雪灯篭まつりの歴史 第1回 昭和53年

  • 雪灯篭まつりの歴史 第1回 昭和53年

昭和52年3月3日に行われた雪灯篭まつり後日の反省会で、翌昭和53年には上杉謙信公400年祭が行われることから、この催しを正式に「第1回上杉雪灯篭まつり」として旧暦元旦、すなわち2月7日に実施することとした。
 52年11月16日、第1回実行委員会が開かれ、小嶋弥左衛門氏を実行委員長に推した。決定事項の第一は、太平洋戦争戦没者の霊を慰める鎮魂塔を雪で造って献灯すること、そのための製作は栗林一雪氏と石勝石材店に依頼したことであった。
 製作場所は招魂碑のある高台とし、ここを小山内氏の提唱で「鎮魂の丘」と呼ぶこととした。
 米沢麺業組合有志からは「そば振る舞い」が、また、小嶋総本店からは「甘酒振る舞い」の申し出があり、その好意を受けることとした。
 雪見の宴は、前年の盛況を考慮して、2月7日、8日の両日にわたって実施することとした。なお、雪見の宴参加希望者には会員券を求めてもらい、その半券は参加記念品として保存できる格調高いものにしようと、栗林一雪氏にデザインを依頼した。また、雪見の宴の情緒を深めるため燭台を購入することも決められた。
「鎮魂之塔」の揮亳は栗林一雪氏、祭壇には笹野一刀彫組合の協力により笹野の削り花が供えられた。

 かくして、第1回の「まつり」は昭和53年2月7日、8日の両日行われ、6日は前夜祭として鎮魂祭が鎮魂の丘西側で厳粛に挙行された。祭詞は上村氏が献じた。
 松が岬公園の東・北の堤斜面と、上杉神社境内に造られた雪洞は千数百、おとずれた数千人の市民は、雪灯篭の醸し出す幻想の空間に酔いしれた。
 人々には甘酒220リットルが振舞われ、献上そばは1日目700食、2日目千食が、またたく間に出尽くした。
臨泉閣での雪見の宴は、2日間とも満席で、上杉隆憲氏(上杉16代当主)の乾杯で開宴、燭台の灯のゆらめくなかで美酒を酌み交わした。
 床の間には大乗寺氏の好意で、直江兼続作の七言絶句「雪夜囲炉」(村山大?氏書)の軸が飾られた。
 両日とも、上村氏の「上杉雪灯篭」についての講和があり、初日には宝井馬琴氏も参席して挨拶した。
 第1回上杉雪灯篭まつりが、謙信公400年祭の年に催されたことは、米沢として誠に意義深いものであった。

2006.09.30:yukidourou:[レポート]