最上義光歴史館 - 山形県山形市

▼「古河藩土井家における鮭延越前とその家来達について」 早川和見

「古河藩土井家における鮭延越前とその家来達について」

                     
 元和八年八月最上家改易事件後、山形藩主最上義俊の重臣達は全国の諸藩に身柄を預けられている。老中土井利勝(下総佐倉藩主)には、鮭延越前秀綱、新関因幡久正の二名が預けられた。この小論においては、最上家重臣鮭延越前が土井利勝に預けられた後に、その家臣として召し出されているが、これらの経緯について古河藩土井家史料を中心に、紙数の許す範囲で考察してみたいと思う。
 鮭延越前秀綱、新関因幡久正の両氏は元和八年八月の最上家御家騒動後、土井利勝に身柄を預けられた。この期間の出来事については、鮭延秀綱の庶子で、後に同家来に列した森川弥五兵衛の子孫が遺した森川系図によれば、秀綱は幕命により預期間中は江戸本郷宿に身を寄せており、妻、嫡男秀義に先立たれており全くの単身状態であり、身の回り世話をする者もなかったという。このため自身の身の周り世話のため、在郷の娘を雇い入れている。
 秀綱はこの在郷の娘との間に元和九年男児を設けている。しかしこの男児は嗣子とはせず、出生地に因んで『森川』姓を名乗らせ秀綱側で引き取っている。この男子は後に寛永一〇年古河城下で元服、森川弥五兵衛と称し、秀綱の家来に列している(拙著 山形最上家と古河土井家について )。 もう一方の新関因幡については全く何も伝えられていない。同氏も鮭延氏同様で、一時江戸本郷宿に居住していたのであろうか。 
 元和八年土井利勝に預けられた鮭延越前秀綱、新関因幡久正の両名の預期間はほぼ一年であって、翌九年には正式に御赦免となったが、その行き先が注目されたのであった。
 この時二代将軍秀忠に鮭延秀綱に対し、ニ男駿河大納言忠長の附家老で招聘しようとしたが、これには秀綱自身が固辞したと伝えられる。その後、鮭延秀綱と将軍秀忠、土井利勝との間で、どのような遣り取りが展開されたのかは伝えられていない。しかしその後将軍秀忠は、腹心の土井利勝に対して知行五〇〇〇石で、鮭延秀綱を召し抱えるように命じたことが、近年研究から明らかとなっている(拙論 最上家改易事件に関する一考察 野木神社秘蔵史料を中心にして 古河郷土史研究会会報三一号)。
 これは元和九年当時、老中土井利勝は下総佐倉藩主で知行六五二〇〇石であったため、この身代ではとても鮭延氏を知行五〇〇〇石で召し抱えることは事実上困難であったことは、二代将軍秀忠自身も事前に承知していた。そこで鮭延氏の知行五〇〇〇石分は召し抱えると同時に、別途これと同高を将軍が加増するということで、利勝も了承したことが分かっている(拙論 鮭延越前研究ノート(4) 古河藩土井家時代の鮭延越前について 古河郷土史研究会会報四九号)。
 なお新関因幡久正も同時に土井利勝は知行一〇〇〇石で召し抱えているが、これには将軍秀忠はこれに了承のみで特に介入していない。
 この時鮭延氏は知行五〇〇〇石で待遇は客人分で、一方の新関氏は一〇〇〇石で御組頭(家中では家老の次ぐ要職)であった(拙著 山形最上家と古河土井家について )。
 この当時の土井利勝家臣団は戦国時代の軍事形態を色濃く残しており、後世の藩経営を主体とした藩体制とは大きく異なる。城代は藩主利勝の同母弟の土井内蔵允元政で知行三〇〇〇石、筆頭家老は寺田與左衛門時岡二〇〇〇石で、この二名がまさに利勝の腹心で、利勝に対する影響力も行使できる人物でもあった。この当時の土井利勝の主要家臣数は知行一〇〇以上の者が一二〇名前後とみられている。当時はまだ戦時体制が色濃く、その家臣のほとんどが平士級で三〇〇石未満であった(拙論 土井利勝研究ノート(7) 老臣寺田與左衛門について 古河郷土史研究会会報四四号)。 しかし残念ながらこの当時の分限帳は伝えられていない。
 利勝の家臣団・藩体制が大きく変貌するのは、寛永二年九月に知行高が一挙に倍増となる一四二〇〇〇石となってからのことで、これに伴い利勝は、自弟の土井内蔵允元政には三〇〇〇石から八〇〇〇石へと、筆頭家老寺田與左衛門時岡が二〇〇〇石から六〇〇〇石へと大幅な加増を行っている。ここに至って土井家内では、鮭延氏の五〇〇〇石を超えるものが出現して来たのである。この時新関氏の役職は組頭のままであるものの、一〇〇〇石から一八〇〇石へ、さらに二三〇〇石へと加増されている(拙著 山形最上家と古河土井家について )。
 実はこの時点で主要家臣のほぼ全員が大幅加増になったことと、家臣団の役職が藩経営に即応した複雑細分化なものとなり、藩士の階層も一斉に多極化していった(拙論 土井利勝研究ノート(7) 老臣寺田與左衛門について 古河郷土史研究会会報四四号)。
 これらの現象を前提にして近年、鮭延越前秀綱が元和九年から没する正保三年六月まで、実に二三年の間(土井家自身知行高の変遷や藩主の交代などもあり)、秀綱自身の役職も「客臣」のままで、しかも知行「五〇〇〇石」もそのままで全く変更されなかったのは、新関因幡が加増されたことをみても、真に奇異なことと言えるであろう。
 これは土井利勝が鮭延氏を召し抱えるに当たり、当時の二代将軍秀忠が仲介し指示したこともあって、これを召し抱えた土井家一存のみでは、勝手に変更が困難であったことと解釈される(拙論 鮭延越前研究ノート(4) 古河藩土井家時代の鮭延越前について 古河郷土史研究会会報四九号)。
 鮭延秀綱の晩年は、嫡男秀義が最上家出仕時代に早世したため嗣子がおらず、さらに元和九年に男子を設けたが嗣子とはせず、元服後家来に列し「森川」姓を名乗らせている。嫡男秀義は既婚したことから男子(秀綱の内孫)がおり、この嫁と孫も秀綱とともに古河城下大堤にいたことも今日分かっている。古河城下の秀綱には、嫡男秀義の遺児が健在であったが「籠宮」姓を名乗らせ別家としている(拙論 鮭延越前研究ノート(2) 籠宮家について 古河郷土史研究会会報37号)。秀綱は自ら意思により当代で絶家としたが、古河時代周囲には出羽時代からの家来達はそのまま扈従し続けた者たちがおり、土井家へ陪臣として奉公していた。
 秀綱は正保三年六月古河城下にて八十四歳にして没。その屋敷跡には家来達の手で菩提寺『鮭延寺』が創建され、同寺も秀綱の墓碑も現存している(拙著 山形最上家と古河土井家について )。

