朝のウロコ雲がキレイです。
毎週、公民館の掃除をしてくれている大山さんです。
暑いのにいつもありがとうございます!大山さんのおかげで公民館はいつもキレイな状態に保たれています。
天気が良いのは今日までの予報です。明日からは当分スッキリしない天気が続きそうです。
大物洗いは今日のうちに済ませたほうが良さそうですね!
小岩沢字静御前にあるお堂の参道に「巳待塔」(みまちとう)が建てられています。
碑の右側に寛政三辛亥(1791)と陰刻されています。
左側に「講中」と刻まれていることから、巳待講の講中によって造られた巳待供養塔です。
巳待講は日待講の一つで、以前紹介した川樋の金華山講も巳の日に行う巳待講です。
「梨郷村史」には「春・秋二回巳の日に講中の男衆が宿に集まり、蛇の掛図をかけ、灯明・だんごを供えて拝みあげ、終って一献酌みかわしたという。」と講の様子が記載されています。
養蚕が盛んな地域では蚕を食べる鼠避けとして、巳(蛇)が信仰の対象になりました。
中川地区には巳待塔が一基、金華山塔が四基建立されており、隣の中山地区には高さ3メートルを越える大きな巳待塔が建立されています。
(画像3・4枚目 中山白髭神社の西側)
参考:梨郷村史
小岩沢地区には「静御前」とい珍しい字名があります。
吉田橋があるところです。
静御前は源平合戦で活躍した源義経の愛妾です。
文治元年(1185)義経は兄の頼朝に無断で、後白河法皇より任官されたことから追討を受け、弁慶ら従者と共に日本海北陸路から奥州平泉に逃げたとされています。
伝説では
義経の子を身ごもった静が義経の後を追いこの地まで来たが、急に産気づき旅の疲れもあり倒れてしまう。
そして子を産み落としたが、生まれた男の子は死産であった。
近くの鏡池で亡き我が子に産湯を使い、お寺に埋葬し、再び義経を追って旅立ったという。
静がこの地を去った後、夜になると赤ん坊の泣き声が聞こえるようになった。
村人は供養のため地蔵様を祀り、今も夜泣きを治してくれる地蔵様として信仰されている。
村人は静御前をあわれんで、地名を「静御前」と名付けたという。
参考:南陽市史 民俗編