最上義光プロジェクト
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◇最上家家臣団(あ行)
小国親元(おぐにちかもと)
生年不明~没年不明 倉津守俊 の二男。 小国光基 の弟。5百石を領す。妻は山野辺城主・日野薩摩守の娘という。兄・光基の館の西側に住んでいたことから、一族家来に西殿と呼ばれ、西監物と称した。
2017.07.30
小国大膳(おぐにだいぜん)
生年不明~寛永元年(1624) 小国光基 の子。大膳亮。名は親景か。父・光基に 最上義光 の妹が嫁いだとの話があり、義光の甥である可能性もある。倉津(蔵増)城主を務めたと伝わる。慶長出羽合戦では、 谷地森伯耆守 、 川熊壱岐守 らとともに長谷堂城に援軍として入ったという。最上家改易により、父・光基、子・源三郎とともに佐賀藩鍋島家に預けられた。
2017.07.29
小国光基(おぐにあきもと)
生年不明~寛永八年(1631) 倉津守俊 の子。 最上義光 から小国郷を賜り、小国氏を称した。小国城(最上町本城)8千石の城主。日向守を称す。名は光忠、親信とも。義光の妹婿との説もある。鉄砲に関心を持ち、鉄砲鍛冶を呼び寄せ「日向筒」という鉄砲を製造したほか、三間鑓である「日向鑓」を導入するなど、非常に才能豊かな人物であった。また、領内の産業振興にも努め、優れた民政家でもあった。
2017.07.28
小野寺道元(おのでらみちもと)
永禄三年(1560)~寛永九年(1632) 刑部を称す。上州厩橋の生まれ。北条家、武田家、真田家、上杉家を渡り歩き、数々の戦功があった。慶長出羽合戦ののちに最上家に仕え、鉄砲奉行を務めた。最上家改易に際し、最上家中から武勇の士として選ばれた七人のうちの一人といい、最後は徳川忠長に仕えた。
2017.07.24
安部越中守(あべえっちゅうのかみ)
生年不明~元和元年(1615)? 亀ケ崎(酒田)城主の 志村光惟 が、慶長十九年(1614)に起きた 一栗兵部 の乱で死去すると、 斎藤筑後守 、 高橋伊賀守 とともに亀ケ崎城代・川北三奉行の一人として庄内川北地域を治めた。奉行となって間もなく死去したと思われ、 寺内近江守 が後任となった。
2017.07.19
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