最上義光歴史館 - 山形県山形市

▼【義光会】山形霞城公園内の「血染めの桜伝説」は誰が作ったのか

山形霞城公園内の「血染めの桜伝説」は誰が作ったのか

 霞城公園内の「血染めの桜」の話を御存じでしょうか。
山形霞城公園には、明治31年から陸軍の歩兵第三十二連隊が駐屯していましたが、日露戦争以前から連隊のシンボルになっていた桜の木があり「血染めの桜」といわれていたそうです。名前の由来は、最上義光が病気を装い、敵対していた谷地城主、白鳥十郎長久を山形城に呼び寄せ斬った際に、桜が返り血で染まったという伝承に由来するとのことです。山形市郷土館には、昭和32年に倒壊したこの「老木の桜の破片」が展示されており、郷土館前の庭には、白鳥十郎長久の首を載せたとされる「首洗い石鉢」とされるものまであります。

血染めの桜とされる老木の破片
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首洗い石鉢とされるもの
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 それでは、この伝説に信憑性はあるのでしょうか。
最上義光歴史館ホームページの最上義光のこと#4「義光の戦いぶり」で、片桐繁雄先生は、次のように書かれています。
『(血染めの桜の話は明治時代までは確認されず)大正五年発行の「山形市誌」が最も早い。その前後から、「血染めの桜」は、その他の印刷物にも取り上げられるようになったのだろう。更に兵営内で生活を送る兵隊たちは、上官から士気を鼓舞する趣意で繰り返しこの話を聞かせられたはずだ。「連隊にいるときよく聞かされたものだ」と語る人が、しばしばある。兵隊は、除隊して家に帰るとそれを親類知人に語って聞かせる。こういうことが終戦までの約三十五年、入隊、除隊の度に継続されたために、あたかも史実であるかのように「血染めの桜」は、民間に広く深く行きわたってしまったのだろうと、私は推定している。』
 白鳥十郎長久が山形城付近で戦死したことは、歴史的事実として他の資料類からも確認されています。しかし、最上義光が病気を装いだまし討ちにしたという事実については、第一次資料が確認されず、ましてや「血染めの桜伝説」は後の世の創作です。

血染めの桜とされるものの写真
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兵舎の正面にあった状況の写真
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 では、この伝説は誰が作ったのでしょうか。
 先日(令和8年8月)、山形新聞の「やまがた再発見」の記事で、「小谷部全一郎」という人物について、フリーライターの日下部克喜氏が書いた記事を目にしました。この人物の名は初めて知りましたが、代表的な出版物という「成吉思汗ハ源義経也」という話は知っています。奥州平泉で討たれたはずの源義経が大陸に渡り、成吉思汗として世界帝国を築いたという荒唐無稽な話ですが、判官贔屓の東北人としてそんな凄い話が史実なら、ロマンがあって素晴らしいことだと夢見たこともあります。また、小谷部は、自らを白鳥十郎長久の直系の子孫であると言い、次のような行動を取っていたということです。

@明治41年 病気を装った最上義光から斬りつけられた白鳥十郎長久の話と白鳥家の物語を家系図と共に記した「出羽白鳥家回想録」を、東京帝国大学に送付。(現在も東京大学に保存されているそうです)

A昭和7年 血染めの桜の保存に絡み、白鳥氏の供養祭を執り行うよう山形新聞社に進言。(実施はされなかったようです)

 これらのことを重ね合わせると、小谷部全一郎という人物が「血染めの桜伝説」を語り始めても不思議はないように思われます。もちろん個人的な推測であって、何らかの確証があるわけではありません。白鳥十郎長久は、当時の出羽の戦国武将として有能な人物だったのでしょう。それ故に最上氏と対立し討たれたのだと考えられます。
 歴史的事実と伝説の境目をどの辺りに置くのか、そんなことも考えながら、最上義光歴史館に来られた方々に楽しんでいただけるようご案内したいと思います。

ボランティアガイド「義光会」をご利用ください。ご案内は無料です。

会員番号2301

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2026.09.17:最上義光歴史館

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