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宿駅制度

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宿駅制度とは、街道沿いに宿場を設置し、荷物を継立て(バケツリレー方式)次の宿で送る輸送制度です。

宿場には輸送に必要な人馬を常設し、この費用は宿場の負担になります。

(馬代一疋二両の貸付金は4ヶ年年賦で取り立てられます。)

 

そのかわり、公用の仕事がない時には、お金を取って一般(商人荷)の仕事を受けることを許可され、下りが米、上りは塩、綿、海産物等が運ばれました。

 

しかし最上領への街道は米沢街道だけではありません。

公用の物資運搬がない他の街道と対立することになります。

 

画像は街道沿いに建立された石造物です。

1枚目は小岩沢のお地蔵様、2・3枚目は大洞道近くにある道六神様です。

2021.06.08:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

米沢街道8

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鶴城叢書(かくじょうそうしょ)によると、米沢藩では在々の宿場に馬代一疋につき二両あるいは二両二分を貸し付けていたが、中山二十疋・川樋十五疋・小岩沢十四疋・赤湯二十三疋・大橋十五疋・糠野目三十疋とあります。

羽州街道の本駅は駅毎にニ五人二五疋の人馬が常備していることを考えると米沢街道の重要性がうかがえます。

 

江戸後期の文政十年(1827)の村目録によれば、馬の保有数は

 中 山(元中山・釜渡戸含む)82疋

 小岩沢 29疋

 川 樋 52疋

 新 田  3疋 と多くの馬を保有していました。

 

北条郷(現南陽市一帯)で最も多く保有していたのが中山村で、次が上荻村の73疋、金山村の71疋、小滝村の63疋です。

主要街道が村の中を通り、多くの山林を所有している共通点があります。

新田村が少ないのは、山も持っていないこと(五十匁山は昭和になってから所有)と宿駅がなかったことが理由として考えられます。

 

ちなみにこの当時、中川で牛の保有は中山村で2疋いるだけです。

 

参考:南陽市史、赤湯町史

 

画像1・2枚目は小岩沢地区にある馬頭観世音です。

「馬頭観世音」の書体が川樋上の馬頭観世音(画像3枚目)と酷似し、どちらも天保十三(1842)と刻まれていることから、川樋松林寺住職の金毛和尚による書と推測します。

 

2021.06.04:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

米沢街道7

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大地蔵を過ぎ、村境のお地蔵様から新田に入ります。

新田は「川樋村之内新田」とも呼ばれていて、名が示しているように新開地です。

 

新田には新田桜壇に一里塚がありましたが、どこなのか分かりません。

ご存じの方はぜひ教えてください。

 

江戸時代の街道は鳥上地蔵の前を通っていました。(画像1枚目)

明治13年に新道が出来て、昭和9年の冷害の救済事業で鳥上坂の切り下げ改修工事が行われました。(画像2枚目)

「國道五號線 鳥上坂 昭和十年七月竣工」と浮き出しの銅板が岩にはめ込まれています。(画像3枚目)

昭和27年に国道13号となり、現在の鳥上坂は昭和38年に完成しました。

 

参考:山形県歴史の道調査報告書

2021.06.03:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

米沢街道6

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小岩沢を過ぎると前川の「御仲橋」※1を渡り川樋に入ります。

 

川樋村は「邑鑑」によると家数101軒、人数は522人※2となっています。

また、享保絵図には、「山伏」※3と出てくる寺院、諏訪神社の西の小高い山の上にある古館※4、川樋と新田の境の「どどめきの石地蔵」などが記されています。

川樋から新田に通じる本道とは別に、東の山際を通る道ができ「大洞番所」がありました。この道も鳥上坂の北で本道と合流し鳥上坂にかかることになります。

 

参考:南陽市史

 

※1 以前は中ノ橋と呼んでいました。昭和59年の橋掛け替えの際に、なぜか「朝日橋」と橋名板がつけられていました。理由は不明です。

※2 新田村が分村する前なので、新田を含む数字です。

※3 現在の荒鈑さんの寮のところにあった「ホーエンサマ」のことで。今はありません。

※4 虚空蔵山館(伊達時代の山城)

 

画像は中ノ橋付近の道路、川樋の街並み、どどめきの石地蔵です。(以前撮影した画像です。)

2021.06.02:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

米沢街道5

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境口番所の中山から揚橋を渡り、新開萱野・金神林を抜け岩部山の山際を通ると小岩沢です。

 

慶長(1596~1615)の頃のものといわれる「邑鑑」には、小立沢となっており、家数22軒・人数122人となっています。

紅花を作っていたこと、漆木が少しありましたが、桑木はまだありませんでした。

(文禄三年(1594)高目録には小湯沢となっている。)

 

100年後の享保絵図には約40戸の人家が描かれています。

 

参考:山形県歴史の道調査報告書

 

江戸時代は元中山地区と釜渡戸地区は中山村に入っていました。

「邑鑑」によれば中山村は、家数72軒・人数434人となっています。

なお、邑鑑の写本には家数の場合、「 一 七拾弐間 」と草書で書かれています。

 

画像1枚目は静御前のお地蔵様、2枚目は小岩沢の街並み、3枚目は街道跡です。

小岩沢から川樋への米沢街道は山形新幹線工事の際に、中ノ倉踏切が閉鎖され、通る人もおらず藪になってしまいました。

2021.06.01:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]