藩の奉行も務め2千石を知行した。明暦3年(1657)死去。


下条忠親(げじょうただちか):?〜1617
  河田長親の次男。慶長3年景勝の会津移封に従って二本松城主となる。慶長6年米沢移封に同行。慶長13年鮎貝城主となり慶長19年の大坂冬の陣に参陣。元和3年(1617)死去。


新発田長敦(しばたながあつ):1538〜1580
  新発田綱貞の嫡男、源次郎。新発田城主。新発田重家は弟。謙信・景勝に仕える。
  御館の乱では景勝を支持し、揚北衆の取りまとめと景虎与党の鎮圧に活躍した。天正8年(1580)病死。


色部顕長(いろべあきなが):?〜1587
  色部勝長の嫡男、弥三郎。平林城主。天正4年家督を弟長真(長実)に譲り隠居。天正15年死去。


色部光長(いろべみつなが):?
  色部長真(長実)が死去すると、幼少の光長が家督を相続。直江兼続の妹(樋口兼豊の二女)を妻に迎える。慶長3年1万石の金山城主となる。慶長6年米沢城下に移り3千3百石を知行。大坂冬の陣にも参戦。


甘糟長重(あまかすながしげ):?〜1604
  謙信・景勝に仕える。景勝の命で三条城主となり、天正14年新発田攻めに参陣。景勝に従い慶長3年会津、慶長6年米沢へ移る。慶長9年死去。
  墓は米沢市栄松寺にある。


千坂景親(ちさかかげちか)1536〜1606
  千坂氏は上杉家直臣で、文禄4年伏見普請総奉行を務め、慶長3年会津移封で5千5百石を知行。慶長8年江戸家老を務め、慶長11年死去。


斉藤朝信(さいとうとものぶ):?〜1591
  赤田城主。謙信・景勝に仕える。天正6年御館の乱で軍功をたてた。天正9年(1581)越中魚津城に入ったが、翌10年には信濃海津城に移った。天正19年死去。


志駄義秀(しだよしひで):1560〜1632
  義秀は直江兼続家臣団の与板衆として活躍。慶長3年会津移封に従い酒田城主となった。慶長6年には荒砥城主となり、1千石を知行した。元和8年(1622)米沢城で奉行職となる。寛永9年(1632)死去。墓は米沢市善光寺にある。享年73。


本村親盛(ほむらちかもり):?〜1600
  最上義光攻めの第二弾として上山城を攻めたが、途中、物見山山麓において最上方の奇襲を受け、大敗を喫した。自身も深田にはまって苦戦し、討死した。
     関連史跡:大将塚(埋葬地/上山市)


横田旨俊(よこたむねとし)?〜?
  旧蘆名家臣。主家没落後、越後にきて上杉家に仕えた。会津移封にあたって、対最上の最前線となる中山城主となる。慶長出羽合戦の際は、第二陣として上山城攻略に向かうが、本村隊の敗北を受けて退却した。戦後も中山城主として対最上の防衛に任にあたった。
     関連史跡:中山城址(上山市)


倉賀野綱元(くらかのつなもと):?〜?
  小滝城主。慶長出羽合戦では、別働隊約8百を率いて進軍し、狸森楯(上山市)を攻略、長谷堂城を取り囲む本隊と合流した。


安部綱吉(あべつなよし):1569〜1646
  菅原内膳の子、右馬助。父は越後安部荘を領していたが、本庄繁長と戦い討死した。そのため各地を渡り歩き、出羽国北条郷の宮内に落ち着いたという。
  慶長出羽合戦では、倉賀野綱元の配下として参陣し、長谷堂城の戦いで武功を挙げた。その後、北条郷の代官となり、宮内の町割りや新田開発、治水事業に尽力した。また金山奉行として金山の経営も任された。
     関連史跡:熊野大社・安部右馬助の顕彰碑(南陽市)、綱正寺(墓/南陽市)


溝口勝路(みぞぐちかつはる):?〜1600
  左馬助。慶長出羽合戦では軍奉行を務めた。撤退に際しては水原親憲とともに殿軍として鉄砲隊を指揮、親憲は富神山東麓、左馬助は柏倉中林山に布陣し、追撃に出た最上軍と激戦を展開した。勝路はこの戦いで重傷を負い、夜営した長岡楯にて息を引き取った。
     関連史跡:長岡楯跡(山形市)


鉄 泰忠(くろがねやすただ):1564〜1635
  島倉泰明の子。鉄景信の養子となる。孫左衛門、上野介。会津神指城築城の総奉行を努めた。慶長出羽合戦では、第一陣として参加。大坂冬の陣では軍奉行として武功を挙げ、徳川秀忠かた感状を受けた。江戸城の石垣普請や堀普請の総監も務めた。
     関連史跡:神指城址(会津若松市)


下 吉忠(しもよしただ):?〜1614
  父・秀忠は北条氏の家臣で、小田原征伐の際に戦死。その後、吉忠は上杉家に仕えて頭角を現し、出羽庄内の尾浦城主となった。慶長出羽合戦では、別働隊を率いて庄内から最上領に侵攻したが、直江兼続率いる上杉軍本隊の退却を知らされず、谷地城に孤立し、最上義光に降った。その後、最上軍の庄内攻略戦に先陣として参加、引き続き尾浦城主に任じられた。
     関連史跡:尾浦城址(鶴岡市)


伊東豊後守(いとうぶんごのかみ):?〜1600
  九州日向国の領主だった伊東家の一族である。島津家と協力関係にあったため、1587(天正15)年、豊臣秀吉による九州平定によって所領を失ったが、その後蒲生氏郷に仕えて中津川の岩倉館に入った。氏郷の死後は上杉家に仕え、豊後守・日向守親子が18名の家臣を率いて最上の陣に参戦するも、豊後を含む18名が八ヶ沼の戦いで戦死。家臣の山川儀助と日向守の二人だけが帰還できた。