最上義光歴史館 - 山形県山形市

▼伊達政宗の母義姫(保春院)の最晩年(後編) 佐藤憲一

伊達政宗の母義姫(保春院)の最晩年(後編)

贈答歌
 二十八年振りに仙台で再会した二人の心中はどのようなものであったか。再会して間もない頃と推測される二人の贈答歌が、政宗自筆の歌集「貞山様御筆御歌」(仙台市博物館蔵)に記されている(写真1)。

(写真1)『貞山様御筆御歌』伊達政宗筆 仙台市博物館蔵
※写真は「歴史館だより32」参照。

  年月久しうへだゝりける母にあいて
あひあひて心のほどやたらちねの
  ゆくすゑひさし千とせふるとも
  母の返し
二ばよりうへしこまつの木だかくも
  えだをかさねていく千世ノやど

 政宗の和歌の心は、二十八年振りにお母さんにお会いして心の内を述べるならば、お母さんにはいつまでも元気で長生きしてほしいと願うだけだ、というもの。一方、母の歌は、幼い頃から大切に育ててきた松の木が今や大きくなって幾重にも枝を張り立派な松になった。その下に行ってこれからお世話になるのだ、という喜びだろう。言うまでもなく松は政宗である。
 実はこの母の返歌で思い出される和歌がある。政宗の父輝宗が書いた和歌色紙(写真2)である。

(写真2)伊達輝宗筆「和歌色紙」 仙台市博物館蔵
※写真は「歴史館だより32」参照。

二葉よりたのもしきかなかすが山
こだかき松のたねとおもへば

 この色紙は政宗が、父の形見として大事にしていた輝宗自筆の書状(政宗宛)と一緒に保管していたもの。後に二つとも息子の伊達忠宗(政宗の次男、仙台藩二代藩主)に譲っている。
 和歌は『拾遺和歌集』に収められた大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ/九二一〜九一)の和歌である。その心は、栄華を誇る藤原氏の御子の誕生を祝い、藤原氏の若君だと思うと、幼くとも頼もしく見える、というもの。輝宗がこの色紙を、いつ、どのようなときに書いたかは未詳だが、わが子政宗の誕生を祝い、その成長と将来への期待を込めて書いたもの、とも推測される。伊達氏も本姓は藤原である。
母の返歌はこの能宣の和歌を踏まえたものではなかったか。輝宗は当然この色紙を義姫にも見せていたと思われる。能宣の和歌は輝宗、義姫、政宗親子にとって忘れることのできない思い出の和歌だったに違いない。義姫の返歌に、政宗の母としての誇りが感じられるのはそのためだろう。

政宗との別れ
 仙台での再会を喜び合った二人だが、年が明けて元和九年(一六二三)四月十七日政宗は仙台を発って江戸へ上る。将軍徳川秀忠、家光親子に供奉して上洛するためであった。仙台を発つ一カ月前、母に宛てたと思われる手紙が「伊達家文書」に残されている(写真3)。従来注目されることのなかった手紙なので、全文と訳文を掲げる。

(写真3)伊達政宗自筆消息 こし□宛 
(元和9年カ)3月12日 36.4p×52.5p
仙台市博物館蔵
※写真は「歴史館だより32」参照。

御ほ(思)しめし(召)よせ(寄)られ、御文こと(殊)にちう(重)のうち(内)、うちお(内置)かす詠入まいらせ候。まことに、ちかちか(近々)の、のほ(上)りにて御さ(坐)候まゝ、御いとまこい(暇乞)かれこれ』しかう(伺候)申候て、申上たく(度)候へとも、いかにもすき(隙)御さ(坐)なく候まゝ、わたくしなから、御ゆる(許)しなされへく候。かしく。

ことしハゑと(江戸)にとし(年)をこし(越)申候ハんまゝ、きたる春正月のうちにハ、御いとま(暇)したい(次第)に、まか(罷)りくた(下)り候へく候。御とし(歳)のうへ(上)なれは、一しほ(人)御のこ(残)りおほ(多)きとの御ことハり(理)、かたしけなく、』時ならぬ袖に、しくれ(時雨)をもよをし申事にて候。くハしく、こせう(小少将ヵ)かたより申上まいらせ候。めて、かしく。
 (切封ウワ書) 
「三月十二日 (墨引き)
 (元和九年ヵ)   
 こし□殿        むつのかミ (伊達政宗) 
     御申                  」

〔訳〕
心のこもったお手紙をいただき、また重の内、早速拝見いたしました。本当に近々江戸へ上らなければなりませんので、お暇乞いに伺候して色々申し上げたいのですが、どうにも隙がなく、勝手ではございますが御ゆるしください。かしく。

