最上義光歴史館

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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【本城満茂 (2)】

 本城満茂に関して諸史料を元に時期を追って動向を検討していくが、前述の通り、文書史料が慶長中期以降に集中しており、楯岡城主時代あるいは湯沢城主時代の動向に関しては、諸記録や軍記物史料の記述に頼らざるを得ない状況にある。史料の性格上、内容に統一性が無くやや信頼性に欠ける史料群ではあるが、各市町村史の先行研究や周辺史料の裏付けをとりつつ検討を進めていきたいと考える。

 まず、本城氏の家系に関しては、享和二年(1802)に成立した「本城系譜」と成立年代は不詳であるが「本城氏系図」が存在し、その全貌を知る上での基礎史料として位置付けることができる。内容は、源義家の子義国を始祖として歴代の事績を記載し、寛政六年に本城満主が小姓頭に就くまでを記録している。また、本城満茂の時期から記事内容が詳しくなっていることが特徴である(注4)。


 「本城氏系図」や、「寛永諸家譜」「最上家譜」(注5)等諸系図を見る限りでは、満茂の出身である楯岡家は、斯波兼頼から数えて二代目、満直の四男満国が祖となって興っているように見うけられる。各々の系図で、没年の記載を始め不合理な点がいくつか見えるものの、兼頼から満家までの最上家当主はどの系図でも兼頼―直家―満直―満家と全く合致している。従って、「本城氏系図」における初代兼頼から四代満家までの記述は信頼性が比較的高いと考えてよいだろう。
 しかし「本城系譜」は、兼頼の次代を貞家、次次代を満貞とし、楯岡満国をはじめ中野満基らを最上満家の弟ではなく子としている。かかる違いはいずこから生まれたものであろうか。
<続>

(注4) 『本荘市史 史料編1下』(本荘市 1985)
(注5) 『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』(山形市 1973)


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