朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

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見学会「朝日町の実方伝説を訪ねる」が詳しく山形新聞に掲載されました! 記者の色摩高幸さん、一日中お付き合い下さりありがとうございました☺️



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各市町に残る義経伝説(ネットより抜粋)

内陸北上ルートを考えた時に、そのルート上に点々と散らばっていた義経伝説がすべてつながりました!
会津→米沢→長井→朝日→寒河江→河北→大石田→舟形→新庄→
※写真は長井市の弁慶供養塔

■弁慶の借用証書 / 会津若松市
源義経が源頼朝から京都を追われた“後の平泉落ち”の際に五郎兵衛飴を所望したとされ、その代金の借証文とされる武蔵坊弁慶自筆の賞状が五郎兵衛飴総本舗には代々伝えられている。この賞状には文治四年(1189年)午四月二日と記録されている。※文治四年は少し怪しいです

■皆鶴姫伝説 / 会津若松市
吉岡鬼一法眼という人が所有する兵法書をどうしても入手したかった義経。それが叶わなかったため鬼一法眼の養女 皆鶴姫と親しくなり、彼女を通して密かに秘伝の書を書き写しましたその時 帽子丸という子が生まれたと言われています。その後義経は、平家の動きを察知して奥州平泉に去っていき、それを嘆いた皆鶴姫は帽子丸を連れ腰元、従僕と共に義経の後を追い奥州に向かいました。そしてその途中 ここ会津で亡くなりました。途中、帽子丸が敵方に捕らえられ沼に投げ入れられて溺死。皆鶴姫も、ここ藤倉までたどり着きましたが我が身を嘆いて沼に身を投じました。18歳の短い人生でした。実はこの時義経は、偶然近くの町にいたそうです。皆鶴姫の話しを聞き、いてもたってもいられなくなりここ藤倉に駆けつけて彼女の菩提を弔ったそうです。

■荒人神社 / 猪苗代町
猪苗代町渋谷地区にある荒人神社、現在は清神社と合祀されていますが、昔は独立していました。この神社には、源義経伝説が残っています。ここは、磐梯山の麓に位置し、米沢を経由して平泉に至る街道と信夫から仙台を経由して平泉に至る街道との分岐点の場所でした。そこで源頼朝の命を受け義経一行を捕らえる為、部下を引き連れて待ち伏せをしていたのが、渋谷荒人でした。しかし渋谷荒人は元々義経には同情を寄せており、また、武蔵坊弁慶とも親しい間柄でした。そこで渋谷荒人は、弁慶に一騎打ちを挑み、わざと打たれて義経一行を逃がしたと言うことです。後にその行為に感嘆した村人の手によって荒人神社として祀られたそうです。

■正應山 常信庵 / 米沢市
入口に「源九郎判官義経公接待遺跡」の標柱が立っている。源義経が奥州藤原氏を頼りに逃亡する途中、この寺院に立ち寄ったとする。一行が鼠ヶ関(庄内)を避けて内陸に入り、羽前米沢に立ち寄り、自分の楯となって討死した忠臣、佐藤継信・忠信ゆかりのこの寺に立ち寄り、母の梅唇尼に兄弟を死なせてしまったことを詫びたという。そして「きゃらぼく」の木を植えて菩提を弔ったとされる。梅唇尼の名が記されたミイラも発見され万年塔を建て供養している。境内には、正信。継信、忠信親子を祀った三尊社がある。

『三尊社物語』(手塚貞蔵著・1982年)によると、義経一行は京都から福井県石川県富山県新潟県福島県の会津から桧原峠を越して米沢に入ったとある。米沢に着いた年月日は文治二年の秋だろうと推測している。また謡曲『接待』には一行は十二人としている。

■塔様(とっつぁま) / 長井市成田 ※写真参照
文治2年(1186年)の秋、羽黒詣りの七人の山伏が民家に宿を願い泊めて貰った。ところが、この一行の中の娘が急に病気になり、仕方なく娘をしばらく宿に泊めて貰うように頼んだところ、その家の人達は心良く引き受けてくれた。それから3年後、義経が主従ともども討死したことがこの地方まで伝わった。これを聞いたかの娘は家の主人に「あの山伏一行は義経主従であって、その中で背の高いヒゲをはやした人が武蔵坊弁慶という者で、私は弁慶の娘」と打ち明けた。その証拠として、日の丸の軍扇を出し、これは弁慶が義経の家来になった時に貰ったもので、父がここを出発するとき形見に渡されたものであると話した。これを聞いたその家の人々は大いに驚き、今まで以上に娘を大切にした。後に娘は、この家の息子の嫁となって子孫大いに栄えたといわれる。その家は現在の鈴木平左衛門家の先祖。この娘夫婦が、亡くなった父弁慶の霊を弔うために供養塔を建て、大法要を行ったといわれている。

