最上義光歴史館 - 山形県山形市

▼宮本武蔵の養子・伊織は最上家浪人の子か

宮本武蔵の養子・伊織は最上家浪人の子か

 剣聖宮本武蔵の養子の一人に有名な伊織がいる。彼は15歳の時に、播磨国明石城主小笠原忠真に近習として仕え、弱冠20歳で家老になったという。その後豊前小倉15万石小笠原家において禄高4000石という破格の出世を遂げている。もちろん、養父武蔵の後押しもあったろうが、それにしても、彼はよほど才能に恵まれていた人物と言える。
 さてこの伊織だが、吉川英治の原作『宮本武蔵』では三之助という名で登場する。そして「最上家の浪人」として祖父三沢伊織が出てくる。また、三之助は武蔵の恋人お通の弟という、いかにも面白い筋書きである。
 この小説の材料になったのは、主として武蔵の伝説で有名な『二天記』である。その中では、巌流佐々木小次郎に関する記載に次ぐほどの紙幅を費やし、武蔵と伊織(本書では無名の童)の出会いが語られる。
 物語は武蔵が出羽の正法寺原というところで、泥鰌取りの童に出会うところから始まる。紙面の都合で話の内容を紹介できないが、この話の終わりに興味深い付記があるので、その原文を上げておこう。
 
 伊織父は正法寺村の者と雖も、本羽州最上家の浪士にて、此処に住みて自然に  農夫となれりとも云へり、伊織武蔵養子と成、宮本を号す(下略)

 この一節が、伊織の出自を「最上家浪人の子」とする根拠になっていた。だが、現在はこの記述そのものが疑問視またはデタラメとされているのだ。
 そもそも『二天記』なる書はというと、肥後藩筆頭家老松井家の家臣豊田正剛の書留が原典。それに子の正脩が『五輪書』等の記実を加え、宝暦5年(1755)に『武公伝』としてまとめたものを、さらに正脩の子景英が安永七年(1778)に改めて一書にしたもの。武蔵没年(正保2年・1645)から百年余りが経っていたため、彼に関する伝承は紛然として、真偽のわからない風聞が飛び交い、過大評価やこじつけも多かった、と編者の景英もみずから奥書に記している。
 ところが、昭和40年代になって、伊織の出自を明らかにする史料が出てきた。それは彼が、郷里の氏神である泊神社(兵庫県加古川市)に奉納したとされる棟札である。某かに書かせたものであるが、記録によれば、伊織は村上源氏の流れを汲む赤松氏の末孫田原氏の出であるという。
 その棟札は、武蔵没後比較的早い時期の承応2年(1652)に成立した史料であり、且つ氏神の社殿造営に伴うものとして、やはり信頼のおけるものであるとする説が有力である。一方、棟札の冒頭に見る村上源氏云々の書き方は、個人顕彰の意味合いが強く、必ずしも事実を記したものとはいえない、と疑問視するむきもある。
 いずれにしても、伊織の子孫に伝わる『宮本家系図』等の史料に基づけば、彼は慶長17年(1612)播磨国印南郡米堕村(兵庫県高砂市米田町米田)の田原久光の次男として出生。武蔵は久光の実弟と言うから、伊織は歴とした武蔵の甥ということでほぼ定説化している。また、このことによって武蔵の生誕地は美作ではなく、播磨とする説が有力になってきている。ただ、棟札には、伊織が元和元年に小笠原家に仕えたとあり、生年が正しければ、彼は11、2歳の時となる。この点は冒頭の15歳と齟齬をきたす。
 それにしても、『二天記』の童(伊織)は、なぜ「最上家」浪人の子なのであろうか。また、これが全くの虚構ということになるのであろうか。筆者は『二天記』を何度か読み返し、且つ多くの関係書を渉猟したが、なお釈然としない。さらに些か私見もあるが、残念ながら紙数が尽きた。※『二天記(肥後文献叢書第二巻)歴史図書社 昭和46年』

■執筆:布施幸一「歴史館だより11」より
2006.11.18:最上義光歴史館

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