供養塔
川樋諏訪神社の拝殿に向って右側に供養塔が建立されています。 正面に「南無観世音菩薩」と陰刻され、右側面に「延享三丙寅(1746)八月十八日」、左側面に「講人衆廿六人」と刻まれています。 今野竹蔵氏によれば 「神社裏にあった鉱山の事故で亡くなった人々を供養したものであろうか。」 と推測しています。 大洞金山は寛永十九年(1642)に廃抗となりましたが、寛政四年(1792)の「樹蓄建議」に川樋村の鉱山について、 「川樋村の内、千枚、二十枚、北ノ沢、山居沢、処沢、各金山也」 と記されていますので、場所を変え鉱山は続いていたことを示しています。 (この頃は川樋村の中に新田も入っています) 諏訪神社の西側にある鉱山は、戦前まで掘られていて、残土で社殿前を平らにしました。 廃抗後、鉱山跡地は川樋の子供達にとって水晶取りのメッカとなりました。 左側面に「講人衆」と刻まれていることから、観音講※の石碑とも考えられます。 ※観音講は定例の集りをもち御詠歌を奉詠する講で、札所観音巡りを行うこともあります。 延享の時代ですと岩部山三十三観音はありませんが、置賜三十三所や最上三十三所巡りが行われていました。 参考:今野竹蔵著「北条郷鉱山史話」・南陽市史 民俗編
2020.07.16