■義経宿泊所 / 長井市 森
長井市には、義経一行が2ヶ所に別れて宿泊した伝説が残っている。長井市森の小口家と成田の鈴木家。龍神が祀られている小口家の裏山から、弁慶たちの宿泊する川向いの鈴木家を遠望したと伝わっている。ここには「塔の上の石塔」と呼ばれる三段に重ねられた石の塔があり、石塔の下には鎧(よろい)が埋められているともいわれている。ここから成田の塔様と一直線に川原沢の黒附土壇があり山岳信仰とのつながりかともいわれている。すぐ近くには最上三十三観音の一つ「森観音」がある。

■子なし沢と弁慶の笈 / 朝日町八ツ沼・大沼
北の方が産気づいて弁慶大いに困った。ふと見ると道の傍に松の大木があり、その下にはきれいな水が流れていた。北の方はここで子を産んだ。その先の大沼には弁慶が修験道を伝ってきて大行院に泊まり、宿代の代わりに置いていったという伝説がある。扉の裏に凡字で、武蔵坊弁慶の「武蔵」と書いてある。

■義経一行の休憩地 / 寒河江市田代
詳細不明だが、田代地区には義経一行が休憩した場所があると伝わっている。

■三ツ川一橋 / 河北町北谷地
昔、法師川は三筋に分かれて流れていた。義経がここにさしかかった時、弁慶が大石を担ぎ三本に流れているところに落として橋を架けた。「三ツ川一橋」と呼ばれる由縁。その時担いだ石に弁慶の手の跡が残ったと言われており、「耕地整理記念碑」の台座になっているのがその石だと語りつがれている。

■義経記とは違う伝承 / 舟形町
「義経記」では会津の津(本合海)から亀割山を越え平泉に向かったとされますが、舟形町ではそれとは異なる伝承が伝わっている。
・猿羽根村近くで宿泊し、北の方が産着を絹で縫った伝承から絹縫という地名の由来となった。
・猿羽根村近くで宿泊し、義経一行の破れた着物を縫った伝承から絹縫という地名の由来となった。
・義経一行が獅子口で休憩した。・義経一行が川岸で穴(窪)を掘りそこに水を溜め汚れた手足を洗った。
・獅子口の対岸にある熊野神社で、出羽三山に代参した弁慶と合流した。
・実栗屋から毒沢へ笈を利用して渡ったので「笈渡」という地名の由来となりそれが転じて「折渡」となった。
・上記の笈を乾かした松は「笈掛の松」と呼ばれるようになった。
・一関集落には関所がある義経一行を厳しく詮議した。
・義経一行は伊藤半平衛から粟3升借り、明治時代までその証文が残っていた。
・義経一行は舟形から大平、稲先(ウサギシッタイ)、市野々、休場、亀割山へと向かっていった。
・舟形から北に進路をとり夜道を進み明け方となり一番鶏が鳴いたので鳥越(新庄市)と呼ぶようになった。
・弁慶は道を間違えて次年子に行ってしまい、義経は実栗屋熊野神社で待っていて再会できた。次年子の寺には、このとき、弁慶が農家から栗を借りたという借用証文が残っているということである。

                     
「朝日町の義経伝説を訪ねる」資料(2026.7.5)制作/安藤竜二


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※全写真はPDF↑を開いてご覧ください

おかげさまで半数が町外の方、宮城県からは7人も参加いただき盛況に終わりました。「とてもよかった」「勉強になった」と皆さんからあたたかい感想をいただけました。

1.はじめに、会津→米沢市→長井市→朝日町→寒河江市→河北町→大石田町→舟形町に残る伝説を紹介させていただきました。内陸北上ルートも充分信憑性があるのです。参加くださった長井市の伝説を守っている「弁慶会」の飯澤正章さんから詳しい解説もいただきました。2カ所に分かれて宿泊したこと、そして、なんと弁慶の娘は病気をして長井にひとり残ったのです。

