最上義光歴史館 - 山形県山形市
▼新・最上義光連歌の世界�B 生田慶穂
新・最上義光連歌の世界�B
1 花かつみかつみえ初(そむ)る芦辺かな 紹巴
2 茂りそひたるきしの青柳 顕与
3 五月雨(さみだれ)の跡は汀(みぎは)のあらはれて 昌叱
4 田づらにつづく里のかよひ路 生
5 放飼 (はなちかふ)駒もくるれば立かへり 義光
文禄三年四月二十八日賦何人百韻
今回取り上げるのは、伝本のひとつに「文禄三年卯月廿八日会津興行」と記された連歌である。文禄三(一五九四)年四月、義光と紹巴は会津にいたのだろうか。――否。
考証の過程を簡単に示そう。
まず義光・紹巴の前後の状況を確認する。義光は文禄二年春に肥前名護屋城に在陣、年内に帰京、同三年七月までに山形に戻ったと推定される(伊藤清郎『最上義光』)。その帰路、会津に立ち寄った可能性がある。他方、紹巴は文禄三年二月下旬から三月上旬にかけて秀吉の吉野の花見と高野山参詣に同道、四月六日・十六日に上洛中の松平家忠と対面、五月十二日〜十六日に在京の毛利輝元の依頼で千句連歌を詠んでいる(両角倉一『連歌師紹巴』)。四月半ばから五月半ばのひと月弱で京・会津間を往復するのは、途中船を使ったとしても、七十一歳の紹巴には難しいだろう。
さらに『紹巴発句帳』を調べると、上記の発句に「奥州浅香辺之人興行」という詞書を付す伝本が見つかった。「会津興行」とは、興行場所ではなく、興行者の出身地を示すのではないか。「会津衆興行」の「衆」が書写の過程で脱落したとも考えられる。
つまり、紹巴も義光も京におり、紹巴は当座の景ではなく、興行者顕与の出身地に因んで歌枕安積(浅香)の沼(現福島県郡山市)の景物「花かつみ」を発句に詠んだのである。鶴崎裕雄氏が指摘するところだが、地方を度々巡回した宗祇と異なり、地方から京の紹巴を訪ねるという構図が、はっきりと見て取れる(『芸能史研究』二二〇)。
このように連歌を文学というより史料として扱ってみると、複数人物の居所比定という価値が立ち現れる。しかしながら、興行場所の特定には細心の注意が必要だ。「最上吉祥院興行」と記された慶長十九年七月六日の連歌について、長谷勘三郎氏は昌琢ら京の連歌師が山形を訪れたかと推測したが(『歴史館だより』二六)、興行者善雅を指す可能性が高い。
最後に作品内容にも少しふれたい。紹巴の発句は、安積の沼の花かつみ(一説に菖蒲の一種)がわずかに蘆の合間に見えはじめたと詠む。「かつみ」と「かつ見」が掛詞だ。これに顕与は沼の岸辺には青柳も生い茂っていると付け、昌叱は五月雨のあとに大きな水溜まりが現れたと応じた。日野輝資(生)は里から五月雨に潤った田んぼへと続く道を詠み、義光は放牧された馬も日が暮れると里に帰ってゆくと続けた。
上洛の折、義光は安積の風景を目にしただろうか。思わず旅心地になる連歌である。
■執筆:生田慶穂(山形大学准教授)「歴史館だより��33」より
2026.10.14:最上義光歴史館
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