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○鮭延越前墓所

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○鮭延家の守本尊「聖観音立像」(鮭延寺所蔵)
 
 恐らく秀綱の家来十四名にとっては、主君鮭延秀綱が土井利勝のもとに召し出された元和九年から正保三年六月に主君鮭延氏が没したまでの、家来達は土井家には陪臣として奉公したが、これがある意味で最も寛いだ充実した期間でなかったか想像している。秀綱の家来一四名は主君鮭延氏死去後、土井家と予てよりの約束通り正保三年七月一五日古河藩主土井利隆(一三五〇〇〇石)に直参として召し出されている。この時十四名の家来の中では、岡野九郎左衛門が家老であったことから、土井家ではこの家格をそのまま認め彼のみ三〇〇石鑓奉行で遇し、残りの十三名は二〇〇石から一五〇石は平士級であった(拙著 山形最上家と古河土井家について、拙論 古河城下における鮭延氏の家来動向について 山形県地域史研究四〇号)。
 さて、鮭延氏は後嗣をたてなかったことから、跡は土井家に直参に召し出された家来十四名に託された。それでは古河藩土井家臣が鮭延氏の旧家来に好意的で、彼らに居心地が良かったかといえば、これは全くの別問題であると言える。
 というのは、古河藩主土井家の系譜は徳川家三河時代からを継承しており、また家中には近畿圏出身の有力家臣が多く、当時この地域が国政の中心地、先進地であり、かつ又経済的にも豊かであったことから、これに優勢感を持つ家臣が多かったように思われる。 反面関東以北は未開地で経済的にも概して豊かではなかったことで、出羽最上郡出身の旧鮭延氏出身の家来などは…土井家家中において一段格下と偏見の目で見られたのではないかと、今日想像している。さらに旧鮭延氏出身の家来達は、土井家内では新参者で特に頼るべき後ろ楯となる有力家臣もなかった。土井家家臣としてまさに真価が問われる時節が到来しつつあったのである。

■執筆:早川和見(古河郷土史研究会会員/山形県地域史研究協議会会員)「歴史館だより23」より

2016.05.25:最上義光歴史館

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