今年は江戸で年を越すことになりそうです。来年の春正月には、(将軍から)お暇をいただき次第仙台に帰るつもりです。年を取ってしま
ったので、(そなたに直接会って挨拶ができないのは)一入残念であるとのお言葉、身にしみて有難く、思わず涙を流してしまいました。
詳しくは、小少将方より申し上げます。めでたく、かしく。

 宛名の「こし□」は母義姫の侍女か。文中の「こせう」は母の侍女小少将と思われ る。「こし□」は、あるいは政宗と母の取次役か。文中に「すき御さなく候まゝ」とあるのは、将軍秀忠・家光親子の春中の上洛が予定されており、上洛の日取りが決まり次第、政宗は直ぐに江戸に上り上洛に供奉するつもりであった。このため二月頃から待機中で、母のもとへ伺候する余裕がなかったものと思われる。母からは、年寄でもありこれが最後かもしれないので、江戸へ発つ前に是非一度お会いしたいとの意向が伝えられたのだろう。政宗も同じ気持であった。「かたじけなく、時ならぬ袖に時雨を催し申す事に候」と感涙している。
 政宗は四月二十五日に江戸に着き、将軍秀忠・家光親子に供奉して上洛。江戸出立は五月十六日、京都着は六月八日であった。政宗は供奉する大名達の先駆を命ぜられ、一番に上洛を果たす。息子忠宗も同行した。この手紙が仙台での母との最後の別れとなった。
 母の死は七月十六日。享年七十六。母の訃報を政宗は京都で受け取った。追悼の和歌二首が残されている(「貞山公治家記録」)。

立さりて浮世の闇を遁れなば
  心の月や猶も曇らじ
鳴虫の声を争ふ悲みに
  涙の露ぞ袖にひまなき

愛姫や孫たちとの交流
 仙台での約十カ月間の短いくらしの中で、義姫は江戸にいる政宗夫人愛姫(一五六八〜一六五三)や孫たちとも交流している。義姫から手作りの提げ袋を贈られた愛姫は「お贈りいただいたお母様お手製の提げ袋、その美しさに見惚れています。このように立派にお作りになられるのですから、さぞや御目も達者であられることと、提げ袋を眺めながら喜んでおります。このように見事で美しい提げ袋は見たことがありません。感激しております」(意訳)と手紙で述べている。姑として嫁に対する細やかな気遣いが窺がえて微笑ましい。
 愛姫が豊臣秀吉の人質として政宗、義姫と別れ米沢から上京するのは天正十八年(一五九○)、二十三歳のとき。その後徳川家康の人質として江戸に移り、以後死ぬまで仙台に来ることはなかった。従って、二人は米沢で別れてから一度も会うことはなかったのである。
 孫たちとの交流も、元和九年六月五日上洛途上の政宗に宛てた手紙では、江戸にいる忠宗夫人振姫(徳川秀忠の養女、実は池田輝政の娘)の出産が間近と聞き、お付きの者たちと相談して安産祈願の御守を送り届けたことを知らせている。また、千勝丸(政宗の十男、後の宗勝。当時、三歳)が賢く、立派に育ち、千勝丸が住む屋敷の造作も順調に進んでいるので安心するように、と述べている。

[画像]
(写真4)義姫消息(侍女小宰相代筆) 牟宇姫宛 
(元和9年)7月6日 34.2p×47.2p
角田郷土資料館

 同じく七月六日牟宇姫(むう/政宗の次女。当時、十六歳)に宛てた手紙(写真4)では、病気の見舞いに対するお礼を述べている。牟宇姫は伊達家の重臣、角田(宮城県角田市)の石川家に嫁いだ。夫は石川宗敬である。この時、義姫は口の中を傷め臥せっていたようである。心配した牟宇姫は祖母が病気と聞き見舞状を出したのだろう。可愛い孫娘の気遣いに「薬など用いたら、そろそろ良くなりましたのでご安心ください」と述べている。しかし、心配した牟宇姫は夫の宗敬に直接義姫を見舞わせている。七月八日付の牟宇姫宛の手紙で「わざわざお見舞いいただき恐縮しております、くれぐれも民部(宗敬)殿によろしくお伝えください」と感謝している。
 義姫の手紙はいずれも侍女小宰相による代筆である。石川家には牟宇姫に宛てた義姫の手紙が九通あったと記録されているが、今はこの二通しか残っていない。義姫が黄泉へと旅立つのは、この八日後である。

保春院の諡号について

[画像]
(写真5)義姫(保春院)の墓  仙台市北山・覚範寺

 義姫の遺骸は仙台北山にある伊達輝宗の菩提寺、臨済宗覚範寺で荼毘に付され、その地に埋葬された(写真5)。導師を務めたのは覚範寺の清嶽宗拙(せいがくそうせつ/一五六四〜一六四四)である。清嶽は伊庭惣八郎といい政宗の家臣であったが、同輩を斬って逃亡。その後政宗の師である虎哉宗乙(こさいそういつ/一五三〇〜一六一一)の法嗣となり、虎哉が開山となった覚範寺の第三世となった。政宗の信頼大きく、後に政宗の母の菩提寺保春院の開山となり、また政宗の菩提寺瑞鳳寺の開山も務めた。政宗の葬儀の導師も務めている。
 義姫の法名、保春院殿花窓久栄尼大姉を授けたのも清嶽である。「貞山公治家記録」(元和九年七月十六日の条)には次のように記されている。

