最上義光歴史館 - 山形県山形市

▼中野義時は実在したか?

◆◇◆中野義時は実在したか?◆◇◆

 史実を確定するためには、信ずべき史料に拠らねばならないことは当たり前の真ん中だが、最上家の歴史ではしばしばこの当たり前が忘れられる。
 典型的な事例が兄・義光による「弟・義時討滅事件」である。
 『山形市史』『山形県史』を参考に概略を述べれば、次のような事件だとされる。
 二人の父・義守は、兄を嫌い弟を偏愛した。義守は家督をだれにするかで迷ったが、結局は兄を山形城主に、弟を中野城主とした。弟は不満で兄を調伏しようとした。これが暴露して義光の怒りを買い、その攻撃を受けて天正3年(1575)に滅亡した。
 これを皮切りに、義光は「残忍とも言える態度で」つぎつぎに一族を攻め滅ぼし、領地拡大に突き進むこととなった……というのである。
 ところが、この「はなし」には、史料がないのである。
 『最上記』『奥羽永慶軍記』など、私が読んだ14種の軍記物のどれにも書かれていない。これら稗史類は面白く作る傾向があるもので、もし事件が風説としてでも存在したのなら、必ず取り上げられるだろう。14本全部が取り上げていないのは、風説さえなかったことの証拠だといってよいだろう。
 また16世紀後期の史料として重視される伊達・上杉の文書や、『治家記録』のような編纂物にも「義時」の名は只の一回も出てこない。
 参考に系図12本を点検したが、「義時」を掲げたのはわずかに菊池蛮岳旧蔵本だけ。
 要するに、16世紀とそれ以降2世紀の文献資料によっては、「義時」の存在が確認できないのだ。その名が初めて現れるのは、仙台市青葉城資料展示館の大澤慶尋氏指摘のとおり、18世紀末に編纂された『稽補出羽国風土略記』らしい。
 たった一つの、年代も遥かに離れた文書を拠り所に、義光による中野攻撃を確定的史実であるかのように公史が取り上げるのは、はたしていかがなものだろう。他県の歴史書までが「義時事件」を取り上げ、義光の人間性を云々している現況を見るにつけても、歴史研究の基本を忘れてはならないと自戒するところである。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより12/研究余滴5」より
2006.09.30:最上義光歴史館

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