ぞーこー太郎 蕎麦屋の冒険

▼嫌だよねー、もう

と、確かに思います。
ならば、終わりにしてしまえばいいのです。
嫌だよねー、もう、と。
さて、何をどこまで終わりにしましょうか。


ニュース見て気が重くなる(実害を受けたわけではないのだが)というのは、心身ともに健全な証拠です。

それでもそういう自分の中の健全性がある線を越えると「そろそろ、別にこと考えたい」となるわけです。
あんまりに健全になると、日頃の不健全を目の当たりにして、戻れなくなるからかな。

自分に嘘はつけます。だけど、いくら自分の足が長くても、他人より金銭に恵まれていても、成したことが大きくても、目の前の現象に抗う方法がない。


「テレビを見て泣いた。頑張れと声援を送った。義捐金を送った。そもそも原発反対していた。節電をしていた。」
→東京が電力を浪費し、地元は補助金で潤った。都民は計画停電に不平を漏らし、そして地元には誰もいなくなった。

そもそも放射線の被害は「確率的影響」それを理解することもない基準値、そして曖昧な将来の危険性を隠れ蓑に、死者や被災者そして原子炉の「最悪の事態」を忘れ去ろうとしている。


3/10、8/6、8/9、1/17そして3/11。
「死について忘れたい、死ぬことを考えたくない」
確かに嫌だよねー、もう、考えたくない。
でも、それよりももっと「繰り返したく、繰り返してほしくない」。

生涯現役なんて未熟なことで威張らずに、さっさと死について考えなさい、そうすればまたひとり、生きることについて考える人が増えるから。

●2011.03.22
●ak
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