最上義光歴史館 - 山形県山形市

▼新・最上義光連歌の世界@ 生田慶穂

新・最上義光連歌の世界@

1 梅咲て匂ひ外(ほか)なる四方(よも)もなし  義光
2 いくへ霞のかこふかき内      守棟
3 春深きかげの山畑道みえて    紹巴
   文禄二年二月十二日賦何人百韻

 天正二十(文禄元・一五九二)年、義光は秀吉の朝鮮出兵に動員され、諸将とともに肥前名護屋城(現佐賀県唐津市)に向かった。右は、名護屋在陣のまま翌春を迎えた義光が、家老氏家守棟らと詠んだ連歌の冒頭である。『最上義光連歌集』全三集に収められた三十余巻の中でもっとも年次が古く、義光と紹巴の最初の接点として注目される。
 ところが、実はこのとき、義光と紹巴は直接会っていない。どういうことかというと、まず名護屋で義光と守棟が発句と脇句を詠み、それを義光家臣江口光清が京に届け、第三以降は紹巴らが京で満尾したのである。かつて故名子喜久雄氏が紹巴の九州下向を唱えられたが(『人文論究』六九)、のち紹巴の伝記研究が進んで在京が明らかとなり(両角倉一氏『連歌師紹巴』)、故片桐繁雄氏が光清使者説を立てられるに至った(『最上義光の風景』)。
 つまり、秀吉の命令で名護屋を離れられない義光は、連歌に言わばリモート参加≠オた。これは単に文芸好きが高じてのことではない。義光には戦勝祈願という確固たる目的があった。前掲書で片桐氏は紹巴に求められて義光が発句を送ったと推測されたが、そうではなく、義光の方から紹巴に連歌興行を求めたと考えられるのである。
 戦勝祈願として連歌を寺社に奉納する例は多い。例えば、天正六(一五七八)年五月、秀吉は毛利攻めの前に『羽柴千句』を行っているが、当時秀吉は播磨におり、紹巴に千句を依頼しただけで句も代作の可能性が高いと指摘されている(『連歌大観第四巻』廣木一人氏解題)。このように戦陣から在京の連歌師に指示して連歌を興行させた先例があるのである(ただし義光の場合、句は自作であろう)。
 それでは、戦勝祈願の連歌として冒頭の三句を読み解いてみよう。
 まず、義光の発句における「梅」の「匂ひ」は秀吉の威光を象徴する。「外なる四方もなし」はそれが至らない場所はないの意。この「四方」の使い方は、文禄元年の『出陣万句』で吉川広家が同じく戦勝祈願として詠んだ「日本のひかりや四方の今日の春」に通じる。守棟の脇句は、巨大な軍勢が「霞」のように名護屋城の「かき内」を何重にも取り囲んでいると詠む。そして紹巴の第三は、春霞の陰に山畑が見えると治世を寿ぐ。表面的にはどれも春の叙景句だが、予祝をこめた典型的な戦勝祈願の詠みぶりである。
 文禄二年春、秀吉の渡海計画が進むさ中、義光はこの連歌を紹巴に依頼したのであろう。結局、秀吉の渡海は実現せず、義光も渡海を免れたが、甥の伊達政宗は三月に渡海しており、義光もその覚悟を決めていたはずだ。武将の心意気あふれる発句といえよう。
       
■執筆:生田慶穂(山形大学准教授)「歴史館だより31」より
2024.11.28:最上義光歴史館

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