沢木耕太郎:著(新潮社 2002年11月)
映画と読書とスポーツ観戦という三つが、これが著者には人生を彩る大きな喜びであるわけで、これらに関するコラム集。
その三つのものを味わう場所として、本のタイトルになっている場所にいれば人生はわるくない、というわけだ。
「冬のサーカス」(第18回冬季オリンピック)というコラムがある。
これは、長野オリンピックの観戦記。
その最初の文は「開会式の敵は天候ではなかった」というもので、じつは、これをテレビで観ていた私もぼんやりと同じようなことを感じていたので、なるほどと思ったのだ。
それは、オリンピック開会式という華やかで晴れやかな場が、じつに静寂に包まれた不思議なものであったからだ。
その2年前に開催された、夏のオリンピックの「アトランタ大会」の開会式が過剰とも思えるド派手で、とても長い時間であった、ということも文章を読んで思い起こした。
じつは、長野大会の開会式を演出することになっていた人が、それを見て過剰過ぎると感じたのは、納得がいくことであった。
そして、長野。
木の柱を用い、じつにシンプルな構成でだなぁと感じ、それから入場行進と進んだのだけれど、そこで会場が実に静かだなぁと、それがテレビを見ていての印象だった。
たぶん、そうとうな寒さゆえ、観客は手袋をしていて拍手の音が聴こえないのではないのかな、というのがその時私が思ったことだ。結局、大盛り上がりすることもなく淡々とセレモニーは終了した。
テレビでは、アナウンサーや解説者の話、テロップが流れたりということであったはずだから、それなりに盛り上げ効果はあったのだろう。
実際に、この会場にいた筆者は、そうとうな違和感があったのだろう。最も盛り上がる場面で、あまりの静寂。やはり手袋のせいだろうと思ったようだが、よく見るとそうでもなく、観客が実にさめていたというのだ。
地域というか日本人の気質にかかわるとか、演出上の拙さがあったのかということも挙げているけれど、本質的なところで、世界に向けて発信された「日本的なもの」に観客が欺瞞を感じとったのではないかと分析している。
長野オリンピックから少し時間を経てこの文にであい、そうかそうかと腑に落ちたような気がした。
