最上義光歴史館 - 山形県山形市

▼最上義光の肖像画のことども

最上義光の肖像画のことども

 ここに一枚の肖像画がある。最上義光の画像といわれているもので、明治25年に出版された『山形県史談』なる書に掲載されている。その凡例には、「本書ニ載セタル書画ハ凡テ正確ナル画像及ビ木像ニヨリテ転写セルモノナリ」(傍点筆者)とあるから、何か元になる画像があったらしい。
 小袖に小紋(何の模様かは不明)散らしの直垂を着て、烏帽子をかぶり、小刀(いわゆる腰刀)を指し、右手に扇子(末広)を持ち、高麗縁と見られる上畳に正座している。
 その面貌は、やや面長、眉毛太く、一点を見つめているかのような目、鼻筋がとおり、口は小さく、頬・顎・口辺にひげをはやし、なかなかの男ぶりである。一見して気品が感じられる武将像である。
 現今ややもすれば、これが義光の肖像として一人歩きしないわけでもない。しかしである。この図あるいは原図が粗雑であるかどうかという議論はさておいて、有職故実や風俗史等の専門的視点から考証を試みれば、本肖像画にはいくつかの問題点がある。
 紙面の都合上、今ここで詳細に言及できないが、大まかには次の諸点が上げられよう。
 先ず第一に、この時代に武将が威儀を正して座るには、正座でなく胡坐が基本であること。同時代の坂紀伊守像(最上義光の重臣/清源寺蔵)を初めとして、当時の武将の肖像画を見れば明らかである。ちなみに、坂像に見る上畳が高麗縁であり、義光像のそれには菱形の中の黒丸が省略されている。

[画像]
山形県指定有形文化財 「紙本著色 坂紀伊守画像」 山形市・清源寺
 
 第二は頭に被っている烏帽子である。侍従(従五位下)以上の料は直垂に風折烏帽子となるが、本図に見られるそれは立烏帽子に近い。風折にしては頂点が後方に折れて不自然である。左右どちらかに折れるのが風折である。本図に描かれた烏帽子は、兜着用の際の捼烏帽子(引立烏帽子)にも見えるが、絵巻や他の絵画資料には見られない異形のものである。
 第三には直垂の紐である。袖先の紐、いわゆる露はやや太線で描き込まれているのは認められるものの、胸紐は短くしかも結目が粗雑である。直垂の胸紐は布の丸打ちで、一般的には“みぞおち”下辺まで伸びて二つ結びとなる。
 第四には腰刀である。柄の部分を出鮫とし、縁と縁頭と目貫をいれたいわゆる式正の料であるが、鍔が付いているようにも見える。仮に、鍔が付いているとすれば、これは鍔のない合口拵とするのが正しいことになる。
 以上のことから、本肖像画を最上義光時代のものと認めるには無理がある。もし『山形市史談』にいう原画を転写したとすれば、原画の昨期はどう見ても江戸後期を溯らないであろう。と同時に、武家故実をよく知らない絵師や依頼者像がひとりでに浮かび上がってきそうである。
 しかしながら、面貌は名門の近世大名に相応しく見える。それを生かし、当時の時代考証を踏まえつつ「平成の義光肖像画」を復元することもあながち無駄ではない。かえって夢があって良いのではなかろうか、などとあれこれ思い巡らしている昨今である。

■執筆:布施幸一「歴史館だよりbR」より
画像 ( )
2006.10.21:最上義光歴史館

HOME

yoshiaki

powered by samidare