ただいま開催中の開館25周年記念特別展「上杉謙信と川中島合戦」〈後期〉から展示紹介をいたします。
展示紹介①
長尾政景とその妻仙洞院(謙信実姉)夫妻の肖像画。 中央に来迎図、その左右に夫妻の位牌を配しています。仙洞院の位牌の戒名が後筆である点と、位牌周辺に書かれた戒名が仙洞院の縁者である点から、彼女が政景の菩提を弔うために作成したと考えられています。
展示紹介②
天文24年(1555)年の戦いに関する文書は、武田信玄 の感状13通が知られています。7月19日に謙信と信玄は交戦しますが、この日以外の戦いは史料上で確認できません。この年の対陣は200日間に及びますが、実際に両者が戦ったのはこの1日だけだったと見られます。
展示紹介③
武田信玄直筆の書状で、家臣の長坂・日向両人に北信濃の状況報告を命じています。当時、上杉方の信濃国衆・島津氏は信玄勢と交戦する状況にありました。信玄は、家臣を通じて戦地となった鬼無里・鳥屋の道路状況等について、綿密な情報収集に努めていました。
展示紹介④
永禄2年(1559)に2度目の上洛を果たした謙信に、信濃国衆が祝儀の太刀を献上しました。多くの信濃国衆が太刀を献上していますが、なかには信玄方に与する者も存在します。一族の存続をかけて、両者と繋がりを保持しようとする信濃国衆のしたたかな姿が窺えます。
展示紹介⑤
川中島合戦の中で一番の激戦となった永禄の4年(1561)の戦いの後、信玄は謙信の信濃不在の隙を狙って北信濃に着々と自身の基盤を築いていきました。なかでも、本資料の長沼(長野市)は信玄勢の前線基地として機能し、この後の戦いの要地となりました。
展示紹介⑥
永禄12年(1569)7月下旬頃、謙信と信玄は織田信長を介して一旦和睦したと考えられていますが、信越国境地域は防備を緩めませんでした。本資料に記載の飯山(長野県飯山市)・市川(同栄村)・野尻新地(同信濃町)は、上杉側の国境地帯として防備されたことが窺えます。
展示紹介⑦
上杉謙信 が春日山城の看経所に奉納した願文。謙信の分国を列挙する1箇条目の中には、信濃の文言が見えません。対して、4箇条目の中で信濃を攻略の対象に挙げている点を踏まえると、この時点で謙信は信濃を武田信玄の領地として認識していたと考えられます。
皆さまのご来館を心よりお待ちしております。
【お問い合わせ】
米沢市上杉博物館 0238-26-8001