他市町に伝わる義経伝説

2.北の方が子を産んだとされる、くぬぎ平の棚田と八ッ沼の間にある子なし沢では、そのきれいな流れを見ていただき、弁慶が慌てた様子を想像していただきました。

3.茅の輪をくぐって参詣した浮島稲荷神社では最上俊一郎氏に大沼の深い歴史をお話しいただきました。

4.大沼を一周して義経一行も見たであろうお島様(浮島)や出島、そして大きな樹木たちに歴史の古さを感じていただきました。お島様も軽くですが動いてくれました。

5.大行院ではいよいよ弁慶が宿代代わりに置いて行ったとされる「笈」を拝見しました。そのしくみと精巧な作りに一同驚愕しました。なにより美しいと思いました。そして扉の裏には「武蔵」と書いてありました。おそらく一行は大沼に春まで滞在し、そのお礼として必要無くなった弁慶の娘の「笈」を置いていったのではないでしょうか…。最後に、最上さんのはからいで宮城の参加者の方のためにお宝の一つ「大竹丸の歯」も特別に見せていただき、一同さらに驚愕いたしました。

和気藹々楽しく学べた見学会になりました。最上さん、ご参加いただいた皆さん、いい時間をありがとうございました。

次は9月6日に「朝日町の藤原実方伝説を訪ねる」を計画中です。
ぜひぜひご参加ください!

(道先案内/安藤竜二記)



参加下さった橋本彩子さんがブログで紹介くださいました
橋本あやこのブログ


寒河江市柴橋の落裳観音には、小野小町が大沼に浮島を見に訪れたことが伝えられています。

■落裳観音(寒河江市柴橋)の由来
 昔、平安期の女流歌人・小野小町が大沼の浮島を見物するために、京都から当地にさしかかった時、突然天女の姿が現れ、紫の雲の間から羽衣をおとした。その羽衣の上には、十一面観音が立っていた。小町は不思議に思い、里の人々を説いてお堂を建てた。そして、自分の持ってきた守護仏の十一面観音を安置し、天女のおとした羽衣を拾い集め、七宝の念珠といっしょに奉納して霊場とした。これが、寒河江市柴橋にある落裳観音である。
落裳観音

 小野小町が京都から来て観音堂を開き、参詣者が沢山集まってきたところから京集山と呼び、天女が羽衣をおとしたという伝説があるので、地名を落裳と呼ぶようになった。また一説には、小町は年をとってから法衣をまとって諸国を巡り、この土地に来て、その法衣を添えて納めたのがその本尊であるともいわれる。

寒河江市柴橋2494-1


■小野小町は浮島を自分に例えた和歌を詠んでいます。多賀城市の浮島を詠んだとされていますが、もしかしたら大沼の浮島を詠んだのではないでしょうか?


 陸奥は世を浮島もありと云ふを関こゆるぎの急がざらなん

「つらい浮世に心をなぐさめてくれる浮島(=私)」という場所があるのだから、そんなに急いで私の元を離れていかないで(もう少しここにいて)、と恋人を引き止める女性の心情が表現された一首とされます。


大沼に訪れた藤原実方





大沼生まれの著者さとうちよ氏(明治42年)は、当時隣村の学校の教師をしていましたので、毎朝毎晩、大沼のほとりを歩いて通っていました。その3年間の間に多くの不思議な島の動きを目撃しました。その経験と共に、村に伝わる沼に関わる不思議なこと、風習、子供の頃の体験などを書き残されたのがこの本です。さとう氏は出版する目的を「不思議な島の事、沼の事を書き残しておくのは私の責任ではないだろうか」と前書きに書かれています。大沼の不思議さとともに、大沼をリスペクトするあたたかな思いが熱く伝わる内容となっています。朝日町の図書館で閲覧できます。

著者/さとうちよ
制作/タダ・デザイン
発刊/昭和62年8月1日

目次
はじめに
由来について
島が御礼に
島は生まれた
沼の真ん中に並ぶ
島が湾に集る
島切り
雨乞い地蔵様
島を動かす
大きな鯉
島は閼伽沼へ
沼とバイオリン
お稲荷さんの不思議な藝
終わりに
略歴
あとがき



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藤原実方は正暦5年(994年)に左近衛中将に叙任されました。しかし、翌長徳元年(995年)正月に突然陸奥守に左遷されています。この理由として、一条天皇の面前で藤原行成と和歌について口論になり、怒った実方が行成の冠を奪って投げ捨ててしまい、天皇の怒りを買い「歌枕を見てまいれ」と左遷を命じられたとする逸話があります。

