朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

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内陸北上ルートを考えた時に、そのルート上に点々と散らばっていた義経伝説がすべてつながりました!
会津→米沢→長井→朝日→寒河江→河北→大石田→舟形→新庄→
※写真は長井市の弁慶供養塔

■弁慶の借用証書 / 会津若松市
源義経が源頼朝から京都を追われた“後の平泉落ち”の際に五郎兵衛飴を所望したとされ、その代金の借証文とされる武蔵坊弁慶自筆の賞状が五郎兵衛飴総本舗には代々伝えられている。

■皆鶴姫伝説 / 会津若松市
吉岡鬼一法眼という人が所有する兵法書をどうしても入手したかった義経。それが叶わなかったため鬼一法眼の養女 皆鶴姫と親しくなり、彼女を通して密かに秘伝の書を書き写しましたその時 帽子丸という子が生まれたと言われています。その後義経は、平家の動きを察知して奥州平泉に去っていき、それを嘆いた皆鶴姫は帽子丸を連れ腰元、従僕と共に義経の後を追い奥州に向かいました。そしてその途中 ここ会津で亡くなりました。途中、帽子丸が敵方に捕らえられ沼に投げ入れられて溺死。皆鶴姫も、ここ藤倉までたどり着きましたが我が身を嘆いて沼に身を投じました。18歳の短い人生でした。実はこの時義経は、偶然近くの町にいたそうです。皆鶴姫の話しを聞き、いてもたってもいられなくなりここ藤倉に駆けつけて彼女の菩提を弔ったそうです。

■荒人神社 / 猪苗代町
猪苗代町渋谷地区にある荒人神社、現在は清神社と合祀されていますが、昔は独立していました。この神社には、源義経伝説が残っています。ここは、磐梯山の麓に位置し、米沢を経由して平泉に至る街道と信夫から仙台を経由して平泉に至る街道との分岐点の場所でした。そこで源頼朝の命を受け義経一行を捕らえる為、部下を引き連れて待ち伏せをしていたのが、渋谷荒人でした。しかし渋谷荒人は元々義経には同情を寄せており、また、武蔵坊弁慶とも親しい間柄でした。そこで渋谷荒人は、弁慶に一騎打ちを挑み、わざと打たれて義経一行を逃がしたと言うことです。後にその行為に感嘆した村人の手によって荒人神社として祀られたそうです。

■正應山 常信庵 / 米沢市
入口に「源九郎判官義経公接待遺跡」の標柱が立っている。源義経が奥州藤原氏を頼りに逃亡する途中、この寺院に立ち寄ったとする。一行が鼠ヶ関(庄内)を避けて内陸に入り、羽前米沢に立ち寄り、自分の楯となって討死した忠臣、佐藤継信・忠信ゆかりのこの寺に立ち寄り、母の梅唇尼に兄弟を死なせてしまったことを詫びたという。そして「きゃらぼく」の木を植えて菩提を弔ったとされる。梅唇尼の名が記されたミイラも発見され万年塔を建て供養している。境内には、正信。継信、忠信親子を祀った三尊社がある。

『三尊社物語』(手塚貞蔵著・1982年)によると、義経一行は京都から福井県石川県富山県新潟県福島県の会津から桧原峠を越して米沢に入ったとある。米沢に着いた年月日は文治二年の秋だろうと推測している。また謡曲『接待』には一行は十二人としている。

■塔様(とっつぁま) / 長井市成田
文治2年(1186年)の秋、羽黒詣りの七人の山伏が民家に宿を願い泊めて貰った。ところが、この一行の中の娘が急に病気になり、仕方なく娘をしばらく宿に泊めて貰うように頼んだところ、その家の人達は心良く引き受けてくれた。それから3年後、義経が主従ともども討死したことがこの地方まで伝わった。これを聞いたかの娘は家の主人に「あの山伏一行は義経主従であって、その中で背の高いヒゲをはやした人が武蔵坊弁慶という者で、私は弁慶の娘」と打ち明けた。その証拠として、日の丸の軍扇を出し、これは弁慶が義経の家来になった時に貰ったもので、父がここを出発するとき形見に渡されたものであると話した。これを聞いたその家の人々は大いに驚き、今まで以上に娘を大切にした。後に娘は、この家の息子の嫁となって子孫大いに栄えたといわれる。その家は現在の鈴木平左衛門家の先祖。この娘夫婦が、亡くなった父弁慶の霊を弔うために供養塔を建て、大法要を行ったといわれている。

■義経宿泊所 / 長井市 森
長井市には、義経一行が2ヶ所に別れて宿泊した伝説が残っている。長井市森の小口家と成田の鈴木家。龍神が祀られている小口家の裏山から、弁慶たちの宿泊する川向いの鈴木家を遠望したと伝わっている。ここには「塔の上の石塔」と呼ばれる三段に重ねられた石の塔があり、石塔の下には鎧(よろい)が埋められているともいわれている。ここから成田の塔様と一直線に川原沢の黒附土壇があり山岳信仰とのつながりかともいわれている。すぐ近くには最上三十三観音の一つ「森観音」がある。

■子なし沢と弁慶の笈 / 朝日町八ツ沼・大沼
北の方が産気づいて弁慶大いに困った。ふと見ると道の傍に松の大木があり、その下にはきれいな水が流れていた。北の方はここで子を産んだ。その先の大沼には弁慶が修験道を伝ってきて大行院に泊まり、宿代の代わりに置いていったという伝説がある。扉の裏に凡字で、武蔵坊弁慶の「武蔵」と書いてある。

■義経一行の休憩地 / 寒河江市田代
詳細不明だが、田代地区には義経一行が休憩した場所があると伝わっている。

■三ツ川一橋 / 河北町北谷地
昔、法師川は三筋に分かれて流れていた。義経がここにさしかかった時、弁慶が大石を担ぎ三本に流れているところに落として橋を架けた。「三ツ川一橋」と呼ばれる由縁。その時担いだ石に弁慶の手の跡が残ったと言われており、「耕地整理記念碑」の台座になっているのがその石だと語りつがれている。

■義経記とは違う伝承 / 舟形町
「義経記」では会津の津(本合海)から亀割山を越え平泉に向かったとされますが、舟形町ではそれとは異なる伝承が伝わっている。
・猿羽根村近くで宿泊し、北の方が産着を絹で縫った伝承から絹縫という地名の由来となった。
・猿羽根村近くで宿泊し、義経一行の破れた着物を縫った伝承から絹縫という地名の由来となった。
・義経一行が獅子口で休憩した。・義経一行が川岸で穴(窪)を掘りそこに水を溜め汚れた手足を洗った。
・獅子口の対岸にある熊野神社で、出羽三山に代参した弁慶と合流した。
・実栗屋から毒沢へ笈を利用して渡ったので「笈渡」という地名の由来となりそれが転じて「折渡」となった。
・上記の笈を乾かした松は「笈掛の松」と呼ばれるようになった。
・一関集落には関所がある義経一行を厳しく詮議した。
・義経一行は伊藤半平衛から粟3升借り、明治時代までその証文が残っていた。
・義経一行は舟形から大平、稲先(ウサギシッタイ)、市野々、休場、亀割山へと向かっていった。
・舟形から北に進路をとり夜道を進み明け方となり一番鶏が鳴いたので鳥越(新庄市)と呼ぶようになった。
・弁慶は道を間違えて次年子に行ってしまい、義経は実栗屋熊野神社で待っていて再会できた。次年子の寺には、このとき、弁慶が農家から栗を借りたという借用証文が残っているということである。

                     
「朝日町の義経伝説を訪ねる」資料(2026.7.5)制作/安藤竜二