最上義光歴史館 - 山形県山形市
▼新・最上義光連歌の世界A 生田慶穂
新・最上義光連歌の世界A
1 梅さきて匂ひ外(ほか)なる四方(よも)もなし 義光
2 まがきになるゝ鴬のこゑ 紹巴
3 朝霞きのふはうすき砌(みぎり)にて 昌叱
文禄二年六月十三日賦何人百韻
前回取り上げた文禄二(一五九三)年二月の連歌から数ヶ月後、義光の同じ発句を使って連歌が巻かれた。前回と今回の三句を見比べてみてほしい。前回の脇句は氏家守棟、第三が里村紹巴だが、今回は脇句を紹巴、第三を昌叱が詠む。前回と重なる顔ぶれは義光・紹巴・昌叱・玄仍・景敏・光清の七名、それに堀喜吽・成田氏長ら六名が新たに加わった。
本人が同じ発句を再び使うということ、実はこれがかなり珍しい。芭蕉自賛の「木のもとに汁も鱠も桜かな」を立句に連句が三度興行された他に例を知らない。
義光と紹巴はなぜ新たな発句を詠まずに、同じ発句を使うことにしたのだろうか。文禄二年二月の連歌は義光を願主とする戦勝祈願で、義光・守棟は肥前名護屋に在陣中であったため同席せず、江口光清が使者に立ち、在京の紹巴らに依頼して続きを完成させた。そして今回、名護屋から引き揚げた義光とようやく京で対面することになった紹巴は、無事の帰京を祝って、同じ発句で改めて一座を設けることを提案したのではなかろうか。
ところで、この連歌には武蔵国忍城の城主成田氏長も参加している。氏長は天正十八(一五九〇)年頃から紹巴の指導を受けている連歌好きの武将のひとりだ。氏長も文禄の役では名護屋に参陣していたので、同席者にふさわしいと紹巴が声をかけた可能性が高い。
発句は、梅の花が咲きこぼれ、その匂いの至らない場所はないと述べ、梅の香が辺り一面に漂うさまを詠む。脇句は、梅の香に誘われ山から下りてきた鴬も、我が家の垣根に馴れ、声を立てていると付ける。梅に鴬は定番の取り合わせ。第三は、昨日は薄く立っていた朝霞が、今日は一段と濃く庭に立ちこめ、鴬の姿は見えずとも声ははっきりと聞こえてくると展開した。梅・嗅覚→鴬・聴覚→霞・視覚と、伝統的ながらも多彩な景物と感覚を用いて初春の移ろいを描いている。
なお名子喜久雄氏は、六月興行であれば発句は夏の句のはずで、春の句なのは不審、すなわち誤写ではないかと指摘している(『人文論究』六九)。残念なことに原本は現在行方不明で、その真偽を確かめる術はない。村山市伊藤芳夫氏旧蔵資料として『山形市史 史料編一』に翻刻されて、かろうじて活字の本文が伝わっている状況である。『連歌総目録』によれば文禄二年六月十三日に紹巴は別の百韻に参加している。本連歌の興行年月日には何らかの錯誤があり、文禄二年春から三年春の間の興行と幅をもって考えておくのがよさそうだ。詳細は拙稿「最上義光と里村紹巴の接点―文禄二年のふたつの連歌―」(『日本文学研究ジャーナル』一九)を参照されたい。
■執筆:生田慶穂(山形大学准教授)「歴史館だより32」より
2025.11.09:最上義光歴史館
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