その995年に実方は大沼を訪れて、下記の和歌を二つ詠んでいることが、山形市の千歳山万松寺に伝わっています。

 よしやそも 名こそ深山の奥なれや 花にはもれぬ 雲の上かな                                                               

 四方の海 波静かなるしるしにや 己と浮きて 遊ぶ島かな


■千歳山万松寺誌 藤原實方朝臣 より抜粋

行き行きて別れ路に逢坂山も打ち越えぬ。滋賀の浦浪立つも見つ。勢多の唐橋からころと、馬の蹄の鳴らすにも、如何に鳴海の濱千鳥、鳴く音を聞くも中々に、袖濡せとや宇津の山、遠き砧も今日許り、興津の濱に打ち出でつ…清見の月も曇りては都の空の懐かしく、富士の煙に咽びつつ、歩めば何時か足柄の、山も越えけり早川の、早くも年は暮れ果てて、それとし人も白河の、関路に春は陸奥の異なる境に着きましぬ。

此処か其処かと歌枕、阿古耶の松を尋ねても、更に其の甲斐御座さねば、来し方許り偲ぶ山、信夫の里も後にして、板谷路越えて米澤も後へに見れば、程もなく、大沼といへるにかかり給ふに、こはそも如何に、天の成せる勝地とはいへ、周り一里もあらむかと思はるる清水の漫々と湛へたる沼ありて、風のまにまに、往き交う嶋の面白く、数ふともなく数ふれば大小合わせて六十六嶋あり、風なきも岸を離れ、浪なきも岸を離れ、浪なきも游泳せる様、此の世のものとも思ほえず、恰も物のありて嶋を弄ぶが如く、小松、躑躅も藤波も、色を爭ひ、穂に出ぬ尾花も打ち雑れるに、興がらせ給ひ、

 よしやそも名こそ深山の奥なれや花にはもれぬ雲の上かな

と一首を遊ばしたるに、俄に水の沸き溢れて、天に漲るかと思はれ、数多の嶋々東西南北へと意に任せて其の状、織るが如く編むが如きに奇異の思ひをなしつつ、

 四方の海波静かなるしるしにや己と浮きてめくる嶋かな

と又も一首を詠じ給ふに、さしもに恐ろしかりつる沼水の、見る間に収まりて鏡の面よりも滑らかなり、其の折り怒れる波の溢れて枝の枝にかかり、根を洗ひたれば時人「波揚げの松」とて今の世迄も語り傳へぬ。實に「和歌は目に見えぬ鬼神をも感ぜしめし例しにや。


万松寺誌は、上記↑ダウンロードからpdfをご覧ください。

大沼には小野小町も訪れた伝説があります
落裳観音の小野小町伝説



エコミュージアムの小径 第3集。国の名勝「大沼浮島」は歴史が古く、伝説の多い昔から著名な観光地です。大沼を代表する皆さんからお話をうかがいました。 A5版
 編集・発行/朝日町エコミュージアム研究会 平成7年


 エコミュージアムの小径 第7集。大沼を由来とする山伏神楽が、宮城県丸森町で伝承されていることが分かり、600年ぶりの里帰り公演が叶えられました。大行院当主最上敬一郎氏のお話、宝物紹介、シンポジウム報告など。A5版 編集・発行/大沼浮島ものがたり実行委員会 平成12年(2000)
※エコルームで販売しております。500円(郵送可)

 平成11年(1999)春、朝日町立大谷小学校大暮山分校は、児童数減少に伴い閉校しました。同時に、一世紀の歴史を持つ校舎も取り壊しの予定でした。惜しまれる声も聞かれる中、地元朝日町の若者たち「おもしろ塾」が、なくなるまえに思いで作りをしようと、試行錯誤の中、第一回の白い紙ひこうき大会を計画しました。それは、ただの競技会ではなく、あったかくて懐かしい夏のワンシーンをみんなで作るような、そんな大会をめざすことになりました。
 すぐに、使われなくなった花壇にひまわりの種をまき、その苗は地元の小学生たちが水やりをしてくれました。大会一週間前には校舎を大掃除しました。地元の農家の皆さんは、校庭の雑草を刈って下さいました。また、閉校式の折、ぬかるんだ校庭に大量に敷かれていた砕石も重機できれいにかたずけて下さいました。
 そして、ひまわりも咲いた大会当日、たくさんの白い紙ひこうきは、ゆっくりと、ふわりふわり校庭の空を気持ちよさそうに飛行しました。
 その後、校舎解体は延期され、新しいスタッフによる新実行委員会も結成され、毎年夏恒例のイベントとして開催され人気を得ましたが、平成21年(2009)に惜しまれる中、校舎は取り壊されました。前年に開催された第10回の最終大会には、分校や大会のファンが全国から300人参加し、歴代スタッフも50人、アマチュアカメラマンも数十人押し寄せ、最後の夏を楽しみました。

大暮山分校と白い紙ひこうき大会の写真