去年九月以後今年ニ至リ、月日不知、落飾シ玉ヒ、覚範寺清岳和尚御院号法名ヲ奉ラレ、保春院殿花窓久栄尼大姉と号セラル、且ツ御寿像ノ
賛アリ、其詞ニ云ク、脱却羅綾錦繍紗、法身堅固仏袈裟、念珠百八秘持呪、永保春風却外花

 これによると、義姫が落飾し保春院を号するのは仙台に帰ってから死までの間となる。しかし、義姫が生前に自ら「保春院」を号したことも、又、周りからそう呼ばれたことも、今のところ同時代の一次資料によって確認できない。先に紹介した元和九年六月五日上洛途上の政宗に宛てた手紙でも、「仙東(仙台東)より」となっており、「東」と称していたこと分かる。周りからは、「お東様」と呼ばれていたのだろう。
 また、「花窓久栄」の法名については、既に虎哉和尚から授かっていたことが、高野山にある自身の逆修供養塔(宝篋印塔)によって明らかである。この供養塔は天正十三年十月八日伊達輝宗の死去にともない、義姫が輝宗の供養塔と一緒に建てたものである(写真6)。輝宗の供養塔には「奥州伊達 性山受心居士 天正十三年十月八日」、義姫の供養塔には「伊達女中 花窓久栄 逆修 天正十三年十月八日」と刻まれている。輝宗の戒名「性山受心」は輝宗の葬儀の導師も務めた資福寺の虎哉和尚が授けたものである。義姫の戒名「花窓久栄」も虎哉和尚から授かったものだろう。

[画像]
(写真6)伊達輝宗供養塔(左)と義姫逆修供養塔(右) 
高野山(写真提供/仙台市・保春院)

 これらのことから、「保春院」の院号は清嶽和尚が葬儀の際授けた諡号と考えられる。
 更に、この「貞山公治家記録」の記述で注目されるのは、義姫の寿像の存在だろう。寿像には清嶽和尚の賛があったことが分かる。生前の義姫の容姿を知る貴重な資料であるが、覚範寺には今この寿像は伝わっていない。

おわりに
 義姫の最晩年、仙台での生活は約十カ月。その内政宗との水入らずのくらしは五カ月に満たない。短期間ではあったが、江戸の愛姫や孫たちとの交流は幸せな時間でもあったのではないか。義姫は羽州探題を務めた由緒ある最上家に生まれ、伊達家に嫁いで政宗を産んだ。「奥羽の鬼姫」などと呼ばれるが、それは誤解であり、実際は政宗の母としての誇りを持ち、生涯伊達家と最上家の安泰を願って奔走し、戦国の世をたくましく生きた女性であった。四百年の時を経て、改めてその生涯が見直されて然るべきと思う。

〔注〕
1 『大日本古文書 伊達家文書』(以下、『伊達家文書』と略す)十 三二六八号。輝宗自筆の書状と和歌は、政宗自筆の包紙に、さらに
忠宗自筆の包紙に二重に包まれている。政宗から忠宗へ引き継がれたことを示している。なお、書状と和歌は『大日本史料』第十一編之二十
一 天正十三年十月八日の条にも写真入りで掲載されている。
2 『仙台市史 伊達政宗文書』(以下、『伊達政宗文書』と略す)三七一八号。
3 『伊達政宗文書』二三五八号(元和九年二月六日 佐竹右京大夫義宣宛書状)ほか、同二三五九号、二三七一号、二三七八号、二三八
一号、二三八三号等に上洛に向けて仙台で待機している様子が窺える。
4 『伊達家文書』八五三号。
5 『伊達家文書』八四六号。
6 角田市文化財調査報告書第55集『角田石川家に嫁いだ伊達政宗の次女 牟宇姫への手紙 三』角田市郷土資料館 令和四年三月
7 同右
8 「受心」の戒名は、輝宗が隠居した後の文書に見える。例えば伊達輝宗筆「正月仕置之事(天正十二年極月 政宗宛。『伊達家文書』三
一九号)。
9 神坂次郎「奥羽の鬼姫―伊達政宗の母」『戦国を駆ける』所収 中央公論新社

■執筆:佐藤憲一(伊達政宗研究家/元仙台市博物館館長)「歴史館だより32」より

伊達政宗の母義姫(保春院)の最晩年(前編) >>こちら
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